ADL向上 エルさん肉体改善計画

第38話 ドラゴンとADL

「よし! できた!」


 ペンを置いて両手で持ち上げた紙を見つめる私。我ながらなかなかの出来栄えだ。ガラスの無い窓の外はすっかり星空。星明りで文字が書ける程の美しい世界だが、あまり夜更かしは良くない。


「エルさん、まっててよー」


 私はうきうきしながら寝床に入った。



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「ねーこれ見て!」


 例によって中々起きないエルさんだったので、丸くなった体の隙間に入り込んで、瞼を両手でこじ開け、そこに出来上がった自信作を突き出す。


『……なんだそれは』


 エルさんは気だるそうに体を徐々に伸ばしていき、ドラゴンの体裁になっていく。私は流れるような動作でその頭に跨がり、眼前にその紙をひらひらと見せびらかした。


「これはね、ADLチェックシート!」


『えーでぃーえる?』


「そ! これから毎日、これを元にリハビリを行います!」


 ADLとは「Activity of Daily Living」の略で、生活日常動作と訳される。介護の世界で用いられることが多い言葉で、食事・更衣・移動・排泄・整容・入浴など生活を営む上で不可欠な基本的行動を指している。各項目毎にチェックをしていくことで、どの程度日常生活が自立して行えていて、どの程度介助が必要なのかを明確化していくのに用いられる。


 例えば怪我をして入院して、筋力や意欲が低下したら「ADLが低下した」、リハビリなどで歩行状態が改善した場合に「ADLが向上した」等と言ったりする。


 これは介護保険を利用するために要介護認定を受けるにあたって非常に重要な査定項目となっている。


 施設を利用する時、このADL情報と家族や本人に行う事前調査情報を査定アセスメントして、施設での生活や介助の方法をして決定していくのだ。


 例えば歩行が不安定だが杖があれば自立歩行可能な場合、入浴のサービスはどうするか決める時に役に立つ。浴室では杖が滑って危険だが、職員の歩行介助があれば問題ないならそのまま入浴できるし、その利用者が大柄で職員介助だけでは危険な場合は機械入浴(車椅子のまま入浴出来るシステム)を利用する、だとか、歩行状態一つを取っても色々ある。歩行は極めて不安定でも、つかまり立ちがしっかり出来るなら一般入浴ありというケースもあるにはある。

 歩けるし食事も取れるけど何故か着替えだけが上手くできない人もいるわけで、そこを明確にし、的確な介助を行っていくことに加え、どの部分を積極的に自立行動させてADL向上を目指すのかなど、とにかく介護についてADLという言葉は切っても切れない関係にあると言ってもいい。


「今後エルさんには、具体的な、短期的な目標を持ってリハビリに励んでもらいます。と言っても、その内容は私が指示するから覚えなくてもいいよ。私はこれに基づいて行動しているんだ、ってことだけ知っておいてくれれば」


『ふん。朝から何かと思えば。くだらん。第一面倒くさいではないか』


 認知症患者の中には、自分の事は自分で出来ていると思い込んでいる人が結構いる。実際には家族や職員が的確なサポートをしているのだが、それに気づいてないので、改善しなくてはならない理由が見つけられないのだ。当然そうなると「面倒くさい」となってくる訳である。


「ふふ、そういうだろうと思ったよ」


『わかっておるなら初めから言うな。飯はまだか』


 だが私には大きなエサがあるのだ。


「エルさん、まぁ少しお聞きなすって。昨日、冷蔵庫が完成しました」


『れいぞーこ?』


「そ。ララムのお酒をキンッキンに冷やすことの出来る魔法のアイテムよ」


『なん……だと……』


 わかりやすいパターンである。この話は以前しているが、もちろんエルさんは忘れてしまっている。一度だけしかしてないしね。


「もし、私の言うことを聞いてこの表全てに○をつけられたら、その晩にキンッキンに冷えたララムのお酒を一杯提供しましょう」


 エルさんの尻尾はバタバタと芝生を打ち付けている。


『そ、それは本当か』


 ちなみにエルさんはここ最近飲酒していない、というか飲ませていない。先日イルさんが訪れた際も盛大に喧嘩しそうになっていたので酒の席を設けなかったのだ。エルさんが事情も知らずに「嫁や孫を連れてこない」だのなんだの言うので、イルさんも黙ってはいられないという悲しい展開だ。サンタマリアさんの事を思うとますます不憫である。


「アカネちゃんは嘘はつかないよ。毎日こなせば毎日飲める! 毎日だよ? その代わり一杯だけど」


 エルさんは喜びのあまり震え始めてしまっている。なんとなく咆哮する気がしたので慌てて背中の方までお尻を滑らせたが、案の定首を高く挙げて咆哮した。あやうく私は落下するところだった。


 本当にお酒好きなんだな。まぁ私もだけれど。


『うむ、それをきいて俄然やる気が湧いてきた。して、飯はまだか』


「今アッテリアが持って来てくれるよ。じゃあ早速だけど、今日からやるからね」


『ふん、その程度軽々とこなして見せよう』


 こうして、エルさんの生活により細分化された自立支援メニューが追加されたのだった。

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