第60話 イルさんからの大切な訓示
私とイルさんは洞穴をゆっくり進んでいく。
「万が一にでも踏み抜いたら大変だ。乗っていてくれるか」
その一言でイルさんの背中を貸してもらっている。
狼男達に均された道は、イルさんの巨体が踏みしめても崩れたりはしなかった。作業途中の彼らもイルさんが通れば手を止め、敬礼をしていた。雷竜に仕える彼らは他の竜王とこうして会う経験はなかったのだろう。敬意と畏怖、そして好奇心が
『アカネよ』
そんな彼らと壁面を十分に見定めたイルさんが、重々しく語りかけてきた。
『お前も、また大変なものを背負ったな』
「……どういう意味?」
『私は竜王としてはまだまだ駆出しだが、それでも地竜として他の生物より長い人生を送ってきた。が、未だかつてこんな現象に遭遇したことはない。他種族が手を取り合い、一つの目標に向かってことを成す。それもこれ程の規模で。それはとても素晴らしい事だが、同時に、率いる側には大きな責任がある。それがお前のその小さき肩に乗りかかっている』
洞穴内はイルさんの登場ですっかり静まり返っていた。遠方にはアキマサじじを乗せる事になる車椅子が、その奥の台座には本人が項垂れていた。
「私は…」
『言わなくてもわかっている。私はお前と出会い、いかに父の人生に対して頓着が無かったかを思い知った。それだけではない。お前の強さと想い、そして愛が、父や私を変えたのだ。アカネよ。心から礼を言うぞ』
イルさんの言葉は、私が自覚していない心の何処かを刺激したらしい。自分が泣いていると言うことに気がついたのは、頬を伝う水滴が不自然に多かったからだった。
『ここにいる者たちも、お前と出会い、心を動かされたのだ。お前はこれを成し遂げる責任がある。それに全てを捧げよ。それがどんな結果を迎えようとも、誰もお前を責めたりせぬ。もしそんな輩が現れるようなら、このイルの名にかけて打ち砕いてくれる。安心してことに励むがいい』
「イルさん」
『お前のような優しい子は、これ以上、他の者のことで傷ついてはならぬ。後悔してはならぬ。がんばれ。お前が笑顔で戻るのを待つ者がいるのだから』
イルさんの言葉で胸がいっぱいになった。そして私の頭の中は、エルさんの事でいっぱいになった。
早く会いたい。
私は今一度、心に固く誓った。アキマサじじの最期を最高のものにする。
そして帰るのだ。あのちょっぴり意地悪だけど、優しい竜のもとに。
「なんだお前、目から水なんか流して。竜王様の背中は雨漏りでもすんのか」
まな板呼ばわりされた車椅子の土台。狼男とトーダちゃんが切り出した木材は、神経質な程綺麗に整えられ一枚の土台を成していた。縦に並べた板を結ぶ柱が横方向に並べられ、その上からハンマーで叩きつけている者が数名。ぎょっとしているトーダちゃんは、車輪の部品と思われる円盤を丁寧に均していた。
「うっさい、ばか」
「んな…! マジ泣きしてました見たいなリアクションしてんじゃねぇよ!やりづれぇ」
イルさんに跨がりながら顔を真っ赤にしてる私を見て、トーダちゃんは慌てふためいていた。彼なりの優しさだったのであろうが、フォローの方法としては残念ながら赤点と言わざるを得ない。
『それくらいにしといてやれ、猫人族の青年よ。女心を察してやるのも、男の仕事だ』
「…イル様がそこまで仰るなら…」
『ところで、精霊石を持って参ったが、ここに降ろしていいのか?』
「あ、はい!」
トーダちゃんは飛び跳ねるように作業を中断して、イルさんの背中から私と革袋を順におろしていく。すれ違いざまに舌を出してからかってやったが、トーダちゃんは気まずそうだった。女の涙に不慣れすぎである。
「これは……すげぇ」
革袋を開いて覗き込むトーダちゃんが言った。覗き込めば、革袋の中は光の濁流で溢れかえっていた。虹が蛇のようにうねり、いや、虹が袋の中を流れていると言った方が良いかも知れない。
『是非、活用してもらいたい』
トーダちゃんは胸に手を当て、深々と頭を下げた。ララムの街で見せた、しっかり者の体裁だった。
「お任せを」
『してアカネよ』
イルさんは首を伸ばし、開けた洞穴の最奥を見ている。そこにはアキマサじじが居て、2匹はとうにその視線を交錯させていた。
『作戦の決行はいつだ』
視線を動かさぬまま、イルさんは訪ねてきた。
私がトーダちゃんに目を送ると、「このまま行けば、明け方には完成してるはずだ。道の方はそこの旦那に聞いてくれ」とすぐさま答えてくれた。
「それまでには、傾斜が厳しくなる所までは舗装できるでしょう。その先の急傾斜地帯は、状況を見て」
トータちゃんに続けて答えてくれたのは、少し後ろからついてきていたツェプトさんだった。
『ということは、少なくとも一日は残されている、ということだな』
「うん、基本は完成次第、すぐ。最短なら明日の夜かな。雨が止んだら、そこを逃したくない」
それが一番の問題だった。諸々のリスクを考えると、雨天は何よりも避けたい。しかしこの雷竜の住まう山は荒れた天候が標準であり、雨が降っていない事の方が少ないのだ。
『わかった。ときにアカネよ』
「なに? イルさん」
『私は用事を思い出した。何、時間がかかるものではない。明日の夕刻までには戻ろう。それまでの間、一つ頼まれてくれないか』
「頼み? そりゃあイルさんのお願いならもちろんだけど……」
私がそう言うと、神妙な面持ちだったイルさんが、いたずらにはにかんだ気がした。
『酒だ。とびきりの美酒を用意しておいてほしい。酌を交わしたい相手がいる』
そして再びその視線は洞穴の奥へと向けられた。それを迎え撃つのはアキマサじじだ。二人を隔てる距離は100メートルほど。しかしそれほど距離が開いていても、言葉を交わさずとも、二人の心は通っているようだった。
「わかった! 飲みきれないくらい用意しておくね!」
私が笑顔でそう言うと、会話を密かにきいていたのだろう狼男たちが静かにガッツポーズしていた。私が指示するより前に、幾人かの狼男達が使いを走らせていた。
『ほどほどに頼むぞ。では』
そういってイル様は洞穴を優雅に飛行して行った。
「お酒かぁ。それなら、やっぱりツマミがないとね」
このとき、私はあることを思いついたのだった。
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