第1話
山処大学ではこの日、学部学科を問わず一堂に集められた新入生の興奮と期待が混じり合い、ざわめきとなって大ホールの中を満たしていた。
遥樹の横に座ったのはいかにもチャラチャラした男で、知り合いを探しているのか周りをキョロキョロ見回している。
前にはギャル風の女、その横には大人しそうな男が座っている。
8:55、入学式開会まで後5分。
「式の最中は退出できません。トイレや用のある方は今のうちに済ませておいてください。」
アナウンスが入った。あと5分しかないのに何の用を済ませろと言うのだ。
今ここで面倒な用事があろうものなら、この大事な大学生生活を途轍もなく中途半端にスタートしなければならないことは目に見えている。
と思ったのもつかの間、横のチャラ男は「やべえ、時間ねえじゃん」と言いながら列の後ろに抜けて行った。
あの図太い精神があれば人生は楽になるんだろうなと心の中で呟く。
「それでは開会式を始めます。」
9:00、開会式が始まる。さらば、チャラ男。
式は各関係者の挨拶、校歌、各関係者の電報、国歌、関係者の挨拶、関係者の挨拶、と眠気を誘うフルコースで進んだ。
メインディッシュの学長挨拶はまだまだ先、遥樹は夢と現のラビリンスの中を彷徨っていたところ、唐突に腹部に違和感を感じた。
ん?この感覚は奴か?
と考えるのが先か化け物は腹の中で暴れまわり、遥樹に会心の一撃を与えた。
まずい。
止めどなく襲いかかる腹痛は、遥樹を一瞬で現実に引き戻した。
これは昨日食べた賞味期限切れの特売寿司が原因か。
遥樹は歯を食いしばり苦痛に耐えるも、下腹部はぎゅるぎゅると悲鳴を上げ、苦しみに耐えられない様子だ。
ダメだ。このままじゃマズい。一刻も早くトイレに。
その時、ある言葉を思い出した。
「式の最中は退出できません。トイレや用のある方は今のうちに済ませておいてください。」
万策尽きるとは正にこのことだろう。
席に項垂れると、「お前はここで終わりだ」とでも言うように椅子がギシギシと鳴った。
悪魔め。
その時突然、がたん、と椅子の倒れる音がした。
前に半径10mの有象無象が突然こちらの方を向くので、遥樹は自分じゃないですよという意思を込めて音の鳴った方向を見た。
どうやら、隣のチャラ男が眠りこけるあまり重心を失って倒れたようだった。
「痛ってぇ〜」とチャラ男が立ち上がる。
有象無象の中に笑っている顔が見えた。おそらく知り合いだろう。
チャラ男は怠そうに座り直し、場は退屈さを取り戻した。
おっと危ない、今ので忘れていたところだった。
というより今のごちゃごちゃで腹の魔物はようやく息を潜めたようだ。
あれ、チャラ男は式の始めにいなくなったはずでは?
そうか、戻ってこれるのか!
遥樹は心の中でガッツポーズをした。
しかしさっきに比べればだいぶマシだ。奴を所定の位置に放り出すのも面倒くさくなってきた。
しかし安心するのも束の間、魔物は第二次攻撃を仕掛けてきた。
ぐっ……
くそ、さっきより痛えじゃねえか。
早くここから脱出しないと。
一体チャラ男はどこから戻ってきたんだ。
ふと見回すと緑の世界から脱出を図る孤高の男が見えた。
非常口!あそこに違いない!
遥樹は意を決し、こっそりとかつ迅速にその場を去った。
非常口を入ると階段に出た。
真っ昼間だというのにまるで夜のように薄暗い。
非常口だというのに、これでは非常時に使えないじゃないか。
トイレの場所もわからないが、ひとまず外に出た方が良さそうだ。
階段を下り、外に出た。
あたりを見回すが、トイレらしいものは見つからない。
お、
人がいる。
目の前には黒い服を着たやや太り気味の男が立っていた。
年齢は30歳くらいだろうか、手には携帯を握りしめている。
ここはあの人に聞くしかない。
話しかけようと、渾身のいい人スマイルを顔面に浮かべる。
「すみません、この辺りにトイレはありますか?」
旅行英会話の例文ばりに形式だった文章を投げかけると、男はこちらを向いた。
怪訝な顔を向ける彼に再び
「あの、このへんでトイレは……」
と問いかけると、ぎょっとした表情を浮かべて顔を隠すように立ち去っていった。
なんということだろう。今ここで僕の不審な点は、腹を抱え、顔が青ざめていることぐらいだ。
普通ならそんな人間を見たら少しは助けようという気にもなって良いはずが、奴は顔を隠して立ち去った。
恥ずかしがり屋なのかわからないが、学校生活をまともに続けられるかの瀬戸際に立っている僕からすれば腹立たしいことこの上ない。腹が立ちすぎて腹の具合が少しおさまってきたくらいだ。
そんなことを考えていると、男のいた方とは逆方向に「toilet」の文字列を見つけた。神の救済ともいうべきか、遥樹は生まれて初めて天に感謝した。
探偵はウヰスキーで血を洗う þoþufa @killienyan
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