(2)

 翌日は、日が落ちるのも待ちかねて、持ち帰りの仕事を鞄に詰め込んで職場を後にした。

 河川敷には目もくれず、細い路地を通ってそのまま昨夜の神社へと足早に向かった。

 境内は無人だった。

 半分がた散ってしまった桜の樹だけが昨日と同じだった。

 訪れた参拝客に踏みしだかれたのか、薄汚れた花びらが地べたにこびりついている。

 

──いったい、何を期待していた?

 

 ひと粒の青い光すらも見逃さぬように地面を眺めている自分がひどく馬鹿らしかった。

 それとも、ああして散り果てた花びらこそが、ゆうべ吹き抜けたあの夜風のせいだとこじつけるつもりなのか。

 あの出来事が本当だったという証拠がそんなにも欲しいのか。

 またあの青年が、ここにいるのではないかと?

 昼間、仕事をしながらも、ふと気づくと窓の外から聞こえる物音にもヴィオラの音色が混じってはいないかと、期待を込めて耳をそばだてる自分がいた。

 万年筆の青いインクが書類の上に連なってゆくのさえもが、ゆうべ見た、青い音色に染まる境内の情景を思い起こさせるようで、どうにも気が散って仕方がなくて、それで残業はやめて帰宅することにしたのだ。

 これならまだ職場に居残っていた方が、同僚たちの目を気にしなければならないぶんだけ意識を仕事に集中していられただろう。

 それとも、やはり昨夜の出来事に心を奪われて、やみくもに筆を走らせながらも引き裂かれるような気持ちを抱えて喘ぐ自分を押し隠す虚しい努力に疲れ果てるだけだったろうか。

 目を閉じて、大きくため息をつく。

 重たい鞄を持つ右手が痺れていた。


──いや、違う。


 痺れているのは、音が残っているからだ。

 ふと目を開いて左手に鞄を持ち替え、右の手のひらをみつめる。

 いつもと何一つ変わらない、僕の手に。

 ゆうべの光景があざやかに蘇る。

 コバルトブルーに輝く光が避(よ)けることもなく僕の手に触れる。

 あの時、体じゅうに響き渡ったヴィオラの音色が今も僕の右手にしみ込んでいた。

 じわりと、確かにそれが感じられる。

 すべての指紋と掌紋の隙間を塗り込め、手指の関節から骨のかけらのひとつひとつに至るまで、余韻をじいんと残している。

 沁み通った音が、残っている。

 僕の中で、轟いている。

 胸が痛い。

 再び目を閉じて、右手で顔を覆った。

 ゴトゴトと僕の中でそれが音を立てている。

 ああ、違うな。

 これは僕の不安が立てる音だ。

 僕には、わかっていた。

 ほんのちょっとした他人の言葉に、周囲の者のささいな態度に、いつもいつもささくれて震えている僕の臆病な心。

 あのヴィオラの音はそんな縮こまった僕の心を、まろく、ゆるやかに、優しい手の中で揺りさすってくれるかのようだった。

 丸く手足を抱え込み、身をちぢこめて、それでも消えてなくなることも出来ずに、僕の中の黒い不安は、無駄に広いがらんどうの胸の中で四六時中がらがらと音を立てて転がっている。

 だが、それにしても今夜のこれは、あまりにも──

 


《えーりっひ。》


 ぬらりと冷たい手が僕の手首を掴んだ。


「えっ」

 ぞくりと目を開く。


 夜の闇の中、黒いのっぺらぼうの顔があった。

 僕の目の前に。

 

《えーりっひ。》


 僕の手を掴んだまま、目も鼻も口もない、黒いゴムのようにつるりとしたそいつの顔が、そう言った。


《えーりっひ の おとが した。》

《だが おまえは えーりっひ ではない。》


 夜闇の中からそのまま抜け出してきたかのような黒一色の、冷たく濡れた体に蝙蝠のような翼を広げて、僕の目の前にゆらりと浮いている。

 鬼の角のような、ねじれた二本の突起が頭の上に生えている。

 だが、鬼にしては体つきや手足は妙に薄っぺらい。

 弾性を持つゴムのような手が、僕の右手首を掴んで離さない。

 そこからまるで、小さな虫が無数に蠢いているかのようなむず痒(がゆ)い感覚が手首から腕へと這い回りつつあった。

 

《えーりっひ は どこだ。えーりっひ を しって いるか。》


 口のないそいつの声が、どういうわけか僕の耳にはっきりと届いていた。


「し……知らない」

 かすれた声で僕が答えると、そいつは無造作に、僕の手首をつかんでいた手を離した。

 しりもちをつくような格好で僕は地べたに放り出された。

 声もなく、夜闇の鬼は翼をはためかせて舞い上がった。

 翼がたてた突風が境内を吹き抜ける。

 ふつふつと鳥肌が立ち、全身が冷や汗にまみれた。

 僕の右腕全体に、まだ小さな虫たちがそわそわと這う感触が残っているようで、震える手で何度も腕をはらった。

 膝とふくらはぎから力が抜けて、立ち上がることも出来ない。

 だが、それで気づいたのだ。

  

 神社の拝殿へと上がる階段のすぐ横、床下からこちらを覗いている。

 青い瞳と深い琥珀の髪がそこにあった。


「エーリッヒ?」


 僕は呼びかけた。



         *     *     *


 

 エーリッヒは声を持たなかった。

 だからさまざまな楽器を練習して、声にしようとした。

 一番気に入って、うまく使えた声がヴィオラだったのだと彼は僕に告げた。

 心にふと浮かび上がる旋律をヴィオラで弾いてみて、気に入ったものはこうしてノートに書いておき、もっと心地よい音楽に出来ないものかとあれこれ試している。

 楽団の公演や練習がない時はいつもそうしているのだと、彼はたくさんの音符が書き込まれた五線譜のノートを僕に見せてくれた。

 エーリッヒは日本語を全く解さなかったので、しばらくはお互い途方にくれていたが、僕が片言のドイツ語を話すとようやく彼は安堵の表情を浮かべ、青い表紙のノートを開いて答えを書き付けた。

 境内を照らす常夜灯の下、拝殿へ上がる階段にならんで腰掛けて、僕がドイツ語で問いかけ、エーリッヒは筆談で答えた。

 なるべく平易な単語を用いようとしているのが、なんとなくわかった。

 だが、ゆうべの奴に捕まったあと、どこへ連れて行かれ、どうやって逃げてきたのかという僕の質問に対して、彼がノートに書いたドイツ語の返答は、僕にはとても読み解けそうになかった。

 なぜ、彼が自分の下宿のあるオーゼイユ街からこんなところへくる羽目になってしまったのか。

 どうしてあの夜闇の鬼は彼を捕まえようとしているのか。

 そう聞いても、エーリッヒは途方に暮れて首を横に振った。

 そもそも、ここ数日の間に彼の身の上に起きたことのすべてが、彼の理解の及ぶところではなかったのだ。

『なにもわからない』

 ノートにそう書いて、エーリッヒはうなだれた。

 困り果てた僕が、ではきみを捕らえようとしている相手の名前もわからないかと尋ねると、エーリッヒはしばらくの間ためらっていたが、万年筆の青いインクでその名をノートに書いた。



「ないあ……ら……? 何?」

「シーッ!」



 口唇(くちびる)の前に人差し指を一本立てて、そこからするどくエーリッヒは息を吐き出した。

 後にも先にも、彼の口から音が出てきたのはその一度きりだった。

 背を丸めながら、エーリッヒは隣りに座っていた僕にも身を屈めるように身振りでうながし、辺りの様子をうかがった。

 あたかも、名前を口に出すだけでも、その相手を呼び寄せてしまうと恐れているかのようだった。

 素早くノートに書いた文字をエーリッヒは僕に見せた。

『きみは今すぐここから立ち去るべきだ。ぼくとはここで別れて、早く自分のうちに帰るべきだ』

 僕はうなずいて、答えた。

「わかった。確かにここは危ない。一緒に僕の下宿へ行こう」

 驚いたエーリッヒは首を振り、何度も断ろうとしたが、僕には考えがあった。

 半分むりやりに彼の手を引いて、僕の下宿へと向かった。

 ヴィオラと弓とノートをしっかりと左手に抱いて、こわばった表情のままエーリッヒはついてきた。

 なるべく人目に立たない細い路地を選びながら、僕は自分の下宿を目指した。

 道すがら、エーリッヒにゆうべ僕の身の上に起きたことと、自分の考えを話した。

 

《えーりっひ の おとが した。》

《だが おまえは えーりっひ ではない。》


 エーリッヒの奏でる音が、僕にも青い光として見えることと、その音が僕の右手に残っていることを告げると、彼は目を丸くしていたが、歩きながらでは筆談も出来ないので、そのまま僕の話に耳を傾けていた。



 奴らはエーリッヒの奏でるヴィオラの音を聞きつけて、その場所をつきとめて、やってくる。

 だが、その音がエーリッヒ自身がそこで奏でているものなのか、それとも今そこにいる誰かが宿している音の名残りなのかまでは、その場に行ってみないとわからない。

 そして、そこにいるのがエーリッヒではないとわかれば、奴らはすぐに興味を失って、また本来の獲物であるエーリッヒを探しに行ってしまう。

──すぐそこにエーリッヒがいるのにも気づかずに。


 

「それなのに、もし君が別の場所にいたら、奴らはすぐにそっちを嗅ぎ付けて、君を捕まえてしまうだろう。でも、君が僕のそばにいて、さっきのように隠れていれば、たとえまた嗅ぎ付けられても『ああ、またさっきの違う奴か』と思われるだろう。だから、僕たちは一緒にいた方がいいんだ。その方が二人とも安全だ」



 まだどこか不安げな様子のエーリッヒを連れて、僕は自分の下宿に帰り着いた。

 エーリッヒの靴を脱がせて先に階段を上がらせ、僕がエーリッヒの靴を持って後から二階へ上がった。

 階段を上がり切った所で振り返って待っているエーリッヒに、突き当たりの一番奥の部屋だと口の動きだけで伝えた。

 二人で足を忍ばせて、廊下を歩く。

 一番奥の部屋の戸を開けて、エーリッヒを中へ入らせた。

 後ろ手に素早く戸を閉めて電灯をつけると、僕はすぐに部屋の雨戸とガラス窓の両方を閉めて鍵をかけた。

 おそるおそる、エーリッヒも部屋に入ってきた。

 押し入れのふすまや畳が珍しいのか、室内のあちこちを見回している。

「日本家屋を見るのは初めて?」

 黙って、彼は頷いた。

 鞄を畳の上に置き、その上にエーリッヒの靴を置いてから、僕は窓と反対側にある押し入れを開けた。

「ここを奴らに嗅ぎ付けられてもわからないように、隠れててもらわないと。狭くて申し訳ないんだけど、この押し入れぐらいしかなくて……。どうかした?」

 

 部屋の入り口と向かい合って正反対の壁際に置かれた本棚を、エーリッヒは見ていた。

 大学時代から住んでいるこの部屋に、僕は壁一面に天井まで届く本棚を置いて自分の本を保管していた。

 けれどとっくの昔に本棚はあふれ返り、今では部屋の隅のあちこちで、畳の上に直接置かれた本がいくつもの山脈をつくっていた。

 エーリッヒは振り返り、ノートに書いて僕に見せた。

『ぼくの下宿に似ている』

「え?」

『本が好きなんだね』

「ああ……。そう、出版社に勤めていてね」

 見抜かれた気恥ずかしさに言い淀む僕に、エーリッヒはふっと笑って、書いて寄越した。


『ぼくもヴィオラが好きだから、下宿には、ヴィオラの他には自分のベッドしかない』


 二人で顔を見合わせて、僕も笑った。



         *     *     *



 布団は押し入れの中のエーリッヒに譲り、自分には毛布だけを出してきて、そうして寝る準備をしたものの、このまま寝てしまうのが惜しい気がして、僕は部屋の明かりは小さくしたままあぐらをかいて起きていた。

 エーリッヒも、眠ってはいなかった。

 押し入れにかくまうつもりではあったけれども、閉め切ってしまうのもなんだか悪い気がして、何かあったらすぐに閉めるつもりでふすまは半分だけ開けてあった。

 正座もあぐらも出来ないエーリッヒは、片方の膝を立て、反対の足は伸ばして投げ出すようにして押し入れの壁にもたれ、布団の上に座っている。

 そんな窮屈な様子にも関わらず、ヴィオラと弓を抱えた姿が絵のようだった。

 時折、旋律が頭に浮かぶのか、目を閉じて声なき声で口ずさんだり、ヴィオラの棹の上に指をすべらせたりしていたが、音を出すことだけはしなかった。

 本当は、弾きたいのだろう。

 けれど。

「……エーリッヒ、その……」

 僕が低い声で呼びかけると、エーリッヒは僕の方を見て、小さくうなづいた。

 弾いたら、やつらが来てしまう。

 もちろん彼にもわかっているのだ。

 小さく、ふっとため息をつくと、エーリッヒは弓とヴィオラを置いてひと言だけノートに書いた。

 指先でノートを僕の方へとすべらせた。


『おやすみ』


 内側から静かに押し入れのふすまが閉ざされた。

 僕もため息をついて、膝を抱えて座り直し、毛布にくるまって背後の本棚にもたれかかった。

 

──本が好きなんだね。


 エーリッヒの言葉を思い出す。


──ぼくもヴィオラが好きだから、下宿には、ヴィオラの他には自分のベッドしかない。


 オーゼイユ街にあるという、彼の下宿。

 いつでもヴィオラを弾けるようにと、わざわざ最上階の一番奥まった部屋を使わせてもらっていて、大家もなるべく同じ階やすぐ下の部屋には他の下宿人を置かないようにしているのだという。

 その代わり、狭くて何(なん)にもない。

 膝を抱えたまま目を閉じて、部屋の様子を思い浮かべてみる。

 エーリッヒはああ言ったが、それでもまさか本当にヴィオラとベッドしか無いということはないだろう。

 ヴィオラや弓を手入れする道具を置いたテーブルとか、楽譜を仕舞ってある棚とか、譜面台ぐらいはあるはずだ。

 簡素な木の椅子に座り、青い表紙のノートを譜面台に置いてヴィオラを手にしたエーリッヒの姿が、閉ざした目蓋の裏に浮かんだ。

 僕の想像の中のエーリッヒは目を閉じたままじっと夜の静寂(しじま)の中に耳を傾けていたが、おもむろにヴィオラを構えた。

 飾り気のない下宿の部屋に、エーリッヒの奏でる旋律が響き始める。

 雲間から月明かりがのぞくように、静かな夜の中にゆっくりと音楽が満ちてゆく。

 弓と弦とが触れ合って、甘やかな旋律が紡ぎ出される。

 そこから青い音が雫になって、こぼれ始める。

 美しい雨のように降っている。

 部屋中が青い雨音に包まれて、エーリッヒのヴィオラが歌う。

 その音が確かに僕の耳に届いていて──


「えっ……?」


 どきりと胸が不穏に音を立てた。

 いつの間に眠り込んでいたのだろう。

 目を開く。

 部屋の明かりはいつの間にか消えていた。

 真っ暗な部屋の中に、つややかな弦楽器の音色が流れている。

 僕の目の前で、ぴったりと閉ざされたはずの押し入れのふすまの向こうから、聞き間違えるはずもないエーリッヒの奏でるヴィオラの音が聞こえてくる。

「どうして……」

 震える声で呟く。

──弾いたら、やつらが来てしまう。

──彼も、小さくうなずいた。

 それはエーリッヒにもわかっているはずなのに。

 なのにどうして──

「エーリッヒ! だめだ!」

 押し入れのふすまを開け、僕は叫んだ。



 青い光が押し入れの中から満ち潮の海のように沸き出して、ざあっと部屋中が一面のコバルトブルーに染まった。

 そこはもう、僕の下宿の押し入れの中ではなかった。



 ヴィオラを弾きながら、エーリッヒは眠っていた。

 夢を見ていた。

 さっきまで僕が見ていたのと同じ、彼の下宿の夢だった。

 目を閉じたまま木の椅子に座り、青い雨音の降りしきるオーゼイユ街の狭い下宿の部屋で、まさに夢見るような表情でヴィオラを奏でていた。

 左手の指が棹の上で踊り、右手の弓が弦を軽やかに撫でる。

 いつもより高く低く、旋律が舞うように飛び跳ねるのが見えるようだ。

「これは……」

 呼んでいるのか。

 呼ばれているのか。

「エーリッヒ……」

 演奏をやめさせようと呼びかけた僕の声を押しのけて、トランペットのような高らかな声が窓の外から響いた。

 


──エーリッヒ!



 稲妻がひらめいたかのように、下宿の窓の外がまばゆい真鍮色に輝いた。

 ぎくりと振り返り、息を呑んだ。

 しっかりと雨戸を閉めて鍵をかけたはずの窓が、壁ごとなくなっている。

 壁際の本棚も、その真向かいにあった部屋の出入り口も、床の畳も、天井すらもが消えている。

 ここはもう、僕の下宿ではない。

 もはやどことも知れぬ夜の空間と、エーリッヒの見ている夢の中とを繋いでいるその狭間で。

 最初に僕の目に飛び込んできたのは、暗い夜空を背に赤く燃え盛る二つの大きな瞳だった。

 赤銅色の瞳に、真鍮色の肌の巨大な男の顔。

 高い鼻梁と彫りの深い顔立ちの頬が、まばゆい真鍮色に輝く。

 瞳と同じ赤銅の髪が縁取るその顔が、あざけるような笑みを口もとに浮かべている。

 それで、わかった。

 そいつにとっては、僕がエーリッヒを誰にも見つからないように下宿に連れてきたことも、窓も戸もすべて鍵をかけた上で押し入れに隠れさせたことも、まるで意味のないことだったのだ。

 夜空に浮かぶその男の顔が、エーリッヒを見つめて笑っていた。

 そう、笑っていた。

 まばゆい真夏の太陽がなんの憂いも陰りもなく地上に照りつけるように。

 けれど。

 その目と、唇と、傷ひとつない金杯のようになめらかな頬とで形作る傲慢な笑みは、彼がこの地上に生きる者に対し、なんらの慈悲も慈愛も欠片(かけら)ほども持ち合わせてなどいないことを嫌というほど僕に見せつけていた。

 その証拠に。


──エーリッヒ。


 そいつは手を伸ばした。


──エーリッヒ、ここへ来るのだ。


 エーリッヒに呼びかけた。

 僕のことなど見てもいない。気にも留めていない。


──さあ。


 そこに僕がいることなど全く意に介さず、真鍮色の手が僕の方に近づいてきて──



 そのまま僕を突き抜けた。

 


 金属質に輝く手が触れた所から、僕の体は真綿のようにその手を受け入れ、すべるように通り抜けてゆく手を貫通させていった。

 例えば机の上のコップを手に取ろうとした時に、自分とコップのあいだの空間に少しばかりのほこりが舞っていたとしても気にせず真っ直ぐに手を伸ばすように。

 それと全く一緒だったのだ。

 そいつにとっては僕など、ほこりや塵(ちり)ほどにも気にとめるべき存在などではなかったのだ。

 けれど、僕の身体にとっては全くそうではなかった。

 夜の暗闇の中にもかかわらず真鍮色の光を反射しながら迫り来るその手が、僕の皮膚や肋骨を突き抜けてゆくたびに、ぞろぞろした摩擦が直(じか)に僕の体中に振動を響かせていった。

 やがて、背骨にまでその感触がはっきりと伝わってきて、まるでレンガのように、いくつもの脊椎が瞬時にどこかへごろごろと転がされてゆく音が鼓膜に届いてきて。

 ゆっくりと、僕はうつむき加減に自分の胸元を見た。

 真鍮色の掌がすっぽりとめり込んで、僕の目の前で僕の体は胸の辺りで真っ二つに分断されていた。

 そのとき初めて僕は自分の咽頭(のど)からほとばしり続けている叫びに気づいた。

 だが、その悲鳴は僕の口から出ることはなく、全部僕の内側へと向かってなだれ込み、がたがたに突き崩された体の中で出鱈目に響くだけだった。

 相変わらず、そいつの手は僕の叫喚など全く意に介さずに腕を伸ばし続け、押し入れの中にいたエーリッヒを、繊細なガラス細工を扱うかのように慎重に、そっと掴み上げた。

 大きな手だけでなく、太い腕がひじの辺りまで僕の上半身に突き刺さって、振り向きも出来なかったのに、その様子が何故か僕には見えていた。

 そうして、今度はその手がエーリッヒを掴んだまま、さっきとは逆方向に僕の体をずるりとすり抜けながら、出て行く。

 僕の体とエーリッヒの体とが、真鍮の手の中で境界を失って、ぐしゃぐしゃに混じり合ってしまいそうな恐怖にまた悲鳴を上げた。

 そんな中でも、エーリッヒを掴んだ手は慌てることもなく、石ころと宝石を選り分けるように難なくエーリッヒだけを僕から取り出して、そのまま僕の中から出て行った。

 真鍮色の手がエーリッヒを掴んだまま、暗い夜空を遠ざかってゆく。

 赤い月のように浮かぶ、燃える髪と瞳の男が満足げに、笑った。

 トランペットの音色のような笑い声が、はるか遠くでかすかに響く。

 それを聞きながら、僕は倒れた。

 


 顔面から畳に突っ伏して、僕は動けなかった。

 あの手が僕をつらぬいたままエーリッヒを掴みとり、それから僕の中で溶け合いそうになるエーリッヒだけをくり抜いて、通り抜けていって。

 長袖の服を無造作に脱いで裏返しにして、それをまた元通りに表にひっくり返すような、何気ない仕草で。

 僕の内側も外側も意識も自我までもが乱雑に脱ぎ捨てられ、真っ二つにされたまま、そこに放り出されていた。

 その間じゅう叫び続けていた声が、ぐずぐずにかき乱された僕の中で残響となってまだこびりついている。

 がくがくと、手が、体が不随意に動く。

 寒い。

 立て付けの悪い戸が強風でがたつく音をたてるように、体じゅうが震えている。

 震える手で毛布を掴み、中にもぐり込んだ。

 凍えるように寒い。

 頭からすっぽりと毛布をかぶり、その中で僕はがたがたと震えた。

 そうして気づいた。

 エーリッヒの書いたあの名前。



──ナイアルラトホテップ。



 真鍮色の手と、燃え盛る赤銅の髪と瞳の男。

 彼こそが──



 体の震えはますますひどくなる。

 こんな毛布一枚では到底足りない。

 寒い。

 寒い。

 もっと掛ける物はないか。

……でも、もしまた『彼』が戻ってきたら?

 怯えて毛布の中で身をちぢこめる。

 けれどこのままでは寒くて寒くて凍え死んでしまう。

 寒い?

 こんなに寒いのは、僕の体が本当に真っ二つにされてしまっているからじゃないのか。

 それとも、あいつが僕から出て行った時に、僕の体が裏返しにされたまま、あるいは中身を乱雑に突き崩されたまま放り出されているからなんじゃないか。

 まさか。

 けれど、それを確かめるためには僕の体を見てみなくっちゃならない。

 でも、それができなかった。

 自分の目で自分の身体を見ることが。

 またさっきのように、僕の体が僕の胸の辺りで真っ二つにされていたら?

 そんなことがあってたまるものか。

 僕の体の中を真鍮色した輝く手が通り抜けていったなんて。

 あんな感触を、ざらざらした振動を伝えながら掌が僕の体を貫いて、上半身を分断しただなんて、そんな記憶を残していること自体が一瞬たりとも耐えられない。


 だから。


──そうか。


 息を詰めて、自分に言い聞かせた。


──あんなことは、なかったんだ。


 ここには誰も来ていない。僕は今夜、職場から寄り道もしないで真っ直ぐ下宿に帰ってきて、途中で誰にも会ってなどいないし、誰かを押し入れにかくまったりもしていない。その誰かを連れ戻すためにここにやって来た者などいないし、僕の体を貫いて、真っ二つにして、その向こうにいた誰かを連れ去ってしまったりもしていない。誰も、ここには来ていない。僕がこうして震えているのはそいつが来たせいなんかじゃない。僕は──


──僕はただ、寒くて震えているだけだ。

 

 ゆっくりと息をしながらもう一度、自分に言い聞かせた。

 当たり前だ。まだ毛布一枚で寝ていいような季節じゃない。

 ちゃんと布団があるはずなのに、なんでこんなことになっているのか。

 布団を掛けて、温かくして眠れば、どうと言うこともないのだから。

 右手を毛布から出して、布団をたぐり寄せようと辺りを探る。

 じりじりと畳の上を手探りする。

 震える手が何かに触れた。

 右手がぱらりとページをめくった。


「あ……」


 そうっと、毛布から顔を出してみる。

 僕の右手が五線譜のページをめくっていた。

 頭までもぐり込んでいた毛布から這い出す。

 全身から力が抜けそうになるのを振り絞って、電灯の紐に手を伸ばし、明かりをつけた。

 電灯が二、三度またたいて、室内を照らす。

 覆いかぶさるようにノートの両はじに手をついて、見る。

 白いノートの上に、青いインクで音符が書き連ねられていた。

 ページをめくればめくっただけ、次々と青い音階が現れる。

 僕の右手の指先が無意識に音符をなぞる。

 その音符のひとつひとつに青い光が宿っているかのようだ。

 じんわりと、よみがえる。

 僕の手にしみ込んでいた音がまた、響き始める。

 青い音、コバルトに輝く光の群舞、あの豊かでつややかな旋律。

 あんなにも優しく、まろく、ゆるやかに僕を包み込んでくれたあの音。

「ごめん……ごめんよ……」

 頬に涙がこぼれた。

 なぜ、誰も来なかったなんて思えたのか。

 なぜ、これを忘れてしまおうなんて思えたのか。

 最後のページに書かれていた、彼の言葉。


『おやすみ』

 

 青い表紙のノートを閉じて、胸に抱きしめた。


「エーリッヒ……」


 エーリッヒのノートが、そこにあった。



  (つづく)

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