第55話 これは偶然か

 さくらは昨夜、どこか疲れたような表情で帰宅した。様子から察するに、相手との気持ちの区切りを着けたのだろうと思う。


 翌日の今朝もまだ少し沈んだ様子だった。


 何か気の利いた言葉を掛けられれば良かったが、生憎俺はそんなに器用な方ではない。結局は何も言葉を掛けることは出来なかった。


 何時ものように、さくらの出勤を見送った後、煉はベランダから外の景色を眺めていた。


 気分が落ちているさくらに自分は何が出来るのだろう。俺に出来ることといえば、部屋の掃除と好物の料理を作り、帰りを待つことだけだ。不甲斐ないにも程がある。


「む……そういえば」


 がっくりと項垂れ、物思いに耽っていた煉は何かを思い付いたのか、ぽつりと独り言を呟く。そして、思い立ったが吉日。煉は日課の掃除を手際よく済ませると、黒猫のチャームが付いた合鍵を使い、施錠をしてマンションを後にした。


 ◇


「ふむ……」


 煉は目的地の激安スーパーマーケットに到着すると、入り口の自動開閉扉近くに貼られている一枚の貼り紙を仁王立ちで凝視していた。


 眉間に深くしわを寄せ、凄みを利かせて、その場から一歩も微動だしない煉の周りには、いつしか何人もの人集りが出来ており、今にも警察に通報されそうな雰囲気が漂っている。


「あのー……」


「おい」


 警戒心を全面に押し出している女性店員が遠巻きに煉に声を掛ける。と、同時に煉も自身の視線を貼り紙から店員へと移し、声を掛けた。


「はいいっ!」


「この貼り紙、一枚余ってはいないか。欲しいんだが貰えないだろうか」


「あ、あげますっ! い、今持って参りますから少々お待ちをっ!」


 煉に睨まれ声を掛けられた女性店員は、怯え上がった様子で全力疾走でスーパーへ駆け込んで行く。


 ものの数分後、店長とおぼしき男性と共に戻って来た女性店員は、震えながら手にしていた紙を差し出す。


「すまない。助かる」


 煉は受け取った紙を丁寧に四つ折りにして、ジャージのポケットに仕舞い込むと、そのまま嬉しそうにスーパーへ入店した。


「店長……な、何でしょう……あの方は」


「さ、さあ……私にも分かりません……」


 店長と店員は唖然としながら、入店した煉の後ろ姿を見つめていた。



 スーパーでの食材の買い出しを済ませ、帰宅した煉は、先ほど手に入れた貼り紙をテーブルに置き、眺めていた。


 可愛らしい料理のイラストと共に『料理教室』と大きく書かれている紙には、生徒募集中の文字と料理教室の責任者であろう人物の連絡先が記載されている。


 ──責任者、原 紅子はら べにこ


 何処かで聞いたことのあるような名前だが、それが気に掛かり、この紙をわざわざ貰って来た訳ではない。


 最近、夕食のレパートリーに悩んでいた煉は、ふと先日スーパーで目撃した料理教室の貼り紙を思い出した。


 そして、煉が今朝ベランダで思い付いたのは、落ち込んでいるさくらが思わず驚くような料理を作り、振る舞うというものだった。


 プリント紙をよく見ると飛び込み参加もオーケーと書かれている。


 ……これは、行くしかない。しかし、さくらの了承も無しに勝手に教室へ通ってもいいものか……。いや、流石に駄目だろうな。


 煉は夕食の献立を考えつつ、料理教室勧誘の紙を眺めながら、さくらの帰宅を待ち侘びることにした。


 ◇


「今日は冷やし肉うどんだ。しかも、少し質の良い牛しゃぶ肉を使用した」


「あ、ありがとう……」


 料理に関しては相変わらず得意満面な煉に、さくらは困り顔で苦笑を溢す。


 煉が食欲不振のさくらでも食べられる料理を、ネットのレシピサイトで検索した結果、今日の夕食は手軽な麺類になってしまった。


 本当ならば、もう少し手の込んだ料理を作る予定だったのだが、午後から気温が急激に上昇し、予定を変更せざる負えなかったのだ。


 手抜きと思われないように、盛り付けはいつもより少し丁寧にしたが、おそらく、さくらはそのことに気が付いてはいない。


 煉は料理教室の件について、いつ話を切り出すべきか少しそわそわとしながら、自身も食卓に着いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る