盲目の歌姫と声無き伴奏者
夜桜。
盲目の歌姫と声無き伴奏者
彼女との関係は最初、家同士による利害の一致からだった。だから、言わば結婚ではないが政略結婚のような形で彼女の伴奏者として僕は任命された。
そんな僕は生まれた時から声を出すことが出来なかった。それが他の島であればただ一言、可哀想で済んだかもしれなかったがこの島――音楽の島と呼ばれるここでは特に声楽に造詣の深い者や腕のいい作曲家や職人に高い地位が与えられ、元より声も出せない僕はただ疎まれる存在であった。だけど魔法の才能はあったらしく、一時期魔術学院に入れるという話も持ち上がったそうだ。
「――声が出せないとは嘆かわしい」
「――お前は一家の恥晒しだ。本家でなかった事を幸運と思え」
「――せめて楽器職人の家系だったらよかったのにねぇ」
僕が言い返せないのもあって、そんな言葉を投げかけられ続けたが僕が唯一褒められたのはグラヴィーアという鍵盤楽器だった。鍵盤を叩けばそれに対応した音が出る至極簡単な楽器。だけども簡単だからこそ技術が要求された。
そして、僕が扱うのはグラヴィーアの中でも最難関と言われるオーガンリード。魔力を流しながら鍵盤を叩く事で音を出すオーガンリードはただのグラヴィーアよりも音の強弱や音色を自在に操れる事ができる。その代わり弾いている間魔力が常に必要な為、長時間弾く事が出来ない代物だった。
「お前には今日からヴィーゲン家の令嬢、リート嬢付きの伴奏者となってもらう。声が出ないんだ、その手が潰れるまでオーガンリードを弾き続けるがよい。まあ、それも音楽祭までの間だろうがな」
僕が十一歳の時、忌々しそうに父はそう言った。家の格を何よりも重んじる父には僕の存在はいらぬも同然で触れ合った記憶もない母以上に僕の事を嫌っていたと思っている。だけど何故か僕が初めてオーガンリードで賞を受賞した時は部屋に新しい楽譜がこっそりと置かれていた。本人は否定するだろうけど恐らくは。
ヴィーゲン家は島の中でも有数の名家で声楽の才を持つ子女がよく生まれる家系でリート嬢はヴィーゲン家待望の第一子だった。僕の家は彼女の家の分家で血筋は本家に限りなく近いのと彼女の特徴から僕が抜擢されたんだと思う。しかし本家という事で気は重くてたまらない。
「は、初めまして、トゥーラ・パルティ様。この様な見苦しい様で申し訳ございません。ヴィーゲン家のリートにこざいます。どうかよろしくお願い致します」
彼女の特徴とはそれは瞳を誰も見たことがないという事。だが、それは当然だった。彼女は生まれつき、目が見えず目を開けることすら厭っていた。両親にとってはやっと恵まれた子宝だが彼女には双子の妹ベルスーズがいる為、ほとんどの愛をベルスーズに奪われて育ってしまった。そんな噂話がまことしやかに囁かれている。
その頃の僕は文字をやっと覚えて会話出来るようになった感じで僕は筆談で話していた。悲しいことにリート嬢の従者に読み上げてもらっていたが。
『初めまして、リート様。ご存知かもしれませんが私は声が出せません。その為、筆談での会話になりますがご容赦下さい。そして、私に敬称をつけるのはおやめください。私の生まれは分家にございます』
「声のない代わりに天才的なオーガンリードの才能をお持ちと聞きました。わたくしは貴方のオーガンリードの腕を潰してしまわないかとても心配でして」
本当に心配しているかのような声色だった。軽蔑、侮蔑、そんな言葉ばかり浴びせられてきたから次第に声色だけである程度の感情が分かるようになっていた。そして僕は彼女の次の言葉に目を見張ることになる。
「わたくしは貴方を尊敬しています。ですから、この呼び方は変えません。音楽に上も下もありませんから」
口許を緩めて微笑む彼女に幼い僕は惹かれた。多分、この時から無意識にも彼女に惚れたんだと想う。
二歳下であろうと彼女はヴィーゲン家の血筋に漏れず、素晴らしい歌声を持っていて初めて聞いた時は飲み込まれるような迫力を感じた。歌は人の心を動かす、それを直感した時でもある。
「ストルメントの『大地の創造』という歌ですわ。今のような迫力ある声が必要ですの。でも、少しはしたないかしら……?」
『いえ、女性らしさを残した声は空の女神を思わせます。大地の神に見初められた空の女神、きっとリート様にピッタリかと』
「トゥーラ様にはこの伴奏をお願いしたいのです。グラヴィーアではなく、オーガンリードの音色こそがこの曲をより引き立てるのだとわたくしは直感しています。マルシュ、楽譜を」
「はい、お嬢様」
『分かりました。全力を尽くしましょう』
渡された楽譜は難しいものだった。複雑に音が重なり合う事で題名である大地の創造を表現しているのか相当練習するのが必要だと考えられる。前奏だけは知っていたから割と早い段階で弾けるようにはなったけれど。
音楽家の子息子女は十歳になると空の月の初めにあるシナヴリア音楽祭で自分の一番得意な音楽を発表しなければならないというこの島独特の習わしがある。かつては全ての子供が参加していたようだが今では音楽家を親類に持つ子供だけに限定されている。声楽なら歌を、楽器ならその楽器を。後半年以上もあるが僕は彼女の伴奏を完璧にこなさなくてはならない。一度の失敗はいつまでもまとわり付いてくる。彼女の将来の半分を自分が背負っていると思うと震えてしまう。だけどこれはこなさなければならない自分の仕事だった。
*
「失礼致します。トゥーラ様、お食事の準備が出来上がりました」
練習も大詰め、音楽祭まで二ヶ月を切ると僕はヴィーゲン家に寝泊まりする事となって部屋の一室を貸し出してもらっていた。流石は本家。分家とは屋敷の大きさも部屋の量も使用人の多さも断然で未だに自分の部屋と食堂、風呂場くらいしか場所を覚えていない。
いつもは部屋の前で呼び出されるのにリート嬢付きの女中マルシュは部屋の中に入って呼んでいた。何故なのか聞いてみれば僕が没頭し過ぎて返事がなかったかららしい。
「それは楽譜ではありませんよね? なんでしょうか」
『これはリート様と直接会話出来るように僕が考えているものです。オーガンリートの音を組み合わせる事で文字を表します。ただ文字が多いので難航していて』
「では、僭越ながら私もお手伝いさせてもらってもよろしいでしょうか。平民ではありますがお嬢様にお使えする身として多少の教養はあるつもりです」
『いいんですか?』
「はい。ですがその前に食事をお摂り下さいませ」
『すみません、分かりました』
輝かせた顔はマルシュによって釘を刺され、僕は渋々と食堂に向かう。ずっと嫌味を言われながら食事を摂ってきたからか誰かと一緒に食事を摂るのは嫌だった。ヴィーゲン家の方々がはっきりとそんな事を言わないのは分かっているのに体が拒絶する。この屋敷に寝泊まりする前では適当な宿を取っていたから一人で良かったが今は否が応でも行かなくてはならない。個人的に会いたくない人物もいるのだが行かないという選択はヴィーゲン家の当主に失礼である。
少し沈んだ気分で向かった食堂。そこにはリート嬢がいた。彼女はほとんど自室で食事を摂っているのに今日は何故いるのだろうか。そんな疑問が湧き上がる。
「ねぇ、お父様。わたくし、リートお姉様がいらっしゃるだなんて聞いてないわ」
「今日はリートも一緒に食べようと私が誘ったんだ。何か気になる事でもあるのか?」
「そうですの……。珍しいから気になっただけですわ」
ベルスーズ嬢、ヴィーゲン家次女の彼女はリート嬢とは真反対の性格で目立ちたがり。そして言葉の端々からリート嬢に対する軽蔑が伝わってくる。妹である立場が嫌なのか、リート嬢に何か思う所があるのか。彼女を見ていると父の姿を思い出す為、僕がなるべく会いたくない人物である。
食事をさっさと摂って続きをしたいというのにベルスーズ嬢がチラチラと僕を見ている事に気がついた。もしかして僕かその周囲の方に用があるのだろうか。そう思った直後彼女は僕に話しかけてきた。最悪だ、早く帰りたい。そして不味いことに僕は筆記用具を置いてきた。
「トゥーラ、ちょっとよろしくて?」
「……?」
「貴方、わたくしの伴奏者にならないこと? そうすれば普段から下宿なんて貧相な事をせずともいいですし、もっと腕のいい職人に頼んでオーガンリートを新調してもよろしくてよ。リートお姉様よりもわたくしの方が――」
声の出せない僕をいい事にペラペラと喋る彼女はやはり父と似ている。陰鬱な気分になり、早くこの場から立ち去りたいと思った時バンッと勢い良く机が叩かれ、辺りは静まり返った。
「ベルスーズ、彼は声が出せないというのに何を無理に押し通そうとするのですか。はしたない」
「あらお姉様。ごめんなさい」
彼女の顔は耳まで赤くてまるで熟れた林檎のようだった。僕は自分より年下の子に守られた挙句こんな目に晒してしまった。どうして声がないんだろう。空の女神と大地の神は僕に何故声を出せなくしたのか、恐れ多くも神を恨みたくなった。
そのまま成り行きで晩餐は終わり、全員が散り散りになっていった。僕も部屋に戻って作業の続きをしようと机に向かう。だが、知らないうちに疲れていたようでうとうとと舟をこいでいた。
「……ま。トゥーラ様?」
「――! ――、――――」
『取り乱しましたすみません。僕寝ていましたか?』
「いえ、心あらずといった感じでしたが。もしや先程のベルスーズお嬢様との事を気に病まれていらっしゃるのでしょうか?」
未だにはっきりしない頭で頷くとマルシュは彼女はいつもそうで両親からの愛に溺れて我儘娘に育ってしまったと教えてくれた。噂もほとんど正しいとも。しかし身分の差や彼女の持つ才能は本物であり、親類でも中々口出し出来ないそうだ。それに唯一口出しが出来る両親や教師にはかなり愛想良くしているので余計に拍車がかかっているらしい。
『そうですね。でも愛されているのはいい事じゃないですか。僕は年の離れた兄と姉が一人ずついるんてすけどそっちは僕よりも優れた才能を活かして仕事についていて。今回の曲も兄が作曲した物ですし』
「左様でございますか。ですが、私は貴方にも才能があると思いますよ。この様に誰かと分かり合う為に歩み寄る姿勢、大変勉強になります」
クスリと少しだけ笑みをもらしたマルシュにつられて僕も笑う。疑うようだが僕に本当にそんな才能があるならいいのだけど。そうやって他愛もない話を時々しながら完成したその文字表。リート嬢はなんと半月で覚えてしまい、僕と彼女は直接会話が出来るようになった。
「わたくし、きちんと明日成功出来るのか不安でたまりません。パルティシアはともかく、魔術協会や島王も何人かいらっしゃるだなんて」
『きっと今までの練習と同じように出来ればなんとかなりますよ。僕は全力を尽くすつもりです。だから頑張りましょう』
「ふふ、断言しない所がトゥーラ様らしいですわ」
オーガンリートなどの一部の楽器が魔力を使う為か毎年魔術協会から誰かが派遣されてくる。僕の時はリュツィなんとかという人だ。名前は長くて覚えていない。燃えるような赤髪が特徴だったというくらいだ。
僕はこの音楽で繋がる微妙な距離感が好きだった。でもそれも明日で終わるのかもしれない。本番の明日、そこで実力を認められれば僕よりも優れた伴奏者をつけられる可能性だって大いにある。分かっていた。
弱肉強食、それがこの世界。より優れた方が認められ、栄誉を受ける世界。最早親や先祖によって名を馳せた者を持つ者に流れるように票が入ってしまうような世界。そんな世界に呑まれれば負け。風の流れに逆らわずに飛ぶ鳥のように見極めなくちゃならない。
「ここがルテア歌劇場……。とても大きいですね。緊張します」
『僕も同じです。というか、二年前よりも緊張している気がします』
去年は四年に一度のミュージックフェスティバルも行われ、古くからこの島を見守ってきた歌劇場は今年も新たなる島の子が奏でる音楽を見届けてくれるのだろう。パルティシアの声によって舞台は開幕する。シナヴリア音楽祭の幕は今上がった。
この音楽祭は二部構成になっていて、第一部が器楽、第二部が声楽で構成されている。そして、それぞれの優秀者に賞が贈られる。ここでどうなるかが将来にも繋がる為、誰もが出来うる限りの限界を目指してここに臨んだ。そして今から第二部が始まる。
「ベルスーズ・ヴィーゲン。発表曲は泡沫舞う夢。伴奏者はウィンド・ヴァン」
マルシュの言っていた通りだった。彼女の才能は本物、とても上手かった。だけど心が篭っているように思えなかった。ただ淡々と楽譜に沿って歌っているだけ。努力はしていても思いのない歌は人を惹き付けるような歌は歌えない。
そして、リート嬢の番。楽器がグラヴィーアからオーガンリートに変わるので少しの間時間があるその間にリート嬢は先に位置についておくという算段だ。
「リート・ヴィーゲン。発表曲は大地の創造。伴奏者はトゥーラ・パルティ」
僕の名前が出ると会場は少しざわつきを見せた。僕の名前はあまり良くない意味で有名だからだ。父親と兄は有名な作曲家、母親はかつてのパルティシアで姉は歌劇団の花形。そんな中で声のない僕は羽根をもぎ取られた鳥と称された。だからこそ、父の当たりは酷かった。だが、曲が始まればそのざわめきも静まる。演奏中に騒がしくするのはマナー違反で品がないと思われるからだ。地位に固執する古株が群がっている事がよく分かる。
指先に魔力が流れるようにイメージして鍵盤を叩けばオーガンリートは音を奏でだす。大地がうねるような命の脈動を、女神が創造する原初を、それらを音で表現する。リート嬢の歌声は今までの中で一番良かったものだと思う。
「――金賞、リート・ヴィーゲン。銀賞、モルソー・クラヴィエ」
「わ、わたくしが優勝……ですの」
あっけらかんとした表情で彼女はポツリと呟く。彼女は見事に金賞を受賞し、今季一番注目を浴びるだろう歌姫|ディーヴァになったのだ。この後、様々な楽団から勧誘を受けるだろう。そうすれば僕はきっとお役御免。あの家に戻されてまた肩身の狭い生活になる。
だが彼女は何処の楽団、奏者からの勧誘を受ける事はなかった。僕はそのまま彼女の伴奏者。僕にとってはありがたかったけど彼女にとってそれは最善だったのだろうか。あれから数年経っても彼女は誰の勧誘をも受けずに賞を総なめ、僕が伴奏者のままである。
「ミス・リート。いつまでも勧誘を受けて下さらないのは流石に将来的に見ても……」
「伴奏者がいつまでもあのトゥーラ・パルティだなんて貴女のような優れた才能を潰すだけです」
「我が楽団に入ればその才能を余す所なくお使いになれますぞ! こちらから専属の従者もお付け致します!」
成人も迫り、本格的に専属の伴奏者か所属を決めないといけない時期。彼女は公演終わりに大量の人間に囲まれてそう言われた。僕の事など目に入っていないのは別にいいとして欲に眩んだ瞳で彼女をジロジロと見る姿は不快感しかなかった。
まだ片付けられていないグラヴィーアを見つけると目の見えず困惑する彼女にせめて僕からの言葉を伝えておきたいと思った。
「何だ? これは旋律になっていないじゃないか。何を始めるかと思えば」
「トゥーラ様……!?」
僕は気にせず貴女の自由に決めて下さい。その方が為になります。そんな言葉を伝えると彼女は悲痛そうな表情に顔を歪める。僕はそういう顔をさせたい訳じゃなかった、どうして。
「皆様、わたくしの事を評価して下さるのはとても嬉しく存じます。ですがわたくしはお受け致しません。彼を貶すような方々とはお付き合いしませんから」
「ほう? トゥーラ・パルティに見るべき目があるとでも? あの程度の伴奏者、我が楽団に山ほどいます。それはきっと長らく伴奏者をしていたからの贔屓でございませんか?」
「いいえ、彼は盲目の私と会話する為に努力をしていました。そのおかげでこれまで抑えていた思いをこうして吐くことが出来るのです」
彼女はクスリと笑う、その様子がベルスーズ嬢に重なって見えてやはり姉妹なのだなと思ってしまうと同時にこんな表情は見たことないという驚きを感じる。周りが驚いているのをよそにそのままコロコロと鈴の鳴るような声で彼女は話を続ける。
「はっきり言って皆様はわたくしをただの道具にしか扱おうと思ってらっしゃらないのでしょう? 歴史がどう、待遇がどう……。そう言われてもわたくしは魅力を感じません。他者を貶してまで手に入れたいわたくしはさぞ美味な餌なのでしょうね」
「それはっ……」
言葉につまり、たじろぐ者達は図星なのだろう。そこらかしこで同じような表情になっている者達がいる。中にはそそくさとバレないように外に出ていった人間もいるようだ。彼女の快進撃は止まらず、その温和な様子と視覚障害者から舐め切っていた彼らは大打撃を受ける。
「わたくしは専属を決めるならばトゥーラ様以外にありえません。ですが申し込まなかったのは対等にいたかったからですわ。わたくしがそう言えば優しい彼は了承すると思ったからでしてよ。結果、彼がわたくしの元を離れて欲しくなくてわたくしは努力して賞を頂きました」
「どうしてそこまで惚れ込むのですか? もしや色恋に現を抜かしておられるとでも?」
「……え、ええっ! そうですわよ!? 彼の事が好きで好きで堪らないから努力したんですの!」
声を荒げ、羞恥にカァと顔を真っ赤にする様はかつてベルスーズ嬢に怒鳴った時の彼女とそっくりだけど今回は僕までも顔が熱く感じる。こんなに僕の顔は熱かっただろうか。
『リート様』
「トゥーラ様はわたくしの伴奏者をしていただけますか? 専属になっていただけますか?」
『僕で良ければ勿論。貴女が僕の音で満足してもらえるならば』
「やっぱりトゥーラ様らしいです、断言してくださらないもの」
この場だけがまるで現世から切り離されたような雰囲気で勧誘をしていた人々はホールから出ていっていた。そこにパチパチと拍手がかかる。その方向を向けば白い髪に黒い帽子を被った僕より少し年上の女性が静かに佇んでいた。
女性は僕らに優しそうな笑みを向け、軽く浮いた状態でこちらまでに寄ってくる。整った顔は人形のようで白い肌は陶器のよう。美しいというより不気味さのある女性だった。
「初めまして。トゥーラ氏、ミス・リート。私はリベルテ学園学園長、ヴァンジュ・スコリィーオ。少しお時間頂けるかしら?」
「別にわたくしは構いませんがトゥーラ様は?」
『僕も大丈夫です』
「よかった、ここじゃ片付けの邪魔になりそうだから別の所で話しましょう」
見た目よりも落ち着いていて、対応も完璧。幾星霜の魔術師と謳われるヴァンジュ・スコリィーオ。そんな彼女は僕達二人を歌劇場の個室へと案内した。来賓者に当てられた個室はホール同様に防音で扉と壁、床や天井にまで結界が貼られているらしくここでならどんな話もしやすい。
備え付けられたソファーに座るように促されて腰をかける。全員が座った所で話は始まった。
「簡潔に言えば我が学園に入りませんかっていう勧誘よ。これは別に拒否されればすんなり諦めるので安心してくださいね。トゥーラ氏、魔術の才能のある貴方に勧誘です。リベルテ学園で魔術について学びませんか?」
「――!」
「良かったじゃないですの、勧誘だなんて」
「大層驚かれているようですが我が校は魔法に特化した学園です。トゥーラ氏は入学条件を満たしています。より効率の良い魔力の使い方を学び、もっとその腕を磨こうとお考えになられませんか?」
確かに魔力の動かし方はオーガンリードを弾く分に関して問題なく教えてもらったがたまに弾いた後に凄く疲れてしまい、倒れそうになる事がある。頻繁に起こるのは音楽祭。音楽祭では魔力を使う楽器を扱う者が出る場合にだけ家の格順ではなく、魔力の少ない順で順番が決まる。それは自分の楽器を使う訳ではないから魔力が馴染みにくいらしい。そして元の魔力量で楽器の残留魔力も変わるそうだ。その為、そのような方法を取っている。
彼女の話の内容をかいつまめば、最低でも三年間は通わなくてはならないが引き続きリート嬢の伴奏者はしていてもよく、公演などの際には特例で戻れるそうだ。そして、魔力量も増やせるので弾ける曲が多くなり、短い曲なら連続で弾く事も出来るようになる。僕にとってはメリットしかない話だったが彼女は大丈夫なのだろうか。
「魔力の伸びは男子だと成人前後が一番いいんですよね、だから今のうちにやっておかないとこの先は期待出来ません。魔術学院は九年間、それも八歳からの入学ですのでトゥーラ氏はもう入れないでしょう?」
『確かに。ですが彼女が』
「トゥーラ様、わたくしの事よりもご自分の事を考えるべきですわ、こんな機会滅多にないですもの。わたくしは貴方が帰ってくるまで待っていますわ」
「では、入学して頂けるということで?」
彼女が困らないのならば、と僕が了承するとヴァンジュさんは子供のように喜んでごそごそと被っていた帽子を取り、中に手を入れると契約書らしき紙を出してきた。それは魔法道具なのだろう。もう成人した僕は自分で決める権利があるのでよかった。だがそれは契約書だけではなく、入学案内書までつけられている。
「ご存知でしたらよろしいのですが我が校は無法学園とも言われているんですよね、契約書を読まれたのなら分かりますけど基本的に学園内外問わずに死んでも我々は一切責任を負いません。しかしコレがあるから皆切磋琢磨し、伸びが良いのです」
正直恐ろしかった、だけど僕は彼女に報いる為にもその契約書にサインした。ニコニコとした顔のままのヴァンジュさんはその契約書を回収して入学は闇の月で迎えに来ると言って去ってしまった。
それから闇の月を迎えるまでの日々は矢のように早かった。数年間はろくに帰れないということで準備が結構大変で実家に帰る日が何日もあった。その為、事のあらましをリート嬢の手紙を添えて伝えれば母やたまたま家にいた兄は大きく顔色を変えた。兄は嘲笑と焦りを含んだような声で、母はどうしてか本当に喜ぶような声で僕を褒めた。
顔色を変えたのは私室にいた父も例外ではなくその仏頂面が僅かに崩れた。格を重んじていた人だから何を言い出すか分からない。歯の根が合わない気持ちを押さえて父の出方を伺うとその手が伸ばされる。その手は僕の頭に向かい、インクの臭いが少し漂った。髪が動く感触が僅かにした後、父は何もなかったかのように手を振った。仏頂面は戻そうとしていたみたいだけど崩れたままだった。
僕にはこれだけでも十分でそこに言葉はいらなかった。そしてこれが父を父として見れた二回目の出来事だ。少しだけ家族との溝が浅くなったような気がした。
「いってらっしゃいませ、トゥーラ様」
「……、いってきます」
闇の月、僕の見送りにはリート嬢やマルシュ、それに母の姿まで見えた。この島から学園に向かうのは僕だけ。最初はこれが普通なのだろうかと思ったけれど学園に着いてからおぞましい入学試験があったと聞いたので驚いた。あんな入学試験を受けていたら一番に脱落したと思う。僕は勧誘されていたから別枠で既に入学許可が下りていたそうだ。試験らしい試験といえば魔法に関する基礎的な問題を問われたくらいだ。
それから様々な島の人と関わり合い、魔法について勉強し、時々島に戻って彼女の伴奏者としてオーガンリードを弾いていた。毎日のように問題は起こるし、クラスメイトは個性的で誰もが尖った才能を持っている。そんな仲間や先生達に揉まれながら四年が経ち卒業式を迎えた。歴代卒業生の中で最速らしい。
「――ルコンセールのトゥーラ・ヴィーゲン・パルティ。卒業を認めます、卒業おめでとう」
そして今の彼女との関係は最も誇られるべき称号であるパルティシアの伴奏者。学園を卒業した今の僕には魔法で会話する事も出来るのだが彼女の会話方法はやはり音楽、このまま彼女との関係が続くことを僕は願いたい。でもそれはいい意味で続かないらしい。
「ふふ、わたくしといてくれてありがとう存じます。わたくし、貴方の全ての音をその横でずっと聞いていたいのです」
『リート嬢、それはつまりああいう事ですか?』
「そういう事ですわ」
――喜んで。
盲目の歌姫と声無き伴奏者 夜桜。 @yozakura_aji
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