月下三三九度の恋人

月下三三九度の恋人

　ふとバックミラーを見たら、あるはずのものがなくなっていた。

「あれ、後ろに置いとった月どうしたん？」

　きのうの夕べまで、まるい大きな月が後部座席に鎮座していたはずだ。ふたりで盗んだ月が。

　俺が訊ねると、助手席で微睡んでいた愛弓（あゆみ）はそよと笑った。

「あぁ……壊れとったから、わたしがいったん持って帰ったんよ。ように繕うといた」

　来たときよりも美しく、よ。

　そう呟く彼女は、いまにも寝てしまいそうだ。眠そうな、舌ったらずな声が、ふわんふわんと波を打って耳に届く。

「持って帰ったぁ言うて……あれ、重いやろ」

　あんなん線の細い愛弓が持てるわけないわ。そうため息を吐くと、彼女が「だいじょうぶ」とのたまう。

「あれくらい、へいちゃらやって」

　最近、俺はおかしくなってしまった。

　愛弓がおだやかに笑うたび、なにかが欠けてゆくような気持ちになる。俺はほんとうに彼女と契りを交わし、一生を添い遂げるのだろうか。

　はらはらと花弁が舞うように、日を追うごとに、愛弓にかんする記憶は抜け落ちている気がする。だが、それを話したところで、彼女はきっとまた「へいちゃらよ」と微笑むのだ。まぶしい笑みを浮かべて、その光によって、おしまいにしてしまうのだろう。

　深夜二時、北国の田舎道はだれもいない。ひたすらに静かで、この世界にはふたりしかいないんじゃないかと錯覚してしまう。見渡す限り広がる田畑は、闇につつまれていて静かだ。ごくごくたまにファミリーレストランや喫茶店が建っている。それも視界から逃れるようにぽつんぽつんと存在しているから、なんとなく心許ない。

　崖の近くを通ると、遠くのほうに大きな山が見えた。危険だと示す看板がいくつもあるが、べつにここで死んでもいいかなと思った。どうでもいいのだ。

　俺が死んだとして、彼女がこれからも永遠に穢れのない存在でいてくれるならそれでいい。

　山の頂きには雪がまばらに積もっている。愛弓は寝息をたてて眠っていた。彼女の茶髪を手櫛ですくと、髪の束はさらさらと零れるように鎖骨あたりを流れて、細い肩はくすぐったそうにちいさく揺れた。この世でいっとう美しいものだと思う。いとおしいと思う。

「わあ、」

　愛弓が窓から身を乗り出す。なんべん危ないと言っても彼女は聞きやしない。

「――きれいやね。あのへん、どうなっとるんかなあ」

　窓の外を眩しそうに見つめる彼女の瞳は、そこらにある光なんかよりもずっと輝いている。

　はるかむこうに昏い色をした崖が見える。幾多もの人間を呑み込んだ闇だ。忌み嫌われた存在だ。

　古くからあるらしいその崖は、場違いにあかるい人工の光でうめつくされている。それはなんだかとても妙な光景で、いたたまれない気がした。

　ハンドルを切りながら、だんだん集中力のなくなった頭でどうにか答える。

「あー……あれやろ、電飾やろ。冬なんかいちばん、イルミネーションに力入れる時期やしなぁ」

　左肩に体温を感じて目を遣ると、愛弓が寄りかかって、こちらをまっすぐ見つめていた。吸い込まれそうになるほどの大きな黒目。大きな波がごうごうと押し寄せてくるみたいに、胸のなかがとたんにざわめく。

「ねえ、菫也（とうや）。知っとる？」

　愛弓の声はすこし掠れている。へいちゃらよ、と言ったときの彼女のしたたかさが、ほのかに淡く滲んだ。

「あそこで、あそこの崖でね、たくさんひとがおらんようになったんやって。あんなきれいなとこで、どうしてやろね。見惚れとったんかなあ。連れられて行ったんかなあ」

　二月のはじめ。雪はますます降るようになってきた。俺はよく眠るようになった。

――ねえ、董也。

　そこには、きらきらと輝くまんまるの月を抱えて笑う愛弓がいた。

「わたしたちは、共犯よ」

　＊＊＊