ⅩⅩⅤ.【水族館】
「ジナイーダって、本当にどんな子なんだろう」
窓の外を見ているうち、眞紘が不意にこぼした言葉は、四角く切り取られた青月夜の冷気に溶けて消えた。
三月も終わりに近づき、ここへ来たときよりも気温は高くなってきている。しかし、夜はやはり空気がきりりと冷たかった。窓硝子越しにも冴え冴えとした春の星をただ見るためだけに、眞紘はカーテンも閉めずにいた。
眞紘の言葉を聞いて、机で本を読んでいた菫之助は、椅子を引いて振り返り、言った。
「そんなら、会う?」
あまりにさらっと言うものだから、眞紘は咄嗟に返事をできなかった。菫之助は本に栞紐を挟んで閉じ、立ち上がる。
「休み時間に、二組の教室行って、ジナイーダを呼んでって頼めばいいと思うけど。あ、でもあの子、選択授業のせいでいないことも多いからなァ──何度か試せば会えると思うよ」
「それは──うん、まあ、そうだね」もっともだ、となぜか気まずくなりながら眞紘は頷いた。確かに、本気で会うつもりならそうすればよい。むしろ、なぜしないのか、と菫之助は不思議に思っているのではないか。
どうしてしないのか、それは眞紘当人にとっても言語化しづらい感覚であった。
お茶を淹れようとしているらしく、コップを二つ用意しながら、菫之助は眞紘のほうを窺った。
「お茶、いつものでいい?」
「ああ、うん。いつもありがとう」
「ええよ。──緊張するなら、僕がついてってあげようか」
「いや、いいよ、子供じゃないんだから」
菫之助は気遣わしげに、じっと眞紘を見ていたが、やがてお茶を淹れる動きを再開させた。薬草が少し混ざった、独特の匂いが広がる。
「いちおう、彼女とは同じファミリィなんだし。挨拶くらいはしておきたいんだ。嫌がられるかもしれないけどね…」
薬草茶に砂糖をいれて、少しだけ口に含む。菫之助も「まあ、“ファミリィ”だってのに、顔もよくわからないんじゃあ、困ることもあるよなァ」と頷いた。
「まあ、少し個性的な子だっていうのは聞いてるから。挨拶も難しそうなら、大人しく退散するよ」
「まあ、そのほうが無難かも。──あと、彼女と接するときのアドバイスとしてはね」
「アドバイス?」
眞紘が聞き返すと、菫之助は黒い目を細めて微笑む。薄い唇の隙間から、犬歯がちらりと覗いた。
「狼には気をつけろ、かな」
一組、二組、と分かれてこそいるものの、その中に収容される生徒たちはいつも流動的だ。休み時間の鐘が鳴るたび、紺色のブレザーを着た生徒たちがわっと教室を出て、自分たちの行くべきところへ泳ぐように移動する。眞紘はそのなかを自分も泳ぎながら、まるでここは石造りの水族館のようだ、と思うのだ。
──外からこの建物のなかを覗き込んでみたら、楽しいかもしれない。
そう思いながら、自分も紺色の魚群に加わる。
廊下を歩きながら、昨晩、菫之助に言われたことを反芻した。
狼には気をつけろ。
十代の少女にまつわる言葉としては、かなり物騒だ──グリム童話の「赤頭巾」などを思い起こせば、少女と狼という組み合わせは、ある意味で似合いではあるのだが。
しかし、その場合「狼」とは誰のことなのか?
二組の教室の前まで来て、気がつく。人がほとんどいない──体育か、芸術科目の時間だったのだろう。タイミングが悪かったかな、と思いつつも、どこかほっとした気持ちがあるのは否めなかった。
何の気なしに、少しだけ教室の中を覗いてみようとすると、ふらっと、華奢な体が四角い扉の向こう側から唐突に現れた。危うくぶつかりそうになって、「わ、ごめん」と謝りながら少し横にどく。しかし、相手はその場で立ち止まったまま動かない。おや、と訝しんで顔を覗き込むと、はっとするほど色の白い小さな顔には覚えがあった。
セシルカットの黒髪に、草食動物のように潤んだ、大きな青い眼。
モニカだ。
少し緊張した。彼女の繊細さ、不安定さは知っていたし、話しかけるだけでも傷つけてしまいそうだ、なんて思いながらも「……やあ」と微笑み、片手を上げた。
また、以前食堂で会ったときのように素っ気なく無視されるのかと思っていたが、彼女は少しだけ首を傾け、眞紘から視線を逸らさずに立ち止まったままでいた。大きな丸い青い眼が、じっとこちらを見つめている。気まずくなり、弁明するように口を開いた。
「その──人を探していてさ、ジナイーダっていう女の子なんだけど」
そこまで話してから、彼女にはあまり日本語が通じないのだと思い出して「I'm looking for a girl──Zinaida, do you know where she is?」と付け加えた。
じっと眞紘を見たままのモニカは、無言で何度かぱちぱちと
そのまま十秒ほどが経過し、返事は期待できないか、と、挨拶をしてその場を立ち去ろうとした眞紘に、突然モニカは色の薄い唇を動かして、可愛らしい声で答えた。
「
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