8.再びノースゲートへ
ノースゲートの雑居路はいかがわしい商売をする店のネオンサインばかりが目立ち、何年前に作られたかわからない街灯は、その殆どが絶命していた。
昼間とはまた違う、汚物と安物のオイルが混じった光景に、イオリが感心したような声を出す。
「素敵な場所だね。来るのは初めてだ」
「こんな時間に子供がいる場所じゃないけどな。ったく、噂話に踊らされた連中を使うのまではよかったが、あいつら通りすがりの人間にまで絡んできやがって」
シズマは油断なく辺りを警戒しながら、愚痴を零す。此処に来るまでに、噂話でおびき寄せられたグループがいくつかいたが、そのうち一つに絡まれたのが二十分も前のことだった。
幻の動物を探している彼らの、くだらないおしゃべりに付き合うほどシズマは優しくなかった。
「だからと言って、あの言い訳はどうかと思うわ」
「トイレに行くのは人間の特権だろうが。俺は目的のためなら、腹が痛い振りぐらいお手のもんだ」
道路にはアンドロイドや人間の姿が見えるが、どれも堅気の商売には見えない。客を探しているらしい娼婦が、一瞬だけシズマを見たが、子連れであるとわかると、即座に興味を失って視線を逸らした。
「そこの道に入れ」
目立つのを避けるため、シズマはすぐ傍の細い道に二人を押し込んだ。イオリが軽く躓いて、前方にいたエストレの背中に衝突する。突然の出来事に驚いたエストレが悲鳴をあげかけて、しかし自分の口を両手で覆うことで防いだ。
「危ないじゃない」
「オジサンが急に突き飛ばすからだよ」
「お前らがもたもたしてるからだろ。イオリ、チャイナフード店は?」
狭い道で、イオリは体を捻るようにして端末を開く。画面上の地図には三人がいる場所のマークが点滅しており、小さな狐がすぐ近くで飛び跳ねていた。
「此処を突っ切ればすぐだよ」
「周囲に気配は?」
「それはハッカーに聞くことじゃないよ。でも、他の防犯カメラを見る限りじゃ、怪しい人影はないね」
ビルとビルの間の細い道を通り抜けると、シズマにとって見覚えのある道に出た。それを補足するように、エストレも声を出す。
「ここだわ。見覚えがある」
「わかってる。声を出すな」
暗い道路を一本隔てて、チャイナフード店が見える。中にはまだ灯りがついていて、偶にその影が動いていた。
距離にして数メートル。人影は見えない。
しかしそれは裏を返せば、三人の姿が発見されやすいということでもある。
「俺が最初に行く」
「待って。なるべく一つに固まっていたほうがいいと思う」
「じゃあどうするんだ。さっきみたいに写真を撮ることにしか生きがいのない連中を呼び寄せるか?」
「酔っ払いのゲロと壊れたアンドロイドの
冗談めいて言う様子に、イオリが口を尖らせる。
「僕だけ置いていくっていうなら考えがあるよ」
「そんなこと言ってないわ。でも貴方、補導されるのは嫌でしょう?」
「ゾッとするね。あいつら親切な顔して、正義でぶっ叩いて来るんだ」
「でしょうね。同じことを考える連中が他にもいるってことよ」
エストレは再びイオリの端末を手に取ると、ネットワークに接続した。
「ACUAを使うのか」
「唯一絶対の武器だわ。この何が本当で何が嘘かわからない世界ではね」
暗がりの中、モニタのバックライトがエストレの顔を照らす。
口元に笑みを浮かべながら、それでも若干の緊張を持っているのか、首筋に小さな歯車が蠢いていた。銀色の髪の奥で見え隠れする歯車は、その脳内にある思考回路を忠実になぞっているかのようだった。
「ACUAを操作して、ソーシャルネットワークのいくつかに共通の噂を流したわ。そろそろ動くはずよ」
「何がだ?」
シズマの問いに、エストレは人差し指を口の前に立てて静かにするように促す。先ほどから端末を好き勝手に触られて不機嫌なイオリも、特に何かいう訳でもなく通りを見つめていた。
やがてどこからか足音が近づいてくる。シズマは思わず身構えたが、意外なことにそれを制止したのはイオリだった。まだ子供らしい、柔らかく華奢な骨が感じられる手が、シズマの右手首を抑える。
だがその指先は、タイピングをするかのように小刻みに震えていた。
「何を怖がっている?」
「……全てをだよ」
足音は次第に数を増やし、三人の隠れる近くまで迫っていた。しかしその足音や向きはいずれも統率がなく、ただ同じ方向に行くだけの他人のようだった。
三人の隠れているすぐ近くに、気怠い様子で大股で歩いてきた男が、苛立った声を出す。
「冗談じゃねぇよ。一斉に手入れなんて」
「まぁまぁ。掻き入れ時に罰金払うのも馬鹿らしいじゃないですか」
「お前のところはアンドロイドだからいいさ。こっちは年齢確認までされるんだぞ」
「こっちだって耐久年数のチェックはありますよ」
いずれも、この界隈を縄張りにしている、風俗店の客引きのようだった。シズマは左目を凝らし、何人かが引きずるように運んでいる看板を見る。色気のある女の裸体や、耳障りの良いキャッチコピーが光学塗料で描かれていた。
電源を入れると絵が動く仕組みになっているが、今は沈黙を保っている。
「二時間ぐらいは大人しくしてるか。俺は飯を食ってくる」
「では私はオイルでも詰めてきます」
それぞれが好き勝手に愚痴や世間話をしながら、路地を進んでいく。エストレがシズマの肩を叩いたのは、その瞬間だった。
「今よ」
「正気か?」
「警察が風俗店の摘発をするって情報を流したの。彼らが私達を見ても、騒ぎ立てたり絡んだりすることはないわ」
早く、とエストレが促して道路に飛び出す。看板持ち達は一瞬だけ視線を向けたものの、興味の欠片も見せなかった。
看板が絶妙なカモフラージュとなり、三人の姿を夜道に溶け込ませる。なるべく怪しまれないよう、しかし可能な限りの速さでシズマ達は道を横断した。
チャイナフード店のガラス戸に手をかけたシズマは、一瞬息を止めて中の気配を伺う。警戒する様子や物音が起きないのを確認すると、リヴォルバーをいつでも抜けるようにしながらガラス戸を引いた。
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