有り触れた恋の結末

夜煎炉

───此れは、よく在る恋の物語

 何をしているのだろう。咄嗟に身を隠してしまった事に自問する。答えは簡単である。日直を終えた事を報告しに隣の教室へ向かえば、報告の相手たる幼馴染がクラスメイトと会話をしていた。

 無論、其れだけであれば態々身を隠したりなどしない。クラスが離れてからは互いの教室を行き来するのは当たり前となっており、オレの教室にアイツが来ようが、アイツの教室にオレが行こうが、クラスメイトは勿論、担任さえさも当然の様に受け止めている。会話が終わる迄待つ事はするにせよ、態々隠れる必要などないのである。

 ならば、何故隠れたか。此れも答え自体は簡単で教室内から聞こえたアイツの声は、長い付き合いの中一度たりとも聞いた事がない程真剣なものだったからだ。其れに驚愕して足は止まり、思わず扉の影に身を潜めてしまった。

 幸い放課後の校舎内には人が少なく、廊下にも誰も居ないが、誰かが通れば不審に思われて仕方がないだろうし「どうしたの?」と声でも掛けられれば、其の声が幼馴染に届きでもすれば、まるで盗み聞きをしていた様で気まずい事此の上ない。

 ならばそろそろ覚悟を決めるか。同じ気まずさにしても、盗み聞きと誤解されるよりは幾らかマシな筈である。しかし其の決心は呆気なく吹き飛んだ。

「オレ、好きな人がいるんすよ」

 聞こえてきた其の言葉で、オレの何もかもを巻き込んで。

 足元は崩れ落ち、周囲の酸素は急速に薄くなる。或いは人体に有害とされる程濃厚に。何方にせよ、オレに空気が届かぬ事に変わりはない。血液は急速に冷え込み、或いは急激に沸騰し、心臓は張り裂ける。微かな空気を求めて小さく口を開閉させるが、果たして効果はあったのだろうか。

 しかし考えてみれば何らおかしな事ではない。真暗闇の中、いやにチカチカと明滅する真白の中、鈍痛を訴えつつ脳は思考する。別段、幼馴染が誰かに恋情を寄せていようと不可思議ではないと。

 そして贔屓目抜きに整った容姿を持つ此の男に想われ、不快に感じる女は少ないだろう。告白の成功率とて高いに違いない。さすれば此の男の隣に居るのが己で無くなるも自然。

 口内は乾ききっていたが、必死で少ない唾液の嚥下に努める。さながら猛毒に焼かれた喉を鎮めるが如く。

「あ!日直終わったんすねー」

 アイツの声が聞こえる迄、自身が如何していたかさえ定かでない。ただ痛む脳はアイツの言葉だけを幾度も幾度も繰り返す。好きな人がいる。好きな人がいる。好きな人が。

 熱と毒に焼かれた喉が震え、空っぽになった肺を絞る。「ああ、帰ろうぜ」なんて単純な言葉を発するのにさえ、労力を要した。其の甲斐あってか、アイツには何ら違和感を抱かせなかった様だが。

 嗚呼こうして並んで帰るのも最後かと、重い足を無理矢理に引き摺りつつオレより上にあるアイツの顔を見やる。毎日毎日長年見慣れた光景ながら、一度だって幸福を感じぬ日など無かったというに。

 今日だけはやけに重苦しい。空と萎んだ肺は強く縛られ、張り裂けた心臓は踏み潰され。隣の家に消えていくアイツに別れ際、果たして普段通りの言葉を返せたかすら、痛み朦朧とする脳では定かでなかった。



「……あれ?」

 毎朝登校を共にして十年以上。幼馴染が朝に弱い事はよく知っていたが、時間にしっかりした男である事も知っている。オレが迎えに行っても尚、家から出てこないなんて事、今迄に一度だってなかった。

 幾らしっかり者とて幼馴染も当然の事ながら人間である。ならば一度くらい寝坊の様な迂闊を仕出かして不思議はないものの、何故か焦燥を感じオレは何度目かのチャイムを連打する。

 漸く開いた扉は、しかし望んだ姿ではなく、本来であれば有り得ない人が其処には居た。幼馴染の両親は忙しく、朝早くに出掛けてしまう。其れ故、特に中学に上がってからは彼等の姿を見た事など無かったのだが、其処に立っていたのは会うのが久方振りとは言え忘れようのない幼馴染の母親の姿。

 しかし其の姿は記憶と大いに異なっていた。膨大な仕事を抱えようと其れこそやり甲斐とばかりに真っ直ぐな目をし、しかし母親としてはやさしく幼馴染やオレを見つめていた女性。其の双眸には動揺が露わになり、頬もすっかりとこけ、どんなに忙しかろうと美しく整えられた髪は竜巻にでも巻き込まれたかと思う程乱れきっている。

 オレの名を呼んだ唇も、さながらひび割れた大地かと言う程荒れきり、わなわなと震えていた。そんな中辛うじて聞き取れた「あの子は、あの子はね、」の声に嫌な予感が一瞬で胸を支配し、オレは其の場に靴を脱ぎ捨て、幼馴染の家へと上り込んだ。

 背後から聞こえる、制止を促したいと思しき声すら気に留めていられない。散々通い慣れた幼馴染の自室の扉を、半ば蹴り破らんばかり勢いで開け放ち、途端鼻を突いた異臭にオレは吐き気を覚え其の場に座り込む。

 幼馴染は幼い頃より綺麗好きで、其れ故自室は何時訪れても美しく整えられていた。しかしそんな面影は無い。

 常に磨かれていたフローリングには様々な液体がぶち撒けられている。黄色味がかったもの、半透明のもの、茶色いもの、赤黒いもの。異臭の根源は其れだろう。吐瀉物、糞尿、血液。

 蹲り、項垂れていた顔をおそるおそる上げれば、基本的な家具の他特に飾り気ない見慣れた幼馴染の自室に、見慣れぬインテリアが一つ、ふらりと揺れている。

 見慣れたパジャマを纏って、しかし床を汚す様々な液体で同じ様に汚していて。

 料理が得意な幼馴染はよくオレにも手料理を振る舞ってくれた。そんな時彼の左手にやけに馴染んでいた、慣れた手つきで繰っていた見慣れた包丁は、しかし今本来置かれているべきキッチンではなく、見慣れた左手でもなく、見慣れぬインテリアの胸元に刺さり、其処を中心に赤黒い染みが広がっていた。

 嗚呼、分かっている。ふらりと揺れる見慣れぬインテリアは、幼馴染の首吊り死体であると。首吊りの末路として弛緩した体が糞尿を撒き散らした故の異臭であり、床の汚れであると。其れは分かっている。しかし、理由が分からない。何故、アンタが自殺に至ったか。其れも急所こそ違えていたのだろうが胸を突き刺し、首を吊るなどという方法で。万一にも助かる道を確実に塞ぎゆく様な手法で。

 昨日の別れ際は極々普通、十年以上続いた何時も通りの別れ際だった筈である。其れなのに何故、変わらず訪れる筈だった明日は、此れ程変わり果てた姿でオレを迎えたのだろう。

 力無く呆然と項垂れるオレの制服から音を立てて小さな袋が落ちる。そう、今朝の登校は確かに十年以上続いたものと異なるものになると、思ってはいた。アンタの好きなメーカーのイヤーカフはオレのピアスと揃い。其れが。

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