第56話


「ごちそうさまでした」


 さくらは食欲不振だったにも関わらず、冷やし肉うどんを完食し、両手を合わせる。


 食事の挨拶を終えたタイミングを見計らい、煉は料理教室のことを伝えるなら今しかないと、四つ折りにした例の紙を食後の麦茶に添えてさくらに差し出した。


「何? この紙……」


 さくらは受け取った紙を不思議そうに眺めながら、ゆっくりと折られた紙を広げていく。


「さくらの許可が得られるならば行きたいと思っているのだが……どうだろうか」


 断られたら素直に諦めるしかない。そう思いながら様子を窺っていると、さくらは紙を凝視したまま突然大声を上げた。


「ああっ! これ、私のお母さんの料理教室よ!」


「…………なんだと? そうなのか」


「うん。ここに原紅子って書いてあるでしょ?」


 道理で何処かで聞いたことのある名前だと思っていたが、まさか、さくらの母親だったとは……。だが、その事実を知った煉の脳裏には一つ、とある疑問が浮かび上がる。


 母親が料理教室を営んでいながら、何故に、さくらは料理が出来ないのか、という最もな疑問だった。


 まぁ、母親が料理上手だからと言って、娘も料理上手とは限らない訳だが……。さくらの料理の腕は色々と問題があるような気がする。


「そうか……。さくらの母親か……」


 煉は腕を組み、小さく呟く。


「そういえば、今年のお正月は帰省出来なかったから一年くらい会ってなかったかも……。連絡するのも忘れてた……」


 さくらはバッグに仕舞ったままだった自身の携帯を取り出すと、画面を見つめ母親へ連絡をするべきか悩んでいるようだった。


「母親に連絡するのが気まずいのなら、無理をしなくてもいい」


「気まずいわけじゃないんだけど……。ただ……お母さんに会うなら、ちょっと覚悟はして欲しくて」


「はあ……よく解らないが分かった」


 さくらから何か不吉な言葉を告げられた気がしたが、きっと気にしない方が良いのだろう。


 その日の夜、さくらは珍しく遅くまで起きていたようだった。


 ◇


 料理教室の一件から数日経過した、ある日。二人は電車を利用し、さくらの実家が在る隣の市へ訪れていた。ちなみに、くだんの料理教室も実家近くの公民館等を借りて、定期的に開催しているらしい。


「そんなに怖い母親なのか」


 休日の電車内は平日とは少し異なり、家族連れが多いように感じた。煉はつり革を握り、座席に座っているさくらを見下ろす。

 さくらの気分が朝から降下したままなのは、これから会う自身の母親に対して、何かしらの不安を抱えているからなのか。


「え? 違うけど、どうして?」


「さっきから、ため息ばかりついている」


 さくらは電車に乗ってから、すでに三回は、ため息を溢している。見ているこっちまで、ため息が移りそうな程だった。


「あぁ……それは、会えば分かるよ。きっと」


 ……そして、何故にさくらは俺と目線を合わせないんだ。家族のことは触れてはいけないことだったのか? なら、そもそも、実家へ行こう等とは言わないはずだが……。

 

 さくらが悩んでいる原因が、俺には解らなかった。



 最寄り駅で降車した後、十五分程歩き、さくらの実家へ到着した。二階建ての一軒家で、手入れが行き届いている玄関前には、インパチェンスの植木鉢が置かれ、華やかな雰囲気を演出していた。


「ここが私の実家よ。じゃあ、チャイム押すね」


 さくらが玄関前に立ち、呼び鈴を鳴らそうとした時、煉の脳裏には何故か嫌な予感が不意によぎった。


 この扉を開けてはならないと身体が警告している。


「ち、ちょっと待て──」


 だが、時はすでに遅し。さくらを止める間もなく、呼び鈴を鳴らす前に玄関の引き戸は、独りでに勢いよく開け放たれた。


「まあっ! 本当に帰って来たのねぇ! 嬉しいわぁ! お帰りなさい、さくら」


 開け放した玄関先から勢いよく現れた和服の女性は、さくらを見るなり嬉しそうな声を上げたかと思うと、思いきり抱き着く。


「た、ただいま。お母さん……えっと……このひと──」


 がっちりと母親に抱き着かれ、身動きの取れないさくらは、小さなうめき声と共に隣で大人しく立ち尽くしている煉を指差す。


「…………あらやだ……イケメンが」


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