第3話 僕には妊娠している不遇の嫁がいるそうで

「ミレルちゃん、どうしたのその顔!」


 景色を満喫している僕の耳に、デボラおばさんの叫ぶような声が届いた。


「これは、その、教会の前の石階段で転んでしまって……」


「そうなの、気を付けないとダメよー 女の子なんだから。最近、あそこの階段で転ぶ子が多いみたいだし」


 デボラおばさんと若い女性の会話が聞こえてくる。


 誰か来たっぽいな。


 僕は軽く顔を洗って室内へと戻った。

 キッチンにデボラおばさんの姿はなく、声は玄関の方から聞こえる。


「あ、坊ちゃん、ミレルちゃんが来てるわよ? 坊ちゃんと二人で話がしたいらしいの」


 デボラおばさんはそう言って、またいやらしい笑顔をこちらへ向けてくる。


 話の中身が気になりますってめっちゃ顔に出てますよ?


 とりあえず僕はそのミレルという女性に視線を向け、まずその状態に驚いた。


 目に付くのは顔に痣や炎症、そして手足にも包帯が巻かれ、他の傷や怪我があることが窺えた。古いものも新しいものもあるように見える。

 親の美容整形外科の手伝いで、そういった患者を良く見てきたからすぐに分かった。

 これは階段から落ちて出来る怪我とは明らかに異なる。

 偶然出来た怪我ではなく、故意に付けた怪我だ。

 それはつまり誰かに暴行を受けたことを表している。

 しかも新しい傷はごく最近。

 数日以内に行われたことを。

 女性がこういった暴行を受けている場合は確実に……

 これはツラいな……成長期は過ぎてそうだからまだ良いけど、それでも変形などがあった場合は早めに対処しないと。

 しかし、女性にこんなことをするやつは本当に許せない。

 これだけの怪我だ、相手は楽しんで暴行している系の最低なヤツに違いない。

 親の病院で、女性たちのその後も色々見てきたから、余計に腹が立つ。

 早くケアしないと。


 僕はそんなやりきれない予想をした後、もう一度ミレルさんを見て気付いた……いや、気付いてしまった。


 昨夜その顔を見たことを。


 輪郭がボンヤリしていると思ったのは怪我で腫れていたりしたからか……じゃなくって、それはつまり僕を殺そうとしてる人間ってことでしょ!?

 え? 僕逃げた方が良いやつ?

 似たような顔の別人であって欲しいな!


 動揺して僕の視線が泳いでいく。

 デボラおばさんを見たりミレルさんを見たり……


 あ、デボラおばさんの足元に硬そうなカボチャが置いてあるね……確定じゃん!


「じゃあ、邪魔なおばちゃんは席を外しとくからね。朝食余分に作ったから二人で食べると良いわ、うん、それが良いわ!」


 名案を思い付いたとばかりに、デボラおばさんは早口にまくし立てて、ミレルさんの横を通って玄関の扉をくぐってしまう。


 しまった!

 でも、止める理由が思い付かない!


 僕が逡巡していると、デボラおばさんが扉を出たところで振り返ってくれた。


 お!? これは異様な空気に気が付いてくれたか??


「誰も近付かないように言っておくから、ごゆっくり」


 デボラおばさんはイヤらしい笑顔を僕に向けてから、扉を閉じた。


 そんなことだろうと思った!

 絶対外で聞き耳立てる気だろ!


 僕はデボラおばさんに向けて伸ばしかけていた腕を下ろし、ミレルさんに向き直る。


 こうなったら話し合うしかない。

 デボラおばさんが置いていってしまったカボチャは見ないようにして、僕は朝食が用意されたダイニングテーブルへ座る。


「とりあえず、座ったら?」


 ミレルさんは僕を感情の籠もらない瞳で見つめながらも、言葉に素直に従って僕の向かいに座った。


「話というのは昨日のことかな?」


 僕がそう言った瞬間、ミレルさんの表情が険しくなり、彼女の中に殺意が湧き上がってきているのが、見た目で分かった。

 僕は内心冷や汗をかきながら、努めて冷静さを装って両手を挙げた。


「昨日も言ったように僕には記憶が無いから、説明してくれると助かるんだけど……?」


 殺意が少し揺れた後、視線にこめた力と共に徐々に弱くなっていった。


「そうね、その話をしに来たの。わたしが誰であなたが何者かを話に。デボラさんには話したの?」


 固い声だ。ムリもないけど。

 口調からするとそれなりに付き合いのあった女の子なのだろう。

 完全な赤の他人では無さそうだ。


「言ってないよ。不思議そうにしていたけど誤魔化しておいた。デボラおばさんに知られると面倒そうだったから……」


 なるほど、とミレルさんは納得した。

 デボラおばさんに知られると面倒なのは間違いじゃないのか……とりあえず僕はミレルさんと穏便に話しをしようと覚悟を決めた。


「じゃあまずは自己紹介をしておくわ。わたしはミレル、あなたの妻よ」


 苦々しく言葉を吐き出すミレルさん。


 はぁっ?!

 つま?

 刺身の横に置くアレ?

 ではないから、それはつまり嫁さん?

 配偶者?

 生計を一とする者と言うことですか?

 いやいや、なんかおかしいでしょ?

 自分が妻であることを告げるのに、なんでそんなに苦虫を噛みつぶしたような顔なんですか?

 しかも僕はその妻に殺されかけてるわけだし!!


「昨日はあなたとケンカをしてついカッとなって、ね?」


 僕が驚きまくってることを察してか、ミレルさんが理由を聞かせてくれた。


 昨日のアレは、ついカッとなって殺すというレベルじゃなかったと思うんだけど……?

 昨日は感情的になり過ぎたってこと?

 出てっちゃったし、夫婦なのに一緒に住んでいないの?


 次々疑問が湧いてくるので、僕はそのまま聞いてみた。


「そうなのよ、昨日は感情的になり過ぎて……ごめんなさい。それと、一緒に住んでいないのはまだ準備が整ってないからよ。ほら? ベッドもシングルしか無いでしょ?」


 渡りに船とばかりに説明を追加してくる。


 確かにシングルしか……っていうか、一緒に寝るの!?

 いやそりゃ夫婦ならそうなのか?

 いやでも僕は、ほら、DTだし?


「まあ、でも、お腹にはもう子供もいるんだけどね……」


 恥ずかしいのか俯いてそう言うミレルさん。


 待って!

 DTの僕は、嫁さんをもう妊娠させてるの?!

 処女懐胎ですか?

 世界有数の宗教の教祖が生まれてくるのですか?


「でも、そうね、こんなことになってしまったから、一緒に住みましょう? 明日からわたしがご飯も作るから、デボラさんにも言っておくわ」


 僕の困惑はスルーして話を進めるミレルさん。


 あれれー?

 口を挟む余地がない感じにどんどん話が進んでいくんだけどー


「良いじゃない夫婦なんだし。それよりもご飯まだなら食べたら? その間にあなたのこととか色々お話するから」


 こんなの困惑するばかりで答えが出せないよ僕には……

 いやでも、子供がいるって言うなら一緒に住むことの方が自然な気がするし──大体僕には『こいつ』の記憶が無いんだから、提案に乗るしかない。


「よし、分かった……いろいろ気になるところはあるけど、教えてもらわないといけないこと多いし、一緒に住んでいた方がたぶん都合が良い気がするから、提案通りにするよ。話の続きは朝ご飯食べながらにしよう。ミレルさんも一緒に食べる?」


「いえ、わたしは家で食べてきたからいらないわ。それと、その『ミレルさん』って、夫婦なんだからミレルって呼んでくれたら良いのよ?」


 そう言って微笑んでくれるミレルさん。

 笑顔が少しぎこちないけど、傷が痛むのかな?


 よし、言われた通りミレルと呼ぶことにしよう。

 子供もいるとなるとちゃんと夫婦にならないとダメだろうし、名前で呼んでいれば僕の中にも夫婦観が生まれるかも知れない。


 そういえば、笑顔は可愛いんだから、顰め面なのは勿体ないな。


「じゃあ、ミレル。僕は朝食を頂くね」


 提案通りに名前で呼んでみた。


「え、ええ……どうぞ……」


 心なしかミレルの笑顔が更に引きつった気がする。

 大丈夫かな……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る