(4)
彼と我との境界を失くし、すべてを溶かし込まれた僕は赤い川の流れになった。
流れの中にすべてがあり、同時に、そこには何もなかった。
僕もまた、河の流れすべてが僕であり、同時に、僕はもうどこにもなかった。
あの群集のすべてが──肩車の男たちも、花びらを飲み込んだ女も、くるくる回る振り袖の娘も、誰ひとり、もうない。
我も彼もみな、ここに溶かし込まれてしまったのだ。
そもそも、彼らの一人びとりがみな別々の人間だったなどと誰に言えようか。
酒樽を運ぶには男手でも三人はいるだろうから、別々の三人の男だっただけで、抱き合う二人の少女だって、自分で自分を抱きしめて慰撫しあうことなど出来はしないから二人に分かれていただけで。
彼と我を隔てるものなど、そもそもありはしない。
そんなものは、すべて儚い人間の思い込みに過ぎない。
そもそも、皆とうに死んでしまっているのかも知れない。
桜の樹の根方に倒れ伏して、とっくの昔に死んでしまっているのに、はかない夢を見ながらその夢を吸いとられ、代わりに桜を咲かせては散っているだけなのかも知れない。
赤い花弁を河面いっぱいに浮かべて、ただただ流されてゆく。
一瞬だけ、水面から上に僕の右手が出て、空気に触れたのが感じられた。
──ああ。そうか。
あの時ちらりと見えたのは、僕の手だったのか。
──手?
何かをつかんだかのような、右手の形がほのかに青く浮かんだ。
──僕の手が、ある?
かすかな青い光を手のひらに握り込んだ僕の右手がある。
それが、見える。
──手が、見える?
僕の右手が見える。
しみ込んだままの青い音も見える。
見える?
見えているのなら、僕には目があるはずだ。
──見える。
見えている。
僕には目がある。
目があるのなら、僕には僕の目を収める眼窩があり、眼窩をそなえた頭が僕にはあり、それから頭と手があるのならば、それらをつなぐ間に腕と体があるはずだ。
右手から手首へ、腕と肘と、上腕から肩へと。
目で追いながら、ひとつずつ確かめる。
目で見えない部分は、意識する。
背中から首、頭、顔と。
よくよく目を凝らせば、自分の鼻の頭がほんの少しだけ見えた。
まばたきをする。
髪の毛が目にかかっている。
無意識に左手がそれをはらう。
ほら、左手もあった。
ほっと息を吐く。
口と肺もあるからだ。
ならば、きっと肺を収めた胸部があって、その中にはきっと心臓もあって。
うつむき加減にあごを引いて、胸元を見下ろした。
そこに鼓動を感じた。
全身に向けて、そこから熱い血液が流れているのがわかった。
毛細血管のすみずみまで運ばれて、僕の皮膚の薄皮一枚までをもはっきりと生かしている。
僕の体がここにある。
彼と我とを隔てて、僕自身が確かにここにいる。
僕はもう二度と赤い河の中に溶かし込まれたりなんかしない。
──彼もお前も、みな我だ。
──お前の持つ想念も、エーリッヒが宿す音も、すべて我だ。
ナイアルラトホテップの言葉が僕の胸を打った。
ああ、そうだ。
だとしたら、この河の中にエーリッヒがいるはずだ。
きっと──
「エーリッヒ」
僕は呼びかけた。
「エーリッヒ」
彼の耳に、彼自身に届くように。
右の手のひらを握りしめる。
もちろん、そのためには僕自身を奮い立たせなければならない。
思い出せ。
思い出せ。
あの澄み切った夜の凪の光景に流れていた青い音を。
「エーリッヒ!」
ぽつりと一つ、小さな穴が目の前に開いて、ほのかな青い光がその中に灯った。
光とともに、ただ一つの音が、かすかにこぼれ始めた。
ただ、一音。
「ああ……」
けれど、確かに。
「いる……」
つややかに優しい、青い音。
「エーリッヒ……」
エーリッヒの、音。
振り返る。
ヴィオラと弓を手にしたエーリッヒがそこにいた。
目を閉じて、夢見るような表情で、エーリッヒはヴィオラを構えていた。
右手は弓を取り、左手は棹の上で弦を押さえて彼は彼だけの音を奏でていた。
ゆっくりと、ぎこちなく。
そこから流れるのは、ただ一つの音。
だが、赤い月明かりの下で奏でられていた技巧的な旋律よりもずっと、ずっと豊かで、清らかに澄んだ音色を響かせていた。
コバルトの小さな青い光が、その音とともに静かに明滅する。
左手がゆっくりと音階をたどり、右手の弓がそれを丁寧になぞってゆく。
たった一つだった青い輝きが次々に生まれ落ち、気がつくと僕の目の前で星空のようにいくつも瞬いている。
和音と、旋律が生まれ始めた。
そしてまた、ぽつり、あちらにぽつりと、ひとつひとつ光が増えてゆくと、僕とエーリッヒを中心にして青い光が僕らを取り囲み、幼子(おさなご)のように居並んだ。
やがて光はゴム鞠のように跳ね回りながら、正弦波を青く描いて僕たちの周りをゆっくりと回り始めた。
ひときわあざやかな和音でヴィオラが響き、それと共に青くきらめく閃光がひとつ現れて、周回する青い光の後を速度を増して追いかけた。
すうっと流れ星のように尾を引いて、まぶしい音が飛ぶ。
コバルトの音を楽譜に連ねて、青い彗星がエーリッヒの音楽を作った。
サファイアの首飾りのように連ねられた光が律動を伴(ともな)って明滅し、河の流れの中を見渡す限りに青い旋律で満たしてゆく。
真っ赤に染まっていた河の中が、今はこんなにも美しく青い。
エーリッヒがヴィオラを奏でている。
ただ一心に。
エーリッヒの、彼だけが持つ音楽が、彼と他とをはっきりと隔て、溶かし込まれていた河の中から自分で自分を取り戻したのだ。
僕の手の中の青い音が、どきどきと脈打っている。
潮が満ちるように、胸の奥底からいっぱいに満たされてゆくのがはっきりわかる。
目を閉じても、青い音がまぶたを通して僕の中にしんしんと沁み入ってくる。
ああ、そうだ。
右手だけじゃない。
全身を意識してみる。
あの晩、神社の境内で、エーリッヒのヴィオラは僕の体のすみずみに至るまで、清らかな青い音色の響きを刻み込んでいったのだ。
きらめく音が、弦が、僕の心臓にしなやかに絡み付いて、いまこうして豊かな旋律で僕を満たしてくれる。
閉ざしたまぶたの裏にもヴィオラを弾くエーリッヒの姿がありありと浮かんでいる。
不安と不信と臆病さが転がるだけの、がらんどうだった僕の胸が、今はこんなにも豊かで、あたたかい。
まるで僕のあるべき姿をやっと取り戻し得たかのように。
「小癪(こしゃく)な!」
真鍮色した雷鳴のように怒りに満ちた声が、青い河の中の僕らに向けて降ってきた。
「そうか! そういうことならば、お前の望み通りにしてやろう。お前はただ一丁のヴィオラになって、そうして一生、からっぽの胴の中で、そいつの音だけを響かせ続けているがいい!」
「構わない!」ためらわず僕は叫んだ。
それでちっとも構わない。
だって、もしかしたら僕はそのために生まれてきたんじゃないのか。
他人に共鳴も共感も起こし得ないくせに、それでいて自分の中の黒い不安ばかりを轟かせていたこのがらんどうの胸は、あの優しい青い音色を響かせるためにあるんじゃないのか。
無駄に広い胸の空洞は、そのためにこそあったんじゃないか。
きっとそうだ。
エーリッヒの奏でる美しい青い音を僕の中に響かせ続けることができるのなら、こんなに素晴らしいことはないじゃないか。
僕の心臓が弦になり、僕の胸郭を胴にして、一生こうして響き続ける。
ただ一丁のヴィオラになって──
「エーリッヒ!」
僕は呼びかけた。
エーリッヒに手をさしのべる。
さあ、僕を奏でてくれ。
エーリッヒが目を開く。
彼はもうヴィオラも弓も持ってはいない。
そう。それでいい。
僕が君のヴィオラだ。
エーリッヒにうなづきかける。
エーリッヒもうなづき、僕に手を伸ばす。
その手を取り、目を閉じて、僕の胸の中へと差し入れた。
胸の奥の、奥の、奥底へ。
そこにあるものに、手を触れさせようとする。
エーリッヒがはっと目を見はる。
がらんどうの胸の中で、ずっと震えていたんだ。
響かせておくれ、僕の中で。
君だけが持つ、そのやさしい手で。
僕の手の中でエーリッヒの手が一瞬こわばる。
かまわず、僕は僕の中で小さく身を丸めて縮こまっている『それ』へとエーリッヒの手を引き寄せた。
ああ、どうか、どうか。
僕を──
「素晴らしい!」
ファンファーレのように、そいつの声が高笑いを伴って響き渡った。
「それでこそ、我の見込んだ音を奏でるただ一つの楽器にふさわしい! 孤独! 不安! 人間不信! 劣等感! きっといい声で泣くだろうよ!」
その時、まさにエーリッヒの手は僕の胸の中でうずくまる黒い塊に触れようとするところだった。
「それは──」
ああ。違う。違う。違う──
「だめだ!!」
咄嗟に僕はつかんでいたエーリッヒの手を振り払った。
ぶつりと、僕の中で音を立てて弦が切れたのがわかった。
雷(いかづち)に打たれたように全身に痛みが走る。
悲鳴を、こらえる。
また思わずエーリッヒに手を伸ばしたくなるのも、拒否する。
エーリッヒの声なき声が僕を呼ぼうとする。
呼ばないでくれ。
答えようとする自分の声を押さえ込む。
僕を呼ばないで。
だって、僕にはもうその資格はないんだから。
青く透き通る河の中で、激しく逆巻く流れがうず巻いて、僕とエーリッヒはみるみるうちに遠く引き離されていった。
悪態をつき、罵(ののし)り声を上げるトランペットが二音、三音響いたが、つまらぬおもちゃを投げ捨てるかのように、彼(か)の者は僕らを見捨てて去っていった。
はるか遠くで響く青いヴィオラの音が、かすかに僕の胸に届いた。
それが、最後だった。
* * *
河の中から吐き出されるように、僕の体は河川敷の空き地に打ち上げられた。
しばらくそのまま、僕はうつ伏せに河原の地面の上に投げ出されたままになっていたが、ゆっくりと手足に力をこめて起き上がり、ぐしょ濡れの体を引きずるようにしてようやく立ち上がった。
二、三度咳き込んで、乱れた息を整えながら、傍らの桜の樹に寄りかかる。
その樹はもう、花びらを散らせてはいなかった。
顔を上げ、辺りを見る。
僕の隣の桜だけではない。
河川敷の桜の樹はすべて、まるで時が止まってしまったかのように、ひとひらの花弁すらも散らせることなく、静かに花を咲かせたままだった。
花びらの色も、血のような赤ではなく、本来あるべき薄紅の淡い色合いに戻っている。
傾きかけた十六夜の月が河原をさえざえと照らしている。
その静かな景色の中。
風は止み、さやかに白い月明かりの下、旭川の河面は青い青い光をいっぱいに浮かべて、ただゆったりと流れていた。
その流れに合わせるかのように、どこからかひどく懐かしい、柔らかい音が響いていた。
──弦楽器の、音。
あの夜、神社の境内で聞いたのと同じつややかで優雅な音色が、風もないのに遠くから僕の耳に届いてきた。
だけど、僕の心はどうあっても取り返しのつかない喪失感の中に閉じ込められてしまっていた。
こんなにも美しい景色を独り占めにしているというのに。
僕の周囲はこんなにも穏やかで豊かな音楽に満たされているというのに。
「……ああ……」
重苦しい息が、ずっと詰まっていた僕の咽喉(のど)から漏れた。
僕はなんてばかだったのか。
そう、だって──
僕はエーリッヒの声にはなれなかった。
小さく身を縮こめて、ずっと震えていた僕の胸の中の──
結局、そうして僕が壊してしまったのだ。
エーリッヒが僕にくれた、あの青い音を。
青く輝くビロードの海が、優しいヴィオラの調べに乗ってどこまでもどこまでも広がっていった。
けれど僕の胸の中はぴたりと静まり返り、もうエーリッヒの青い音色はまったく響いてはいなかった。
凪のように。
* * *
一日だけ会社を休ませてもらって、僕は下宿の布団の中で過ごしていたが、次の日にはもう通常どおりに仕事に出た。
大通りは紙くずだの折れた小枝だのが散らかって普段より幾らかごみごみしているように見えたが、それだけのことで、これもいつもと大して変わりはなかった。
夜の河川敷に泥酔したまま放置され、朝方の冷え込みのせいで死んでしまった者や、ふざけて河に入ってそのまま流されて行方がわからなくなった者もいたと新聞の地方版に書かれていたのを無感動に読んだ。
街の噂では、旭川添いの桜並木で酒盛りをするのは禁止すべきだという議論も出ていると聞いたが、僕にはもう本当にどうでもいいことだった。
会社と下宿の行き帰りの途中にも、河川敷には絶対に立ち寄らず、神社を探しに道をそれることも決してなかった。
時間が空いたときには馴染みの古本屋と丸善に立ち寄り、本を買っては下宿で読み耽(ふけ)った。
桜の季節に何事かを思い出して憂鬱になること自体を僕は拒否した。
何年も、何年も。
いくつもの春を、そうして過ごした。
上司の周旋で所帯を持つことになり、ようやく僕は下宿の古びた部屋を引き払った。
とある晩、いつものように仕事帰りに本屋に立ち寄ってから帰宅する途中、僕はふと、ある店の前で足を止めた。
ガラス戸が電球のあかりをぼんやりと反射して光る、その向こう。
フランス人形や仔犬のぬいぐるみ、ブリキの兵隊たちと並んで、おもちゃ屋のショーケースの中に小さなおもちゃのピアノがあった。
本屋の紙袋の他にピアノの箱まで抱えて帰ってきた僕を見て、妻は目を丸くしたが、すぐに娘を抱いてきて、お父さまからのお土産ですよと言って笑った。
お座りができるようになったばかりの娘は手当り次第に鍵盤を叩き、いかにも玩具めいた安っぽい音色が、遅い夕餉の終わった茶の間に流れた。
買って帰ったばかりの文庫本をかたわらに積み上げ、一番上から読み始める。
妻は手早く食器をまとめ、台所の片付けを始めた。
無秩序でつたない音の羅列が僕の胸にきらきらと響く。
ふと思い立ち、僕は読みかけの本を卓袱台の上に置いて押し入れの戸を開けた。
──見つからないかもしれない。
──見つからなくたって、いい。
そう思いながら、奥を探った。
でも、それはあった。
青い表紙のノートを、ぱらぱらとめくる。
インクの青が、色あせることなく、いくつもの音符を書き連ねている。
何ページにもわたって、ずっとそれが続いている。
僕の中にも、ころころと、まだ小さく何かが転がっているのがわかる。
それでも──
春の宵に、またゆっくりと青い音色が流れ始め、やわらかに僕の胸の中に響き渡っていった。
(終)
夜凪(よなぎ)ノオト 日暮奈津子 @higurashinatsuko
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