ⅩⅩⅥ.【影踏】
ぎょっとした。
そんな娘はいない──そんな馬鹿な。
しかしすぐに眞紘は気を取り直す。モニカは精神的に不安定なのだし、発言がどのくらい正確かはわからない。それに、もしかしたら彼女なりのジョークのつもりかもしれない。
モニカは鳥のようにすらりとした首を伸ばして、眞紘の目を覗き込んだ。
「
また“狼”だ。その狼について訊ねようかと少し迷ったが、休み時間はそれほど長くない。眞紘はもう話を切り上げようと思い、「Thank you, sorry for taking your time」と礼を言って立ち去ろうとした。
その裾をぐ、とひっぱられ、面食らって振り返る。驚くほど近いところに、鏡のような真っ青な瞳があった。
「
彼女の細い声をかき消すように、鐘が鳴り響いた。天井を見上げると、ぱっとモニカは眞紘の袖を離して、脇をすり抜けて廊下を歩いて行ってしまった。
いつも獲物を狙っている。
彼女の言葉が、心に引っかかった。ただのうわごとではない、なにか真に迫ったものがあった。
ジナイーダは、誰かに狙われているのか?
それとも──…
放課後の中庭には、数人の姿があった。平面だと錯覚してしまいそうな果てしない花曇りの空と、直線的に剪定された緑のなかに佇む少年少女たち──絵画的な光景のなか、片隅のテーブルと椅子のひとつに、茉莉がひとりで腰かけているのが見えた。
「やあ」
近づいて声をかければ、彼女は眞紘を見上げて「一人でここへ来るなんて変わってるわね」と、相変わらずの率直さでじっと目を見つめてきた。
「ジナイーダを探してたんだ」
「あら。惜しかったわね」
茉莉は頬杖をついたまま、気だるそうに、自分の向かいの虚空に指をさした。
「さっきまで居たわよ。そこに」
え、と声が洩れたのか、声すら出せなかったのか、自分ではわからなかった。テーブルを挟んだ茉莉の向かい、空白の一脚の椅子──眞紘は立ち尽くして、その座面を見つめていた。
「どこへ──行ったとかわかるかな」
「さあ。あの子、気まぐれだから」
茉莉は膝の上に置いた画集を、ぱらぱらとめくった。印象派のような、そうでないような、曖昧な夢のなかの故郷のような絵画だった。表紙は、淡い色の薔薇が咲き誇る、一軒の家──おや、と記憶の片隅が微かに点滅する。自分は、この絵について、なにか知っているような気がする。この絵を見たことがあるわけではないが、似た風景を知っているような──あるいは、聞いたことがあるような。
茉莉はその画集を手にとって、表紙を眞紘に見せた。画家の名前が目に飛び込む。Henri Le Sidaner.
「ル・シダネルの話をしていたから、美術室か──図書館かもね」
具体的な場所を告げられ、眞紘は少し心拍数が速まるのを感じた。いよいよ、ジナイーダに近づいてきた。実際に会えたとして、なにを話したいというわけでもないのだが──ここまでくると、幻の花を一度は見てみたい、という気持ちに近いのかもしれない。
茉莉に礼を言って、その場を離れて図書館の方へ行こうと足を踏み出したその途端、不意に、思い出した。
記憶のなかの素朴な一軒家に、幻のように目の前の彩画の薔薇が重なる。
二月最後の日、眞紘は『光の帝国』のようだと感じた校長の家を、千紘は──ル・シダネルの絵のようになると言った。
奇妙なことに──薔薇の咲かない、雪の日に。
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