第三章 わたしとドラゴン達の世界

ドラゴンを取り巻く人間の理

第73話 ドラゴンと走る少女

「よーい……どん!」


 クラウチングスタートから勢いよく飛び出す。両手を手刀のように鋭く振って、目前の緩やかな斜面を駆け上がっていく。


「今日こそは負けないから!」


 昨日までの反省を活かし、今日は素足で勝負だ。硬めの土を足の指先がかき分けていく感触が気持ちよく、体はより一層軽い。これなら、もっと早く走れそうだ。


 私が駆け出してから少し間を空けて、地響きが聞こえてくる。その間隔は徐々に早くなり、それは軽快なリズムを奏でながら、背後に迫ってくる。


「もう、今日に限ってやる気になるのが早いんだから……!」


 振り向けば、全身が岩石のような意匠のドラゴンが、その重い体をしならせながら斜面を駆け上がってきていた。その動きは幾分ぎこちなく、その体の構造から言えば、随分をゆっくりとした速度に見える。しかしこちらは人間の女で、あちらはドラゴン。一歩の歩幅が致命的な差であり、見る見るうちにその差は縮まっていく。


『ふはは、どうした小娘。息巻いておきながら所詮はその程度か』


 ドラゴンの頭部が私と横並びになる。相変わらず勝負事や競い事となると無駄に見栄を張るこのドラゴンは、必至に腕を振る私を一笑に付す。勝ち誇ったその表情がにくたらしい。


「なんの……これしきぃ!」


 一方の私も相当な負けず嫌いだ。女子力は高い方では無いが、その分、運動能力と体力には自信があった。


「うおおおお」


 そのわずかな女子力さえもかなぐり捨てて、男顔負けのフォームで駆け上がっていく。揺れる乳が恥ずかしいなど、そんな感覚は残念なことにはなから持ち合わせていない。どちらかと言えば、自分から吹っかけたこの勝負に負けることのほうが、余程恥ずかしいことなのだ。


 私、會澤あいざわあかねは、そういう女なのだ。それはここ、どこだか分からない、ファンッタズィーな異世界に来ても、変わらないことだった。



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「ぜはぁっ! ぜぇ…ぜぇ…」


 大の字に仰向けになって、呼吸を整える。


「はーあ、気持ちいい……」


 山頂の清らかな空気が体内に取り込まれる感覚が、とても気持ちいい。汗だって、すぐに乾く。季節はすっかり秋に移行し、山肌は赤から茶色へとその装いを変えていた。


 体を起こし視線を落とせば、数件の小屋と、大きな神殿のような建物があった。

 私達が普段生活しているあの場所からここまでは数百メートルと言ったところ。そんな傾斜を全力で走り切るなんて、人間の体にはキツイのは当たり前だ。けれども、これは私から言い出したことで、手を抜く訳にはいかないことでもあるのだ。


「今日も負けちゃったなぁ。やるねぇ、エルさん」


 私は傍らでたたずむむドラゴンに拳を入れた。翼を広げれば有に十メートルを越える巨体。そのたくましい後ろ足にそれをした所で、頑丈な皮膚に埋もれるだけだった。


『当たり前だ。我は元大地の精霊王だぞ。王位こそ退いたが、未だ現役よ。お主などに負けるなど、どう転んでもあり得んわ』


 と、自信満々に答えるのは、地竜のエル・キャピタンさん。齢六百を越える、超高齢のおじいちゃんだ。そして私、アカネは、エルさんの従者。現実世界で言うなら、エルさん専任の介護福祉士だ。


「おおー、それは頼もしい、頼もしい」


 この世界のドラゴンは、人間の言葉を解す者がいる。エルさんのようなに精霊王となれるような個体となると、それは当たり前のことだった。声帯を持たない彼らは、どうやっているのか頭の中に直接話しかけてくる。こちらが発した言葉はちゃんと耳で聞いているので、コミュニケーションが成立するのだった。


『して、はて、我はここで何をしているのだ』


 そしてこのエルさん。超高齢なので、認知症を患ってしまっている。私の取り組みもあってか、体の機能も徐々に向上してきており、出会った時は立ち上がることすらままならなかったのが、こうして軽く走ることができるようになった。それに伴って、認知症の症状や、健忘症の症状も幾分良くはなってきてはいるが、やはり本質的な解決には至っていない。認知症とは、そういう病だ。


「エルさん忘れちゃったの? どっちが先に、この景色を眺めに来れるか、勝負しようって事になったんだよ。負けた方が、勝ったほうを褒めるっていう報酬で」


『むぅ、そうだったか? 我はそんな理由でここまで急いていたのか。にわかには信じがたいが……』


「な、なにいってるのエルさん。このアカネちゃんが、エルさんに嘘なんて付くわけないじゃん?」


『………』


「信じてない!?」


『いや、そうだな。主がそう言うなら、そうなのであろう。実に愉快な戯れであった』


 私は胸をなでおろした。

 種明かしをすれば、それは嘘だった。


 中々積極的に運動をしようとしないエルさんを焚きつけるには、もっと具体的でインパクトの大きいメリットを示してあげる必要がある。そこで私は「勝てば今日の晩ごはんの精霊石を二倍にしてあげる」と提案し、この斜面駆け上がりの勝負を持ち出したのだ。最初のうちは私の圧勝だったが、一ヶ月もしないうちに接戦となり、この数日はすっかり負け越している。

 実際の所、精霊石を二倍にしてしまうと、畑の生産が追いつかないばかりか、エルさんの体重が益々増えて、かえって良くない。たいていはこうして登り終わった頃にはその報酬を忘れているので、お茶を濁している。嘘は良くないことだが、それでエルさんの運動量を増やせるのだからと、心を鬼にしているところだ。


『そろそろ飯の時間では無いか』


 運動した直後は腹が減る。しかし昼食を取るにはまだまだ早い時間だ。


「それもいいけど、少し時間が早いかな。ついでに汗を流しに、あの湖まで寄っていこうよ」


『我は汗などかかん』


「私がかいてるの。ね、お願い、びったんこで気持ち悪いんだよ」


 私は不器用に半眼し、媚を売る。女子力の欠落した動作は滑稽こっけい極まりないのだが、エルさんに対しては効果てきめんだ。今の所、この方法で無下にされたことは無い。


『……早く乗れ』


「やった。ありがとうエルさん。大好き!」


 エルさんは私がその背中に跨るのを待ち、乱暴に立ち上がると、のっしのっしと斜面を下っていく。


 これが私達の日常だった。永遠には続かないとわかっているからこそ尊い、幸せな時間。今の私にとって、かけがえのないものになっていた。

 

 誰にも邪魔してほしくない。それが私の本心だった。

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