第5話 大阪の空

第二部





大阪の空


 初めての夜行列車。本気で眠ることもできず、夜が明けるまでうとうとした。つい今しがた、車内アナウンスが、あと一時間ほどで大阪天王寺着を告げた。

 夜の闇が、少しずつ薄れ、それらはあたかも、大地に滲みこむように消えていった。代わって、明けたばかりの甘く匂うような六月の大気のなかで、今まで見たことのない風景が次々と車窓を過る。

 おさむは、寝不足のため幾分ぼやけた意識でその風景を目で追った。

 ……司兄い、迎えに来てくれとるやろか…。  

 昨夜、新宮駅から電話をした。

「改札出たとこで待っとるぞ」

 受話器からの兄の声が耳に残っている。初めての都会に少し不安があった。中学三年の修学旅行は大阪と奈良だったが、旅費の都合がつかず不参加。十九の年になるまで本宮から一歩も外に出なかった。出る必要もなかった。ところが、今年になって、ぱったり仕事が切れた。四年間続いた災害復旧工事が一段落した途端、土木工事がなくなったのだ。待っても、新に工事の始まる気配がない。それで、大阪ガス勤務の要兄いに相談。本来は、長男か次男に相談すればいいのだが、年が離れているのでなじみが薄い。その点、要兄いとは、色んな苦労を共にした。母の警察騒ぎの時も要兄いが居た。

「司兄いの勤めとる運送屋で、トラックの助手あるけど、どうや」

 二、三日して要兄いからの返事。

「司兄いの助手するんか?」

「そこまでは分からんけど、……おさむの土方仕事出るまでのつなぎやろ。何でもええんちがうか。トラックの助手一年やったら免許も取れるらしいぞ」

「運転免許取れるんか」

「たぶんな、そういうとった」

 将来、自分で土建事業を起こすとなると、このトラック免許は魅力だった。

「どうな、来てみるか?」

 どっちにせよ、本宮に居ても今はどうしようもない。それに、開業資金も欲しい。何でもいい、臨時働き結構。案外軽い気持ちで汽車に乗った。もっとも、兄の働く職場でなかったら、こうも即決しなかったであろう。

 線路沿いの電柱が、一定の間隔を置いて車窓を過る。その向うに広がる風景が、田んぼから住宅地に変わりだした。工場のような建物も時々目につく。もう大都会の圏内だ。

 やがて、五時ちょうどに天王寺駅到着。改札で司兄いに会う。早朝なのにムッとする独特な空気が漂っている。

 ……これが、大阪、都会の匂いか。

 遠くに来た感がする。


「ここが車庫、……となりは他所の家で、その向うが大将とこや」

 先を行く司兄いが立ち止まり、おさむを振り向く。見ると、土建屋の倉庫のような平屋に、濃い緑色のトラックが二台、そのうちの一台が、まるで河馬のようにあんぐりとボンネットを開けている。男が一人、せわしげに運転席からおりてきた。

「オレの助手や」

 司兄いがいった。

 おさむは、あいさつした。男は、

黙ったまま笑顔で頭を下げた。

「この人な、耳聞こえるけど、ものいわれへんのや。荷おろししよってな、ケガしてな」

 大阪に出て十年以上経ち、司はすっかり大阪弁だ。

「そんで、ここの奥が、オレとこや」

 車庫の横が細い路地になっていて、その突き当りに物干竿が見える。

 一軒おいて、大将の家。モルタル壁の総二階建だ。玄関横に〝竹田運送店〟と書かれた、ぶ厚い木製の看板。

 司は、家の玄関で立ち止まり、吸っていたタバコを路上に捨てて踏みつけた。国鉄天王寺駅の隣に近鉄の駅がある。そこから南大阪線に乗って一つめの駅、河堀口で降りた。その駅舎を出た時火をつけたものだ。司は、自分の家に入るように遠慮なしに、玄関戸を開けた。そこは、自宅でもあり、事務所でもあった。手前にカウンターの仕切り。十畳ほどの事務所中央に、簡単な応接セットがあり、窓にそって幅の狭い机が並ぶ。一番奥まったところに二階への階段が黒光りにひかっている。二階が大将の住まいのようだ。

 おさむは、事務所にはいるなり、なつかしい感にとらわれた。見ると、木製の丸い応接机に一輪挿があり、山ユリの花が一本。それは、紀州の香りだった。

 おさむたちの物音を聞きつけて、階段を軋ませながら中年の男の人が降りてきた。男は、司とおさむを見るなり、

「おはようさん」

 といった。前もって話をしていたのか、

「えーと、きみが、おさむくんか、ようきた、ようきた」

 そういいながら、兄弟を応接の椅子にまねく。

 ……この人が、大将か。

 おさむは、何もいわず深く頭をさげた。大将は、丸い顔に小さな眼がやさしい。五十は超えているようにみえたが頭の毛は黒々と豊だ。ビール腹の下にズボンのベルトがくい込んでいる。

「兄さんは、頑張ってくれとるぜ」

 大将は、そういいながら、事務所備え付けの氷冷蔵庫から一本のサイダーを取り出し、グラスのコップに入れて二人の前においた。まだ、サイダーの時期じゃないのに、と思ったが、おさむは、一気にのどに流し込んだ。緊張でカラカラだったのだ。その仕草を目で追っていた大将、

「それにしても、きみはええからだしとるな」

 そういって、細い眼を幾分見開いた。

「土方しよったさかいに……」

 おさむは、そういったあと、顔を赤くした。本宮弁丸出しが恥ずかしかった。

 一階奥でドアの音がして、中年の女の人が出てきた。

「うちのかみさん」

 大将に紹介されて、おさむは、あわてて椅子から立ちあがりペコンと頭を下げた。わりあい大柄で体格もいい。母に似ていると思った。ただ、縁の細いメガネをかけ、色白だ。

 大将は、笑顔を絶やさず話をしていたが、おさむの待遇を決める段になって、急に真顔に変わった。おさむは、深い意味もなく、これが大阪の商売人なのかと感じた。

 給料は、月に一万三千五百円。ほかに、毎日、銭湯の入浴券一枚と酒二合。寝るのは事務所の二階。三畳一間だが家賃はタダ。食事は三食とも司兄いとこで食べる。これは、自前。仕事は主に材木や建材の運搬。朝は五時起きで、トラックの掃除点検から始める。

 三十分ほどで、大体こんなことが決まった。さっき事務所に入った時、二階が大将の居宅かと思ったが、どうやら、一階の事務所奥が住居らしい。

「司さん、おさむ君には、虎やんの助手してもらうさか、あとで引き合わせたってや」

 大将は司兄いのことを、“つかさん”と呼ぶらしい。また、虎やんというのはさっき会った口の利けない人だな、と思った。

「しっかり、頑張ったってや」

 事務所を出ようとするおさむに、大将の手がポンと乗った。

「おっ、ごっつい肩やな」

 大将が軽く叩いた肩は利き肩だったので、じゃり持ちで盛り上がった筋肉が薄い半そでシャツをとおしてもろに伝わったのだ。

「どおや、おさむ。大将、ええ人やろ」

 外に出て、司兄いは囁くようにいった。おさむは、ウンといったものの、重労働の割に給料が安いと思った。

「虎やん、おるかな」

 そういいながら司兄いは車庫の方へ。

「さっき、ボンネット開けとったのに」

「あれは、オレの助手や。虎やんの相手おれへんさか、その分オレが面倒みよったんや。大将に、車の掃除までさせられへんさかな」

「大将が、虎やんいう人の助手しとるんか?」

「そーゆーこっちゃ」

 車庫では、二台のトラックが軽いエンジン音を響かせていた。二人を見つけた司兄の助手が、にこにこしながら近づいてきた。

「虎やん、来てへんか」

 口の利けない男は、大きく頷いて、もう一台のトラックの荷台を指さした。

「虎やん、ちょっと来てくれ」

 司兄いの声に、運転席の屋根から日焼けした顔がひょいと出た。やがて、身軽に荷台から飛び降りると、ゆっくり歩いてきた。おさむは、虎やんという名前から漠然と、それ相応の男を想像していた。だが、目の前に立った男は、まるで名前とはかけ離れた小男だ。色の黒い小さな顔が、短く刈り込んだ頭髪のせいで余計小さく見える。その顔には、まったく表情がない。

「オレの弟、おさむや。あんたの助手するさか、あんじょう頼むわ」

 司兄いの紹介で、おさむは黙って頭を下げた。虎やんは、上目づかいにおさむを見た。背が低いので自然にそういう具合になるのだが、いい感じがしなかった。

 ……いやなやつ。

 初対面の感想だ。

「おまはん、きょうから仕事できるんか?」

 虎やんの第一声。なんとカン高い声。のみならず、少ししわがれている。

「おさむ、きょうは休め、……夜行で、ろくに寝てへんやろ」

 司兄いは、休んだ方がいいぞ、という顔をする。

「オレ、大丈夫やけど」

 おさむが、そういうが早いか、

「休んだほうがええ。寝不足で怪我でもされたら、えらいこっちゃ。きょうは、大将に乗ってもらう、 ……まぁ、ゆっくり休め」

 虎やんの、命令調のいいかたに、おさむは急にやる気をなくした。初対面でこの調子やったら、先が思いやられるぞと思った。どうせ、つなぎ仕事、どうにでもなれという気になる。

「よっしゃ、おさむ、朝飯行こや」

 司兄いは、先にたって路地にはいる。歩きながら、

「虎やんなぁ、河内の人で言葉悪りいけど気にすんなよ。ちょっと偏屈なだけや」

 そういって、二、三歩いてから、はじめて会うて、びっくりしたやろ。あいそないさか、と付け足した。

 路地の突当りを左にまがる。ちょうど車庫の真後ろに平屋があった。一見車庫と棟つづきに見えるが別の建物だ。

「オレとこや」

 司兄いは、そういっておさむを振り返った。玄関の横にトタン屋根のかけだしがあり、そこが外流場になっていた。

「おい、おさむ来たぞ」

 司兄いは、玄関のガラス戸を開けて中に入る。おさむも後につづく。

「まぁ、おさむさん、お久しぶり。狭いとこやけど、さあ上がって」

 見覚えのある義姉の明るい顔が、衝立の上から出た。義姉には一度会ったきりだった。結婚のあと、司兄いと二人で本宮に来たときだ。目元が綺麗で、口が小さく快活な印象が残っていた。顔はほとんど忘れていたが、会ってみて、あゝこのひとだと記憶がよみがえった。

「チビら、まだ寝とるんか」

 司兄いは、衝立の奥におさむを連れて行った。見ると、三人のこどもが眠っている。

「男ばっかり三人や。五つと四つと二つや」

 司兄いは、そういうと丸い卓袱台の前に座る。おさむは、その隣で正座した。

「姉さん、……世話になるけど」

 ちゃんとした挨拶が苦手で、それだけいった。

「堅苦しいこといわんと、楽にして」

 姉の、ポンポンとはじけるような声。

「綾、きょうからおさむは、ここでめし食うさか、たのむぞ。めし代もいくらにするか決めてくれるか。それから、寝るのは事務所の二階や」

 義姉の名前は、綾子だった。

「まかせて、うーんと、おいしいもの作るからね」

 彼女は、そういいながら朝飯の用意を始めた。

 司兄いの家は、居間が六畳、その奥に、襖の入った四畳の部屋、それに台所の三部屋だ。居間の奥に新しいタンスが二棹。これは、所帯を持った時買ったものだ。居間の真ん中に衝立があり、その内側が食事の場所だ。ベニヤ張の天井からは裸電球が一つ。

 住まいは、ざっとこんなところだった。


二 

 「コラッ、何やっとるんじゃ、ワレッ!」

 虎やんは、血相を変えてとんできた。ド迫力の河内弁。小柄なくせにでかい声だ。

 ……しまった。もう来やがった。

 おさむは、ブレーキを力一杯踏んだ。車庫から前の道までほんの三メートルばかりトラックを動かした。それをみつけられたのだ。いつもなら、まだ虎やんの出勤してくる時刻じゃなかった。それで油断した。

「ワレッ、何べんいうたら分かるんじゃ。ワッパ回したらアカンって、あれほどいうとるやないけ。この、あほんだら」

 おさむは、見事なほど口が悪いと思った。どなられたのに何だか可笑しかった。

 虎やんは、助手席に乗り込んできて、おさむには目もくれず、サイドブレーキを力任せに引っ張った。なおも、運転席に居るおさむに、

「はよ、出やんかい!」

 どなりたおして、おさむを運転席から追い出す。

 助手になってから九か月。そろそろハンドルを握らせてくれてもいいころだった。というのは、同じ仕事仲間はほとんどそうしていたからだ。郊外の建築現場に建材を運んだときや、材木市場のなかなどでは、練習を兼ねて助手が運転していた。助手にも免許を取らせてやろうという運転手の思いやりだ。実際、免許欲しさに助手をしているものが多かった。だが、この虎やんは違った。助手のことなど考える気などさらさら無い。助手は、荷物積み下ろしの道具程度にしか考えていなかった。

 おさむは毎日助手席に座って、虎やんの運転操作の全てを覚えた。

 ……免許欲しいさか毎日くそ面白ない仕事辛抱しよるのに、このチビ黒めが。

 おさむは、偏屈で決して笑った事のない色黒の小男を憎しみを込めて〝チビ黒〟と呼んだ。もちろん、本人の前では虎さんと呼ぶが、兄や仕事仲間には、そういった。せめてもの憂さ晴らしだ。

 ……それにしても、車庫でほんの少し動かしただけやのに、何であんなに怒るんか、オレが免許とったら自分の仕事無くすとでも思とるんやろか。それとも、本当の意地悪男なのか。

「おいっ、ロープとワイヤー忘れてないやろな」

 虎やんの、荒っぽい声が飛ぶ。

 ……また、一日じゅうこの調子や。

 トラックを動かしたところをみつかったのがきょうで三度め。そのたび、終日虎やんは怒りっぱなし。実に立派というか忍耐強いというか、見上げたものだった。カン高い声。迫力の河内言葉。だが、けっして手をあげることはない。適う相手でないことを知っているのだ。忍の一字、というより、両耳の風通しを良くすることにした。近頃になって、やっと覚えた虎やん対策だ。

 その夜、風呂帰りに二合瓶一本を買った。店で毎晩くれる酒では足りなかった。いくら聞き流しでも、一日じゅう怒鳴られっぱなしじゃ頭にくる。それで、司兄いと飲んで愚痴でも聞いて貰おうと思った。

「おっ、おさむ。いま風呂か」

 司は、三つになった末っ子を胡坐に抱いて、ひとりで飲んでいた。他に誰も居ない。おさむは、買ってきた酒を卓袱台に置いて座った。

「酒、自前か」

「あゝ、兄さんと飲もう思うて」

「おさむ、今朝、えらい荒れとったやないか、虎のやつ」

「ほんまに、頭痛いわ」

「あいつ、ビョウキやなぁ」

 司兄いは調子を合わす。こどもを膝からおろし、台所から湯呑を持ってきた。

「姉さんと、ぼんらは?」

 兄に注いでもらいながら、おさむは部屋を見回した。

「市場へ行きよった。いまごろの時間に行ったらな、売れ残りが安う買えるんや」

 そのとき、玄関の戸が開いて、綾子と二人のこどもが帰ってきた。

「おじちゃん、お帰り」

 おさむを見て、長男が声をかけてくる。彼は、今年から小学校に通い始めていた。母親に似て、はきはきした性格だ。

「おさむさん、ごめんね。直ぐ支度するわね」

 綾子は、いつも機嫌がいい。おさむは、ここに来てからというもの義姉の暗い顔を見たことがなかった。根がそういうふうにできているのか。それにしても、たいしたものだと感心した。

「綾、これ、燗してくれ。おさむのおごりや」

「まぁ」

 綾子は、それだけいって司兄いから瓶を受け取り台所に立つ。

「それにしても、おまえ、よう頑張るなぁ。店の大将もほめとったぞ」

 司は、やかんに残った酒をおさむの湯呑に注いだ。

「司兄い、おれ、今のままやったら免許取るのむつかしいやろな。今朝もあの調子やろ。チビ黒相手やったら、見込みない思うんやけど、……どう思う」

「おさむ、今やからいうけどな……虎やんの助手で、お前ほど長続きしたやつ、おらんかったぞ。だいたいは、一か月か、ようもって三か月で、みんな逃げてしまいよった。あのド偏屈には、いい加減頭来るもんな」

「司兄い、初めにいうてくれよ、それをよ」

「オレの考えはな、おまえはオレの弟やろ、いくら虎やん偏屈でも同僚の弟じゃったら、ちょっとは考えるやろ、思とったんや。悪う思わんといてくれや」

 二人の会話を聞いていた綾子が、支度しながらいった。

「ほんま、あの人、病気やわ」

「給料も、そのうちあげたろいうたやろ。それも、そのままやし、やっぱり……」

 おさむが、そこまでいったとき、玄関のガラス戸が開いて、手に紙包を持ったオカッパ頭の少女が入ってきた。

「こんばんは」

 白いブラウスに黒のヒダスカートというスタイル。中学生の制服だ。

 いかにも、気安く飛び込んできたが、おさむが居るのを知って急に態度を堅くした。

「あらっ、秀ちゃん。どないしたんよ、こんな時間に」

 まだ、台所で何か刻んでいた綾子が振り向く。

「あっ、ひで姉ちゃんや」

 衝立の向うで何かをしていた長男が出てきた。

「はい、これ、おみやげ」

 彼女は、持ってきた包を長男に渡す。長男は、おおきにといって弟の傍へ。

「秀ちゃん、知らん人居って、ビックリしたやろ。オレの弟、おさむや」

 司は、おさむを紹介する。彼女は「はぁ」というふうに小さくおじぎした。口が少し動いたが、言葉にならなかった。

「おさむ、綾子の妹、秀子や。……まだ、中学生や」

 司は、そういってから、

「こいつとは、だいぶ年離れとってな」

 といって、自分の妻をあごでしゃくった。 

 おさむは、ここに来てから既に一年近くの日が経っていたが、朝晩の食事どき以外は兄の家に居なかったので、姉の妹だという秀子の存在を知らなかった。

「秀ちゃん、そないなとこで、突っ立ってんと、上がって。おさむさん体格いいけど優しいよって、怖いことあらへんさか」

 村橋秀子は、姉の綾子と比べて、ひとまわり造作が小さくできていた。少し、痩せすぎではないかと思えるほど細い。が、そのため、顔だちがすっきりしていて、まだ化粧を知らない中学生だが、いわゆる都会風の美人顔だ。

 秀子は、司の横に座った。

「兄さん、わたし、もう、中学生と違う。きのう卒業式すんだんやから」

 秀子は、そういいながら司の膝から、末っ子を抱き上げた。

「そうか、もう卒業したんか」

 司は、そういってから、腑に落ちない顔で、

「こんな時間に、何ぞ用事か?」

 といった。

「きょうから、大川さんとこで、住込みや」

「住込み?」

 司は、はて、という顔で妻の顔を見た。

「いややわ、おとうちゃん。もう忘れてしもて、……このあいだ、話したでしょうが、ほれ、この先の大川呉服店のこと」

「あゝ、どっかに、お手伝いさん兼お針子さん居らんやろか、いうとったな」

 秀子は、きょうの午後から、近くで和裁店を営んでいる大川呉服店に、住込みを始めたのだった。これは、綾子の口利きだった。

「そやけど、えらい早ように来たんやね。きのう卒業して、きょうから勤めやなんて、えらい、せっかちや」

 綾子は、卓袱台に食器を並べながらいった。おさむは、黙って酒を飲んでいたが、やがて、独り言のように、

「オレも、中学卒業して、あくる日から働いたんや」

 と、いった。いい終えてから、秀子の顔を見た。秀子は、チラッとおさむを見て直ぐ目をそらし、膝の子を抱きなおした。何かいうべきかと、迷っているようだったが、結局何もいわなかった。おさむは、そんな秀子の顔を見ていた。やけに色が白いと思った。田舎にはこんな女はおらん、とも思った。普段から無口なおさむだが、いまは、酒が手伝ってか、口が軽くなっていた。それで、

「住込みで、裁縫ならうんか?」

 判りきったことを聞いた。すると、秀子の「はい」という返事がかえってきた。

「家は、何処?」

 おさむは、義姉の実家を知らなかった。ただ、大阪の人というだけの知識だった。「淀川」

 この一年間、大阪じゅうを走り回っているおさむは、市内のほとんどを覚えていた。それで、秀子が淀川といったときも、

「淀川か、そりゃ遠い。住込まな、通いは無理やな」と独り言のように言った。

 洋装店に就職といえば、聞こえはいいが、その実、お手伝いさんだった。

「お針子さんか、職人やな」

 おさむがそういうと、秀子は、

「店の雑用みたいなもんや」

 といった。

 秀子が来たことで、虎やんのことは中断。おさむは、夕飯が済むと自分の部屋にひきあげた。

 一日じゅう締めきった室内は、空気が澱んでムッとする。窓を開け放った。わずかな風に乗って都会の匂い。おさむは、初めて天王寺駅に降り立ったときから、この独特の匂いを感じていた。あらゆるものがゴチャゴチャに混ざり合った匂い。これが大阪の匂いかと思った。ガーゴーと電車か汽車の音。直ぐ近くが河堀口駅。国鉄と近鉄が交差している。駅のマイク案内が時々風の具合で驚くほどはっきり聞こえる。

 都会は騒がしい。だが、活気がある。もたもたしていたら置いてきぼりになりそうだ。ふと、本宮に建てた自分の城を思った。せっせと書き留めたノートが目に浮かぶ。

 ……免許取れんのやったら、こんなとこでいつまでもモタモタしとったらアカン。オレの目標は、土建の親方や。荷持運びの道具やない。いつまでも、こんなことやっとられるか。チビ黒虎やんの顔に重なって、そんな思いがこみ上げてくる。とに角、もう潮時や。

 敷きっぱなしの蒲団にもぐりながら、声に出してつぶやいた。

 何かを始めようとするときは、何時もそうだが、なかなか眠れない。今後のことを具体的に考えた。すでに今の職場からは心が離れていた。

 目を閉じる。

 ……ふっと、秀子の顔が浮かんだ。





あんこう(立ちん坊)



 南海電鉄高野線と国道二六号が交差する大阪西成区岸の里のガード下。通称釜ヶ崎のド真ん中。

 まだ明けやらぬ三月の肌寒い空気を引き裂いて始発電車がゴウゴウと高架を駆け抜ける。その下でおさむは、レールの軋むすさまじい音に思わず天を仰いだ。地下足袋に、こはぜ脚絆、トビ職用のズボンに灰色の作業着。腰に手拭をぶら下げた、お決まりの〝立ちん坊〟スタイル。似合う、似合わないなど問題外。手配師のお目がねに適わなかったら、たちまち日干になる。

 まずは、外見が第一ということで、昨夜泊まったドヤの亭主が、あれこれと親切に世話をしてくれた。この亭主、立ちん坊一年生には、ことのほか面倒見がいい。

 タビや脚絆は、運送屋の時ので間に合ったが、ズボンと作業着は古着屋で買った。買ったといっても、交換したのと大差ない。着ていたものを先に売って、その金で買ったのだ。ドヤ街には、衣類に限らす、色んな古物商がごまんとある。生活には事欠かない。もっとも、あまり選り好みはできないが、この街の住人は風体など一向に構わない。実用第一なのだ。おさむの買った中古作業着にも、〇〇鉄工所と会社名の刺繍があった。

「手配師の車、ここに止まるさか、あんさん、そこに立っとりなはれ。車来たら胸張らなあきまへんで。手配師の連中は目が肥とるさかな」

 一杯のコップ酒差し入れで、気をよくしたドヤの亭主が、仕事を貰うために〝立ちん坊〟するガード下の地図まで、こと細かに書いてくれた。

「あんさん、初めて立つんやさか、暗いうちに行って場所に慣れといたほうがええな。それも、仕事のうちや」

 昨夜、教えられた通り、ガード下に来た。まだ国道を走る車も少なく、おさむ以外人影がない。ちょっと早すぎたかな、と思ったが、なにしろ、立ちん坊の初日、おちおち寝ていられなかった。

 タバコを二本ばかり吸った。

 やがて、空が白み、同時に車の数が急に多くなった。どこかでサイレンの音。夜明けとともに町が動き始めた。

 おさむは、一時間程ガード下に佇んでいた。腕時計はちょうど六時。ドヤの亭主の話だと、手配師は六時すぎから七時ごろまでの間に来るはずだという。もうそろそろだと思い、キョロキョロしていると、急に笑い声が起こり、十人余りの人夫が近づいてきた。そのあとからも、ふたり三人と、歩いてくる。

 ……いよいよ、集まってきたぞ。

 ドヤの亭主に教えられた場所に立つ。手配師に一番よく目立つ位置だ。

 おさむをとりまくように、人夫たちがかたまる。中年過の男がほとんどだ。おさむは、緊張した。なんぞいわれるんじゃないかと身構えた。二、三人の人夫が〝見慣れんやつだ〟といった風にしげしげとおさむの顔や身なりを見てくる。

 ……何が起こるか。

 だが、次の瞬間、ぷいっと横を向いてそ知らん顔。なんの表情もない。まるで、おさむのことなど、眼中に無いようだ。周りのそんな状況に、多少は緊張がとける。

見ると、男たちのなかに、おばさんが二人居る。ふと、真夜中じゃり持ちをしたことが脳裏に浮かんだ。

 ……本宮で仕事出るまでのつなぎだ。オレの本職は土方や。

 そう思っていると、一台のライトバンが目の前に停まった。うつむいていたので、車が近づくのを知らなかった。車は停まると同時に運転席から赤い鳥打帽の男が飛び降りた。彼の目の前に並ぶ人夫たちを見渡す。目が鋭い。

「オールナイト、……オールナイトや。どないや、千五百円、おらんか!」

 怒鳴るように叫ぶ。とたんに、人夫たちが一斉に〝オーッ〟と手を上げる。ドヤの亭主がいうように、胸をはる暇などあったものではない。あたかも、ツバメの巣に親鳥が餌をやるときのようだ。

 おさむは、手配師のド真ん前、無我夢中で手を上げた。

「オイッ、おまえ!」

 手配師の手が伸びておさむの腕を掴んだ。その途端、有無をいわせず車の後部座席に押し込まれた。

「あと、二人、……オイッ、おまえと、そこのおっさん」

 指さされた二人の男が車に乗る。

「ヨオッシャ、オールナイトはこれまで」

 手配師は、そういうと、素早く運転席に戻り急発進。後ろをふり向くと、次の手配師が車から降りていた。

 おさむは、オールナイトが、何を意味するのか知らなかったが、ただ、千五百円という声だけは確実に聞いていた。この金額は、普通の日当の約三倍。かなり危険な仕事かもしれないと思った。

「どこでっか、現場は」

 走り出した車のなかで、助手席に乗った坊主頭がドスの利いた声で手配師に話しかける。

「弁天埠頭のスクラップ揚げや」

「あー、あれだっか。怪我せんようにせな、あきまへんな」

 後ろの席で、おさむの隣に座った男は、黙って目を閉じている。丸坊主よりは、かなり年をくっているようだ。

 車は、戎の交差点にかかった。つい三日前まで鶴見橋の運送屋で助手をしていたので地理には詳しかった。この交差点を左に曲がると港まで一本道だ。おさむは、シートに深く身を沈め窓の外を見ていた。車は花園町のバス停を通過。

 ……もう、そろそろだ。

 そう思った。おととい退職した運送店が見えるはずだ。

 やがて、通りに面した崎久保運送店の大きな看板が目にはいる。見覚えのあるトラックが五台、こちらに尻を向けて停まっている。チラッと横目で見て目をそらせた。いい思い出がなかったからだ。



 ちょうど一年前の三月。竹田運送店で、チビ黒の虎やんと大ゲンカした。もう、こうなったら免許とれる見込み無しとふんぎりをつけ退職。店の大将は、おさむを離そうとせず、約三か月に渡って説得された。しかし、おさむの信念が変わらないことが分かって、とうとう退職ということになった。大将は、おさむの希望を聞き入れて、免許を取らせると約束したが、このときすでに、仕事仲間を介して次の職場、つまり、今、目の前を通り過ぎた崎久保運送店で働く手筈を整えていた。それで、強引に辞めた。

 崎久保運送は規模が大きく、市内に二か所の支店を持っていた。当然給料も良かった。なによりも、おさむの気を引いたのは、ここに勤めれば運転免許が取れると

いうことだった。もっとも、このことは、会社に直接聞いたのではなく、世話してくれた男がいったことだったが、おさむは、間違いないと信じた。いずれ土木を始めるからには自動車免許が要る。渡りに船とばかりに応募、採用された。

 崎久保運送店は、竹田店と違い、材木関係は皆無。主にセメントが大半だった。肩で担ぐことにかけては他人に負けない自信があった。荷は何であれ、とにかく免許が取れれば文句ないと思った。さすがに虎やんのような変人はいない。おさむが助手についた人は、山本一といって、太った温厚な人物だった。仲間からは山さんと呼ばれていた。彼は夏の暑さがこたえるらしく、車庫の出し入れや現場での配車など、全ておさむに運転させて、自分は助手席で、暑い、暑い、を連発。おさむは、免許を取りたい一心だった。それで、運転の腕前は日を追って上達した。夏が過ぎて秋、いい運転手と組んだお蔭で毎日が楽しかった。正月も本宮には帰らず大阪で過ごした。

 翌年春、三月のある日。

「もう、免許取れるんちがうか」

 と、山さん。

 その日は、十五日の給料日だった。

 おさむは、自分にとって重大な決心をして、給料を受け取るため事務所に行った。

思い切って、免許を取りたいと申し出るつもりだった。給金を受け取った後、店長に決意の程を打ち明けた。いい返事がかえってくることを期待した。自分の実績評価がどのくらいなのか不明だが、悪いとは思っていなかった。〝できる男、段取りのいい男〟として店長も認めていた。間違いなく承知してくれると計算していた。

 ところが、おさむの考えとは裏腹に、とんでもないことになった。

「中岸君、誰がそんなこと約束したんや。わしゃ知らんぞ。君は唯の助手、荷物積み降ろしの人夫なんやど。人夫としては一人前以上や、それは認める。けど、運転手とは違う。どれだけ運転練習したかしらんが、トラックの運ちゃんはな、運転だけでけてもアカンのんや。機械のことぜぇーんぶ知っとらなあかんのや。うちの運ちゃんは、全部会社が金だして勉強させたんや。そこらの運ちゃんとは値打ちがちがうんや。……アカンで。君がなんぼ頼んでも、助手は助手、そう簡単には免許取らせられるかいな。十年かかるで、十年」

 おさむは、大地に叩きつけられたようなショックを受けた。どこをどう歩いたのか、気が付いたときには、ドヤ街に居た。

 その夜、久しぶりに司兄いを尋ねた。司兄いは、何もいわず酒を注いでくれた。おさむは、本宮に帰ろうかと考えていた。これ以上大阪にいても、自分の目的を遂げることができそうにないと判断したからだ。それで、兄に、田舎の様子を問い合わせてもらった。ところが、今帰ってきても仕事は無いという返事。やむなく、仕事が出たら連絡してもらうことにして、暫くはつなぎ仕事をすることにした。

 こんな時、一番手っ取り早いのが、あんこう、つまり、立ちん坊だ。これは、いつ辞めてもいい。また、誰に気兼もいらない。まったくの自分勝手。働きさえすれば金になる。小学生から他人が真似できないことをやってきた彼にとって、もってこいの仕事だった。それで、早速釜ヶ崎に出向いたというわけ。


「さあ、着いたぞ、しつかり頑張ったってや」

 三人を乗せたライトバンが埠頭に着いた。車から降りると、目の前に赤く錆た中型の運搬船が泊まっていた。船尾に鉄ハシゴがかかっている。

 手配師が、クラクションを二、三回鳴らした。すると船の上に顔が出て、一人の男がハシゴを伝っておりてきた。仕事の依頼主だ。ここで人夫の引き渡しをするのである。手配師は、簡単な書類のやりとりをして代金を受け取ると、次の人夫手配のため早々に立ち去った。この世界には、つけ勘定がない。全て現金で決済される。信じることができるのは、現ナマだけなのだ。

 依頼主の先導で、三人は船の上に立った。そこは、一面スクラップの山。冷蔵庫や自転車などの大きなものは大雑把に分解して山積み。

 船の真ん中に大きなクレーンが一台。その長く伸びたアームに、太いワイヤーで編んだ大きなモッコがぶら下がっている。そのモッコの中に鉄クズを放り込むのがおさむたちの仕事なのだ。

「あのモッコに、スクラップを入れてくれ。わしがクレーン動かして陸のトラックに積み込むさかな」

 依頼主は、そういってクレーンの運転台に座った。

 おさむは、なんだ、簡単な仕事じゃないか。これで、千五百円とは弾むもんだなと感心した。

 全体に、黄色のゴムをしみ込ませた、ごわごわの軍手のような手袋をつけた。さっき、車のなかで丸坊主がいったことの意味が分かった。鉄くずの中には刃物のようなものもあり、油断するとケガをする可能性があった。

 丸坊主も、年配の男も終始無言。時々、オッとか、ヨイショなどと掛け声をかけるが、それ以外は黙ったままだ。無口なおさむも、黙々と仕事した。クレーンのエンジン音だけが響いていた。

 昼飯まで休憩なし。土方や運送屋の仕事とはだいぶ勝手がちがう。力にまかせて物を持ち上げればいいというものではない。絡み合い、捩じれあった屑鉄は、思うようにばらけない。不安定な足場の上で、悪戦苦闘した。

 やがて、正午。どこかの工場でサイレンが鳴る。それを合図に、用意された弁当を食べる。

 おさむは、年配の男と並んで座った。潮の匂いが鼻をつく。丸坊主は依頼主としゃべっている。話の様子から顔見知りのようだ。

 となりの男は、黙って弁当を食べ始めた。まったく表情がない。横におさむが居ることすら忘れているようだ。ドヤ街に集まる人間は、人生色んなものを背負っていることを兄から聞いていた。なかには戸籍の無い人もいるらしい。

 おさむは、握り飯にかぶりつく。大きなやつが五つ入っている。食べながら、どうも、賃金のことが気になった。仕事内容からみて、いかにも千五百円は良すぎるように思った。それで、おさむのことなど無視して黙々と食べている隣の男に声をかけてみる。

「この仕事、ええ日当やな」

 世間話でもするように、軽くいった。すると、隣の男、チラッとおさむの顔をみて、

「ちょっとも、ええことあれへん」

 即座に返事が返ってきた。おさむは、すかさず尋ねる。

「手配師いうとったのは、千五百円やろ」

 すると今度は、食べる手を止めて、おさむをまじまじと見ながら、

「朝まで、働くんやど、ちょっともええことあるかい」

「朝まで?」

「あんさん、オールナイトちゅうこと、知らへんのかいな」

 男は、おさむを見たまま、口に含んだ飯をグッとのみこみながらいった。

「オールナイト……?」

「あほやなぁ、オールナイトちゅうたら、一昼夜いうこっちゃ。それも知らんと来たんか」

 男は、そういって苦笑いした。おさむを見る眼が流し目だ。完全にバカにしている。

 おさむは、おかずをはさんだ箸を危うく落とすとこだった。これまでも、真夜中仕事したことはある。だけど、昼夜ぶっ通しで働いたことはない。普通の日当の三倍という高賃金の意味がようやく理解できた。これを昼夜やると、あくる日は仕事にならない。それで、約三日分の給金となるのであった。


「部屋、空いたとこあるか?」

 朝まで仕事して、ふらふらになってドヤに戻った。

「昨夜、どこに泊まったんや」

 宿の亭主が、よごれた老眼の鼻めがねの上から斜めにおさむを見た。

「今朝まで、仕事しとったんや」

「オールナイトか。また、初っ端から、ごっついことやりおったな。そりゃ、こたえたやろ」

「オレ、知らなんださか、夢中やったんや。……それより、オレ腹ペコや、朝から飯くわすとこ無いやろな」

「ここ出て、左行ったら雑炊食わすとこある。安うて味もまあまあや」

「食堂とちがうんか」

「一杯五円の雑炊専門、釜ヶ崎の名物や。いっぺんは食べとき。あんな店他ではあれへんで」

 亭主にいわれるまま通りに出る。左に少し歩くと白地の布に〝ぞうすい〟と書いたのぼりが目に止まる。屋台を一回り大きくしたような構えだ。店の前に、細長い涼み台のような木の椅子があり、数人の男がどんぶりにかぶりついている。一部がカウンターのようになっていて、そこでは、三人の先客が順番を待っていた。おさむも、そのうしろに立つ。カウンターのなかでは、見たこともない大釜が二つならんでいて、片方は半分以下に、もうひとつは、満杯の雑炊が白い湯気をたてている。それを見て、昔食べた茶粥が目の前に浮かんだ。それは、中身が少なく、汁ばっかりだった。それで、あまり満腹感が得られなかった。今、目前にある大釜の雑炊は汁がほとんど無い。茶粥と雑炊の違いなのかと思った。

 おさむに順番がきた。二杯頼んだ。

「ヘイ、二杯ね、十円」

 現金と引き換えだ。細長い腰かけの一番端に馬乗りの要領で座った。股の間に一つのどんぶりを両足ではさむように置き、もう一つをすすった。

 ……うまい!

 正直な感想だった。昼夜ぶっ通しで働いて、腹ペコで余計そう感じたのかもしれなかったが、いままで、こんなうまいもの食ったことが無かった。

 こうして、おさむの、釜ヶ崎生活が始まった。朝は、一杯五円の雑炊をすすって立ちん坊。からだの調子に合わせて、オールナイトにも挑戦した。少しバテ気味のときは、大工や左官の手元をした。手元は、昼間だけの仕事で、約五百五十円の日当。ドヤ代二百円を差し引いて三百五十円残る。自分ひとり食うだけは充分だ。

 たまに、大工現場で棟上げに当たると、祝い事ということで祝儀が出た。そんな時は、通天閣下のジャンジャン横丁に飲みに出かけた。夜通し休むことを知らない横丁は、活気にあふれかえっていた。呑み屋街に好みの店を見つけた。目印はホルモンと書かれた赤提灯。いつも、中年の男が独りで客の相手をしながら肉をさばいている。

 白いものが混じり始めた太い眉に大きな鼻、への字口の分厚い唇。南国人のようなほりの深い顔。それに、おさむが特に気にいったところは、余分なことはいわず、無口な性格だ。カウンターに座り、このおやじの顔を見るだけで、何となく気持ちが安らいだ。おさむは、いつも決まって、

「ビール、一本くれ」

 という。おやじは、へい、まいど、といって、何故かラベルの貼ってないビール瓶を出す。ビールとは名ばかりで、その実、おやじ特製の芋焼酎なのだ。飲むと変な味だが、慣れると結構いける。ただ、ビールでないことだけは確かだった。肉も、野良犬が混ざっているという噂だったが、タレがいいのか旨い。幼い時からドン底生活をしてきたおさむにとって、釜ヶ崎の生活は実に快適だった。もっとも、一生ここで過ごすわけでもなく、本宮で土方仕事が出るまでの繋ぎということが、心に楽しむ余裕を与えていたことは事実だった。

 春から立ちん坊生活にはいり、五か月ほど経って、季節は夏をむかえていた。この間、月に二度の割合で、司兄いを尋ねていた。だが、田舎での仕事……おさむにとっては独立開業の下地であったが……なかなか見えてこなかった。

 釜ヶ崎生活が半年以上経つと、あんこう仲間もできて、よく連れだってジャン横を飲んで回った。

「いっぺん釜ヶ崎の味覚えたら、他所へ行く気せえへんで」

 と、運送屋助手をしていた時、仲間から聞いたことがあった。

 おさむは、今になって、そういった仕事仲間の気持ちが分かった。

 ここには、一種独特の雰囲気があると感じた。一見して、みなそれぞれ自分勝手に暮らしているように見えるが、何か事が起こって、ここ一番というときになると、損得勘定抜きでさっと現れ面倒を見るという人情があった。

 ときあたかも、日本列島は高度成長の真っただ中で全てが右肩上がり。巷には、携帯ラジオ、テレビ、冷蔵庫、扇風機、クーラーなどがあふれた。

 紀州の山奥では、小さな土木工事さえ出ない状態だったが大都会は音を立てて変貌していた。自由労働者、つまり、あんこう、別名「立ちん坊」にとっては、まさに我世の春であった。仕事にあぶれるなど、余程へまなことをしない限り滅多になかった。

 ところが、九月の末、おさむは、初めて〝あぶれ〟を体験した。大型の台風が発生、そのため、数日はガード下に立っても手配師がやってこない日が続いた。少し余分な金が入ると両親に仕送りしていたため、貯えなど無いに等しい。腹巻のなかは、はした金が残っているのみ。これで雑炊を食うと、ドヤ賃が出ない。それで、人夫どうし数人で野宿することになった。おさむにとって初体験だ。地下鉄岸ノ里の構内に段ボールをふとん代わりに敷いて一夜を明かすのである。こんなこと、オレ独りじゃ到底出来ないと思った。このときは、あぶれ連中が多く、あちこちで同じような集団が出来た。

 おさむは、コンクリートの壁際で手枕をして横になった。行き交う乗降客が気になった。どうして人の居ない静かな場所を選ばないのか不思議だった。先輩たちの考えでは、人通りの多いほうが安全で、安心して眠ることができるらしい。慣れれば何ともないのだろうが、初めての彼には、電車がホームに入る度に、ビリビリ振動する床や、スピーカーからひっきりなしに聞こえる案内放送で、眠るどころではなかった。ほかの連中は慣れたもので、ぐっすり寝込んでいるようだ。

 ……慣れたものだな。しかし、これが冬場だったらどうするんだろう。

 そんな思いが起こる。田舎で仕事が出なくても、冬までにはこの生活から抜け出さねば、えらいことになると思った。

 目を閉じる。両親の顔が浮かぶ。本宮の景色が見えたと思うと、それにオーバーラップして、なんと、虎やんの居る竹田運送に変わったり……。突然、秀子の白い顔が、やけに鮮明に浮かんだりした。

 村橋秀子か……。義姉の妹、秀子。都会の女やなぁ……。ただそれだけの印象だが、脳裏からなかなか消えない。遠くでゴーゴーという音。何の音だろう……。電車か? 色々考えをめぐらせているうち眠りに落ちたらしく、翌朝、なかまに起こされるまで気がつかなかった。コンクリートの床にダンボールを敷いただけだったので、からだの節々が痛い。頭がぼやけている。やはり、寝不足のせいだ。構内は、昨夜の雑踏が消えガランとしている。そんななかで、所々に陣取った人夫のかたまりが動き始めた。皆、床に敷いたダンボールの後始末をしている。おさむも、小さくたたんで脇に抱えた。こうして、野宿初体験が終わった。

 外に出ると、あいかわらずの雨。

「あかんな、あぶれやな」

 だれかがいった。

「とにかく、朝飯や。みんな、飯代あるか」

 と、この集団のリーダー格。似たようなもので、みんなの懐はきょう一日の食費がどうにか、という状態。

 その日、なぜか、いつもの雑炊屋は閉まっていた。それで、うどんを食べることにした。うどんは一杯二十円。雑炊の四倍だ。

 五人は黙々と麺を咽に流し込んだ。おさむを入れて五人の仲間。どうして五人が集まったのか不思議だったが、これが、釜ヶ崎住人の普通の姿だった。

 仕事があり、金があるときは、それぞれに行動するが、一旦窮地に陥った場合、あたかも豆腐がにがりで固まるように、極自然に連帯がうまれる。つまりは、普段の行動パターンに似通ったものがあり、それぞれが無意識のうちにそれを肌で感じていて、いざ事が起こると、孤独な人間の共通意識が作用し、このようになるのである。お互いの個人的事情、……本名、出身地、家族、経歴などはタブーの世界だったが、この結びつきはこの街特有のもので、互に〝立ちん坊〟という立場であれば万事うまくゆくようになっていた。

「みんな、今晩のドヤ代稼ぎに、センター行けへんか?」

 うどんを食べ終え、店の外に出たとき、リーダー格の男がいった。彼は、背が高く、四角張った顔に黒いひげをたくわえ、よく喋る明るい性格だった。年はグループのなかで若いほうだったが、人を引き付ける力を持っていた。それで、他の連中からは〝おやじ〟と呼ばれていた。

「センターは確実ですね。あぶれがありませんから」

 おさむと同じドヤ暮らしの先輩の上品な男がいった。大阪弁の飛び交うなかで、関東言葉が浮きあがって聞こえる。どんな事情でここの住人になったのか不明だが、すっきりと垢抜けした容姿が気になった。

 やがて話がまとまり、天王寺駅から環状線に乗った。朝のラッシュが一段落した時間帯で、車内はガラガラだ。

 おさむは、上品男と並んで座った。皆の行くままついてきて、これから何が起こるか、皆目見当がつかない。先ほど他の連中が賛同したセンターとは、そもそも何なのか。それがどうドヤ賃につながるのか。おさむ以外は万事心得顔だ。

「センターって、何のことですか?」

 電車が動き出したとき、おさむは、思い切って聞いてみた。関東弁の男には、なぜか標準語もどきの話しかたになる。

「きみ、これから行くところ、知らないの?」

「初めてやさか」

 今度は、田舎弁丸出し。

「献血センターだよ」

 ぽーんと、関東弁が返ってくる。

「ケンケツ……センター?」

「そう、ケンケツ。血売るのさ」

 おさむは、とっさに意味が呑み込めなかった。献血だの、センターだの、まして、血を売るとはいったい……。まったく予期していない言葉だ。

「血を、売るって、……あの、自分の血を?」 「そう、世間様に良いことしてお金もらうの。君、初めてだったら教えてあげるけど、仕事にあぶれたときは、こういう方法あるの、憶えておくといいよ」

 おさむは、我知らず自分の腕を掴んでいた。

 ……血を売って食いつなぐ。そこまでしなければ釜ヶ崎で生きていけないのか。

 この数か月では、まったく見えなかった意外な一面を垣間見た。これまで、気安く接してきた仕事仲間に対して、恐れのような感情がこみ上げてきた。

「君、初めてだから、大丈夫だと思うけど、十日以内に二回つづけて売るとダメだからね。血がうすくなって商品にならないからさ」

 おさむは、ただ黙って頷いているが、充分理解しているというより、電車の揺れで、頷く仕草になっていただけだった。

 ……血が、オレの血が商品! これからセンターという所に血を売りに……。

 ようやく、いくらか判りかけてきたこの事実にとまどいを感じた。

 いくつかの駅が過ぎ、車両が京橋駅に着いた。上品男は、さぁ、行くよといっておさむの肩を叩いた。献血センターはこの近くらしい。おさむは、集団の一番うしろを歩いた。

 ……オレ、今、自分の血を売るため歩いている。売った金で飯を食い、ドヤに泊まる。安酒を飲む。そのために歩いている。果たしてこれでいいのか……。

 だが、ここまで来た以上、あとへ引けない。とにかく、現実問題として金が必要なのだ。仲間連中に寄り添うようにして、献血センターの建物に入る。もう、どうにでもなれ、という気になった。

「はい、腕出して」

 太い針が血管に突き刺さる。牛乳瓶二本が一回の限度。

 窓口で、七百円の売上金を貰った。札を手にした途端、すーと深い淵の底に沈みこむような、何ともいえない寂しい気持ちにおそわれた。血をぬいて貧血を起こしたのではない、ただ、訳もなく辛かった。

 次の日、ドヤで朝を迎えた。まだ、ふとんから起きださずにいた。昨日血を売ったことを後悔した。もう、二度とするべきことじゃないと思った。自分のからだを流れる血を売って金に替え、それでドヤに泊まり、雑炊をすすって酒を呑む。これが当たり前のこととして行われている釜ヶ崎の生活。労働なら決して他人に負けないだけの自信があった。だが、自分の血を売って急場をしのぐなど、とうていできないと思った。それに、もうすぐ冬がくる。

 ……あんこうと呼ばれる立ちん坊生活。もうおさらばだ。

 そう心に決めた。





人夫頭


 十月初旬、季節は既に秋、昼間はまだ相当暑い。だが、夜のとばりがおりると急に気温が下がる。時折、川を渡る風が河岸の雑草をザワザワかきたてる。その茂みのなかでは、コオロギの類が羽を震わせ、今を盛りと、多重奏を奏でている。

 おさむは、飯場の二階からそんな情景を漠然と眺めていた。夕飯のとき呑んだ冷酒のせいで、ひんやりした秋の風が心地いい。

 大阪府高槻市津之江町を流れる芥川の河畔。大手の建設会社、奥村組の作業現場。おさむは、五日前からここの住人になっていた。

 釜ヶ崎での〝あんこう〟 をやめた翌日、司兄いを尋ねた。今度こそ本宮に帰ろうと考えを固めていた。だが、兄の話だと、相変わらず田舎での仕事が無いということだった。それで、これも初めての経験だが、職業安定所を尋ねた。結果、うまい具合に、最も得意とする土木の仕事にありついた。

 早速出勤。飯場事務所に入ったとき、土の匂いを感じた。久しく忘れていた懐かしいかおり。旅に出て、何年振りで我が家に帰った気がした。面接を終え、作業現場に立つと、からだの芯から気力が湧き上がるのを感じた。

 ……オレには土方がある。オレを救ってくれた土がある。

 中学二年の春休み、本宮の道路工事現場で感じた土に対する想いが、あらためて蘇った。ジャングルをかき分けて進むうち、突然視界が開けて広大な大平原に飛び出したように、あらゆるものがどこまでも見透せるような気持ちだ。

 仕事について三日めに、現場事務所主任から〝人夫頭〟を命じられた。仕事内容は、芥川の堤防工事。かつて経験したものと同じやり方だ。ただ、間知石が、本物そっくりのセメント製だった。おさむは、間知積が最も得意だ。腕一本で諸国を渡り歩くプロに、みっちり技術をたたき込まれていたからだ。土木技術の経験は履歴書に書いておいた。それが功を奏したのか知るよしもないが、他の作業人夫には無い際立った手並が現場監督のおめがねにかなったのである。

 実際、おさむの場合、こと土木にかけては慣れや経験を超越した彼自身の特殊な感性ともいうべき〝独自の技〟 が備わっていた。これは、才能といってもいい。おさむ自身はこのことに気付いていなかったが、プロが一目みれば、この男、一味違うなということは明らかだった。

 堤防工事は、本宮とは桁違いで、大規模なものだった。低い堤防を嵩上げするもので、総延長も半端ではなく、現場事務所兼飯場も数か所設置されていた。

 おさむは、最上流の飯場に配属された。約二十人の人夫が二班に分かれて作業する。そのなかで、人夫頭を命じられたのだ。役付きということで、日当に差がついた。夕飯時の酒の量も当然多い。何といっても頭だ。他の作業員との差は自然の成り行きだ。

 ……半月前のオレとは、えらい違いだ。

 芥川の川面を眺めなが

ら、そう思った。


 二か月あまりが瞬く間に過ぎ、昭和三十五年の正月を奥村組の飯場で迎えた。

紀州に帰るのも、何となくおっくうだった。飯場には、帰る家の無い者が数人居た。仮に帰るべき家があっても帰れない事情の人も居た。

元旦は、そんな連中と終日酒を呑んで過ごした。

 正月二日め。ふと、司兄いを尋ねてみようと思い立った。今の職場に来て以来一度も顔をだしていなかったからだ。

 阪急京都線で梅田まで出て、環状線に乗った。車内は予想外に空いていた。それでも座席はほぼ一杯。晴着姿の若い娘が目につく。天井からぶら下がる初詣の吊り広告が揺れて、いやがうえにも正月気分だ。大阪駅から三つめの駅に電車が滑り込んだ時、聞き覚えのあるアナウンスが耳に響く。京橋駅だ。思わず車窓からホームを見渡す。おそらく一生忘れることのない〝血を売りに来た駅〟だった。

 三か月前、『さあ、行こうか』と、肩を叩いた上品な関東人の顔が過る。

 ……あのときの連中は今頃どうしているだろう。

 ほとんど無一文でこのホームに降り立ち、みんなの最後尾で何かに曳かれるように階段を降りた。自分の血を売るためだ。あれからわずか三か月、難しい事はわからないが、何か得体のしれないものが自分の人生を動かしているように感じた。

 ガタンとドアが閉まって、次の停車駅のアナウンス。

 ……もう、二度と、この駅に降りることもないやろ。

 車窓に浮かぶ新春の大阪城を眺めながら、そう思った。天守閣が朝日にひかっていた。


 近鉄の河堀口駅で降りて改札を出る。すこし歩くと、今では虎やんの陰も薄れた懐かしい竹田運送店の看板。車庫には、きれいに磨きあげられた見覚えのあるトラックが二台、ボンネットに〆飾りをつけ正月休みしている。

 ……今、あの虎やんの助手誰やろな。

 そんなことを思いながら、車庫横の路地に入る。

「まあ、おさむさん。……おめでとうさん」

 相変わらず張りのある義姉の声。おさむは、黙って頭を下げた。やけに部屋のなかが騒がしい。見ると、衝立の向うでテレビが歌謡番組を流している。

「テレビ買うたんか?」

「暮にね、月賦なんよ」

 こどもらは、衝立の陰で見えない。どうやら画面に夢中になっている様子だ。司兄いの姿が無い。

「兄さんは?」

「運転手仲間の新年会行ったわ」

「朝から?」

「そう、ついさっき出てったとこ」

 義姉は、そういって、

「さあ、上がって。騒がしいけど」

と、おさむを招き入れた。

 おさむは、衝立の上から、こどもたちに声をかけた。

「あっ、おじちゃんや」

 長男の元気な声。三人のこどもが一斉に振り向いた、と思ったが、実は四つの顔があった。おさむは、何かいいかけて言葉をのんだ。そこに、秀子が居たのだ。彼女は、上目づかいにおさむを見て、

「おめでとうさん」

 と、いった。笑っているようで、そうでないような中途半端な表情だ。色白の顔に薄化粧、髪形も若い女性のスタイル。初めて会ったオカッパ頭のこどもっぽさが消えていた。化粧や髪形のせいではなく、すでに、十七才。娘の顔だった。

 おさむの脳裏には、ずっとオカッパ頭の白い顔があった。それが、この二年間、時として浮かんでは消えていた。目の前に居る秀子との落差に一瞬とまどった。

「おじちやん、田舎帰らなんだんか」

と、長男。

「あゝ、正月明けに直ぐ仕事始まるさかな」

 そういいながら、ポケットをまさぐった。百円札を三枚取り出す。

「これ、年玉や。袋入れてないけど、かまんやろ」

 そういって、裸の札を差し出す。

 年玉三百円は多かったが、司兄いには、今の仕事にかかるとき世話になっとるし、このくらいは当然だと思った。

「まぁ、すまんねえ、おさむさん」

 義姉の綾子は、おさむの傍で、年始のお酒を持って立っていた。

「ねぇ、おさむさん。秀ちゃん変わったでしょ。長いこと会うてへんのとちがう?」「あゝ、……なんや、……急に大人になったみたいや」

 義姉の言葉に、おさむは、口ごもるようにいって秀子を見た。ほかに適当なせりふが浮かばなかった。

 秀子は顔を伏せ、くすっと笑った。



 四月の中ごろ、高槻の堤防工事が完成した。休む暇なく、次の現場が出た。おさむは、さすが大手の会社だけのことはあるなと感心した。

 今度の現場は、奈良県の東の端、三重県との県境に近い曽爾村。高槻と同じ堤防工事で、青蓮寺ダム下流の河川。規模は中程度で、決壊した箇所の改修。現場事務所も一か所だけだった。

 この現場で、おさむの評価が、決定的なものになった。それは、水中床掘りという特殊な工法が行われたからである。二十人余の人夫は、この工事については全く経験がなかった。おさむは、中学卒業後の四年間で充分な経験を積んでいた。更に、彼自身が独自のやり方を考案していた。

 水中床堀りとは、水のなかに堤防や道路の基礎を築くものである。通常は、基礎設置部分は川の流れを迂回させて、乾燥状態で行うものだが、今回おさむたちのやろうとしていることは、川を堰止めることなく、つまりは、川の流れのなかで工事するものだった。

 すべてが水中での作業で、腰まで浸かって仕事をする。当然水中をかき回すので濁ってまっ黒。てずるは、作業員のカンだけだ。カンを頼りに図面通りの作業を進めなければならない。スコップに乗った砂が、たちどころに流される。結果、仕事にならない。この難工事をやれというわけだ。

 おさむは、工事の先頭に立った。若い現場監督も初めての工法で、おさむの指示どおり素直についてくる。理論より経験が優先する。二人一組でのチームを組む。水の流れを読み、それぞれの立ち位置を指示。川底に対するスコップの掘り角度。仕事中は決して腰をのばしてはいけない事……実は、これが彼が考えた方法なのだ。おさむの声が谷間に響く。普段口数の少ない彼も、こと仕事にかけては性格が変わる。自分で意識してそうしているわけではないのだが、類まれな才能がそうさせるのだ。

 黒二本線の白ヘルメットが、黄ヘルの人夫のなかで一際目立つ。決して荒い言葉は口にしない。一つひとつを納得させながら指導する。

 何でもそうだが、経験ほど確かなものはない。学歴を振りかざし、何の役にもたたない人間がごまんと居る。そんな連中がどれほど立派な理屈を並べたてても人の心は動くものではない。ところが、確かな技、見えてくる実際に対しては、いかなる人間でも承服する。

 おさむは、このとき僅か二十二才。平均四十才代の、背に刺青の花が咲く荒くれ男の面々が、文句一ついわずにおさむの指示通りに動いた。

 工事は着々と進み、ほぼ九分通り出来上がったとき、おさむは、右足首に怪我をした。川底の尖った石がゴム長を突き通したのだ。当初は大した痛みも感じず、気にかけていなかったが、翌日から突然容体が悪化した。同時に、針で突き刺すような激痛が起こった。それが、日を追って悪くなり、とうとう一週間もすると、仕事は勿論、歩行も困難な状態に陥った。

 このことを機に、絶えず心の隅で消えることなく光り続けている独立への想いを現実に移すべく、退職を申し出た。というのは、今の工事が済めば次は九州が予定されていたからだ。その話も、事務所側からおさむに届いていた。

 ……才能を見込まれたのは、嬉しいことだが、このまま各地を渡り歩く訳にはいかない。

 ところが、会社側が難色を示した。翌日には奈良支店の次長がおさむの前に現れた。とにかく辞めないでくれ、の一点張だ。それで、今回の怪我したこと以外に、これまで誰にもいっていなかった独立開業のことを、また、その決意のほどを説明した。

「実は、近々土建業を新規開業する予定なんで……」

 おさむは、そういうと、相手の言葉が止まった。ここで、もうひと押しと、

「具体的に、開業の段取りにかかっている」

 と、嘘をついた。その一言が功を奏し、次長の言葉は出なくなった。

 約一年近い歳月、おさむはこの職場で大きな自信をもらった。この大手企業から現場責任者に抜擢され、その才能を認めてもらった。今後、夢を実現するためにも、どこでも通用する『独自の技・才能』を確信したのだ。


「これ、切らなあきまへんで」

 河堀口駅前の開業医が、おさむの足を見るなりいった。このときまで、医者には診せてなかったが、どうやら傷口からバイキンが入って大変な状態になっていたのだ。患部は、ボール玉のように丸く腫れあがっていた。しかし、その殆どが膿のかたまりだったようで、除去手術は四十分ほどで終わった。

「麻酔がきれて、痛みが止まらん時はこれを飲め」

 医者は、そういって、赤い包み紙に入った粉薬をくれた。

 とりあえず、司兄いとこへ行こうと、医院を出る。麻酔で痺れた足は、しっかり踏ん張っているにもかかわらず宙に浮いているようで、幾度も転びそうになった。

「どうやった?」

 まえもって連絡していたので、義姉がおさむを見つけて飛んできた。

「なんや、ちょっとも感覚無いさか、歩き難うて……」

 義姉の肩に掴まりながら家のなかへ。

「切ったんやね」

「取ったったら、なんや、すっとした。あと、痛まなんだらええんやけど」

 見覚えのある丸い卓袱台。その横に足を投げ出し座る。

「おさむさん、お昼ごはん直ぐ用意するわね。簡単なもんやけど」

 義姉は、そういって手早く卓袱台にごはんとおかず二品ほどを並べながら、末っ子を幼稚園に迎えに行くといって出て行った。

 おさむは、出された昼飯に食いついた。手術のせいか、司兄いの家に居る安心感か、やけに腹が減っていた。食べ終わったころ、切った所が痛んできた。それで、頓服の赤い包み紙をあけ、ピリピリするような感じの薬を流し込んだ。義姉は、食べたら横になったほうがいい、といって敷ふとんを用意してくれていた。ふとんに寝ころび足を伸ばす。ズキンと痛みが走る。

 ……さぁこれからどうしたものか。今更再就職もあるまい。愈々本宮か……。

 頓服が効いてきたのか、にわかに眠気が襲ってきた。

 何かの音で目が覚めた。見ると、枕元に長男と次男の顔。

「おじちゃん、起きたで!」

 おとなしい次男が、大声でいった。

「おじちゃん、起きよったから、テレビつけてもええやろ」

 また、次男の声。おさむが眠っているので、母にテレビを観るのを止められていたのだ。

「おじちゃん起きたんやったら、かまへんで」

 外の洗い場から義姉の声。母の許しがでて三人のこどもがテレビの前に陣取る。

 義姉が、外流しから入ってくると同時に、司も仕事を終えて帰って来た。司は、おさむを見るなり、

「おっ、おさむ、足どんなぐあいや?」

 昼過ぎ、おさむが来たときには司は仕事に出ていた。おさむは、怪我したこと、きょう病院に行ったことなどを説明した。そんなおさむの顔をじっと見ていた司は、おさむの話しがおわるが早いか、勢いのある声で、

「おさむ、おまえラッキーやど」

 といった。さらに、言葉をついで、

「こんなこと、あるんやなあー」

 と、目を丸くして大声をあげた。夫の声に、台所に居た綾子が振り向く。

「実はなあ、おさむ。……さっき、仕事終わって事務所で伝票整理しとったらな、ちょうどそこに、母やんから電話かかってきてな、本宮で大きな仕事出たらしいんや」

 司は興奮気味だ。

「ほんまか、司兄い!」

 おさむも、大きな声でいった。だが、話がうますぎるとも思った。

 ……こんなこと、あるやろか。

 なにか、目に見えない力強いものに導かれているような、なんとも不思議な気持ちだった。そういえば、血を売ったあと、釜ヶ崎生活から抜け出してからというもの、なにもかも良いことずくめのような気がした。これまでの人生とは少し違った世界を歩きはじめたように感じた。

 ……まさか血をぬいた時、悪い運命も一緒にぬけたわけでもあるまいが……。

 とにかく、事実は素直に受け入れよう。もし、今、自分に運が向いているのなら、とことんそれに従うまでだ。いつなんどき、どん底に突き落とされるかしれたものではない。

 そう、決心した。

 平穏無事な人生を歩んできた者にとっては、あゝ、丁度良かった程度のことでも、物心ついてからきょうまで、いくら掴みかけてもずり落ちてしまう暗く悲しい谷底を這いまわってきたおさむにとっては、本当に大丈夫なのかと疑わざるを得ないような幸運に感じられたのである。

 早速、翌日には本宮に帰ることにした。自分ではそう決めたが、医者がなんというか。いくら軽い手術でも、きのうのきょうだ。医者には、「少なくとも五日間は通院しなさい」といわれていた。

……田舎で急用出来たといってみるか。

 診察室に入るときそう決めた。一応順調という結果が出た。そこで、どうしても今晩の夜行で帰らなければならなくなった旨を告げた。

「それじゃ、化膿止めの薬を出すから、朝晩呑むように」

 と、意外にあっさりした返事が返ってきた。気をまわしたことがバカらしかった。痺れも疼きもなかったが、歩くのに力を入れると痛い。びっこをひきながら歩いた。

 医院を出て、最初の角を曲がろうとしたとき、真後ろで人の気配がして、おさむさん、と名を呼ばれた。振り向くとそこに秀子が立っていた。いや、正確には、秀子に似た女だと思った。正月に会ったときとは別人に見えたからだ。おさむは、眩しいものでも見るように目をしばたいた。

 長い髪を飾り紐で結び、左肩から胸にたらしている。相変わらず細い身体。黒地に白の水玉模様のワンピースが似合う。少し厚めの化粧のせいで、正月の顔とは違い派手立ってみえる。

「秀ちゃんか……」

 確認ではないが、とりあえず、それだけが口をついた。

「誰か思うた、びっこ引いて歩いてるんやもん。どないしたん?」

 やや上目づかいにおさむを見る。これは彼女の癖だった。ふつうでは相手に良い印象を与えない仕草だが、彼女の場合はそれが可愛らしさを与えた。

 おさむは、視線を外した。秀子と間近で向き合っていることが、何となく恥ずかしかった。男ばかりの職場を渡ってきた彼にとって、女は飯場のおばさんだけ。それで、流行の着こなしをし、化粧した若い女性に対する免疫がなかった。

「前の職場で怪我してな。ごっつい腫れてくるし、きのう医者に診てもろたら、化膿して切らなアカンいわれてな。それでこのありさまや……」

「仕事で怪我したん?」

「あゝ、川のなかで足切ってな、……たいしたことないとおもっとったんやけど、どうやら、バイキン入ったいうとった」

「大変やったね」

 暫く黙って歩く。

「姉さんとこ行くんやろ」

 秀子は、おさむの歩調にあわせてゆっくり歩きながらいった。

「あゝ」

 おさむはそう答えてから、ちらっと秀子を見て、

「お針子さん、しよるんやろ」

「もう、辞めたの」

「辞めた!」

「もう、住込みしてないんか?」

「いま、友達とアパート借りとるねん」

 秀子の言葉に、おさむは立ち止まった。今度は、真正面から秀子の顔を見た。秀子は、「何やの?」という顔をした。おさむは、友達というのが気にかかった。いやな気がした。

「おさむさん、うち、今何しとるか当てたらエライわ……ビックリするかも……」

 秀子は、そういって、先を歩く。そんなもの分かる筈がない。それより、友達と一緒に住んでいるということが、ひっかかる。

「……」

「分からへんのんや。……あのね、ウェートレスしてんの。喫茶店の」

「ウェートレス」

 おさむは、オウム返しにいった。なるほどと思った。きれいに化粧しているはずだ。

「その仕事、面白いか」

「うち、客扱いが好きなんよ。なんか、雰囲気いいさか」

 おさむは、秀子にはいい仕事だと思った。べつに理由があるわけではない。ただ、彼女の容姿だとウェートレスに向いている気がしただけだった。司の家に着くと、義姉が外流しで包丁を研いでいた。こどもらは学校と幼稚園。家には義姉だけが居た。

「あれ、一緒やったん」

 綾子は、二人を見ていった。

「おさむさん、駅前をびっこひきながら歩いとるんよ」

 義姉は、それには答えず研いだ包丁に水をかけ丁寧に洗った。

「秀ちゃん、おさむさんな、今晩の夜行で本宮へ帰らはるんやて」

「そう、その足でタイヘンですこと」

 秀子は、半分茶化すようないい方をした。

 おさむは、姉妹の会話をよそに、家のなかに入った。大した荷物もなかったが、帰り支度をしておこうと思った。

「秀ちゃん、きょうはお店、休みやの?」

「定休日なんよ、みっちゃんは実家へ帰るし、退屈やから出てきた」

「みっちゃんって、一緒にアパート借りとる娘か?」

「そう、管理人さんには、うちの妹やいうことにしとるねん。なにかと便利やから」

 ……友達いうたんは、女の子やったんや。当たり前や、秀子が男とアパート借りたりするもんか。

 おさむは、胸のつかえがとれた気がした。


 その夜、おさむは、司兄いと二人で天王寺駅のホームに居た。紀州行夜行列車は既にホームに入っていた。発車は十時五十分で、少し間があった。

「弁当、要らんか?」

 車内に乗り込んだおさむに、司は窓ごしにいった。

「弁当か、……おれ、どうせなら酒のほうが……」

「よし、待っとれ」

 司は、売店まで駆けて行った。

 おさむは、兄の後ろ姿を目で追いながら、或ことを真剣に考えていた。それは、きょう昼頃からにわかに湧き上がってきた感情だった。初めて心に浮かんだときは、極小さなものだったが、時間が経つとともに徐々に膨れ上がり、今、こうして、まもなく大阪を離れる段になって、どうしてもこれだけはゼッタイ外せない感情にまで達していた。

 ……あと、数分で大阪から離れる。時間がない。兄にだけは話しておくべきだ。あかんで元々。でないと、一生悔いが残る。

 司兄いが、息を弾ませ戻ってきた。

「ウィスキーやけど、かまへんか?」

 そういって、ポケットボトルとつまみの入った紙袋を差し出す。

「おおきに、色々すまなんだよ」

 おさむは、紙袋を受け取りながら、急に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 ……さぁ、思い切って話すんだ。本人じゃない、兄だ。時間がないぞ。

 必死に自分にいい聞かせる。

「司兄い、……あのなぁ……」

 声の調子が変わっているのが自分でもわかった。

「何や」

「あのー、オレ、考えたんやけど、……秀ちゃんオレの嫁に来てくれんやろか」

 わずかこれだけいうのに、のどがカラカラになった。

「おさむ、おまえ……」

 司は、キョトンとした顔で弟を凝視。一瞬無言でお互いが顔を見合わす。そのとき、駅のアナウンスが入り、まもなく出発を告げた。スピーカーの音が止まると同時に司が早口で、

「あの、華奢なからだで土方の嫁さん務まるか」

「土方するんはオレや。秀ちゃんとちがう」

「ん、……それはそやけどな」

「司兄い、なんとか当たってみてくれんか。あかんで元々や。オレのことゼッタイ嫌いやいわれたら、あきらめつくけど、このままやったらオレ、よう忘れんのや」

 もう、話す時間が無い。おさむは、早口で本心をぶちまけた。

「よっしゃ、なんとかしてみる。あかんかったら辛抱せえよ」

 発車のベルが鳴り、ガタンと連結の音。ゆっくり動き出したおさむに、司はウインクした。

 おさむは、そんな兄の仕草に意外な一面を見た。






五百円の縁



 おさむは、四年ぶりで本宮の土を踏んだ。その夜は、なつかしの我が家でぐっすり眠った。

 翌朝、竈から立つ煙の香りで目覚めた。実際それは、おさむにとって、うっとりするような香りだった。ゆっくりと家のなかを、ひとしきり漂い、色々な模様を描きながら、屋根に作られた煙通しに吸い込まれていく。

 ……何も変わっていない。

 薄紫の煙の流れを目で追いながら、そう思った。だが、月日だけは確実に過ぎていた。父松一は、一度痛めた腰が思わしくないため、本業の山仕事から遠のいていたし、母もとゑも、相変わらず神経痛に悩まされ、わずか四年の間にめっきり老け込んでいた。祥子や公は中学を卒業して都会に出ていた。それで、老いた夫婦だけの生活がつづいていた。そんななかに、おさむが腰を据えるつもりで帰ったことで、両親の喜びは最高潮に達した。

 ……帰って来て良かった。

 あらためて、そう思った。この地で大きな仕事が出たことに感謝した。久しぶりに縁に出てみた。眼下、大斎原の向うに広がる田んぼでは取り入れの最中で、幾つもの稲駈が並んで立っている。正面、七越峯は、時の変遷など気にもかけず、秋の朝日を受けてがっしりと構えている。おさむは、それらの景色を眺めている今の自分が、この四年間で内面的に大きく成長したと自負した。経験が裏付けする自信というやつだ。オレの大阪暮らしは無駄じゃなかった。そう確信した。

 眼下を流れる熊野川に視線を移し、下流の請川村を遠望する。請川村は、彼の心に深く根付いていた。タバコ拾い、藁草履売り、また、真夜中のじゃり持ち。

 ここまで思いを運んだ時、突然、気のゆるみから万引して、暗い孤独の谷底に真っ逆さまに落ち込んでしまった中学一年の晩秋を思い起こした。

 ……あのとき、国道の土方仕事が出なかったら、 ……オレを理解してくれた区長に会わなかったら、今頃はどうなっていたか。

 過ぎ去った十年余の歳月。走馬灯のように、色んな情景や思いが浮かんでは消えた。だが、不思議なことに、辛かったことは全部ぼやけていた。

 人は、苦しいとき、辛いときには、やたら暗い昔のことを想起するものである。だが、それとは逆に、全て順調に、つまり、人生が上昇に転じると、運命の力が強力に働くためか、嫌な暗い過去の事象はきれいに消去されてしまうらしい。

 おさむは、今、折から都合よく吹いてくる運命の追風に帆をはらませて大海へ船出するため〝ともづな〟をときにかかったところであった。今の彼には、過去の暗い思い出など入り込める空間はどこにもなかった。あるのは、この四年間で得た経験と、絶えず意識していた人生設計図だけだった。

 ……自動車免許は取れなんだけと、オレの腕が日本で最大手の会社で評価された。

 このことが、かけがえのない自信となっていた。

 ……オレは、土木にかけては誰にも負けない。オレの感覚がそうなっている。これがオレのすべてだ。

 そう確信していた。

 ……もし、大阪に出なんだら。

 もう一つ大事なこと、秀子だ。彼女にめぐりあったことが、仕事とは別の意識領域で紅く燃えていた。燃え上がるかどうかは、それこそ運命というやつで、自分で判断できるものではない。ただ、点火だけでも司兄いに頼んだことに満足していた。


 その日、敷屋地区内に現場事務所を構えていた村上建設に初出勤した。

 村上建設とは、東京に本社をもつ大手企業で、全国のダム工事を主に請負っていた。

 昭和三十年代にはいって、熊野川水系でにわかに水力発電のダム工事計画が起こった。それが時を追って具体化され、候補地には現場事務所や飯場が建ち、静かだった近隣の村々は様相が一変した。

 イノシシが稲穂をしごき、子連れの山猿が白昼我が物顔で柿の実を食い荒らす山深い里に、全国から集まる人夫を想定して、バーやキャバレーもどきの呑み屋が軒を並べ、小規模なパチンコホールまで出現した。そこに、どっと押し寄せる人夫の集団。もちろん、地元の人々も雇用対象となり、かつて無かった長期土木作業の恩恵を受けることとなった。

 三十五年の秋、敷屋地区内でも、二津野ダム建設に係る工事が出た。それが村上建設で、おさむが帰郷するきっかけとなった。

 おさむは、事務所に入って、履歴をはじめ必要事項の打合せを済ませた。結果、総勢十五人の班をつくり、彼がその責任者、つまり、現場監督を務めることになった。若年だが、おさむのこれまでの経歴がものをいったのである。

 仕事は、事故もなく順調に進んだ。段取りの良さにかけては、おさむの班はずば抜けていた。全てに無駄というものがない。

 中学卒業後の四年間、毎夜ノートをとり、研究を重ねて編み出した彼独自のスピード工法だ。勿論、その裏では人知れぬ努力があったわけで、早朝、まだ誰も来ていない現場に入り、場合によっては、休日も彼独り出勤し、翌日人夫が作業にかかる際、無駄なく仕事を始められるように段取りを組んだ。

 自分が業者として請け負った仕事ならともかく、いくら現場監督といえども今はただの従業員でしかない。だが、こと土木に関しては、損得勘定はおさむの頭には存在しなかった。それで、実際の話、現場事務所では、当初の工事計画を度々組み換えなければならなかった。


 「おさむ、司から手紙来とるよ」

 翌年夏、八月にはいったある日の夕方、夜の仕事に備えての午睡から目覚めたおさむの枕元に、もとゑは一通の封筒を持ってきた。まだ、眠気から覚めやらない意識のなかで封を切る。

 見覚えのある司兄いの右上がりの文字。鉛筆書きだ。


[盆に、家族みんなで本宮に行く予定だ。そのとき、秀子もつれて行く。彼女には、おさむのことは未だ話してない。そっちに行ってから一気に説得してみようと思っているから、そのつもりで……追伸、綾子に話してみたら、どうやら賛成のようだから、多分うまくいくんじゃないか]

 

 と、大体、こんな文面だった。

 ……そうか、そういう司兄いの段取りか。

 おさむは、急にからだが火照ってくるのが感じられた。盆まであと一週間だ。ここまできたら、一応両親に話しておこうかと思った。

 この半年余り、おさむの胸のなかは、秀子のことで塗りつぶされていたが、そのことは一切口には出さなかった。はなっから断られたら全てはゼロ。ひとり相撲に終わるからだ。だが、司兄いの手紙で、良い方向に転じるのではないかと思った。なかでも、義姉が乗り気になってくれているというのが心強かった。

 仕事に出かける前のわずかな時間、両親に秀子のことを話した。一方的に彼から話した。老いた両親は、何の感情もみせず黙って聞いていた。勿論反対するはずなどなかった。生活力あるわが子が側に居て、生活の面倒をみてくれる。その息子に嫁がくるかも知れない。嫁をもらえば、土地に根がおりる。老後を安泰に暮らせる……。それで、おさむの言葉が途切れたとき、すかさずもとゑが、

「嫁もろたら、どこへも行かんと、ここでおるんじゃろ」

 そうするんじゃろね、という顔。

「他所へは行かん。この本宮で独立するんや」

 おさむは、即座に答えた。声の調子がいつになく強くなっていた。

 あと、一週間で秀ちゃんが来る。自分の嫁さんになるかどうか判らんが、とにかく、本宮に、この家に来ることは間違いない。この事実が彼の心をはずませていた。

 ……離れ屋を建てておいて良かった。

 夜勤に出るため家を出て、国道への石段をおりながらそう思った。石段の両側に広がる畑では、背丈よりも高く伸びたトウモロコシが林のように生い茂り、夏の陽がおちて、ようやく涼しくなりかけた夕風に、たがいに広い葉を絡ませてカサカサと囁くようにリズムを奏でる。実際それは、単なる葉っぱの擦れあう音だけであったが、おさむには、その音さえも心地良いリズムとなって耳に響いた。少しだけ秋が見え隠れしていた。

 それから、一週間が瞬く間に過ぎ、仕事は盆休みになった。おさむは、離れ屋に司兄い一家と秀子の寝具を用意した。手紙が来てから、もとゑも、全てぬかりなく準備した。

 昨日の朝、現場事務所に司兄いから電話があり、今晩の夜行に乗るということだった。予定通りだと、まもなく着くはずだ。おさむは、バス停へ急いだ。

 空一面に絹糸を張ったように薄雲がかかり、朝日が幾分涼しく感じる。

 ……こんな山奥、秀ちゃんはどう思うだろう。

 おさむは、バス停に佇んで秀子のことばかり考えていた。一緒に来る司兄いの家族のことは頭になかった。

 ……都会育ちで未だ二十歳前。姉に似て明るい性格で、どちらかといえば、はなやかな生活に憧れる現代娘。高度成長の真っただ中の大都会から、こんな娯楽一つ無い殺風景な片田舎に嫁に来るなど、誰が考えても不釣り合いなんと違うやろか。

 にわかに、そんな考えが湧いてきた。

 ……休暇を利用して温泉旅行に来るのとは訳がちがう。ましてや土方の嫁さんになるためなんかに。司兄いは、一気に説得するというが説得される秀子は困るかもしれない。いや、きっと困るはずだ。

 おさむは、兄からの手紙が届いて以後、自分に都合のいいように勝手に先走りしているのではないだろうかと思った。

 ……あんまり、期待せんほうが。

 もう間もなく本人が目の前に現れる段になって、これまでの秀子への想いが急にしぼんでしまった。同時に、ふわふわと熱にうかされたように上気した気持ちが消え、同時に、目の前にかかっていた薄紅色の霧が晴れ、偽りのない現実が見えてきたように思った。ふと、両足が何となく窮屈に感じ、見ると、ゴムぞうりが左右逆になっていた。

 ……あわてて、飛び出したさか。

 一応はそう思った。が、そのあと、チェッと舌うちして、まともに履き替えた。

 やがて、土煙を巻き上げて定期バスが近づいてきた。おさむは、鼓動が早鐘のように鳴っているのを感じながら、ドアの開くのを待った。

 一番先に秀子の顔があった。

 おさむを見るなり、快活な笑顔で第一声、

「おさむさん、こんにちは」

 秀子はバスを降りるなりそういってから、

「わぁ、ごっつ山奥やね……、うち、こんなとこ来たの初めてやわ。バスのってるときな、どこまで行くんやろ思て心配したわ。……ほんまやで」

 彼女は、おさむの傍に立って、一気に喋った。

 おさむは、ろくに話もせず、兄たちの荷物を持って先頭をあるいた。こどもたちは結構はしゃいでいる様子。だが、おさむにとって最も気にかけていたこと、つまり、秀子の第一印象で発した言葉が強烈なパンチだった。目の当たりにした都会娘の第一声で、やっぱりアカンと変な確信をした。秀子の声が義姉に似てきたと思った。軽快に喋る。観光地に来て未知の世界を楽しんでいる風だ。

 ……何も知らんと。今晩か、遅くても明日の晩、寄ってたかって説得されるのに。

 おさむは、他人事のように思った。バスを待っているときもそうだが、秀子がバスを降りたときの第一声〝山奥やね〟が耳の奥でこだまのように反復していて、余計消極的な方向に考えを移した。

 ……もうちょっと、ましな挨拶できんのやろか。おさむさん、お久しぶりとか、もう足治ったの、とか。

 肩に担いだ荷物をずり上げながら、そう思った。

「おじちゃん、あそこで泳げるんか?」

 おさむのすぐ後ろをついてきた司の長男が、国道下の川を指さして聞いてくる。それに、一行が立ち止まり大きな淵になっている川を見る。

「あゝ、泳げるぞ。魚もいっぱいおるしな。後で行くか?」

「わぁ、楽しみや」

 長男は、おさむを追い抜き、先頭に立った。目前には、家に通じる長くて急な石段がある。長男を先頭におさむたちがその石段を登りかけたとき、

「えらい急やねんな。これ登るん。一番上まで、……うわ、えらっ」

 秀子の声だ。おさむは、振り向いて彼女を見た。独特の上目づかい。流行りのパンタロンが細い身体によく似合う。半分あきらめている筈の胸がさわぐ。

 ……どうせ、二、三日で帰る女だ。

 くるっと向きを変え、さっさと石段を登った。


 「おじちゃん、さっきの川へ行こ」

 昼食後、いっときして、司のこどもらが、母屋に居たおさむを呼びに来た。全員離れで食事したあと、夜行、混んどって寝られへんかった、といって、皆が昼寝を決め込んだので、おさむは母屋にひきあげていた。

「みんな、起きたんか?」

 おさむの問いに、長男は、

「今、起きたとこや。おじちゃんとこ涼しいさか、よう寝た。もう眠たないで」

 そういって、駆けて行った。午前中の薄雲はすっかり風にはらわれ、真夏の日差しが痛い。

 おさむは、兄夫婦とこども三人、それに、秀子を連れて長い石段をおり、国道下の川に着いた。こどもらは海水パンツだが、秀子は、さすがにパンタロンは履いてない。水着じゃなく半パン姿だ。泳ぐつもりは無いらしい。半パンから出た形のいい脚がやけに白い。皆、もとゑの作った藁草履を履いた。これを履くと苔を踏んでも滑らないので、川遊びの必需品となっていた。

 おさむは、兄のこどもらを水深の浅い流れのたまり場に連れて行き泳がせた。

兄夫婦と秀子は、浅瀬を行きつ戻りつ川の感触を楽しんでいる。

「姉さん、川の水って、ごっつ冷たいんやね」

 秀子のかん高い声が響く。初めて体験する山奥の清流に驚いている様子。こうして、陽が裏山に隠れるまで水遊びに興じた。

 帰り道、司とおさむは酒屋に立ち寄って、日本酒と冷えたビールを買った。

「おさむ、今晩な、秀ちゃん口説いてみるからな」

「きょう、来たばっかりやのに……」

「明日から、二晩つづけて盆おどりあるやろ。そやさか、今晩のうちにな……」

 司は、ビール瓶を抱えて、一段飛ばしに石段を登りながらいった。家には未だ冷蔵庫がないので、ちょっとでも早く次郎蔵谷の冷水に放り込み冷えをキープするためだ。

 おさむは、兄の口からでた〝口説く〟という言葉を、オウム返しに呟いた。それは、通常の段取りを踏んだ、まともなやり方ではないように思われた。司兄い夫婦で、なんとしてでも秀子を説き伏せようという相談ができているのか。いずれにしても強引なことだと思った。

 軽く夕飯を済ませた後、古びた母屋の八畳の間で、大人たちだけの酒の席になった。いうまでもなく、秀子を説得しておさむの嫁にする算段のためだ。この席で、目的を知らないのは当の秀子だけだった。彼女は、冷酒を少しばかり司に注いでもらって上機嫌だ。

 ころはよし、とみた綾子が口火をきった。

「秀ちゃん、あんた、この本宮で暮らしてみいへんか? ええとこやよー」

 おさむは綾子の、いきなりの強烈な先制パンチに度肝を抜かれた。義姉はいつもの歯切れのいい喋りだが、くそまじめな顔をしていた。

「ほんま、ええとこやわー。水もごっついきれいやし、静かやしなぁ」

 秀子は、世話になるし、単なる社交辞令としていった。しかし、正直な感想は、〝えらい山奥や〟という以外なにも感じていなかった。いい終えて、雰囲気が盛り上がらないことに、女特有の直観がはたらいていた。そこで、更に言葉を次いで、

「こんなとこで暮らせたら最高やろ思うわ、……ほんまに」

 そういうと、コップに残った冷酒を飲み干した。彼女にしてみれば、上出来のお世辞のつもりなのだ。そんな秀子の様子を注視していた司が、愈々本題にはいる。

「秀ちゃん!」

 義兄の押し付けるような大きめの声に彼女の直観が、何かがおかしいと感じた。社交辞令をどれだけ並べ立てても、反応が無い。普通なら、〝そうやろう、ええとこやろ〟ぐらいの言葉が、もとゑか松一かが返してくるだろうと踏んでいた。

だが、それがない。のみならず、皆黙したままだ。

「秀ちゃん、実はなぁ、……本気で聞くんやけど、この本宮で暮らしてくれへんか」

 秀子は、義兄の言葉が終わるやいなや、手に持ったコップを乱暴に卓袱台に置いた。さっきから感じていた妙な雰囲気、何かある。陽気に構えていた彼女だったが、急に顔を伏せ、上体を固くした。そのまま、今度は姉の顔を見つめた。

「ちょっと、ちょっと、姉さん。これ、何のことやの?」

 第二弾は、姉の綾子の出番だ。

「秀ちゃん、あのな、急にこんなこというて、あんたビックリさしてゴメンやで。はっきりいうわね。……あんた、おさむさんといっしょになる気ないか?」

「おさむさんと、うちが……」

 秀子は、それだけいうと絶句した。一瞬沈黙。彼女は下を向いたまま微動だにしない。そんな秀子にみんなの視線が集まる。特におさむは、次に秀子がどう行動するかと注視していた。どんな小さな動きも見逃すものかと見つめた。映画などでは、こんな場面で女性がその場から飛び出すシーンがよくある。そうなるか。そうなればほぼ見込みがない。しかし、秀子は動こうとしない。これも、ノーサインか。

 ……やっぱり、オレの思ったとおりだ。

 おさむは、胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。そのとき、沈黙を破って、カチカチに固まった秀子の口から、尖ったような声が出た。

「うち、ここへ連れてきたんは、そんな目的やったん」

 意に反し、彼女の声は非常に小さかった。

「ちがう、ちがうで秀ちゃん。ここへ来るまで、何も知らんかったんや。ほんまやで。来てから、おさむに、たのまれたんや。おれらもビックリや。なぁ、綾子」

 司は、あわててそういって妻に援軍をたのむ。

 秀子は、そんな義兄の言葉に、そんな暇あらへんかったくせに、と思ったが黙っていた。そこで、援軍をたのまれた綾子、

「おさむさんなぁ、秀ちゃんのこと、初めて会うたときから気にかかっとったんやて。今度こっちで大きな仕事出て、なんとか目処ついてきたから、あんたさえ良かったら来てくれへんか、いうことなんよ」

 秀子は、姉の言葉に、やっと顔をあげ、おさむを見た。こんどは、おさむが顔をふせた。

 ……今、何ぞいわなアカン。何でもええさかいうんだ。俯いてる場合か!

 おさむは、熱くなった。握りしめた双の拳が汗でぬれた。顔をあげて秀子を見る。目が合った。よし、いうだけいっておけ。ダメもとじゃ。そう思うと度胸が据わった。

「秀ちゃん、急にこんなこというてビックリしたやろ。すまん。そやけど、オレの本心なんや。父やんも母やんも喜んでくれとるし、もし、その気あったら……」

 秀子は、放心したように、瞬きひとつせずおさむを見ている。彼女は確かに放心していた。今のいままで、夢にも思わなかったことなのだ。

 ……結婚やなんて、あんまり無茶苦茶や。いきなりやもん。姉さんも姉さんや、実の妹やのに、なんで前もっていうてくれへんかったんやろ。きょうここへ来て初めて聞いたなんて嘘や、ようそんなこというわ……。

 そう思ったとき秀子はハッとした。これは、このことは、今俄(にわか)に始まったことやないと思った。これまで、いくつか思いあたることがあった。折に触れ、おさむさんの土木の才能を聞かされたり、人一倍頑張り屋であること、更には、あんな人のお嫁さんになったら幸せやわ。など、姉の家を尋ねるたびに、極自然に聞かされていた。そんなとき、おさむさんって、そうなんや、程度に聞き流していたが、これらがきょうの伏(ふく)線(せん)になっていたに違いない。そう思った。

「秀子さん、もし、来てくれるんやったら、畑仕事らせんでもええさかのお。おさむの面倒だけ見て呉れりゃ充分じゃさか」

 もとゑは、つとめて、やわらかい口調でいった。

 ……すでに、おさむさんの両親にも、きょうのことは前もって相談されていたんやわ。

 秀子は、そう思うと馬鹿らしくなった。

 ……こんな大事なこと、本人に内緒で、まわりの人みんなで相談して。知らなんだんは、うちだけやなんて。

 だが、これじゃうかつに断れない。いずれにしても、即答だけは避けておこうと思った。

「おさむさんのこと、まだ、なんにも知らんから……」

 これは本心だった。本当のことをいうと、おさむさんのいいところを何も知らんといいたかった。それというのも、しっくりこないところが多々あったからだ。都会の青年のような若々しさが無い。変に大人びた顔。それに、酒好きで義兄と大声で口論するのを幾たびか大阪で見ていた。もうひとついえば、太く大きな図体がこわいと感じるときがあった。

「あんまり、田舎やさかのぉ」

 今度は、松一が、言葉の途切れを埋めるようにポツリといった。

「うち、田舎でもどこでもかまへんけど、今ここで……すぐ返事は」

 秀子は、松一に向かっていった。

「秀ちゃん、弟のこと褒めるんはおかしいけど、おさむは、口下手で、若い女の子からみたら、ぱっとせんかもしれんけど、間違いない男や。絶対あんたを泣かせるようなことはせえへんと思う。……どうや、ええ返事きかせてくれへんか」

 秀子は、義兄の声がべっとりとからまってくるように感じた。

 ……これは、容易に逃げられない。

 そんな気がした。いつまでもこんなことが続くと息がつまる。ひとつここは、ナマ返事しておいて、大阪に帰ってから断ったらええ。理由は何とでもいえる。そう心に決めた。そこで、

「うちの両親が、かまへんいうたら……」

 俯いて小さな声でいった。

「ほんまか、秀ちゃん!」

 司と綾子が、殆ど同時にいった。松一ともとゑも、互いに顔を見合わせて頷く。おさむは、半ば、醒めた目で秀子を見ていた。それは、困りはてた横顔だった。本心で承知した顔ではないと思った。心の中で、

 ……これ以上は何もいわんとこ。もう充分や。と、何度も自分にいい聞かせた。

 翌日は、村の青年団が主催する盆踊りの準備があって、一日じゅう家を空けた。どうしても出かけなければならない、というものでもなかったが、昨夜のことで、秀子と顔を合わせるのが嫌だった。司兄い夫婦は、秀子が前向きな返事をしたことで上機嫌だ。それで、その晩の盆踊りも陽気に振る舞っていた。

 おさむは、青年団の詰所に座って、そんな兄夫婦を見ていた。おそらく秀子は、遅かれ早かれ、断ってくるだろうと思った。


 司兄いらが大阪に帰る日が来た。この、わずか三泊四日が、おさむには、台風が通過したように感じられた。

 おさむは、新宮駅まで送った。駅に着くと四時発の天王寺行きがホームに入っていた。半分夜行というやつで、その夜十時過ぎ大阪着の列車だ。

 司は、急いで切符売場へ。おさむは、改札のところまで秀子を送った。もう二度と逢えんかも知れんと思った。

 義姉の綾子は、こどもらにひっぱられて売店で何かを買っている。おさむは、秀子と二人きりになった。

「すまなんだよ。来てくれておおきに」

「……」

 おさむのことばに、秀子は俯いて首を少しだけ横に振った。おさむは、咄嗟にズボンのポケットからお札を一枚取り出し、秀子の胸ポケットにねじこんだ。柔らかい女の感触が指先に伝わる。まさに、一瞬の早技だった。

「少ないけど……」

餞別というより、小遣を渡した感じ。

 秀子は、胸を押さえて、おさむを見上げた。いつもの上目づかいでなく真正面から……。

「秀ちゃん、大阪帰ったら家の人びっくりするやろね。あんたが、おさむさんと一緒になるいうたら」

 ホームを離れた列車のなかで、綾子が妹の顔を覗き込むようにいう。

「絶対、反対する思うわ」

 秀子は、胸ポケットに手をやりながらいった。おさむが入れてくれたお札が、そのままになっている。取り出す機会がなかった。

「あかん、いわれたら、どうする」

 と綾子。

「そしたら、しかたないわ。……そういう約束やもん」

 秀子は、投げ捨てるようにいった。

「あんた、おさむさんのこと、本気やないんちがうの?」

「姉さん、うちにもちょっと考えさしてえな。そんなに、次々いわれたら……うち、つらいわ」

 列車は、小さなトンネルを幾つも抜けながら海岸線を走る。三人のこどもは窓際で寄り添って海を見ている。

「母さん、ここで泳ぎたかったなー」

 長男が母を振り向く。車窓に海水浴場が過る。綾子も窓際に寄る。秀子はその間に、気になっていた胸ポケットからお札を取り出す。手の平に丸めて膝までおろし、そっと指を開いた。なんと、五百円札が一枚。少し皺になって見えた。

 ……なんや、五百円やんか。……こどもみたい。餞別のつもりやったら、もっとようけあっても……。

 だが、馬鹿にしてる、とは思わなかった。改札で向き合った時、〝来てくれて、おおきに〟といった顔が、あまりにも真剣な顔付だったからだ。なんともいえない表情をしていると思った。それで、返す言葉が出なかった。

 ……うち、おさむさんのこと、べつに嫌いやない。けど、好きでもない。まだ、あの人のこと何も知らんのや。

 秀子は、手のなかの五百円札が、なにかムズムズするように感じた。こどもの小遣い銭程度の金額だが、おさむの真剣な顔が目の前にちらついて、気軽に〝もらっとけ〟という気になれない。

 ……どうせ、うち、二度とこっちには来いへんのや。なんでもかまへんやんか。

 そう思った。いや、つとめてそう思うようにした。

「秀ちゃん、弁当どないする?」

 不意に姉の声。列車が駅に停まっていて、ホームで弁当売りの声が飛び交っている。秀子は、手のなかの五百円を姉に差し出す。

「一緒に買うて。……お茶も」


 翌日、大阪のアパートに戻った秀子は、同室のみっちゃんと勤務先の喫茶店へ。店は、難波新歌舞伎座近く。サラリーマンが多く、朝のモーニングサービスは結構忙しい。客の入りは時間によって決まる。朝のサービスが終わるとガタッと暇になる。

 秀子は、客がまばらになった店内で、テーブルを整え、次に込み合うお昼タイムの準備をしながら、本宮にお礼の電話をするべきか迷っていた。当然姉は、無事着いたと連絡している筈だ。普通ならそれだけでいいかも知れないが、今の自分は、いずれ、断るにしても、一応は、親次第で嫁になるといって別れた。やはり、電話一本入れておくべきだと思った。

 本宮の家には未だ電話など無い。それで、国道沿いの雑貨屋に伝言を頼む。もとゑが一日に一度は行く店だ。いつ返事がくるか分からないが、頼んでおけば必ずかかってくる。店とアパートの電話番号を告げたあと、何といったらいいだろう、と考えた。とりあえずは、世話になった礼と、おさむさんに餞別もらったことの礼をいうだけでいい。後のことは、成り行きまかせだ。

 店の勤務は二交代制で、この日は午後六時までだった。六時から深夜までは酒も出す。ほとんどの飲食店はこのやり方だった。そろそろ勤務交代の時間がせまってきたが未だ電話が来ない。きょうはダメかも……。そう思いながら、夜のスタッフとの引継ぎを済ませ、帰り支度をして店を出た時、

「秀ちゃん、電話やで」

 夜勤務のみっちゃんが追いかけてきた。急いで電話口へ。

「おばさん、おおきに。楽しかったわ。ちょっと礼いうとこ思て……おさむさんきょうは未だ盆休みやね。新宮駅で餞別もろたんよ、おばさんから礼いうといて」

 長距離電話は電話代がかかる。それで、要件だけ早口で喋った。伝えたいことはそれだけだった。

「それがなぁ、おさむいうたら、あんたら送りに行って、さっき帰って来てな。えらいしんどかったちゅうて寝とるんや」

 もとゑの声が大きく響く。動揺しているのが分かる。

「おさむさん、あれから新宮で泊まったんですか?」

「それがな、秀ちゃん、……」

 それだけいうと、もとゑの声が、しばらく止まった。話すことをためらっている様子。

「おばさん、なんやの?」

「……あの子なぁ、昨夜駅の待合で寝たんやと。帰りのバス代無いさかに」

 秀子は、急に小さくなったもとゑの声に、何かあったんやと直感。

「バス代?」

 秀子は、まさか、と思った。

「秀ちゃん、おさむに餞別やいうて五百円もろたやろ」

「も、もらいましたけど……」

「それのぉ、……その金あんたにあげたさか、無一文になってしもうて、それで帰りのバス代ないさか、帰れなんだいうとった。そんでな、駅の周りブラブラしとったらな、昼前、請川の知っとる人にうまいこと出会うてのぉ、請川まで乗せてきてもろて、そこから歩いて来たんやと。昨日、あんたら出かける時、あわてて帰りのバス代だけ持って出てったさか、……余分に持って行きゃいいもんをのぉ」

 秀子は、あの五百円がバス代だったことに、滑稽というか、無計画というか、よっぽどわたしに目が眩んでたんやろかと、戸惑いを感じた。

「そっ、そんな、……ホントウなんですか、おばさん」

「あゝ、あんたが五百円もろたんなら、ほんとやろね」

 こんどは、秀子が絶句した。

「もしもし、秀子さん。わしゃ、ついしゃべったったけど、おさむには、このことは誰にもゼッタイ内緒にしといてくれって、口止めされとるさか、知らんふりしとったってな……たのんだよ」


 秀子は、受話器を胸のところで固く握ったまま突っ立っていた。それを見ていたみっちゃんが近寄り、

「秀ちゃん、電話終わったん?」

 心配そうに顔を見る。秀子は、アッといって受話器を元に戻した。

「何か、あったん?」

 同僚の気遣いに秀子は首を横にふった。

 店を出て、アパートへの帰り道、

 ……おさむさん、アホや。帰りのバス代全部わたしのポケットにねじ込んで、どうするんよ、自分家へ帰られへんやんか。

 別れ際のおさむの大きな顔が浮かぶ。決して明るい表情ではないが、感性の鋭いおさむさんのこと、うちが本心から結婚承知したとは思わんかったに違いない。二度と逢われへんかも知れん女に有り金はたいて。昨日の五百円はおさむさんにとって大切なお金やったはずやのに……。

 ……自分の事、考えやんと。

 秀子は、これまで、他人からそんな扱いをされたことがなかった。言い寄ってくる男は全て自分の得になることばっかり考えていた。だが、おさむさんは違う。

 ……自分のこと放っといて、うちのことだけ……。おさむさん、ほんまに、うちのこと好いてくれとるんや。

 秀子は、ここまで考えを進めた時、からだがカッと熱くなるのを感じた。同時に、何か大きなものにすっぽり包まれているような感じがした。言葉ではうまくいい表せない不思議な感情である。

「うち、おさむさんと結婚する!」

 市電の騒音のなかで、口に出して小声で叫んだ。




独立開業



 昭和三十七年の正月は、近年になく暖かだった。その二日め、おさむと秀子は結婚式を挙げた。話がでて、半年も経たぬ間のスピードゴールインだ。

 おさむは、秀子が自分の妻となったことを夢のように感じた。一度は諦めかけていただけに、現実となってみると、その喜び嬉しさもひとしおだった。

 父松一も、母もとゑも、別の意味で大いに喜んでいた。これで、おさむの尻も固まった。決して何処へも行かない。何と心強いことか。そう思って全身で満足した。

 ところが、挙式がすんで一か月も経たないうちに、そんな思いがいっぺんに吹っ飛ぶ事態が起こった。あの大企業、村上建設の工事が突然打ち切りになったのだ。まだまだ追加工事が山ほどある。何故工事が中止されることになったのか、会社からは、現場監督程度の者には何の説明もない。判っているのは、主だった工事が完了したことだけだった。おそらく、後の追加工事で何かがあったのだろうと推測した。会社はどうであれ、おさむにとって大きな驚きだった。

 所帯を持った途端の失業だ。おさむは、これまでの人生で、今回と似たことは経験していた。だが、そのたびに活路を開いてきた。だが、今はオレ独りじゃない。大切な妻が居る。結婚して間もない秀子にはかなりのショックだと思った。

 さすがのおさむも、この予期しない事態に困り果てた。周りをみてもこれという仕事が見当たらない。さて、どうしようかと、数日考えあぐねていた。

 そんなある日、村上建設の総責任者が家に来た。おさむに、関東の現場、日光に是非行ってくれないかという話。彼の人並でない技術力が高く評価されたらしい。待遇は、正式社員として迎えたいということだった。大手企業の社員になれば生活には困らない。おそらく一生安泰だろう。

 ……しかし、それではオレの独立計画はどうなる。同時に、お父(とぉ)お母(かぁ)には何と言えばいい。

 それに、オレには独立開業の夢がある。

 この予想だにしなかった事態の変化に戸惑う日々がつづいた。暫くは〝急場しのぎ〟ということで、申し出を受けようか。せめて、新婚の間だけでも……。

 そんな思いが起こった。所帯を持った早々ブラブラしていることにたえられなかった。それで、結婚後は何処にも行かんといいきった手前、自分だけの決心として、直ぐ帰ると両親にいってみた。ところがである、もとゑはともかく、父松一が声をあげて泣いた。

「行くな! 本宮で居ってくれ。わしらの傍で居ってくれ。嫁も大事にするさか。たのむ、おさむ」

 それは、まさに悲痛な叫びだった。おさむは、そんな父を初めて見た。

 ……これじゃ、ここから出れん。母やんも口には出さんけど心のなかでは、叫びたいほど辛いに違いない。いい話であるが、両親を寂しい谷底に突き落とすことはできん。また、絶対にしたらあかん。

 そう心に決めた。それで、きれいさっぱり関東行はやめた。そう決めた翌日のことである。

「おさむさん、今のうちに車の免許取っといたら」

 失業二日めに秀子が思いがけない提案をした。運転免許は、将来独立して事業するとなると、どうしても必要だ。幸い今なら資金がある。失業者で居るよりは、少しでも前向きに行動しているほうが気が楽である。

 迷いが生じた時は、間髪を入れず何かがあらわれる。それは、彼のこれまでの人生での直感でもあった。そこで、早速新妻の提案にしたがうことにした。

 即実行! これもおさむの得意技の一つだった。 行動開始だ。書類の手筈を整え、即座に約一か月間の予定で、三重県津市の自動車学校に入学。学校近くの安宿から通学することにした。

 経費節減のため客間ではなく、物置部屋を借りた。何しろ長期滞在、出来るだけ安くあげなければならない。それでも、一か月はかなりの入り用だ。丁度この時、幸か不幸か宿のおかみが過労でぶっ倒れた。行商人相手の宿で多忙を極めていたのだ。

 おさむは、一計を思いついた。秀子を呼ぼう。妻と二人この部屋で寝起きして、彼女が宿を手伝う。その分宿賃を安くしてもらおうという考えだ。 早速おかみにいってみた。女中が居なくて難渋していたときだけに、この提案に飛びついてきた。部屋代、食事全部タダでいいからという。嫁いでほやほやの秀子にはすまないと思ったが、意に反し、おさむの言葉に飛び上って喜んだ。

 新婚夫婦にとって、変な形ではあるが、願ってもない甘い日々がつづいた。おさむは、浮き立つような気分で免許取得にまい進した。秀子も、根は世話好きで、客扱いも経験があり、喫茶店の接待とは多少の違いはあるが、難なくやってのけた。二人にとって、この状態が永遠につづいてくれればと思うほど毎日が楽しかった。

 やがて、予定の一か月が過ぎ、無事おさむは免許皆伝となった。このころには、宿のおかみも元の元気を取り戻した。

 ……おかみさん、オレが最高の環境で免許取得するため、わざと過労になってくれたようなもんや。

 この調子やったらこれからも絶対うまく行くと、深い意味もなく思った。

 このときの、わずかな時間が、夫婦の生涯忘れえぬ良き思い出として残った。

 免許を貰って我が家に帰ると、それを待っていたかのように仕事が出た。いや、正確には、夫婦が帰る十日ほど前に、老夫婦のもとに仕事の話が持ち込まれていたのだった。

 現場は、本宮町内の大居という在所。熊野組という土建屋からだった。そこの親方とは面識があった。おさむが村上建設の仕事に就いた当初、オレとこに来てほしかった、と幾たびかいわれたことがあった。しかし、当時は、現場監督という立場を任されていたため、そのうちに、と断りつづけた。その後、熊野組のことは忘れていた。親方は、おさむが失業して免許をとりに行ったと聞きつけて、こんどこそはと尋ねてくれたのだった。

 ……何でもええ。所帯持ったら遊んではおれん。

 二つ返事で世話になることにした。そのうち、独立の機会が訪れるだろうと思った。

 毎日、秀子の作る弁当を持って現場に出た。現場では、おさむの下に四人の人夫が居た。彼は、妻を娶ったことで充実した気分だった。

 ……オレは独りじゃない、オレには、オレを信じてくれる妻がいる。

 終日この思いが続いた。

 熊野組の仕事内容は、彼の目には単調極まりないものであったが、結構気が乗った。秀子のお蔭だと思った。だが、おさむの絶好調をよそに、秀子は、日を追うごとに元気を無くしていた。病気ではないが、これまで、まったく経験のない田舎の生活にうまく適応できないでいた。当初の約束で、畑仕事はしなくてもいい、ということになっていたが、それでも、草取り程度は見よう見まねでやっていた。だが、都会育ちの華奢なからだ、白い肌にはおよそ似合わない。もとゑも、一応は理解しているのだが、頭で分かるのと見える現実とでは、そのギャップをうめるのに苦労して、いってはならない愚痴も時々吐いてしまう。これは、秀子にとって、大きなストレスとなった。疲れて帰ってくる夫には何もいえず、悶々とした日々をおくっていた。

 そんなある日の暮方、おさむが熊野組の親方を連れて帰宅した。今の仕事が一区切りついたので、一杯飲もうということらしい。早速、新居にしている離れで父松一も仲間入りしての酒宴となった。結婚して以来、初来客だ。

 この席で、秀子にとって実に、天のたすけともいえる話が出た。

「秀子さん、ホルモンの店やってみる気ないか?」

 思いがけない親方の言葉。彼女はきょとんとしておさむの顔を見た。おさむも、一瞬、杯を持ったまま動きが止まった。彼には、初めて耳にする親方の言葉だった。

 親方は、全くの思いつきでいったのでなく、秀子に初めて会って以来考えていたという。それというのも、以前、親方の奥さんが店を開いていて、その時は結構繁盛していたが、奥さんが何かの事情で店を閉めることになり、そのときの道具一式が揃っているので勿体なく、誰か適当な人を探していたということだ。その白羽の矢が秀子だったというわけ。

 親方は、黙っているおさむと秀子に、酒の回った赤ら顔で喋った。

「もし、その気じゃったら、おれ、三里で前の店借りたるさか、どうや、奥さん」

「秀ちゃん、ええこっちゃないか。三里やったらここからそう遠くもないし、人も多い。他にやっとるとこもないしのぉ」

 松一が、膝をのりだした。

 おさむは、妻の顔を見た。さて、どう出るか注視した。

「もし、やる気やったらコツおしえたるぞ」

 親方がそういった時、秀子の表情がパッと明るくなった。だが、おさむとしては、もろ手をあげて大賛成という気になれなかった。ホルモン屋といえば酒飲み相手だ。秀子をそんな連中の前に出したくないと思った。

 その夜、秀子は夫の大きな胸に手を置いて、はじめて日頃の辛い気持ちを打ち明けた。おさむは、このところ妻が落ち込んでいるようだとは感じていた。いっぺんに生活環境が変わったせいだろう。誰にでもある極一般的なことだと考えていた。だが、こうして、すがりつくように話されては、これ以上辛抱せえとはいえなかった。そこで、

「そんなら、お前独りじゃのうて、父(とぉ)やんにも来てもろて、一緒にホルモン屋やってみるか……」

 秀子は、おさむのいうことに何も返事をしなかったが、まんざらでもない様子だ。

 それを見たおさむは、あゝ、その気あるんやな、と思った。

 おさむは、妻の細いからだを引き寄せ、都会風の長くしなやかな髪を撫でながら、父やんと一緒なら心配要らんやろ。それに、妹の祥子も事情があって会社を辞めて家に居るし、三人でやれば何とかなるんじゃないかと思った。それで、念押しに、

「どうや、やってみるか。気分転換や?」

 と、妻の顔を覗きこんだ。秀子は、

「あんたさえ、かまへんかったら……やってもいいけど」

と、囁くようにいった。

 こちらの決心がつくと、熊野組の親方は急いで準備万端整えてくれた。場所は、三里地区の竹の本という在所。国道沿いで、店の前を三越川が流れていた。世話してくれた店は、大家のおばさんが同じ建屋の奥に住み、道路に面した表側半分だけ借りるというもので、同じ屋根の下に大家と店子が暮らすという形であった。秀子は、店が一軒家でないことに幾らか不満はあったが、これで、これまでの悶々とした生活から解放されることで充分満足した。

 いくら小さな店でも、普通の民家を店舗に改造となると大変で、保健所の許可がおりて開店したのが盆前であった。果たしてズブの素人が始める店にお客が来てくれるだろうか。店を開けるまで不安があった。

 ところが、開店してビックリ、大変な人気なのだ。丁度盆休みだったこと、また、この地域に同じ商売仲間が皆無だったことなどが幸いして、連日、明け方近くまで客が絶えなかった。

 本宮町内で唯一軒のホルモン屋。のみならず、都会育ちの若奥さんが店を開いたということで、益々人気が出た。まずは、大当たり。

 人生、波に乗った時は、とことん追い風が吹くもので、ある日、客の一人が、ガソリンスタンドもせえへんかと提案してきた。

「ここは国道沿いで立地条件も抜群や。わしや、田辺の油問屋の者やが、その気あったら営業できるように段取りするから」

 という話。ホルモンの客は夜に集中する。ガソリンを売るのは昼間だけだ。

「おまえ、父やんと祥子とでやるんやったらやったらええ。オレは土方行くさか手伝えんけど、それでええか。オレも、出来るだけ手助けはするさか」

 おさむの一言でこの件が決まった。丁度店横に十坪ほどの空き地があった。早速そこを借り受け、ポータブルの給油機を設置した。秀子は、元々客商売が性に合っているのか、終日喜んで商売に没頭した。

 毎日、昼過ぎのバスで本宮から出勤。午後からせっせと、肉をさばき夜に備える。祥子も面白くてたまらんといった様子だ。みんなにとって何よりも元気が出たのは、毎日現金が拝めることだった。

 ……これで、独立資金の足しになる。

 おさむは、店の繁盛具合を見るにつけ、そう胸算用した。

 夏が過ぎ、秋にかかった。季節のせいか、物珍しさが薄らいだのか、客足が減った。それでも、夜半まで客が絶えなかった。丁度この時期、下向大橋架橋工事で、渡りのトビ職人用飯場が近くに建ったため、そこから職人連中がやってきた。

 大阪弁で接待する秀子に、職人たちのなかには、地元の馴染み客に混じって、

「あんさん、大阪弁やな。オレも大阪や。気に入った……毎晩来るで」

 などと調子のいい客も居た。こんな具合で開店一年めは成功裡に幕を閉じた。

 年が明けて、春を迎えた。

 何もかもすこぶる順調に推移した。


 よく、順風満帆というが、いつまでも追い風が吹くという保証は無い。調子がいいときほど、何かが起こるのが世の常でもあるようだ。

 山野を渡る風が温み、桜が満開を迎えた四月のある日、突然、順風だった風向きが変わった。おさむの本業としていた熊野組が倒産したのである。親切だった親方が借金逃れで行方不明になった。 おさむの仕事では頼りになる親方であり、秀子の店にとっては大恩人だった親方の逐電。ホルモン店は順調だったので直接の影響は無かったものの、おさむは一瞬にして仕事を失った。

 ……土木の事業は順調やったのに、何が原因やろか。まさか夜逃げするようには見えなんだのに。

 親方の笑顔を思い起こした。もっとも、人夫頭といえども雇われ人にすぎない。経営状態にまで首を突っ込むことはできなかった。

「相場か何かに手を出したんと違うやろか、……うち、奥さんからそんな話ちらっと聞いたことあるわ」

 秀子は、そういって表情を暗くした。店を続けていくうえで独り歩きできるようになったとはいえ、ホルモンのいろはを教えてくれた大将の奥さんが気の毒でならない。

「この店の道具や食器全部借物やのに、誰にかえしたらええんやろ」

 秀子をはじめ、松一や祥子もショックを隠し切れない。

「しかたないわだ、何処行ったか分からんのやさか」

 突然失職したおさむは、終日離れ屋に籠った。秀子に店のホルモンを持って来させ、独りで冷酒を呑んだ。店は休業するわけにはいかず、その日も昼間はガソリン販売や、午後からはいつも通り夜に備えての仕込みで多忙を極めたが、おさむは、全く知らぬ存ぜぬで、本宮の離れ屋から一歩も外に出なかった。

 夕方からは雨になった。春の嵐というやつで台風のような風雨。それで、折角準備したのに客が来ない。仕方なく店を閉めた。

「久しぶりやね、あんたとゆっくりご飯たべるの」

 普段は、店に客が居ると落ち着いて食事もできない。店を横目で伺いながらお茶漬をかきこむのが精一杯。勿論、今晩のように夫婦一緒に食べるなど、ほとんどないことだった。

 妻とさしむかい、食卓についたおさむは、

「秀子、オレなぁ、この際……土建屋の看板揚げよ思うんやけど、どうや」

 落ち着いた低い声でいった。もっとも、彼の声および話し方は、いつ、どんな場合でも同じ調子だったが、今晩の彼には力強さがあった。

 秀子は、あゝ、やっぱりと思った。親方が行方不明になってからのおさむは、離れ屋に閉じこもり、思案を重ねていた。その様子から、彼女は、何かあると感じていた。

 独立開業は、夫婦の切なる願い、目標であった。いつか、そういう時が来る筈と確信を持っていた。ただ、その機がいつなのか、そこまでは見当がつかずに居た。まさかそれが、親方の逐電という形で実現するとは夢想だにしなかった。

 何かが新しく始まろうとするときや、反対に、終わりをつげるときは、そのまわりに何らかの変化が起こる。それは、予測や雰囲気で予知できるものではなく、人知を超えた、得体の知れない世界からのメッセージとなって現れるようだ。熊野組の倒産……このことによっておさむの前に、思いもかけぬ形で夢の扉が開かれた。


 順調に事業を続けていた事業所が、本職以外の原因で倒産に追い込まれた時、経営者が交代したりして事業を続行する場合が多い。それは、事業そのものの崩壊ではなく、単なる事故にほかならないからである。

 熊野組の場合も、親方本人が関係する個人的な事故であって、事業そのものにはまったく関係ないことだった。これは、積荷を満載して順調に航海しているとき、何かのはずみで船長が海に転落、行方不明になったのと同じことだった。それで、舵取りを失った船が途方に暮れているという状況だ。やりかけの工事や人夫の生活の面倒を、誰かが見なければならない。

 おさむは、望んだことではなかったが、一応の整理も兼ねて、自分が看板を掲げて対処してみよう、いや、そうしなければいけないと考えを固めた。

「親方にわるいような気するけど、あんたがそう決めたんなら、うち、大賛成や」

 おさむは、計画の全てを秀子に説明した。まず第一に、オレの看板を揚げる。となると、まずは小規模でも事務所を設立しなければならない。それで、このホルモン店をたたんで事務所に改造する。次に、両親を本宮から呼び寄せ一緒に暮らす。そのために、大家さんに頼んで一間でも二間でも、老夫婦のための部屋を確保する。現状は、店以外に三畳一間だけ。これでは身動きできない。

 おさむは、村上建設から日光赴任の話が出た折、生まれて初めて父の涙を見た。それは、大きな驚きであり、衝撃だった。それで、

 ……オレが独立するときは、必ず両親に来てもらおう。

 そう、心に決めていた。そうすることが自分に課せられた務めだと思った。

「ホルモン、やめるん?」

 秀子は、折角調子に乗ってきたのに……と残念に思った。だが、夫の計画を聞いて、とても続けられそうもないと断念した。

 新事業の計画は、他所から人夫を集めて住まわせ、その世話を妻にやらせるつもりだったが、これまでの彼の経験から、人夫は地元で雇い、オレ流の技術を伝授したほうが、仕事の効率が上がると考えを変えた。

 熊野組が手掛けていた現場、及び発注業者は、おさむが、

「これからのことは、オレが全責任持つから心配するな」

 と明言したことで安堵した。その根拠は、発注元は行政関係が多くあり確実で、巷の客も業務内容は確かなところだったため、やることさえ責任を持って遂行すれば、ゆくゆくは末広がりになる算段がついていた。まさに、好機到来と捉えていた。

「慣れんことで、初めはえらいやろけど、夜っぴとホルモンするより楽やで」

「ガソリンは、どうするん?」

「父やんと祥子が居るさか大丈夫やろ。昼の間だけやさかな」

 おさむは、不思議に自分の思い通りにことが運ぶと感じていた。

 なかでも、心に引っかかっていた妻の飲み客相手のホルモン屋……これを辞めることが嬉しかった。

 彼としては、自慢の妻、それも未だ新婚に近い彼女に、酔客相手をさせたくなかった。成り行きとはいえ、ホルモン店開業に一応は同意したものの、もうその必要が無くなったことに安堵した。 夢想だにしなかった親方の逐電騒ぎではあったが、おそらく、一生あるかどうか分からない大チャンスと受けとめていた。

 そうと決まれば、やりかけの現場も数箇所あり、早急に体制を整えることが急務となり、事業再開にとりかかった。事務担当者として、秀子と祥子を据え、かねて取引のあった地方の大手銀行勤務経験者で経理に明るい人材をスカウトした。

 ……愈々、オレの看板揚げるときが来た。

 おさむの脳裏に、かつて村人から、

「あんたら、牛や馬みたいに我が子を夜なかに働かすんかえ」

 と真正面から浴びせられた衝撃的なことばに我を忘れ、激怒し、おさむのふとんの上で肩を震わせ泣き叫んでいた母の姿が浮かんだ。『あゝ、悔しい!』を連発していた母の声が、昨日のことのように耳の奥で蘇った。

 ……必ず、成功したる!

 そんな母を目の当たりにして、小さな心に深く刻み込んだ決意の塊。

 ……今、ようやく。


 事務所や部屋を借りる交渉はうまくいった。独り暮らしの大家さんが離れ家に移ってくれることになった。それで、家一軒丸ごと借りることができた。両親が来ても充分の広さである。大工が入って、ホルモンの店が事務所に変わり、国道に面した外壁に念願の看板を設置した。

『総合建設業 中岸組』

 白地に黒の文字が人目をひいた。おりから手伝いに来ていたもとゑは、真新らしい看板を見上げて目頭を押さえた。涙が止まらなかったのだ。おさむは、そんな母の姿を事務所の窓ごしに見ていた。

 ……母やん、喜んでくれとる。

 物心ついたころから、母の喜ぶ顔を見るのが唯一のたのしみだった。それで、薪割など、賃仕事で得た小銭をそっくり母にわたした。あるいは、恥ずかしさを我慢して、両親の好きなタバコの吸殻拾いもした。すべて、親の喜ぶ顔を見たかったからである。

 ……今度は、でっかい物を母やんにわたすことができた。

 

 事務所の壁には大きな黒板が張り付いている。仕事のスケジュール表だ。

 中山組、砂防工事。

 柿本組、敷地埋め立て。

 松本組、護岸工事、等々。

 日付の下に、仕事先の業者名が並ぶ。

 決して達筆とはいえないが、几帳面に書かれたそれらの白いチョークの文字が黒い板のうえで力強く光っていた。

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ど根性中岸おさむ土方半生記改訂版 よしいふみと @buckfuni

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