第54話
「お店、何処がいいですか?」
「うーん……八重樫くんのおすすめで」
会社を出た後、すっかり暗くなった夜道を二人は並んで歩きながら、これからどの店へ向かうのかを決めかねていた。
八重樫は自身の腕時計を眺め、時間を確認する。微妙な時間帯だった。お洒落なカフェはすでに営業を終えている店が多く、かといって、バーなどの酒が提供される店は、まだ営業を開始していない。
「おすすめ、ですか……今の時間帯だと、バーとかはまだ開いてないだろうし……」
「あ! 今日はお酒飲まないつもりだからバーとかじゃなくて……えっと、いつも通りに……居酒屋にでも」
「……そうですね、背伸びしても仕方ないですもんね。居酒屋に行きましょうか」
さくらの一声に八重樫は頷くと、居酒屋へ直行することになった。
居酒屋とは言ったものの、お互いにじっくりと腰を据えて話をするならば、個室の方がいいと、大手の居酒屋チェーン店に入店した。
「前にもこんなことがありましたよね」
八重樫は、おしぼりで手を軽く拭きながら世間話を振る。
「あったね。あの時は確か……私から誘ったのよね」
この状況に何故か既視感を覚え、さくらは追憶に馳せる。あの時の自分は我ながら、色々と突っ込みどころ満載の言い訳をしていた。だけど、八重樫くんは疑うことなく、私の話を聞いてくれたのを思い出すと、ちくりと胸が痛んだ。
「何頼みますか? 今日は、お酒飲まないって言ってましたけど」
「……私はウーロン茶にしようかな。八重樫くんは?」
メニュー表を眺めていた八重樫は、軽食コーナーのページで手を止めて、さくらに尋ねる。普段ならば、さくらの方が進んでメニューを取り決めるが、今日は嵐の前の静けさの如く大人しい。その為、八重樫が然り気無く進行をリードする。
「いえ、俺も今日はやめておきます。じゃあ、後は適当につまめる物を注文しますね」
八重樫が手際よく注文を終えた後、二人の個室には
「ウーロン茶ですけど、とりあえず乾杯しましょうか」
「そうだね。……乾杯」
届いたばかりのウーロン茶のグラスをお互いに、こつんと鳴らし合わせて、一口目を含む。
いつも通りに一杯目は生ビールの方が良かったな、なんて思っていると、さくらの胸裏を見透かしたように八重樫は問い掛けた。
「やっぱり、物足りないですよね」
「でも、たまにはお酒抜きで話すのもいいよね……ごめんね、私の我が儘に付き合ってくれて」
「それは違いますよ。ここに来たのは俺の意志です。だから、今は食事を楽しみましょう」
「そうね」
運ばれて来た料理を一通り食べ終えると、個室の空気は途端に重苦しい雰囲気を纏い始める。居酒屋にいるはずなのに周りの喧噪から、この場所だけが切り離されたような感覚がした。
覚悟は決めてきたつもりだった。でも、いざとなると躊躇いが邪魔をして、どう伝えればいいのか解らない。そうして重苦しい沈黙を切り裂いたのは、さくら自身だった。
「私……八重樫くんの気持ちには応えられないの。……本当にごめんなさい」
結局、私の口から出た言葉は至極単純なもので、誠意の欠片は一つも感じられなかった。こんな言葉で、自分の好意を簡単に無下にされたなら、例えば私はどう思うのだろう。きっと、深く傷付いてしまうに違いない。そんな言葉は聞きたくなかったと思ってしまうかもしれない。
それなのに、彼は──八重樫くんは、最初から私の答えが解ったうえで、此処に来ていたのだと思う。私の言葉を聞いた後、彼は少しの間を置いてから、静かに、けれど清々しいほどに澄んだ声で、たった一言だけ「はい」と応えた。
「……正直、まだチャンスはあると思っていたんです。正式にさくらさんに告白をしたわけではなかったので。でも。もう、遅かったみたいですね」
「…………」
さくらは八重樫の顔を直視することが出来ずに、俯いたまま声に耳を傾ける。返す言葉は何も出て来なかった。
煉が好きだと気付いた時から、いずれ八重樫くんを深く傷付けてしまうだろうことは解っていた。それでも私は、穏やかな彼よりも孤独を生き抜いてきて彼を選んだ。
その選択に後悔はしていない。
でも、出来るなら誰も傷付けたくはなかったと思うのは、私の身勝手な理想なのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます