ⅩⅩⅦ.【灰色狼】

「画集なら、いちばん上の階層にありますよ」

 長い髪を垂らした司書は、手袋をした手で階段を指し、微笑んだ。

 ここは閉鎖された環境だからか、職員もどこか浮世離れしている。これほど広い図書館のどこに何があるのかをきっちりと把握しているのだから、きっと優秀ではあるのだろうが──いつもマネキンのように微笑んでいる司書に、眞紘は少し、こんな僻地で働くなにか特殊な事情があるのだろうか、などと勘ぐってしまった。

 以前にのぼった階段を、またのぼる。塔の上を目指す気持ちで、上を向いたまま足を動かし続けた。下を向いたら、その高さにすくんでしまうといけない。崖に沿って建てられたこの不可思議な形の図書館は、もしも吹き抜けに身を躍らせれば、湿原と同じ高さまで一息に落ちてしまうのだから。

 しばらく上がっていくと、やっと、空気中にわずかに舞う塵を、光が照らし始める。

 回廊をめぐり、最上階を目指すうち、本を傷めないためか、本棚には陽光が当たらないようになっていることに気がついた。書物の世界に入っていこうと棚に向き合えば、おのずと影に浸ることになる。

 その暗がりに立ち尽くして、床に幾何学模様を描く白い光の梯子を見ると、深い水の底からあがってきたように錯覚する。

 長い長い階段を上がってきた。

 この上はもう温室だ。

 先日、ここで聞いた話を思い出した。踊り場に出る幽霊──

 一月の終わりに失踪した生徒、サルヴァトーレのことがふと脳裏をよぎる。

 いや、夢吾から聞いた噂話は、十数年前に自死した生徒の幽霊だ。生死が定かでない人のことを連想するなんて、縁起が悪い──そう眞紘が、良心から己に言い聞かせ、階段に一歩を乗せた時。

「──だから、俺は忠告してるんだ。──」

 話し声が耳に届いた。足を止める。

「──…群れからはぐれたら狙われる、鹿も魚も」

 どうやら、踊り場よりも上──以前、自分が謎の少年と会話をして、温室から出てきた夢吾や仁と遭遇したあたりで、今度は先客が会話しているらしい。

 こういうことが多いな、と思いながら、眞紘は少し離れようと踵を返す。思春期の寮生活だ、隠れ家がほしいのは皆一緒──それにしても、漏れ聞こえてしまった会話の内容が奇妙な気がしたが、盗み聞きをしたいわけでもない。

 しかし、次に聞こえてきた声に、眞紘は足を止めた。

「──うるさいな、犬め」

 聞き覚えがある。

 あの、煙草の匂いといっしょに暗がりから漂ってきた、独特のしわがれた声。

 それに答えて、もう一人の声が、より一層低く、眞紘の耳に届いた。

「狼だって犬だぜ、──ジナイーダ」

 息が止まった。そうでなければ、かえって声が出ていたかもしれない──ジナイーダ!

 返事はなかった。代わりに、銃声のように鋭い足音が響いた。眞紘は動けなかった──いや、動かなかった。その靴音が、自分の元へ繋がる階段を、駆け降りてくる。そして、最後の数段を、一息に跳躍した。

 その一瞬──眞紘の目の前を、灰色の狼が駆け抜けた。

 足音からは意外なほど、音のない着地。深く身を沈めた姿勢は、四つ脚の獣のように見えた。

 一瞬遅れて漂う、煙草の匂い。

 眞紘は息を深く吸い、自分の目の前に降り立った生徒を注視した。

 華奢で長い手脚。一見、少年のように見える──紺色のブレザーと同色のスラックス、赤いネクタイもあって、尚更だ。

 しかし、胸元のシャツの皺の偏り、細い腿の間に隙間を生む骨盤の広がり、細く喉仏のない首、そして何より呼ばれたその名前が物語っている──

 光の破片を踏みつけるように立ち上がったは、ゆら、と獣じみた仕草で眞紘の方に顔を向けた。

 灰色の長い髪は豊かにぞんざいに波うち、小さな白い顔を狼の毛皮のように取り巻いている。

 小造りな顔のなかで、ぎょろりと爬虫類じみて大きな眼。瞳は、嵐の夜の遠雷のようなすみれ色。

 色の悪い唇が、にやり、と胡乱な三日月を形づくる。

 しわがれた、少年のような声で“ジナイーダ”は言った。

「やあ。また会ったね──“二月の転入生”」

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