序文

序文

第二版


 理性活動に関する研究は、科学が成功するか失敗するかを判断する試金石である。目的を果たした後にしばしば違えた道を戻ることがある。これはむしろ歓迎するべきだ。固執してはいけない。同様に様々な仲間と一致した意見を構成することができない時もあるだろう。そのような科学は確実な方法ではない。無駄のない道とは遙か遠いモノである。手探りで見つけ出すことになり無駄に時間を浪費するであろう。既に示されていた考えに含まれていた可能性すらある。



 その理論は既にアリストテレスが確実に樹立させ、一歩も後退することはなかった。誰一人として排除できなかった。あるいは改良して科学を安定させることは優雅なこととすら考えられる。滑稽なことに、今まで誰一人も前へ進むことができなかった事実はあらゆる完璧な名声を閉め出した。なぜならいくつかの新しい思想が、部分的にも認識の起源や力(想像力や分別)を部分的に形而上学の認識、あるいは様々な信念の多様性を題材とした(理想主義、懐疑主義など)部分的な人類学の偏見(一服盛られて解毒剤を押し込むような)は科学特有の性質を知らないことが原因である。科学の境界は互いに歪みを増し噛み合わない。お互い一歩も譲らず、論理的に正確な学問であるはずの科学は周囲と調和しようとしない(それが予め規定されているのか、経験的なモノか否かを問わない。また、我々の心を都合良く障害から目をそらせる)。これについて厳密な証明をしようではないか。



 まず、その論理学は良い感じに成功している。限られた範囲であれば認識において有用である。論理学の形式に囚われるなら、理性もそれに囚われた道を辿るしかない。しかしこれは大抵の場合、的外れで正しい道を辿るには困難を極める。だからこの「学」の研究は、予備教育であると認識することが前提となる。知識について語る時も客観的に正しい情報を得る必要がある。



 さて、この学問を上手に使うには、まず先天的に認識が可能であると言う(他で既に与えられた)概念だと言うことを考慮しなければならない。理性の理論的と認識と現実的な認識の二つである。両方とも純粋な部分が多かれ少なかれ含まれている。ここで言う純粋とは先天的に与えられた部分のみである。他の部分は害悪で毒ですらある。経済に例えるなら、予算を無視して、後でそのツケを泣きながら払うことである。



 数学と物理学は論理的である。数学は完全に純粋であり、物理学は部分的に純粋である。部分的にということは、理性以外の情報源があるということである。



 数学とは人類科学史の初期から、称賛に値するギリシャ人が確固とした道を開いてきた。しかし論理学は単純である。なぜなら自身の正当性への道を自分で舗装すれば良いからである。逆に数学(特にエジプト人にとって)は長い間手探りで一歩ずつ進歩をしていった。そこに幸運な変革が生じた。今までの鈍い歩みが一気に加速し、無限の可能性を秘めることが判明したのだ。これは喜望峰の発見よりも幸運であった。だが、この知的革命における立て役者の名は残っていない。ディオゲネス・ラエルティウスが記した資料によると、幾何学的証明の必須要素でない部分にすら今までにない重要な発想の発露があるのである。これを忘れてはならない。初めて二等辺三角形の証明をした人(タレスと呼ばれていたかも知れない)が数学の道に明かりを灯したのだ。彼はその図で発見した概念を用いてその先を見つけられないことを理解した。発見した事実からではなく、発見した自分の先天的な考え方こそが価値のあることだと気付いたのである。



 自然科学の進歩は遅々として進まなかった。ヴェルラムのベーコンの先進的な考えが登場した時はつい一世紀半前である。やはり、加速度的に進歩をする軌道に乗った数学と同様に革命的な変革が必要だった。ここで、私は経験的な実理に基づいて自然科学を考察する。



 ガリレオが斜面に玉を転がした時、トリチェリが水柱の重さを予め量っていた時、シュタールが金属の酸化還元反応を見つけた時などである(*)。自然科学者に示された道標は、己が見ている実理を継続して守り、自然という法律に従い、なおかつその自然に己の問いの答えを求めるということである。さもなくば、自分の分別が自然に翻弄されてしまうのである。なぜなら、実験は自然法則という法律が絶対である。実験者は先生に手取り足取り教わる生徒ではなく、一人前の裁判官のように自然という証人から真実を聞き出すのである。物理学でさえ、その思考の革命が切り込んできた。理性とは自然から学ぶことができ、そしてそれ以外からは学べない(他から得られるモノは紛い物)ということである。このように自然科学は十数世紀もの間、素手の手探りから解放されたのである。



(*:私は実験方法の歴史の糸を正確には追っていない。なにしろ、何が始まりなのかが分かっていないからだ)



 一方、形而上学は孤立した理性認識である。これは経験による学習を一切排除し、概念のみ(数学とは違い、直観を応用しない)を用いて己自身を理性の生徒とする。この道程はかつては安全でなかった。形而上学は老練で他の学問全てが野蛮という奈落に飲み込まれても残る。なぜなら(推定されることだが)形而上学が最も醜い道を歩まされて訓練されたからである。先天的な理解すら詰んでいるのだ。おびただしい回数、道を引き返さなければならない。なぜなら、我らが求めるモノはその先にないからである。また、形而上学者の意見は満場一致をしていない。むしろ戦場と言っても過言ではない。この戦場はもとより研鑽した力を戦士が振るう闘技場のようにすら思える。戦士は打ち立てた勝利を長く保持することはできなかった。従って、形而上学の議論は最低の概念を素手で手探りするのようなモノであったことに違いはない。



 形而上学がなぜ学問として確固とした道程を歩めなかった理由は何か。不可能なのか。自然がこの重大な理性の追跡を邪魔する理由はなぜか。更に、我々の理性を骨抜きにして、好奇心という囮を掲げて時間稼ぎをするのかも知れない。もしかしたら我々の歩んできた道は間違いだったかも知れない。かつての道が間違っているのなら、どの道が正しいのか教えて欲しいとすら思わないか。



 そこで私は革新的な進歩を遂げた数学と自然科学に倣って、形而上学にこの革命を適用したい。実験的に真似るのだ。今まで全ての認識は対象に従って判断しなければならないと考えられていた。しかし、先天的に認識しようという試みで、今まで威厳のある前提を破壊することに成功した。これを形而上学で試してみよう。対象が認識を規定するのではなく、先天的に我々が持っている認識を対象に向けるのだ。これは非常に良く調和する。これはコペルニクス的発想だ。天体が己の周りを回っているのではない。星々は静止している。我々が星々の周囲を回るのである。形而上学においても同様の方法を試みて、対象と直観の関係を見直すことができる。もし直観が対象から導き出されるとしたら、私は先天的に理解することはできない。しかし、対象(感覚の対象)が我々の直観に従うならば、あらゆる問題が一気に解決するであろう。しかし、私はこの概念に留まってはいられない。この認識を概念の対象として確定するならば、私は先天的な認識をもう少し必要とする。対象と経験について考えよう。対象(与えられた対象)は経験によって認識されることは旧来の考え方である。経験はそれ自体が認識の一種の方法であると考えるのだ。しかし、もっと簡単で確実な方法がある。私が前提とする魂のルールは対象が先天的であることを要求する。そうすれば、簡単に全ての対象と認識と経験の問題が解決する。ある対象は必然的に理性によって(理性が関わる以上)のみ認識される。しかし同時に経験からのみでは得られない思考(どの道、考える時が来るから)は我々が取り入れた素晴らしく輝く試金石である(*)。



(*:この方法は自然主義者の手法を真似した。実験によって正否が決することを純粋理性の要素として追求する。さて、純粋理性の命題を調べるには(自然科学のように)実験をする必要はない。むしろ不可能である。対象が経験と認識の公理を先天的に受け入れることは可能であり好都合である。研ぎ澄まされた感覚が経験の限界を超えて二つの異なる側面から至るのである。もし我々が対象を二つの視点から考えると、私が主張する純粋理性の原則に合致する。しかし、一つの視点からだとこの試みは失敗し瓦解する)



 この独自の試みは成功を収めた。形而上学は第一の学問として確実な一歩を踏んだ。つまり先天的な概念を対象とすることは確実に相応しいのである。この思考の変化は先天的な知識の可能性の大部分を説明できる。更に言えば、経験の対象が自然の真髄を先天的に暗示することを意味する。これは従来の方法では不可能であった。しかし、我々が形而上学の第一の学問は演繹的に不協和音を奏でる場合がある。ここで第二の学問を扱うことは全体の矛盾を解く鍵となる。経験の限界を超えることこそが形而上学の本領であり、最も重要な課題である。しかしここでは、先天的な理性認識は、対象に関係する。モノは確かに存在するかも知れないが、認識できるかどうかは別問題である。我々が経験と現象の限界を超えるには、無条件を強いる。無条件とはあらゆる権利を放棄して順序よく従うモノである。そこで我々の経験的知識が対象を規定していると仮定すると、無条件は矛盾無しには考えることができない。一方、対象よりも我々の概念の方が先であり、概念に従うというならば矛盾は解消される。その結果、無条件とは我々が知っている(我々に与えられる)限り、モノは知り得ない。従って、最初に想定したことは成立するのだ(*)。さて、推論的理性はこの感覚能力の限界の進歩を一切否定する。それでも実践的な知識の事実の中で無条件が限界を超えられるかどうかという問いがある。形而上学は全ての経験の限界を超えて先天的に限界の先へ到達できる可能性がある。推論的理性は今まで占めていた場所を明け渡さねばならない。少なくとも今まで耕してきた場所に敬意を払い退いて貰おう。そして我々が理性を実践的に埋めるのだ(**)。



(*:この純粋理性の実験は化学者の実験に似ている。還元や合成と呼ばれる実験だ。形而上学を認識する純粋認識には先天的に全く異なる二つの要素がある。弁証論は二つの対象に縁を持たせ、満場一致でこの区別を真だと言う)


(**:天体の運行法則はコペルニクスが仮説として示し、目に見えない力(ニュートンの引力)を証明した。不条理でも客観的事実に基づいた観察に従わなければこの発見はなかったであろう。この序文では仮説として示しておくが、空間と時間という概念の本質は想定的というより必然的である。この手の論証のテストはいつも想定的である)



 従来の形而上学の方法を変えることこそが思索的純粋理性批判の目的である。これは幾何学者や自然科学者を見本とした大変革である。本書は純粋理性批判の方法を論ずるのであって、構造自体を論ずる訳ではない。とはいえ、構造と内外の輪郭はハッキリさせておくべきだろう。思索的純粋理性の独特な利点は形而上学が持つ課題を克服する。形而上学の構造を徹底的に要約し、事前に分割する。第一に、対象を先天的に認識するためには己を確立しておかねばならない。第二に、純粋理性認識の原則は既存の形而上学の単元とは完全に独立している(論理学の形態だけは除外する)この批判によってこの学問は安全な道を歩むことができる。知識に関する分野は全体的に照らされ、後の世にも便利な道具として使われることは間違いない。だからこそ、形而上学は基礎科学と見事に結びついていると言わねばならない。すべきことが残っている限り、それは何もなされていないと同等である。



 しかし人は問うかも知れない。形而上学を後世の子孫まで批評によって精製され、永続的に留め置くことがどれほど重要であろうかと。本稿を読み終えた者は、その有用性に消極的になるかも知れない。しかし、その消極的な態度こそが思索的理性の限界と己の限界を超えるこの学問の第一の利点である。しかし、思索的理性がその限界を超えようとすると、そこに適用される原理は我々の行動を延長するように見えるが、実際は縮小させるのである。そこに注意すれば、消極的効果が積極的効果へと変化する。この感性に属する限界を広めるには、純粋(実践的)理性の使用すら脅迫して押し退けかねないのである。従って、この批判は思索的理性に制限を与えることに消極的である。しかし、同時に理性の障害を破棄し取り除く積極的な面もあり有用である。それゆえ、純粋理性に実践的(道徳的)な使い道を与える。そして感性の限界を超えて拡大させる。しかし思索的理性は自己矛盾に陥ることがあるので、その対処法を確保しておく必要がある。この批判の積極的恩恵を拒否することは、市民を暴力から守る警察を不要と言い張ることと同じである。論点は空間と時間の直観、すなわち対象への感覚的な認識の条件である。我々は理性概念を持たないから、結果的に対象を認識する手引きが一切ない。我々が認識できるモノは物としての対象ではなく、感性で見分けられる部品だけである。理性は思索的認識が経験の対象のみであると証明できる。ここで注意しなくてはならないことは、直ちに対象を認識できなかったとしても、少なくとも思考できる(*)ということを認める留保があることである。そうでなければ、写像として現れるモノがない状態で現象が起きるという不合理な命題が続くからである。さて、我々の批判は経験としての対象とモノ自体が同じか区別してきた。ここでは逆を仮定しよう。その因果関係は自然法則から導き出せず、害悪でしかない。だから本質、例えば人間の魂など個人の尊厳と、自然の必要性は同時に成り立たない。自由であると言いながら自由でないという矛盾に陥る。私の文章では、魂を同じ意味(対象)で用いようとした。予め批判をしておかないと混乱を招くであろう。ここで二通りの観察をしてみよう。第一に、理性の概念の演繹が正しいならば、経験によって対象の認識は証明される。第二に、自然法則の因果律により現象(目に見える)は従い、自由はない。経験ならば自由であり、自然法則に従わないならば自由であるとも考えられる。こう考えれば矛盾は生じない。ならば私は魂を思索的理性(少なくとも経験的観測)では認識できない。従って、感覚世界に影響を与得る存在は必ず独立して存在しない。そのような存在を認めるなら、私は時間を規定すること認められない(そのような考えは劣悪であり、不可能である)。だが、自由を認識できなくても、想像することはできる。だから自由の概念は矛盾を含まない。それは、我々の批判が二種類(「感性的」「知的」)に区別さているからである。この区別により、純粋理性の概念は指針伴って制限を自ら加えているのである。ここで仮定をしてみよう。道徳は自由(厳密な意味)を前提とする。つまり理性が先天的に持っているオリジナルの行動指針を用いる。この前提は自由を前提にしない場合、語ることすら不可能である。ここでは、思索的理性は自由を考えないと証明されたモノと仮定する。このような仮定は道徳とは真逆の矛盾を孕む。自由と道徳(自由が前提ならば道徳は矛盾しない)は思索的理性が正しいとすると自然法則に席を譲らなければならない。だから私は自由が自己矛盾を含まずに考えることは許されると考える。そして自由は同様の行為(他のしがらみ)が自然法則を邪魔しないと明示しておく。道徳の教えと、自然哲学は相互の座を批判しない。両者がモノに関して無知であったら、我々はこの批判を回避できなかったであろう。純粋理性の批判のメリットは、神や魂の単純さという概念を示すことができる点である。ここでは有用性は省略したい。ここで私は神や自由、魂の不滅を私の実践的理性では受け入れることができない。同時に、思索的理性を了承することも横暴である。なぜなら経験の対象であるにもかかわらず、その行動指針のを示す主体であるからである。こうなると、モノや経験の対象も純粋理性を応用しても不可能であると宣言することになる。だから私は信仰を確保し信用できる知識を拾い上げた。形而上学の独断論は徹底的に非難すべきである。純粋理性を批判しないその偏見は不信仰の泉であり、道義に反し、必ず独断論的である。従って、純粋理性批判に従って構築された形而上学は子孫に伝えても良い、なかなか粋な贈り物と言える。理性が確固たる道を歩めるならば、それは批判無しの世界ではない。知りたがりの若者が俗な独断論で時間を浪費せずに新しい理念や、しっかりとした意志を持って確固たる道を歩むことができるのだ。計り知れないほど大きな利益は、道徳と宗教への批判にソクラテス的な情報で終止符を打つことである。世界には常にどこかで形而上学が存在するだろう。そして当然、純粋理性の弁証論もあるだろう。だから、哲学の一番重要な課題は誤りの源を取り除くことである。



(*:対象を認識するためには、その可能性の証明が(経験的にしろ、先天的にしろ)必要となる。しかし自己矛盾に陥らなければ、概念を考えることは可能である。その考えに対象や、矛盾、あるいは真実が含まれているかは問わない。しかし、客観的に見て、その効能(現実問題として可能であるかどうか、理論的であるかどうか)を論議するには何かが更に必要となる。だがその数量は理論上の知識の源は必要ない。実践的でもあるからである)



 科学分野の重要な変革は思索的理性の思い上がった利益を失わせた。それでも一般市民の関心事と純粋理性ではまだ優勢を保っている。失われたモノは学問の独占であって、人々の関心ではない。私は独断論者にこう問いたい。我々の死後における魂の永続の証明。本当の自由の証明。現実的な神(偶然を必然へ変化させる原動力)の存在の証明。かつて聴衆の信念に影響を与えたことがあったであろうか。なかった場合、浅ましい常識の共通理解を期待してはいけない。常識の欠如を前提に考えよう。第一には時間的制約(定命の存在である人間)の希望は満足されない。第二には制限のない自由意志。第三には自然と秩序、美を創り出した神による世界の財産の存在と信仰である。学問はより高い考察を望んでいる。無益な論争を崇高な議論だと勘違いして、(尊敬すべき)論客は一般人に道徳を御高説するが、それは浅ましく限界がある。従って、他の学者がするように、変革を自分に利益があるように(さもないと既得権益が害されるため)仕込むのだ。そして唯一にして本物の真実の守護者として鍵を持つと思い知らせるのだ(無知であることは自分も含めて全員であることを望む)。それにもかかわらず私は思索的哲学者の注文通りに敬意を払った。思索的哲学者の亡骸は聴衆へ御高説を垂れていれば良い。理性批判は庶民的にはなれないが、なる必要もない。なぜなら人々は自分の頭の中が真実だと思いたがるからだ。思索的な学者はどの道人々を扇動することを避けられない。批判をしない形而上学者(聖職者も含む)は自分の信念のために論評をねじ曲げて偽る。唯物論、運命論、無神論、狂信、迷信などは一般市民に害を与える。理想主義と懐疑主義も根絶しなければならない。もし政府が学者の仕事に興味を持つならば、学者を保護するよりも批判の自由を与えるべきだ。理性の礎は批判である。彼らが張ったクモの網が引き裂かれると、公共の危機だと大騒ぎして叫び泣くが、聴衆は今までクモの網など気にも留めていなかったので何も感じないし感じる必要もない。



 批判が学問として振る舞う時は純粋理性は独断論的である(独断論は常に実理を表示しなければならない)。独断論は高圧的にも原理を(哲学的)純粋理性に従えさせた。その上、独断論は理性がどうやって地位を占めたかを問わずに認めた。従って独断論は事前の純粋理性の手続き無しに行われる彼らの自慰行為である。ゆえにこの対立を口だけ達者な懐疑論者が不当に称する名声を形而上学の裁判で断じる気すらない。むしろ批判は形而上学には必要である。綿密な学問として独断的かつ体系的(非世俗的)に詰められることが要求される。思索的理性を完全に満足させるには先天的な要求が不可欠である。この解釈では批判は今後の形而上学の体系に名高いヴォルフ、つまり独断論者の中で最も有名な哲学者が必要となる。原理の確認、概念の明確化、証明の厳密さ、推論の飛躍の防止など、学問として形而上学を確固たる地位に昇らせた最初の人物である(ドイツ人の中でも最も徹底した精神を持つ人物である)。だが、彼の欠点はその道具である純粋理性を批判することで生じるリスクを想定しなかったことである。過去のしがらみを捨て去り、仕事を遊びに変え、信念や意見を脱ぎ去ったのである。



 この第二版においては、多くの誤解が生じている部分の解説と読み難い部分を修正したつもりである。賢明な諸兄にも誤解を与えてしまったかも知れない。本書の論拠や議論の内容や考察の完全性には何ら変わりはない。すなわち、真の自然的な思索的純粋理性は間違いであろうと誤解(勘違い)であろうと必然的に現れる。この不変の真理は私が望むように裏切りはしない。独り善がりではなく、純粋理性は最も低いレベルでもその結果は全体へ繋がっている。逆に全体(実践的な完璧な最終目標)から最小のパーツに受け継がれる。従って、どこかを変更しようとすれば普通の人間理性ですら矛盾に陥るのである。ゆえに私は自信を持って持論を展開する。だが文字に記すことは容易ではない。出版に際して、修正や誤解を解くことに力を費やした。感性感覚、特に時間の概念。演繹の理解の概念。純粋理解の原則の証明不足。合理的心理学の海賊版とも言える治療。これらの修正、解説である。ここまで(超越論的弁証論第一章の終わりまで)に大幅な加筆修正(*)をした。その後の変更はない。時間がなかったことと、マトモな審査ができる批評家がいなかったからである。名前を明示して、どなたが称賛したかは言及しないが、その場で分かるはずである。しかしこの改訂は少なからず読者に損失を与える。この修正を加えると、ページ数が膨大になるからだ。いくつかの部分は不本意ながら削除せざるを得なかった。万全の方法ではないが、御了承頂きたい。しかし削除が分かりやすさを促したことも事実である。論拠は断じて変更していないが、講述の方法は大幅に変化している。単語の挿入だけでは不可能であったからだ。この小さな損失は初版と読み比べて頂ければ大丈夫なはずである。また、第二版は読みやすさを徹底しているはずである。私は多くの書籍(論戦や批評の価値がないモノも多い)が存在することが嬉しい。なぜなら凝り性のドイツ精神が死んでいないからである。短い流行に乗った自称天才の鼻をへし折ったことは良い。また、批判という茨の道を歩むことを学問の分別があり骨のある人々が塞がなかったことも評価したい。徹底的な分別と明快な著述力(残念ながら私にはその才能はなかった)を併せ持つ人に私の著作は反論されるかも知れない。その欠点を埋めて頂けると幸いである。否定はされないが、理解もされない可能性があるからだ。また論争が絶えないであろう。予備教育は重要である。私は歳をとり過ぎた(今月で六十四歳である)。そう考えると、私が今、この計画、つまり「自然の形而上学」「道徳の形而上学」を時間をかけて著した。また、思索的理性と実践理性の批判も考えている。これを実行するとなると、時間を節約しなければならない。今回の作業で明白になった知見を生かすことは若く賢い人に任せたい。しかし哲学は説明が難しい(数学のような理論武装ができないから)。かといって哲学のシステムを統一して誤解を最小限に留める努力はしなくてはならない。上手く説明する精神を持ち、新しいことに冒険し、喜びを見出す人は本当に少ない。哲学の論文はあら探しにもってこいである。だが、そのようなことは本物の思考の前では無益であり無駄である。危険を顧みず、周囲や学会との摩擦を恐れずに戦う分別を持つ人にこそ、この理論は必要である。



(*:実際の増加とは心理学的観念論に対する新しい反駁と、二七三ページの重大かつ客観的な現実観念の厳格な(唯一である可能性がある)証明だけかも知れない。理想主義は形而上学の本質には(とりあえず)無害である可能性があった。それは哲学と普遍的な人間の理性的存在(内なる感覚の素材は外部から得ている)を信仰から受け入れているからである。更に言えば、疑問を持つ者に十分な証拠を具えて反論しなくてはならない。上述のページの三行目から六行目は若干分かり難いので修正しておきたい。「この永続性は直観ではない。私の内なる存在は、全て決定的であり、あくまで永続性は変化と時間において必ず私が関連して規定される」この証明に反対する者はおそらくこう言うだろう。私の考えは外部から示されたモノである。従って、予め決定されていないと。しかし、私の時間の中の存在(やはりこれも結果的に推察される)は内なる経験から意識される。更に言えば、私の想像は意識していることよりもずっと実証的である。私の存在を意味する意識は、内外を不可分に結びつけている。これを定義するには時間と意識が経験を捏造して同一のモノにしていることを考慮する必要がある。外部と内部は密接しているのである。私と外の関連は現実と想像との相違と同じ程度である。従って、内なる経験自身は拘束される。もし私の存在が知的意識の存在を想像できるのであれば、全ての心の行為は外部を必要としない。さて、知的意識があるならばそれは私の内部の直観に先行せざるを得ない。この時間的順序の条件と内部の経験は、永続的な私の内部で完結するということを考慮せざるを得ない。従って、外的感覚の存在可能性は内的感覚の経験の実体とピッタリくっついている。私がこの時間に必ず存在するならば、それは意識をしているということである。しかし、与えられた直観が本当に私以外の外的存在を対象として処理をするのであろうか。つまり外的存在は何に属するのであろうか。一般的経験(内的であっても)を想像から区別することは、外的感覚が常に根底にあることが基本であると考えなければならない。これはこう付け加えることができる。想像できる永続的存在はとにかく観念上であり、思考と同じではない。変化し得る全ての存在は我々自身が実質と思考で味わうことができる。永続性のお世話になるモノは、それは(少なくとも)同時に自分自身の意志で経験する必要がある。それと同時に、個人の尊厳は内的経験を得る。それはどうしてであろうが。それをここで説明することは難しい。時間的に存在していると思い込んでいるモノが本当に永続的に存在するか疑問視する人は少ないだろう。この概念を壊し、変化の概念を生成することが説明となる)


ケーニヒスベルク 一七八七年 四月

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純粋理性批判 水上基地 @minakamikichi

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