夫婦喧嘩は犬も食わない

森野 のら

憎い憎いも愛のうち

ぱちぱちと音を鳴らす暖炉の火。

全てを塗りつぶしてしまうような夕焼けを見て、真っ先に思い出すのがそれだ。

真っ白い雪が降り積もり、太陽が直ぐに沈んでしまう日々によって染み付いたものはそう簡単には抜けない。

だがそれを塗りつぶしてしまうような満開の笑みを浮かべる桜や楽しげに揺れるタンポポが春の訪れを教えてくれている。


部室の窓から、茜色が差す中庭を見る。

ピンクや黄色、たくさんの花々が咲いている花壇は今日も綺麗だ。

当然だ。唯一の園芸部員である私が世話をしているのだから綺麗に咲かないはずが無い。


「___!」

ふとやってくるあくびの波を身を委ね、大きな口を開いていると嫌な声が聞こえた。

甘い。そして媚びるような声。

下心を侍らせて、色を振りまく女が私の花壇にやってきた。


浅川 茶子あさかわ ちゃこ

浅川以外全員男子の文芸部に所属していて、無駄に良い容姿と媚びで文芸部員を侍らせている性悪女ラフレシアだ。


「ここの花壇、いつ見ても綺麗だよねー」


茶子の声に賛同する男たち。

嘘をつけ。

お前らの目線は茶子の顔か胸にしかいってないだろうが。


私が侮蔑の視線を向けていると、ふと茶子がこちらを見た。

そして睨むように目を細める。


「ちょっとごめんね。私、用事があるの思い出しちゃった」


男たちに手を振ると、小走りで校舎の中に入っていく茶子。


おー、こわこわ。

くるまでに退散しとこう。


荷物を持ち、園芸部に割り当てられた一階の物置のような小さな部室を後にしようとする。

と、ふいに男たちの話し声が耳に入ってくる。


「やっぱ胸でかいよなー」


何の話かは嫌でも分かった。

だから私は、黄色いイヤホンをつけて外の音をシャットダウンする。


ラフレシアにつられるのはやっぱりハエだな。


おっと、出るのが遅れたようだ。

近づいてくる足音に、顔を顰めながらも扉を開けるために手を掛ける。

その瞬間、扉が強い力で開けられた。


「はぁはぁ」


目の前には、肩で息をする女が眠たげな垂れ目で睨むように見ていた。


「お疲れ。じゃあな」


手をひらひらとさせて隣を通り抜けようとするとがしっと左腕を掴まれる。

その力は強く、腕には胸が当たっている。


「なんだ?」

「な、はぁはぁ、何見てんのよ」

「はぁ?それが言いたいためだけにここまで走ってきたのか?あほ極まりないな」


何年か前から、私の幼馴染・・・はこんな調子で何かと私に突っかかってくる。

正直、面倒だ。


「うっ、うるさい。だいたい、あんたがいつも……いつもそんな目でこっちを見てるからでしょうが!」

「そんな目?」

「だから!」


「茶子ぽん、本当に胸でかいよなぁ。ヤりてぇ」


下品な話し声と笑い声が、茶子の言葉を遮るように外から聞こえた。

茶子の動きが止まり、そのまま唇を噛みしめる。


「ほら、抱きたいってよ。やったじゃん」


パシン。

乾いた音が、頰を叩く。

あまり痛くない小さな平手打ち。

目尻に浮かぶ涙の意味を理解する暇もなく。


「さいてー」

泣きそうで、悔しそうで、ただ茶子はそう言うと部室から出ていった。


「最低なのはどっちだよ」


今だに下品な話を続けるハエ共を横目に私は頬を撫でた。

春の暖かい風が、頬にしみる。




あの日から、そして茶子が学校に来なくなって三日が経とうとしていた。


クラスメイトたちは茶子がいないことでクラスの雰囲気がよくなると喜んでいた。

これで昼休みにこの教室で媚びた声やよいしょを聞かないで済む、と皆嬉しそうだ。


私はまだ、痛くないはずの頰が痛む。

彼女が何故、怒っているのか理解している。怒らせるだろうとも思っていた。


だがそこまで悲しませるとは思っていなかった。


海の底に沈んだ気分だ。

投げ込まれた石のように、ゆっくりと底へ落ちていく。

誰もいない真っ暗闇でただ一人になってしまった気分だ。


謝るべきだろうか。

謝るべきなのだろう。

きっかけがあれば。

きっかけがなくとも。


ただひたすら自問自答を繰り返して、花壇の水やりを済ますと早退届を出し、荷物を持って校外へ出た。


体調不良で早退すると伝えた時、クラスメイトは皆心配そうに見送ってくれた。


もし、私が茶子だったら皆はきっと嬉しそうにしていただろう。


「悲しいな」


その中で私は、笑っているだろうか。

きっとそれが答えだ。


高校から約十分ほど自転車に乗ると、私たちの住んでいる閑静な住宅街が見えてくる。

私の家から二軒隣の何の変哲もない一軒家が茶子の家だ。


インターホンを押す。

すると中からはい、と少しトーンの低い女性の声が聞こえた。

おそらく茶子の母だ。


宮古みやこです」

「えっ!?は、はつちゃん!?久しぶり、どうしたの?って、茶子のこと……?」

「はい。茶子と会えますか?」

「今、部屋に閉じこもってるのよ。ほんとあの子は……今開けるわね。初ちゃんが来たなら出てくるかもしれないし」

「お願いします」


きぃ、と扉が開く。

顔を覗かせたおばさんは最後に見たときと全然変わっていなく、少し安心した。


「すみません。急にお邪魔して」

「いいのいいの!あの子もこれで出てきてくれるといいんだけど」


茶子の家の匂いも、当たり前だが間取りも最後に見たときと同じだ。

階段を上がり、幼い頃に一緒に貼ったパンについているシールがついたドアをおばさんがノックする。


返事はない。


「初ちゃんが来てくれたわよ。開けなさい」


少し部屋の中で物音がしたが、返事はない。


「すみません。二人きりで話したいことがあるので……」

「じゃあ外すわね。本当に久々に初ちゃんの顔を見れて良かったわ」

「いえいえ、こちらこそ」


おばさんは、階段を降りていく。

おばさんの姿が見えなくなるのを確認してから私はコンコンと部屋の扉をノックする。


「茶子。開けろ。二人きりで話がしたい」

「……私はしたくない。帰って」

「嫌だ。一時間でも二時間でも、お前の家族が全員帰ってくるまででもここにいるぞ」


スマホの充電は100%あるし、バッテリーも持っている。

余裕で夜まで戦える。


ゆっくりと扉が開く。

やるといったらやる。私の性格はよく理解してくれているようで、ほんの少し安心する。

瞼を赤く腫らした茶子は、ピンク色のパジャマを着ている。

髪は、少しベタついていて風呂には入ってなさそうだ。


私は強引に部屋に入ると、昔と変わらないピンクを基調とした部屋が広がっていた。


「なんできたの……」

「お前がこなくなったから」

「なにそれ……」

「この前はごめん。とりあえずそれを言いにきた」

「……頬」


おっかなびっくりといった風に、茶子は私の頰に手を当てる。


「私こそごめん。叩いて。綺麗な顔なのにね」

「うらやましいだろ」

「……可愛さでいったら私の方が上だから」


確かに茶子は、同性の私から見ても可愛い。

言動はあれだが、まん丸な瞳もぷっくらした唇も、どれをとっても可愛いことに違いない。

茶子は決して媚びないでも、クラスの中心になれる存在だ。

実際、小学生の頃は茶子は人気者だった。

週一回のペースで告白されていたし、女友達も多かった。


だがある日を境に、私と初は疎遠になってしまった。それは私のせいで、それが悔しく悔しくて、謝ろうと思っていたのにいつの間にか月日は流れて、今に至っている。


私は大馬鹿ものだ。



「ねえ、初。覚えてる?四年前のこと」

「……ああ」


中学二年生の私には好きな人がいた。

名前も顔も覚えていない彼にある日、茶子は告白された。


そして私は嫉妬してしまったのだ。

大好きだった茶子を傷つけて、そして逃げた。


「ほんと死ねばいいと思ったよ。私の初を泣かせて、初と私を引き裂いたあいつが憎くて憎くてたまらない」

「何を言って……」


「知ってたんだよ。あいつは初が自分のことを好きなのを、そしてあえて私に告白した」


唖然とし、言葉が発せない。

茶子はさらに続けた。


「初と付き合うのに私が邪魔だったんだって。いつも一緒にいる私が、だから仲を引き裂いて、それから初の方へ行こうとしてた。覚えてない?それから初に必死でアプローチかけてたでしょ」

「覚えてない……」

「そっか」


なんて言えばいいのか、分からない。

私は彼女に謝りたくてここへ来た。出来ることなら関係をやり直したいと思った。


「全部知ってたのに、なんで……」

「わかんなくなったからだよ。初と離れて、わかんなくなったの。道端に咲いてる花を綺麗だと思っても返事はない、忘れ物して呆れたように見てくる人はいない、昼休みに一緒にバカみたいな話ができる人もいない。そうして気づいたの。私の友達は、本当の友だちは初だけなんだって、初以外いらないんだって、でも私じゃ……初を悲しませちゃう・・・・・・・から……だから……それならずっと離れてようって」

茶子の嗚咽混じりの声が響く。

「なんだよそれ……勝手に自己完結すんなよ……!私だって、ずっと、ずっと……謝りたくて、一緒にいたくて、でもできなくて……変な意地ばかり張って、この高校に来たのだってほんとは茶子と仲直りしたかったからなのに……茶子は変わってて……」

「寂しかったんだ。寂しくて、コミュニティにいるという安心感を得たくて一番手っ取りばやい道を選んだ。バカだよね。そしたらまた初との距離が遠くなっちゃった」


あはは、と乾いた声がやけに耳に残る。


「バカじゃん……バカ、ほんとバカ」

頬を伝う生暖かい液体を手の甲で拭う。

彼女も、そして私もバカだ。ずっと、ずっと空回りして意地を張り合って、逃げて逃げて、そうして辿りついた場所でまた傷つけあって……


慌ててハンカチを取り出そうとする茶子をベッドに押し倒した。


鼻腔を刺激するのはすっぱいような汗の匂いと懐かしい茶子の良い匂い。

茶子のべたついた髪が涙の痕にひっついた。そんなこしょばゆさも無視して、茶子のまん丸な瞳をただじっと見つめる。


「痛いよ……初……」

「覚えてる?小さい頃、私たちが迷子になったときのこと」

茶子は少し生暖かい息を吐き出して頷いた。


「茶子はあのとき、自分だって泣きたいはずなのに泣いてる私の腕を引っ張ってくれた。そのときからずっと憧れだったんだ。誰よりも強くて高潔な私の幼馴染、私だけの幼馴染……私の親友」


声が震える。嗚咽が漏れる。涙があふれ出る。

もう二度と無理だと思っていた言葉をなんとか紡ぐ。


「茶子……また、茶子さえよければ……また、あの……っぐす……茶子……と゛いっしょに゛い゛て゛い゛い?」

「……私なんかで……いいの?直ぐ逃げるよ?弱虫だよ?いっしょに……となりにたって……いいの?」


頷くたびに零れ落ちる涙が、茶子の頬を叩く。

混ざり合い、やがて落ちていく雫はとても綺麗で、今までのことなんて全て流れていってしまうような錯覚に陥る。

陶酔にも似た幸福感が支配して、そのまま崩れ落ちるように茶子の胸に顔を預ける。


私の頭を包み込むようにして撫でる手は、昔と変わらず小さかった。





_______ぱちぱちと音を鳴らす暖炉の火。

顔を真っ赤にした愛らしい少女を見て、真っ先に思い出したのがそれだ。

だけど、私にそんな趣味はない。


「ごめんね」

そう、一言だけ口にして校舎裏から去る。


「___浅川先輩じゃないとダメなんですか!?」

去り際にかけられてる声に、私は振り向いて曖昧な笑みを返した。


ピンクや黄色、色とりどりの花が咲いている花壇を見ながら部室へ帰る。

部員が二名・・しかいない園芸部に割り当てられた部室は小さい物置だ。

中に入ると一人用のソファがあり、種や植木鉢の山がある。

そんなソファに腰掛けて、お菓子を食べている友人は難しい顔をして携帯を弄っていた。


「あ、おかえり!モテ女はつらいね!」

「元はといえばお前のせいだからな……」


あの一件依頼、茶子は見間違えたように男子との接触を切り、私と一緒に過ごすようになった。


急に仲良くなった私たちに当然疑問の声もあがっていたが幼馴染であること、最近仲直りしたこと、を伝えると微妙な顔はされるも納得はしてくれた。


そして私はおしゃれをするようになった。

伸ばしていた前髪を切らされ・・・・、軽い化粧や服装などおしゃれに関することを徹底的に叩き込まれた。


その結果がこれだ。


鞄から出てくるのは片手じゃ足りないほどのラブレター。

そのほとんどが女子からのものだ。


「かっこいい先輩だって、みんな噂してたよ。どっちかというと可愛いのにね」

「……私にそういう趣味はない」

「でも断るたびに浅川と付き合っているからだって、やっかみがとんでくるよ。束縛しないで!とか」

「……なんだそれ。みんなの噂好きにも困ったものだな」

「別に付き合ってもいいよ?」

「……面白くない冗談はやめろ」

「そんなこと言うくせに私が誰かと付き合おうかなっていうと顔を真っ青にしておどおどするよね」

「それとこれとは話が……」

「別なの?」


茶子に真剣な顔で見られ、思わず顔を逸らしてしまう。


べつだ、べつに決まっている。

第一恋人なんて、キ、キスとかするわけだろ!?


茶子とキス……


ボンッ


「わ、だ、大丈夫?」

「だ、大丈夫!!なんでもない!なんでもないから!!!」

だからそんなニヨニヨした笑みを浮かべるな!

「へー、まあスマートでかっこいい宮古さんは幼馴染と恋人になった想像をして赤くなったりしないよねー」

「おっ、おまっ、おまえっ!」

「顔真っ赤だよ?どうしたの?」

「うっ、うるさい!うるさい!」


熱い頬を隠すように右手で口もとを覆う。

そんな姿も茶子には滑稽に見えるようでいっそう笑みを深めた。


「もっ、もう帰る!」

逃げるように部室からでようとすると腕を掴まれた。


「帰るなら一緒に帰ろ?」

「……ああ」


私より頭ひとつ分小さな茶子の隣を歩く。

背中を照らす夕焼けのせいで全身が熱を帯びているようだ。


「なんだか最近楽しいね。昔に戻ったみたい」

「みたいじゃなくて、戻ったんだよ。茶子と私に」

「そっか」


茶子は楽しそうに笑い、私の前に飛び出す。


「なんだ?」

「ねえ、私のファーストキスの相手って誰だかわかる?」

「……興味ない」

興味ない、興味ないったらないのである。


ぶっきらぼうに答えると茶子は笑みを消して、ぽんと一歩飛び出した。


唇に何かが触れる。歯に何かが当たる。

痛みと同時に呼吸も忘れ、夕焼けに染まった帰路に心臓の音がやけに響く。


その柔らかく、硬い何かは、顔を真っ赤にして涙目になりながらも真っ直ぐにこちらを見ていた。


「ね、ねえ私のファーストキスの相手……わかる?」

夕焼けに負けないぐらい真っ赤になった茶子。

理解が追いつく前に、私は鉄の味がする唾液を飲み込んだ。


END

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