第29話

 煉は合鍵を使い玄関の扉を施錠すると、マンションのエントランスを抜ける。そして、久し振りに外の景色をゆっくりと眺めた。


 さくらに拾われてからは、規則正しい生活をしていたとはいえ、煉は殆ど引きこもりの状態。正直、運動不足感は否めない。


 煉は太陽の熱と光を身体に直接浴びていると、まるで吸血鬼にでもなったかのような気分だった。


 煉がこれから向かうのは、さくらと三回目の邂逅を果たした公園。その目的は例の、あの黒猫に会うためだった。


 特に期待はしていないが、もしまた、あの公園で、あの黒猫に会うことが出来れば、と煉は思っていた。


 公園に到着した煉は、一休みをするために近場のベンチに腰を下ろした。端から見れば、ジャージ姿の煉は、きっとニートの若者にしか見えないに違いないだろう。


 平日の公園は全く人がおらず、このまま外で昼寝をしたくなってしまうような穏やかさだった。


 公園で昼寝などしていたら、確実に通報されるだろうな。……止めておこう。


 それより、やはり。あの黒猫はもう居ないか。


 どれだけ公園を見渡しても、やはり、あの綺麗な毛並みの黒猫は、何処にも見当たらない。当然といえば当然のことだった。


 何せ、あの出来事から既に時は一ヶ月以上は経過している。寧ろ、此処に居ない方が正しいのだ。そうと分かってはいるのに、少し落胆してしまう。


 何故、そこまであの黒猫を気に掛けているのか。それは、あの猫が何処か自分と似ているような気がしたからかもしれない。


 でも、もう。此処にあの猫はいなかった。


 仕方なく諦めて帰ろうと、煉がベンチから立ち上がった時だった。


 突然、何処からか小さな女の子が現れた。そして、その子は公園の出口から何かを追い掛けて、辺りを確認せずに車道へ飛び出して行く。


 視線を向けると車道には大型トラックが、明らかな速度超過で走行しているのが見え、煉は状況を全て理解する前に、全力で駆け出していた。


 このままでは、あの小さな女の子がトラックと衝突してしまうのが目に見えていたからだ。


 ──駄目だ。それだけは、絶対に。


 焦燥に駆られながら走る煉には、たったの数メートルの距離が酷く遠く感じた。


「危ないっ!!」


 煉は車道に飛び出しながら叫ぶと、孟スピードで迫るトラックに恐怖し、車道の真ん中で立ち竦んでいた小さな女の子を庇うように抱き上げる。


 瞬間。煉の身体に激痛が走る。


 久し振りの感覚に、呻き声を上げる余裕さえなかった。衝撃で背骨が砕けるような、熱い痛みが瞬時に身体全体に広がる。


 思い出したくない感覚に意識が揺らいだ。


 ああ、そうだった。

 俺、死ねないんだった。

 どうして、忘れていたんだ。


 大きな衝突音と悲鳴のようなブレーキ音を聞きながら、煉は硬いアスファルトの上に容赦なく打ちつけられる。


 それでも煉は、小さな女の子を守るために、腕に込められたその力を決して緩めることはしなかった。


 自分の身体が少しでもクッションとなり、女の子への衝撃を和らげられるのなら、それでいいと煉は思っていた。


 どうやら俺は、少し平和ボケし過ぎていたみたいだ。


 いつだって、どんなときだって、俺は死ねなかったじゃないか。


 どうして、どうして、そんな大事なことを俺は忘れていたんだ。


 このままじゃ、きっと誰かに見つかってしまうな。


 そしたら、俺はあいつに恐れられ見捨てられてしまうのか。


 気味が悪いと。


 さくらの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 裏表のない、子供のような無邪気な笑顔を。


 その笑顔を、悲しみに染めてしまうようなことは絶対にしたくない。


 だから俺は、誰かが此処に駆けつけて来てしまう前に、この場所から離れなければならない。


 本当はこの時代に存在してはならない自分を、誰にも気付かれないように、自分が此処にいたという証拠を、抹消しなければならないんだ。


「だ……いじょうぶ、か……?」


 煉は自分の胸に強く抱きしめていた女の子を、腕の力を緩めて解放する。


 だが、その子は未だに状況が理解出来ていないのか、泣き喚くことすらせずに、ただ、呆然とくうを見つめていた。


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