夜凪(よなぎ)ノオト

日暮奈津子

(1)

 咲き乱れた夜桜の景色が、どうにも耳障りだった。

 広々とした河川敷の空き地に大勢の人々が集まって敷物を広げ、仕出し弁当の料理や酒を持ち寄り、あるいは七輪を持ち出して干物などをあぶってかじりながら、花見の宴を開いている。

 酒肴を切らす心配のないようにということか、いくつもの屋台が出ているのまでが見えた。

 満開の頃合いを過ぎかかり、あとはもう、散るのを惜しむばかりのこの桜の時期を貪欲に楽しもうとする人々が夜の河川敷に群がり集う。

 酔いどれた声で歌う流行り歌に手拍子ではやし立てては、どっと笑い崩れる声がそこかしこから沸き起こる。

 ひっきりなしに席を動いては声高な追従を交(まじ)えて相手の杯に酒を注ぎ、受け手もまた愛想笑いに世辞を被(かぶ)せながら、注がれるためだけに杯を空ける。

 無作法な誰かが食器のふちを叩く甲高い音に、喧嘩でもしているのかと思えるほどの騒々しい濁(だ)み声とが混じり合って、いつもは静かな河辺の景色は跡形もなく騒音に塗りつぶされてしまっていた。

 朝日川(あさひがわ)沿いの桜並木にそって、それがずっと先まで続いている。

 その喧噪を聞かないように、僕は歩いた。

 新しく入ってきた社員の歓迎と花見の会を兼ねた酒宴に同僚達から誘われていたが、今日じゅうに仕上げたい書類があるからと言って断った。

 それでも、九時まではみんな店にいるから来るようにと言われたので、早く終わったら行くと返事はしておいたが、最初からそのつもりなどなかった。

 桜も見えない料理屋の座敷でいくら飲み食いしたところで、花見もなにもあったものではない。

 でも。

 ふと立ち止まり、夜の桜並木と花見客たちとを眺めた。

 こんなに騒々しい花見に出会ってしまうぐらいなら、いっそ気詰まりな宴席で、静かな夜桜の景色を自分だけの中で思い浮かべて気を紛らわせていた方がまだ良かったろうか。

 河川敷の桜の色は妙に赤らんで見えた。

 桜の樹の枝から枝へと電線を張りめぐらせ、そこから電球を入れたぼんぼりがいくつもぶら下がっている。

 その明かりに照らされて、花びらが赤みがかって見えているのだ。

 昼に少しだけ雨が降ったせいで、桜の樹の幹はどれも黒々と濡れている。

 その黒が、桜の花びらのかすかな薄紅色を引き立たせて一層見事な夜桜にしてくれるだろうと期待して、わざわざ帰り道を迂回して、ここへやってきたというのに。

 せめて桜の花だけでも自然の色合いのままを見ることができていたならば、花見客の喧噪からかろうじて自分を切り離して、ぽっかりと開いた僕の胸の中に、自分だけの静かな世界を作り出して夜桜の景色を楽しめたのに。

 中天にかかる満月までもが満開の桜に酔って、これ見よがしに明るく輝いているようにすら僕には思えた。


 騒がしい波も風もない、凪の夜桜を見たかった。


 いつ果てるとも知れない宴に背を向けて、僕は河川敷の桜並木をあとにした。

 


       *     *     *



 表通りを外れていくつもの角を曲がり、民家のならぶ路地まで来ると、さすがに花見の喧噪は届いてこなかった。

 花冷えの肌寒い夜気に当てられて、僕の頭と心も次第に清澄さを取り戻していった。

 誰ともすれ違うことなく夜道を帰ってゆく。

 身を寄せ合うようにして建て込みあっている民家の屋根の上に月が見えた。

 墨を流したような暗い夜空を切り取って、丸い月がかかっている。

 河川敷で見たのと同じ月のはずが、さっきとはまるで違って見えた。

 白く冴えた満月が、ひっそりとそこにある。

 夜空を見上げながら、しんと静まり返った路地を歩く。

 僕の密かな足音だけが下町の夜に響く。

 不意に、視界の隅で何かがちらりと光った。

 小さな青い輝きが僕の視野をかすめた。

 民家の明かりがどこかのガラス戸にでも反射したのかと思ったが、違った。

 惹かれるように足を止め、そちらを見る。

 ほのかに輝く、青い光。

 かすかな夜風に運ばれて、コバルト色の丸い小さな光がふわりとホタルのように僕の目の前に漂っている。

 だが、まさか桜の時期に、しかもこんな青い色合いに光るホタルがいるはずもない。

 ぽつりと、誰かが夜の空気に小さな穴をあけて、そこから青い輝きをそっと流し込んでいったかのように。

 それでも、確かに『それ』はここにあった。

 何気なく、手を差し伸べる。

 風が止み、浮かぶ力を失ってゆるゆると落ちていこうとする青い光を手のひらにそっと受け止めた。

 


 激しく、僕の中でひとつの音がびいんと強く響き渡り、目の前がまばゆい青に染まった。

 一瞬にして、針の穴ほどの小さな光の中に秘められていたその青い音が大きく広がり、鷲掴みにされた僕はその中へと放り込まれた。

 思わず目を閉じる。

 闇を圧して豊かに響く、その音。

 弦楽器の音だ。

 胴の上に張った弦を撥(ばち)や爪の先でつま弾くのではなく、弓を弦の上にすべらせて音を出す、西洋楽器特有の音色のようだった。

 振動に、ぐらりとよろめく。

 僕自身が弦になってしまったかのよう。

 倒れないよう二、三歩たたらを踏んだ自分の足をひどく遠くに感じた。

 真冬の海の波濤が打ちつけるかのように、ひと息に頭頂から足のつま先まで飲み込まれ、翻弄される。

 大きく高鳴り広がりゆくその音だけに包み込まれ、染め上げられる。

 底なしの青い海の中でただ一人、響き渡るうねりに飲まれ、溺れ、打ち上げられる。

 やがてだんだんと、波の引くように青い振動は静まり返ってゆく。

 そうしてさざなみだけが、最後に残る。

 だがそれすらも、海の水が砂にしみ込むように消えていった。



 そっと目を開いてみる。

 僕の右手の中に青い光はもうなかった。

 僕の弦の振動も、なにごともなかったかのように治まっている。

 ずっと息を止めていたのに気づいて、吐き出す。

 その吐息が僕の目の前で青く音たてて立ち上(のぼ)るような気がした。

 けれど僕の前にあるのは、さっきと同じ夜の路地裏の光景だけだった。

 それなのに。

 何も変わらないはずの景色の中に、密かに流れているものがあるのがわかった。



 弦楽器の音が。



 さっきまで僕の中で鳴り響いていたのと同じ音だ。

 どこからか、かすかに聞こえているのがはっきりわかる。

 こんなにわずかな空気のふるえでしかないものが、小さく、けれど豊かで美しい旋律になって流れてくるのが僕には聞こえていた。

 ごみごみした下町の路地裏にはまるで不釣り合いな、つややかな弦楽の響きが夜風に運ばれてくる。

 それをもっと、聞きたい。

 足が自然に、音の聞こえる方へと向いた。

 下宿への道筋を外れ、曲がったことのない角を足早に曲がる。

 知っているはずの町の、知らない道を歩く。

 確かに音が近づいてくる。

 古びた鳥居の前を通り過ぎそうになって、足を止めた。


──ここか。


 そっと奥を覗いてみる。

 ゆるりと柔らかな調べが夜風に乗って、境内の入り口で見ている僕の元へと流れてきていた。

 石造りの鳥居の向こうに小さな神社の拝殿と、こじんまりとした境内とが見えた。

 背の低い、だが枝ぶりの良い桜の樹が一本だけ、満開の花を咲かせている。

 ぼんやりと境内を照らす常夜灯の明かりの下、拝殿へ上がる階段に座って、一人の青年が弦楽器を奏でていた。

 白く長い指先の右手が弓を取り、優雅なくびれを持つ楽器の胴を細い顎と左手で支え、弾いている。

 ヴァイオリンより少しだけ大きいように見える。

 ヴィオラだろうか。

 長い脚を持て余し気味に腰掛けて、僕が見ているのにも気づかずに演奏を続けている。

 瞳の青と、ヴィオラと同じ深い琥珀の髪は明らかに日本人のものではなかった。

 ややうつむき加減で寄り添うようにヴィオラを構え、自分の手と一体になって弓を弦の上にすべらせてゆく。

 左手は、時にめまぐるしく、時にはゆったりと、棹の上で音階を刻んでいる。

 四本の弦の上を弓が渡るたびに、琥珀色のヴィオラはつややかな声で歌う。

 情熱的なヴァイオリンのように高らかに高音を張り上げることはなくとも、ゆったりと優雅に、深い音色を響かせている。

 西洋音楽には詳しくない僕だが、それでも、これは非常に独創的で、彼自身が作った曲なのではないかと思われた。

 甘さと、ほんの少しのほろ苦みとを口に含んだ時のように、いつまでもそれを味わっていたくなる。

 いつまでもこの音を、耳の中で転がしていたいと思う。

 耳と、頭と、心の中とで、いつまでもその音を撫でていたいと願う。

 青い瞳と灰青色の毛並みの猫ならば、さぞかしこの音に似た手触りを与えてくれることだろう。

 その猫の頭が僕の胸にすり寄ってくれるのがたまらなく愛おしく、それでいて、こちらから抱き締めてしまえばそれを嫌ってたちまち猫は僕の元を去ってしまいそうで、これ以上は近づくことすらためらわれた。



 飽きることなくヴィオラの饗宴をながめていた僕の前で。

 ふと気づくと、弓が弦にふれるたびに生み出される音が、ひとつ、またひとつと青い光になってこぼれ落ちてゆくのが僕の目にはっきりと映っていた。


──そうか。


 右の手のひらを見つめる。

 やはりあの青い輝きが音そのものだったのだ。

 ヴィオラから生まれた青い音が彼の足元に舞い降りて、静かに憩う。

 コバルトブルーの儚い光が辺り一面を覆い尽くしてゆく光景は、まるで凪いだ夜の海原のようだ。

 淡い光をにじませながら、境内が青く照らし出されている。

 青年は時折ヴィオラを引く手を止め、膝の上においた青い表紙のノートを広げては音符を書き込んでいる。

 傍らの桜の樹からはちらり、ちらりと音もなく花びらが散っている。

 春の夜の夢のようなその光景は、浮き世の憂さに沈む心の帳(とばり)を内側からそっと開くように、静かな光を僕の中に差し込ませてくれていた。

 やがて青年はノートを閉じ、再びヴィオラを片手に弓を構え、弦から旋律を紡ぎ出そうとして──


 

──エーリッヒ。



 無遠慮なトランペットのように尊大な声が僕らの頭上から降ってきて、ヴィオラの音を途切れさせた。 


──見つけたぞ。


 見あげると、夜空に明るい満月を背景にして、真鍮(しんちゅう)色に輝く巨大な手が形の整った掌を広げて真上からヴィオラごと青年を捕らえようとしていた。

 見上げた青年は一瞬だけ動きを止めたが、どこか逃れるところはないかと辺りへ視線を泳がせた。


 そのわずかな瞬間に、僕と目が合った。


 だが逃げようもないと諦めたか、せめてヴィオラをかばおうと、彼は巨大な手に背を向けるようにしてヴィオラを弓と一緒に全身でかき抱いた。



 真鍮色の手が猛禽の翼のように彼の背に覆い被さり──



 巨大な手も、青年も、そのまま消えた。



 コバルトブルーの輝きを放っていた光も、ひとつ残らず姿を消していた。

 ぞっとするほど冷たい夜風が境内を吹き抜ける。

 桜の季節とは思えないほどの冷気に僕の全身が包み込まれた。

 あとにはもう、境内の桜からはらはらと散る花びらと僕だけしか残されてはいなかった。



(つづく)

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