第37話
「なっ!? ど、どうして耳を……」
「…………すまない。暴走したな」
予想もしていなかった展開に、さくらは思考が追い付かず混乱状態に陥る。羞恥が勝り、両手で煉を押し退けて制止するのが精一杯だった。
煉に触れられた右の耳朶がやけに熱く、その熱がじんわりと身体に広がっていく感覚が解る。
視線を上げると、煉はお預けを食らった猫のようにシュンと悄気ていた。
「えっとね、嫌とかじゃなくて……その……少し驚いただけで……」
「ああ、分かっている。だが、駄目だな。今日の俺は、どうも様子がおかしい」
眉間にしわを寄せて何かを思案しているのか、煉は急に黙りを決め込む。さくらが気分を害したのだろうかと不安に駆られていると、やがて煉はむくりと立ち上がった。
そして──。
「野宿してくる」
そう、宣言した。
「……は?」
一体、何がどうなって、野宿という単語が煉の脳裏から出てきたのか。さくらは唖然としながら煉を見上げる。
先程までの甘い雰囲気は
「今日は帰らない。俺が出て行った後はしっかりと戸締まりをしておけ」
「ま、待って! どうして、急にそうなるんですか!? 嫌ですよ、私。野宿をして、また怪我でもされたら……」
抗議している間にも煉はすでに玄関へと向かっている。さくらは、その後ろ姿を慌てながら追い掛けて服の裾を強く引くと、そこでようやく煉は動きを止めた。
「今の俺は危険人物だ。朝になるまで外で待機していた方が、さくらは安心だろう」
「私よりも煉が怪我をすることの方がよっぽど嫌です。だから、此処にいて下さい」
さくらに睨み付けられた煉は逡巡した後、その強い意志に根負けをして、ため息混じりにボソリと小さく呟く。
「…………これは、何の苦行だ」
「大丈夫ですよ! 煉は紳士ですから」
さくらは微笑みながら、無自覚にも煉に釘を刺していた。
◇
……おかしいなぁ。
翌朝。目覚めると煉の寝顔が眼前に見えた。さくらは動揺をするよりも先に、冷静に現在の状況を分析する。
これは、きっと何かの間違いだ。うん、きっとそうに違いない。
何処か他人事のように思いながら、煉の寝顔を眺める。本当に綺麗に整った顔だなと思う。閉じた目蓋から伸びる長い睫毛に、通った鼻筋と少し開いている薄い唇……。
じっと観察を続けていると、不意に煉が呻き声を上げる。『あ、起きちゃう』と思ったが、時すでに遅し。煉はゆっくりと目蓋を開いた。
「…………」
「…………」
起き抜けの煉の視線と、寝顔を観察していたさくらの視線が交わり、二人は沈黙する。気まずい空気を破ったのは煉だった。
「……言っておくが、手は出してないからな」
「なら、どうしてこのような状況になっているのでしょうか……」
さくらは敢えて、わざとらしく抑揚なく答える。
しかし、煉がそう言うのなら、本当に手は出してないのだろう。では、一体何故このような状況に陥っているのか。脳裏に疑問を浮かべる。
「昨日言ったことを覚えていないのか?」
「昨日?」
煉に問われたものの、昨日は飲酒をしていたため、さくらの記憶は既に朧気にしかない。
私、煉に何を言ったんだっけ? 駄目だ、ほとんど思い出せない……。
「……お前は俺に紳士だから大丈夫と言ったんだ。それで試してみることになった」
煉は嘘を吐いてはいないように見える。ならば、さくらが『紳士だから大丈夫』と言ったのは事実なのだろう。
いや、しかし。どうしてそこで添い寝をすることになったのか。理由を聞いたら駄目なのだろうか。さくらは煉のように眉間にしわを寄せて思考する。すると、煉はため息をつきながら、ゆっくりとベッドから起き上がった。
「一晩添い寝をして、俺が手を出さなかったなら、俺はお前の言った通り、本当に紳士だということを証明するために添い寝をしたんだが、理解したか?」
「な、なるほど……? そうだったんですね。えっと、何だかすみません……」
要するに、この状況の原因を生み出したのはさくら本人で、煉は無茶振りに律儀に付き合っていただけに過ぎないらしい。
お酒を飲んでいたとはいえ、昨晩のことも覚えていられないほど、酩酊していたのかと思うと自分自身に対して言い様のない不安が生まれる。
このままでは、いつか絶対に間違いを起こしそうな気がしてならなかった。
しかし、今さらとはいえ、煉に間近で寝顔を目撃されたのかもしれないと思うと、さくらは恥ずかしさで、穴があったら今すぐにでも飛び込みたい気分だった。
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