第31話

 数分後。さくらは自室から大きなタオルと救急箱を手にして、リビングに再び姿を現した。


「取り敢えず、タオルと着替えが必要だよね。先に軽く傷口を流水で洗って、それから……消毒っと……」


「……怒ってないのか」


 甲斐甲斐しく治療の準備を始めたさくらに、煉は恐る恐るに問う。


「何か理由があったんだよね? じゃなきゃ、こんな怪我、しないはずだから……」


 てっきり、呆れられていると思っていた煉は、さくらの答えに驚きを隠せなかった。

 

 本当なら、何があったのか。どうして、こんな傷を負ったのか、色々と尋ねたいことがあるはずだ。それなのに、さくらは煉にその理由を追及することはしなかった。

 

 さくらは慣れた手つきで、煉の身体に出来た傷口を消毒しガーゼで覆う。二度目ともなると、さくらの治療の手際の良さは、前回よりも格段に上がっていた。


 もしかしたら、さくらは再び事が起こることを、予め予想して備えていたのかもしれない。


 それくらい、冷静な判断と対処の仕方だった。


 さくらの応急措置が終わり、煉はガーゼだらけの痛々しい自身を見つめながら、ぽつりと感謝と謝罪の言葉を溢す。


「助かった。……それと、すまなかった」


「うん。心配した。……すごく」


 さくらのその言葉に煉は既視感を覚える。昨日、自分が言い放った言葉がそのまま返ってきたからだ。


 他人に心配をされることなど、もう、二度とないと思い俺は生きてきた。でも、それは間違いだったんだな。


 たった一人で構わない。こんな俺を、嘘でも偽善でも、心配してくれる相手がいるのなら、俺はこの呪われた自分の身体を、少しは許すことが出来そうな気がする。


 煉は不意に、さくらを引き寄せると優しく包み込むように、そっと抱きしめる。


「えっ! なに? ちょっと、煉!?」

 

 痛みを感じさせないように少しだけ抱きしめる力を強めると、更に互いの距離が近付き、呼吸をする息づかいさえ間近に感じた。

 

 血液の通った、さくらの身体の暖かさに、煉の心には安心感が広がり、そして癒されていく。


「……これ以上は何もしない。手も出さない。だから、少しの間だけ……こうさせてくれないか」


 煉の突然の行動に、さくらは身体を強張らせていた。恐怖で、というよりも純粋な驚きでだろう。


「いい、けど。……本当に大丈夫?」


「ああ、平気だ。お前がいるからな」


「えっ!? それって、どういう意味……?」


「さあな。疲れた、寝る」


 さくらの問いをはぐらかすと、疲れが出たのか急激に睡魔が襲ってきた。だが、さくらから離れるのは何だか名残惜しい。


 もう少し、もう少しだけ、このままで。


 そう繰り返し願っている間に、煉の意識はゆっくりと深い眠りに落ちていった。


 ◇


 翌日。煉が眠りから目覚めると、ぼんやりとした視界に、さくらの顔が至近距離で映る。


「……っ!?」


 驚きで声が出てしまうのを必死に飲み込み、静かにさくらから離れて状況を整理する。すると、昨夜のことが朧気に脳裏に浮かんできた。


 疲れ過ぎていて、よく覚えてはいないが、さくらを抱きしめていたことまでは、何とか思い出せた。しかし、その先が問題だ。


 どうして、さくらが俺と一緒に、リビングの床で寝る羽目になったのか。


 ……その原因が思い出せない。


「ん……煉……? どうしたの?」


 眉間にしわを寄せて思考していると、煉の気配に気付いたのか、さくらが起床した。


「昨日は、すまない」


「……ううん、私は平気。それより、煉の身体の傷は大丈夫なの?」


「俺は平気だが……」


 身体の痛みは当然ながら、まだ有るが、それよりも何だか、煉自身の感情がおかしなことになっていた。目の前にいるさくらが愛しく思えるのだ。


 先程のことで少し動揺しているだけかもしれない。気持ちを落ち着ければ、この妙な高鳴りは治まるはずだ。


 煉は目蓋を閉じて深呼吸をする。そして、再びさくらを見据えた。


 だが、しかし。

 この妙な高鳴りは変わらなかった。


「煉?」


 さくらは不思議そうに首を傾げ、上目遣いで煉を見つめている。


 俺は……一体、どうしたんだ?


 

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