(3)

 エーリッヒを助けに下宿を出たときには深更をとうに過ぎていた。

 毛布の中で一人で震えていたのはわずかな間だったような気がしていたが、実際にはかなりの時間がたっていたようだった。

 昨日よりもほんの少しだけ欠けた十六夜(いざよい)の月が夜空の真ん中に浮かんでいる。 

 いつもなら、この下町の路地は夜半前にはすっかり静まり返っているはずなのに、どこからか底ごもるようなどよめきが、ざわざわと響いてきていた。

 その響きにせかされるように、早足で歩いた。

 そのくせ、走り出すのは怖ろしいような気がして、やみくもに駆け出したくなる気持ちを僕は必死で抑えていた。

 これが僕の中の不安に過ぎないとは到底思えない。

 右の手のひらを握りしめ、足早に歩く。

 いやに生ぬるい夜の風がまとわりつく。

 最後の角を曲がって路地を抜け、大通りに出た。

 ざわめき立つ喧噪が耳を打つ。

 同時に、僕の目に、赤銅色の月明かりに照らされた桜の景色が飛び込んできた。

 


 大通りの景色は見渡す限りの桜並木と、その間にあふれ返る群衆とで埋め尽くされていた。

 駅前から県庁通りを過ぎて城下町へと至る通りには、官公庁や商社のビル、百貨店や商店などが立ち並び、大勢の勤め人や買い物客や学生たちが行き交い、日中はもちろん夜間でも人通りが絶えることはない。

 しかし、いま僕の目の前に広がっているのは、そんな僕の知っている情景とはあまりにもかけ離れていた。

 祭りの日でもこれほど大勢が集まることはないような、何千何万の群衆が、酒に酔ったかのような赤い顔をして、ひしめき合いながら同じ方向へむかってぞろぞろと歩いている。

 ところどころにポプラや銀杏の木が街路樹として植えられていただけだったはずが、あの河川敷の桜並木よりもっとたくさんの桜が、まるで何十年も前からあったかのような堂々とした満開の枝ぶりで、大通りのそこら中にずらずらと立ち並んでいる。

 桜の樹は枝と枝とを連ねて群衆の頭上で途切れることなく爛漫と咲き誇り、風もないのに吹雪のように、赤い花弁をしきりに振り撒き続けている。

 その花びらも、人々の顔も、ゆうべ河川敷で見たあのぼんぼりに照らされていた時よりも、もっとずっと赤々と染め上げられている。

 群衆は誰も彼もみな騒々しい喚声や嬌声を上げながら、僕の目の前であるいは締まりのない酔い痴れた顔で座り込んで花見の饗宴を繰り広げ、あるいは意志のない河の流れのように赤い桜吹雪の中をだくだくと歩き続けている──



 大の大人が肩車をして、ぞろりぞろりと列を組んで歩いている。

 若い女が地面にぺたりと座り込み、落ちている花弁を両手ですくっては放り上げ、またすくっては放り上げ、はらはらと落ちてくるのを見ては童女のように笑い声を上げている。

 赤い舌がちろりとのぞき、口の端についた花びらを舐(な)めとって、呑み下す。

 その口からきゃらきゃらと、嬌声が上がる。

 何がそんなに悲しいのか、いかつい体つきの男が自分の髪の毛をかきむしりながら、地べたに座り込んだ老婆のひざに顔をうずめて泣き叫んでいる。

 しなびた老婆はさも楽しげに、男の頭を平手でぴたぴたと叩きながら大口を開けて笑っている。

 双子のように良く似た容貌の少女が二人、ぴったりと胸を合わせ、頬を寄せ、白蛇のような手と手をからめ、脚をからめ、とろけるような笑みを浮かべてしどけなく桜の樹にもたれてひたと抱き合っている。

 うら若い娘が両手を伸ばし、派手な振り袖のたもとを大きく広げてくるくると回りながら笑う様子が、いつまでもいつまでも、独楽のように止まらずに回り続ける。

 三人掛かりで酒樽を引きずり歩く男達の一人は笑って柄杓(ひしゃく)で中身をそこらじゅう撒き散らしている。

 そうして安酒をひっかけられても誰も気にするどころか、ますます顔を赤らめてぞろぞろと行列に続く。

 やがてまだ中身を残したままの酒樽が男達ともどもその場に横倒しになった。

 なのに群衆は立ち止まらず、全部後ろから踏みしだかれて、見えなくなる。

 立ちこめる酒の匂いがまるで血のように生臭い。

 足取りの覚束(おぼつか)ない壮年の男が一人、桜の枝を手にしてめちゃめちゃに振り回しながら踊っている。

 すぐ側の男にぶつかって、ぐらりとよろめく。

 声もなく倒れ伏し、そのまま動かなくなる。

 その身体がすうっと、桜の樹の根方に、土の中へと吸い込まれていく。

 樹の幹までもが赤みを帯びて、見る間に枝を茂らせ、びっしりと付いたつぼみが一斉に花開く。

 桜の樹の下には死体が埋まっているのだと、そう書いたのは梶井基次郎だったか。

 桜を美しく咲かせているのは樹の根方に埋まっている死体なのだと、確かに彼も見抜いていたのだ。

 吹き上げる噴水のように、赤々と咲いた桜の花弁が、また一層降りしきる。



「どうして、こんな……」

 つぶやく僕の声が、たちまち群衆の声にかき消されてしまう。


──いや。


 かき消そうとする音が、僕と群衆のはるか頭上から降ってきている。

 呼ばれるように夜空を見上げて、思わず息を呑んだ。



 不吉な赤銅色に染まった月が、真っ暗な夜空の真ん中に浮かんでいる。

 満月を過ぎてほんの少しだけ欠け始めた月の面(おもて)が、まるで意志ある者のように地上の群衆を見下ろして光を放っている。

 さながら赤い瞳を持つ誰かが笑っているかのように。

 そのぎらぎらと輝く赤い十六夜(いざよい)の月から、聞き覚えのあるヴィオラの音が僕と群衆たちとに向けて赤い雨のように降りそそいでいる。



──エーリッヒの音。



 間違いない。僕が聞き違えるはずが無い。

 だけど、それは本当に僕の知っているエーリッヒの音だったろうか? 

 騒々しく踊り回る音階が、ヴィオラではあり得ない低音域から高音域を一瞬に越えて飛び跳ねる。

 わざと絨毯の毛並みを逆立てて、乱暴に撫で回すような、不安をかき立て心騒がす和音を響かせている。

 ついさっき、僕の部屋に流れていたあの夢のような青い音とはまるで色合いが変わってしまっている。

 つややかな優雅さは一切捨て去られ、その代わりに技巧的な尖(とが)り切った旋律が抜き身の短刀のように聞く者の胸に突き刺さる。

 あるいは、不安定によろめく音階が、真夏の暑さをいつまでも残した路面の陽炎のように、ぐらぐらと僕らの身をあぶり続けてくる。

 それなのに。

 こんなに不穏であやうい音楽から逃れようとする気持ちがどこをどう探っても湧き起こってこない。

 むしろ、赤く伸びた長いかぎ爪のような旋律に胸の内側をやすやすと切り裂かれてしまいたくなる。

 つめたい金属質にぎらつく切っ先に身を投げ出して、朱に染まった刃(やいば)が見たくなる。


──いや。


 もう、こんなにも血は流されてしまっている。

 こんなにも赤い、ヴィオラの音が僕に降っている。

 僕の肩に、腕に、からだじゅうに降りかかってくる。

 赤い赤い、桜の花びらになって──



 瞬間、それが血の雨に見えた。

 ぞっとして、ふり払う。

 はらってもはらっても、次々と降りかかる。

 足元にもびっしりと赤い花弁が降り積もっていて、まるで血だまりに足を突っ込んでいるかのようだ。

 息がつまり、動悸が激しく乱れ打つ。

 このまま、この場から逃げ出して、うちに帰ってしまいたくなる。

 僕の下宿のあたたかな寝ぐらに。

 それなのに、僕の両足はその場に釘で打ち付けられてしまったかのように一歩もそこから動かすことが出来なかった。

 赤い月明かりと、桜吹雪と、ヴィオラの音色とに煽られて、僕の目の前で狂った花見の行列が尽きることなくとうとうと流れ続けている。

 震えながら僕は、途絶えることなく目の前に現れては消えてゆき、あるいはぞろぞろと歩き続ける群衆をただ見つめていた。

 震えているのは、僕自身だけではなかった。


──僕の右手の、青い音。


 手のひらにしみ込んで残されていた青い音も、ふるふると、怯える小動物のように震えながら小さく縮こまっていこうとする。

「だめだ……だめだよ……」

 青い音に、いや、自分に言い聞かせる。

 固く、拳を握りしめる。

 右手がじんじんとしびれる。

 眼前をだくだくと流れ続ける群衆と共に、赤い旋律の只中に身を投げ出したくなるのを、懸命にこらえる。


 だが、無駄だった。


「おいでよ」

 群衆の中から手が伸びて、誰かがぐいと僕の右手首を掴んだ。

「うわ……」

「ほら。おいで」

 白くしなやかなくせに妙に力強いその手に引き寄せられ、そのまま僕は拒む隙も与えられず、行列の中に引きずり込まれた。

 ひときわ、高々と歓声があがり、人混みの中で僕はもみくちゃにされかかったが、すぐに誰かの手で群衆の頭上に差し上げられた。

「あっ……」

 神輿のように僕の体は担ぎ上げられたまま、行列の人々の手によって、じりじりとどこかへ運び去られようとしていた。

「……やめろ……」

 だが、下手に身動きすれば地面に投げ出されかねない恐怖になすすべもなく、僕はただ行列の頭上でされるがままになる他はなかった。

 そんな僕らを、はるか上空から何者かが高らかに嘲笑った。


「なんとまだるっこしい」


 真鍮色の嘲(あざけ)る声が、真っ赤な月から降ってきた。


「早く連れてきたまえよ」


 高慢なトランペットが命じると、ぞくりとするほど冷たい夜風が吹き付けて、群衆に担がれていた僕を素早く引っつかんで連れ去った。

 濡れたゴムのように冷たい手に掴まれて、あっという間に空高くへと僕の体は釣り上げられた。

 夜の空気をいっぱいにはらんだ黒い翼が羽ばたいて、みるみるうちに大通りから桜並木の河川敷へと僕は運ばれていった。

 目もくらむ上空から河原の様子が見える。

 赤い月の光に照らされながら咲き乱れては散る桜吹雪に、河川敷は異様に赤い色の花びらにびっしりと覆い尽くされている。

 滔々(とうとう)たる旭川もまた花弁を河面いっぱいに浮かべたまま流れ、まるで溶岩流のように真っ赤に染まっている。

 その水面(みなも)に一瞬、青白い人の手が浮かんだように見えたのは気のせいか。

 夜闇の鬼は、昨日と同じようにぞわぞわと、文字通り虫酸の走るような不快感をその冷たい手から僕に伝えながら飛び続けていたが、やがて高度を下げると、河川敷の中でも群を抜いて大きい桜の樹の下に僕を降ろして、またどこかへ飛び去っていった。

 力なく根元に座り込んで、巨木を見上げる。

 ひときわ見事な枝ぶりの桜が爛漫と咲き誇っている。

 たった一本の桜の樹が、金字塔のようにふてぶてしく僕の目の前でそびえ立ち、大人が十人がかりで手をつないでも抱え切れないほどの太い幹が無数の枝をつけ、それらが何度も枝分かれしつつ八方に広がり、細かい枝先のすべてに数え切れないほどの花を咲かせている。

 その花びらのひとつひとつが、桜の樹に吸い取られた人間そのものなのだ。

 地中を縦横にはびこる桜の根がいくつもの骸を抱え込み、大切そうに滋養をすすり上げる様が、ガラス窓を透かして見るかのように一瞬だけ、だがはっきりと僕の目に映った。


「どうだい。美しいだろう?」


 黄色い衣の男が踊りながら、そう言った。


 風がやみ、散り落ちてゆく花吹雪の向こうから、その男が姿をあらわした。

 黄色味がかった光沢のある衣をローブのように身にまとっている。

 燃え盛る赤銅の髪と真鍮色をした顔が赤い月明かりに照らされ、ぎらりと光を反射した。



──ナイアルラトホテップ。

──這い寄る混沌。



 力をこめて指を折り曲げ、両手を挙げて、夜気を掻(か)き乱しながら、その男は異様な身振りで踊っている。

 心地よいはずの衣擦れの音の代わりに、金属がこすり合わされるようにきしむ音をひっきりなしに立てている。

 足を踏み鳴らし、裳裾(もすそ)を乱して踊る様(さま)が、やかましい楽器のように高く、低く、耳障りな音楽を奏でていた。

 それに合わせるかのように、背後にそびえる桜の巨木からは赤々とした花弁がいっそう降りしきる。

 降り掛かる花びらが衣に触れたところから火花が鋭く飛び散って、赤く突き刺す音色を夜空へ放り上げた。

 エーリッヒのヴィオラが彼の音楽を紡いでいたように、その男は騒々しく舞い踊るその仕草で、あの行列の上に降りそそいでいた赤いヴィオラの音を響かせていた。

 その音色はやはり、心臓の内側に鍵爪を立てるように、僕の胸を痛々しく不安で突き刺した。


「……エーリッヒはどこだ?」

 不穏にとどろく鼓動を手で押さえて、僕は問いかけた。

「どこ?」

 舞う仕草を止めもせず、僕の言葉は受け流される。

「エーリッヒはどこだと聞いているんだ!」

 いら立つ僕をちらりと見返って、それでもまだその男は踊るのをやめない。

「なんだ。そうか。見えないのか」

 ははっと笑い、男は自らの顎に手をかけた。

「ここだよ」

 ことり、と乾いた音を立てて、男の顔が外れる。

 それは赤銅の瞳をはめ込まれた真鍮の仮面だった。

 左手に仮面を持ち、両腕を広げる。

 なめらかに輝く真鍮色の仮面に隠されていた、もうひとつの顔。

 僕の目の前に晒される。

「嘘だ。お前は」喉がつまり、僕の声が震える。

 ひときわ甲高(かんだか)いヴィオラの音(ね)が鼓膜に突き刺さった。

 仮面の下から現れたのは、エーリッヒの顔だった。

「嘘ではないよ」

 エーリッヒから外された仮面の声が、答える。


──いや。


 仮面ではない。

 広げた左手が持つ仮面の真下に、再び黄色い衣をまとったナイアルラトホテップの体があった。

 その左腕すらも、今は既にナイアルラトホテップの右腕に変わっている。

 エーリッヒから外されたナイアルラトホテップの仮面と見えたそれこそが、ナイアルラトホテップそのものだったのだ。

 さっきまでナイアルラトホテップだったエーリッヒは、いつの間にか、ヴィオラと弓を手にしていた。

 目を閉じて、いつものようにヴィオラを構える。

 ゆっくりと、弓が弦に触れ、ヴィオラが響き始める。

 けれどその音は、昨夜の境内を青く染め上げたあの穏やかな旋律とはあまりにも遠くかけ離れてしまっていた。

青いホタルのように儚い輝きの代わりにこぼれ落ちるのは、引き裂かれた闇からしたたる赤い血の雫ばかりだった。

 ぎらつく赤い音がぎしぎしときしむように鳴り響いて、突きつけられた冷たい刃が聞く者の背を震わせる。

 切り裂いた断面から赤い音色がつるつると流れ落ち、不安定に和音を折り重ねる。

 その一音、一音が花びらを赤く染め上げながら切り落とし、次々と散らせてゆく。

 つんのめった赤い旋律が階(きざはし)の上から投げ落とされれば、置き去りにされた焦燥が、ぽかりと口を開けた暗い淵へと己が身を投げて後を追った。

 次々と雪崩れ落ちてゆく赤い律動は下り坂の斜面に爪を立てながらも、奈落の底まですべり落ちてゆくより他はない。

 弦を断ち切らんばかりの高音域から旋律を振りかざし、胴の奥底よりも深い深淵へと向けて無造作に重低音を突き落として押し込める。

 長い爪が突き刺す肌に赤い雫が点々と続いては、聞き苦しい音符を連ねた楽譜をとどまることなく眼前に繰り広げる。

 単調な音階をえんえんと積み重ねたかと思うと、次の刹那には突き崩す。突き崩すために積み上げている。突き崩そうと、突き崩したくて、壊してやろう、突き崩してやろうとばかりに積み上げるうちから崩壊の予感に目を爛々と輝かせている。


 壊してしまえ。

 壊してしまえと。

 ずっとそうしたかったのだろうと。



「あんなに鬱屈していては、つまらないだろう?」



 立ち尽くす僕の背後にいつの間にかすり寄った男が耳元で、囁いた。


「あっ……」


 僕の胸の中でずっとうずくまり怯えていた黒い塊が、ゴトゴトと音を立てて身じろぎを始めている。



 壊してしまえよ。

 終わらせてしまえよ。

 ずっとずっと、耐えられなかったのだろう?


──僕にそう囁くのは、いったい誰だ?


 十六夜の月からヴィオラの赤い音色は途切れるどころか一層高く低く響き渡り、それに合わせてその男は倦むことなく踊り続けている。

 いつしかヴィオラを奏でる青年と、黄色い衣をひるがえして踊る男とは、舞い落ちる桜吹雪の中でひとつに溶け合い、重なり合い、あるいはまた二つの体にわかたれた。

 かと思うと真鍮の手をした何者かがヴィオラを持って騒々しく踊り、深い琥珀の髪に赤銅の瞳を輝かせた誰かがけたたましい音色を弓の先から雷鳴のように轟かせた。

 いったい、そのどちらがどちらで、誰が誰なのかなど、僕には区別のしようもなかった。


「誰が誰なのか、だって?」


 僕の眼前で、とろとろ溶け合う淡いかたまりの中から黄色い衣を身につけヴィオラを手にした誰かが現れて、赤い音楽に合わせて歌うように答えた。


「そんなものがどうして区別があったりするものか? ほらほら、ようく見てごらん?」


 誰とも違う顔をした、その誰かがまた、自分の顎に手をかけて仮面を外した。

 その下から現れた顔を、僕はよく知っていた。

 僕以上に知っている者は、いなかっただろう。

 それとも、そいつこそが、僕だったとでも言うのか?


「そうとも。ちゃあんと解っているじゃないか」



 僕の顔をしたそいつが、僕にそう言った。



 愚かしく踊りながら、がらんどうの胸の中で身を丸めて縮こまっていた黒い何かに向かって、そいつが呼びかけている。

 僕の顔をした、誰かが。

 我を忘れ、憂さを忘れ、しがらみも何もかも捨て去り葬り去って、ただこの音色にすべてを委(ゆだ)ねて共に踊れよと。


 もう全部壊してしまえばいいじゃないかと。



「お前はずっと、そうしたかったんだろう?」



 僕の顔で、僕の声で、そいつが確かにそう言った。


「違う……やめてくれ……」

 かすれた声が、まるで自分の声のようには思えなかった。

 両手で顔を覆い、その場にがっくりと座り込んだ。

「違う?」

 へたり込んだ僕に、僕が問いかける。

「なにが、違う?」

 僕の声で、僕の耳もとに、囁く。

「僕は、僕だろう?」

 僕に手をさしのべる。

 僕に右手を──


「……違う……」

 僕の右手が震えている。

 そう、違う。

 震えながら、握り締める、その中に。

 ああ、違う、違う──

 かすかにまだ、輝いている。

 青い音が、まだそこにあった。

 僕の右手の──


「違う……!」

 他の誰でもない、僕の声が叫んだ。


「違う! 僕はお前じゃない! お前なんかじゃない! エーリッヒだってお前じゃない! もし、お前が本当にエーリッヒなら、エーリッヒを取り逃がしたり、あんな風にして捕まえにきたりなどする必要はないじゃないか! お前は僕でもエーリッヒでもない! お前が──」


──どうしてその時、そんな言葉が僕の口をついて出てきたのだろうか。

──どうして僕が、そんなことを知っていたのだろうか。



「たとえお前が千の姿を持っているのだとしても──」



 天上から稲妻のようにつんざくトランペットの音色が高らかに響き渡って、そいつは僕の抗弁をあざ笑った。

「ひとつもわかってなどいないのだなあ」

 いつの間にか、エーリッヒや僕と一緒に溶け合っていたはずのそいつは、黄色い衣のナイアルラトホテップの姿だけになっていた。

 真鍮色した手が僕の右手首を掴み、そのまま腕一本でやすやすと僕の身体をつり上げた。

「あ……」

「よくもこんな薄皮一枚で彼と我とを隔てたつもりでいられるものだよ」

 手首を掴まれたところから、ゆらりと僕の皮膚がゆらいで、とろけるようにそいつの手との境界が消えていった。

「我は、お前だ」

 僕と僕以外とをかろうじて隔てていた境目を破壊しながら、そいつは僕の手首を掴んだまま自分の方へと引き寄せた。

「あの者たちの狂気も、お前の持つ想念も、エーリッヒが宿す音も、すべて我だ」

 そのままずるずると、境界を失くした僕はそいつの身体と重なり合い、その中へと溶かし込まれていく。

 僕の顔とそいつの顔とが触れ合わんばかりに近づき、赤銅色の瞳と僕の瞳とが重なり合った。

「千が千億であったところで到底足りるまいよ」

 瞳の中に、赤々と桜の花弁に覆い尽くされた水面が見えた。


「彼もお前も、みな我だ」

 

 大きな水音をたてて、僕は水底まで真っ赤に染まった深い河の中へとひきずり込まれた。  


 

(つづく)

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