第30話

 救急車両や警察車両のサイレンが、何処か遠くで鳴り響いている。


 目蓋をゆっくり開いていくと、視界に映るのは無機質なコンクリートの天井だった。


 そうか、俺は……無意識の内に、ここまで逃げてきたんだな。


 酷く痛む身体に苦痛で顔を歪ませながら、煉は仰向けに倒れたまま辺りを見渡す。そこは見覚えのある場所だった。


 煉が逃げ込んだ先は、以前、黒猫が川に流されていた橋の下だった。今はすっかり葉の長い草が覆い茂り、身を隠すには丁度よい場所になっていた。


 先程、自身の視界に映り込んでいたのは、おそらく橋の裏側の部分だったのだろう。


 あの子は助かったのだろうか。大きな怪我をしていなければいいが。

 

 煉は橋の裏側のコンクリート面を眺めながら思う。

 

 本当ならば保護者が到着するまで、あの子の側にいられたら良かったのだろうが、正体が発覚してしまうことを恐れた俺は、朦朧とした意識で、あの場から逃げ出し、いつの間にか此処まで来てしまったようだ。


 煉は身体に力を入れ起き上がろうとする。だが、それは叶わなかった。力が入らずに虚脱感に襲われる。


「な……ぜ、だ……」


 煉は苦悶の表現を浮かべて、自身への疑問を口にした。


 そこで、初めて気がついた。


 傷の治りが遅いことに。


 動揺に瞳が揺れる。


 こんなことは不死身となった日から、一度だって経験をしたことはなかった。


 いつもなら数時間で癒えていく擦過傷も、未だ塞がらずに疼いている。


 骨折や深い裂傷を負ったとしても、本来ならば数時間で傷が塞がり、そして数日間の内に損傷した箇所が全て完治するのだが、今はその傾向すら何も感じられない。


 俺は……死ぬのか? ここで?


「まだ……死ね……ない」


 あんなに思い焦がれていたはずの死。それなのに煉は突然訪れた死の気配に、戸惑いの感情を抱き、そして、怯えていた。


 どうして、俺は瞬間的に死にたくないと思ってしまったのか。そう自問自答する度に、脳裏に何度も、ちらついていたのは、さくらの存在だった。


「……せめて、夜まで……待ったら、少しは治ってる……か?」


 こんな状態で帰ったら、また、さくらを酷く心配させてしまうだろうな。


 煉は乾いた笑いを溢しながら、自身の傷を癒すために再び意識を手離した。



 再び目を覚ましたとき、空は既に漆黒に染まり澄んだ夜空が広がっていた。


「くっ……」


 時間を置いたおかげが、全く力が入らなかった腕が動くようになっている。痛みこそ、まだ完全に取れてはいないが、身体の自由が戻り、煉は一安心していた。


「痛いな。……それより、今は何時だ?」


 煉は一度深呼吸をしてから、ゆっくりと立ち上がる。その際に背骨が軋み、痛みで小さく呻く。


 合鍵を受け取った初日から、こんなことになってしまうとは我ながら迂闊だった。何だか帰りづらい。しかし、だからといって、このまま帰らない訳にもいかない。


 ……この傷、絶対に誤魔化せないよな。


 服は勿論ボロボロ。顔や腕にも、まだ擦過傷が残っている。こんな状態をさくらが見たら、間違いなく、今度こそ病院行きな気がしてならない。


 どうするべきか。だが、悩めど答えは一向に出てくる気配はなかった。


 帰ろう。後は適当に誤魔化すしかあるまい。


 ◇


 玄関の扉を音を立てないように静かに引き開けると、廊下にはリビングからの光が漏れ伝わっていた。


 まだ、起きてるのか。


 正直、今はさくらとは顔を合わせづらいが、律儀に帰ってきてしまった以上、今更逃げ出す訳にもいかない。煉は少し緊張した面持ちで、リビングへと足を踏み入れた。


「……遅くなった」


「煉、どこ行ってたの……って、何よ……その傷……」


 案の定、さくらは眠らずに煉の帰宅を待っていたようで、煉の姿を見るなり硬直した。

 

 まあ、そうなるよな、と思う。


 暗闇の中ならまだしも、光があるこの場所では、この姿は誤魔化しようがない。


「……また、何かあったの」


「まあ、そんなところだ」


 気まずさと後ろめたさで、煉はさくらの視線を避けるように目線を逸らす。


「……病院には行けないんだよね?」


「……出来れば」


「そう……分かった」


 さくらは煉の答えを聞き頷くと、真剣な表情をして自室に消えていく。その姿を煉は黙って見つめていた。


 これでは立場が昨日と真逆だな。俺は今度こそ本気で、さくらを怒らせてしまったのかもしれない。

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