中
***
母は楽しげだった。カズラが採ってきた細い蔓を湯で柔らかくもどしながら、寝食も忘れ美しい模様を織り上げてゆく。五月雨の季節でよかった、一番良い葛が採れるから。採る分には大変だろうけどね、苦労をかけてごめんなさいね。泥まみれでせっせと葛を運ぶカズラにそう笑い、一心不乱に編み続けた。
だが胸を患った身で無理をしすぎたのだろう。十個の行李を編み上げたときには母は疲れきっており、嫌な咳を繰り返すようになっていた。
苦心して作り上げた行李だ、自分で持っていきたいのは山々だったろう。だが大地主様に病をうつすわけにもいかない。だからカズラは近所から馬を借り、行李を積んだ車を曳かせ、ひとり大地主様のお屋敷へ向かった。
シラユリ様の行李を仰せつかいました籠屋でございます。母が持病をこじらせ参上できなかったので娘のわたくしがお届けにあがりました。お代金はまたいずれ頂戴にあがります。そう言って門の中へは入らず帰ること。決して粗相はせぬように。母にきつく言われた言葉を口の中で繰り返しながらカズラはお屋敷へたどり着いた。
蚊遣りの香だろうか、お屋敷からは良い香りがした。良家のたたずまいにおっかなびっくりしながらも門番に事情を話し、手筈通り以前の使者を呼びだして品を確認してもらった。これは良い行李だ、シラユリ様もお喜びになるだろう。微笑む使者にカズラは頬を染めておじぎをし、それではときびすを返した。
路傍の草を食む馬のもとへ戻り、引き綱を解いていたときだ――屋敷から少女の怒声が聞こえたのは。
何事かと振り返り、カズラは目を細めて門の奥を見た。運び込まれようとする十個の行李、そのかたわらにさっきの使者とひとりの少女が立っている。カズラのような平民にはあり得ぬほど色の白い少女だった。
「その籠はなんなの!」
シラユリと一目で知れたが、どれだけ肌が白かろうが娘は白百合には見えなかった。あんな楚々とした可憐な花ではない。錦の着物をまとい肩を怒らせた様はさながら夕暮に揺れる鬼百合だ。毒をもたぬのが不思議なほどの激しさで傲然と咲くあの花だ。
「以前シラユリ様が壊された行李の代わりです。村の籠屋に作らせました」
「籠屋って、あの山猿に? あの山猿がこれを作ったの?」
「あの娘はただの遣い、作ったのはその母親ですよ。ご覧ください、美しい行李ではございませんか。村一番、相馬様の領地一番の籠屋の作です。次はどうぞ壊されませんように」
シラユリの腕がぶるりと震えた。
「……そんな籠、使えないわ」
は、と薄ら笑いを浮かべた使者に、シラユリの顔がいっそう歪んだ。
「嫌なにおいがするわ。山猿のにおいがする」
不意にシラユリの手元が光った。
カズラが息を呑み身を乗り出した時には、懐剣が深々と母の行李に突き刺さっていた。
****
ごうごう鳴る山虎坊の鼾(いびき)に耐えかね、カズラは庵を抜け出した。傷は痛むが、さすがは天狗の妙薬だ。もう脂汗が滲んでくるほどではない。軒下にひっそり座り込み、カズラは夜半の竹林の葉擦れの内に身を置いた。
カズラが突然目の前に立ったなら。シラユリはどんな顔をするだろう。山刀を突き立てればどんな悲鳴をあげるだろう。異変に気づいて駆けつける家臣を葉団扇でぶわりとあおいで吹き飛ばし、人ならぬ力を秘めた紅い腕でひねりつぶしてやろう。村の誰もが平伏し見上げたあの屋敷を踏み潰し、この恨みの強さを思い知らせてやろう。
復讐まであと四十九日。否、それに加えて傷が癒えるまでの時間。
カズラは木の皮とサラシできつく固定した脇腹に手をやった。これが癒えるまでにどれほどかかる? 蔓ですりきれた手首や全身の切り傷擦り傷は一日二日で治るだろう。だが骨折がそんなもので癒えるわけがない。
指先についた若竹の香りを嗅いだ。獣を追う必要もないことだし、今は歩けるだけで十分だ。庵の中へ取って返し、昼間塗った軟膏をふところへ押し込んだ。それから玄関口にたてかけてあった山刀を帯に差し、派手に鼾をかく山虎坊をかえりみて、カズラは夜の竹林へ踏み込んだ。
四十九日。なんて、長い。胸にくろぐろとしたものを抱き、カズラは当分暮らせるだけの水や食物や寝床を求めてあてどなく歩き始めた。
虫の音を聞きながら、ざざんと竹の葉を鳴らしながら。歩く。歩く。歩く。歩く。最初はよかった。だがやはり長く歩いていると脇腹が痛む。やがて太い竹の根元に腰をすえ、カズラは背を丸めてうずくまった。じくじく湿った細い木の葉と刃物のような笹の葉がカズラの身体を受け止める。
ふところの薬を握った。これだけの量で四十九日過ごさなければならないのだ、無駄遣いはできない。やはり戻った方がいいか……。
「散歩にしては長すぎるな。どうした、こんな夜更けに」
顔を上げればすぐ近くに山虎坊が立っている。カズラは反射的に立ち上がり身を翻した。
追ってきた。どうして、どうしてこんなに早く追ってこれた? いくらこのあたりが庭のようなものといっても限度があるだろうに。
(やーい、山猿。逃げても逃げてもお前の行く先には誰かがいるぞ。誰かがお前を見ているぞ。忍び笑うぞ。石を投げるぞ。その喉元へ刃を向けるぞ。お前が安心して生きていける場所などどこにもない)
村でずっと感じていた身体のどこかを冷たい歯で齧られ続けるような痛み。それと同じものを感じてカズラは脇腹を押さえめちゃくちゃに駆けた。追ってくる。天狗がどこまでも追ってくる。無数の目が追ってくる――。
(ほぅら、山猿が四足ついて逃げていくよ。次はどこへ行くのかな?)
ふと前方に人の気配を感じ、カズラは笹藪の中へ身を伏せた。上がる息を必死で押し殺しカズラは前方を睨み付ける。ばさばさ笹藪を蹴散らしながら駆けてきたのだ、山虎坊が先回りしていたのなら当然気づいているはず。逃げ道は。逃げ道はどこだ。
だが目の前にいたのは天狗ではなくほっそりとした女の影だった。
「……母さん?」
竹林の中、ひっそり母が佇んでいた。なぜこんなところに? ぽかんとするカズラに母は気づく様子もなく、いつも作業場でやっているようにしずしず籠を組んでいる。
「どうして」
母はまるで凍えているかのようだった。ここは雨に濡れて酷く蒸すのに、肩を縮め背を丸め、張り詰めた指先で静かに籠を編んでいる。今作っているのはカズラが葛刈りに行くとき背負っているのと同じ籠だ。
その母の背後にぬぅっと黒い影が立つ。カズラを襲ったのと同じ三人組が竹林の中から煙のようにゆらりと現れると、母の顔に竹でできた籠をかぶせた。葛の蔓で後ろ手にしばり、そして腰から抜いた真新しい山刀を。
「やめろっ!」
とっさにカズラも山刀を抜き三人の男に躍りかかった。ひとりがカズラの刃をかいくぐって手首を掴む。その手が不意に真っ赤に染まり――毛むくじゃらの山虎坊の腕に変わった。
「カズラ。母親が哀しんでいるぞ」
母が、二人の男が、現れたときと同じように煙になって消えていく。山虎坊がカズラの手から山刀をもぎとり鞘へしまった。
「幻……」
「そうだ」
そんな力も持っているのか。こんなことができるならあの女の身も心も引きむしってやれるのに。
不意に疲れと酷い痛みをおぼえてカズラはその場にへたりこんだ。やはり逃れることはできないか。相手は妖怪、人ならざるもの。
「なんてものを見せるんだ」
「俺はお前の胸の内にあるものを引っ張り出しただけだ。あの三人はともかく、俺はお前の母を知らん」
後ろめたいのか、自分は。カズラはぶんぶん首を振った。後ろめたさより憎しみの方がはるかに大きい。
「なぜ逃げた。俺が今更なにかするとでも思ったか」
カズラはのろのろ首を振った。そういうわけではない。そういうわけでは。
山虎坊はため息をつき、また葉団扇でカズラの身体を仰いでくれた。身体の痛みは薄れていくのに胸の痛みは増していく気がして、カズラは両手で顔を覆った。
「行くというなら止めはせん。ただその前にお前の恨みを話してみる気はないか」
里心をつけて村へ帰そうというのか。そうはいくか。
「俺が思うに、あの男どもはお前を殺す気はなかったんじゃないか」
「どこをどう見たらそう見えるの」
「殺す気なら自慢の刀を抜いていたはずだ。違うか。あれはお前にちょいと痛い目を見てもらおうと思っていただけだ」
しっかりと思い返せ。お前の恨みはお前が針小棒大に感じているだけのものではないのか。高潮する頬、ざわりと冷たくなる頭の芯。が、その一方で頭のどこかは冴えていて、胸にわだかまるものをちくりと刺した。
確かに。あのときあの男は崖から落ちかかったカズラを止めた。カズラを殺す気なら警告するどころか後ろから背中を蹴飛ばしていてもよかったはずなのだ。でも。
「……私にとっては同じことだ」
紛れなき殺意であろうと、弄んでやろうというだけであろうと。どちらにせよカズラは殺されかけ、胸の中に炎を抱いてここにいる。
天狗の目に「そうかい」と言いたげな呆れと同情の入り混じった色が見えて、カズラは答えたことを悔やんだ。真一文字に口を閉ざす。今までのことが全てカズラの被害妄想であろうとも。失ったものは以前たしかにここにあった。恨まずにいられるものか。
「あの連中に殺意がなかったのなら、ただ弄んでやろうと思っただけならば。お前の母は無事だろうよ」
ぽつりと慰めの言葉を落として、「また来る」と山虎坊は背を向けた。
ほっとしたのもつかの間、カズラはその後飢えと乾きに苦しんだ。このあたりには川が無い。ずぶ濡れになりながら雨の中へ出て折れ竹に溜まった水をすすり、食べられるものを求めて山をさまよった。だが木苺や山桃や、食べやすいもののあるところには大抵人や獣の影があった。猪が木の根を掘っているのを横取りしようとした時などさんざん牙で脅され追い回された。手に持っていた棒切れなど何の役にも立ちはせず、必死に木へ登ってやりすごす他がなかった。
「まさしく山猿だな」
木の枝の上へ高下駄で危なげなく立ち、山虎坊はそう笑った。
山虎坊はしょっちゅうカズラのもとを訪れては、前のように幻を見せたり説教したり好き勝手振る舞った。特に夜は毎晩のように現れた。葛を、竹を、藤を。編める草木をかき集め焚火の傍でがむしゃらに籠を編むカズラのもとへ現れては、しかし籠を編んでいる時だけは一言も口をきかずただ酒を呑んだり和歌を書きつけたりして、いつの間にやら数個の籠とともに姿を消しているのだった。
五月雨に濡れていた葛が縦横無尽に蔓を伸ばし藪を覆い紫の花を咲かせるまで。四十九日、飽きもせず。そうして「その日」へ迫っていった。
*****
あれほど丹精こめた行李を!
カズラの視線を感じたのだろうか。シラユリはこちらを向いてにたりと笑い、十個の行李に次々傷をつけ始めた。
止めてください。どうか! 助けを求める視線を送ったが、使者はまた始まったよと言いたげな顔をしているだけ。
カズラはたまらず駆けた。シラユリに躍りかかろうとして門番に襟首を掴まれた。
「気持ちはわかるがここは堪えよ。相手をどなたと心得る」
高笑いするシラユリをカズラは言葉を限りに罵った。そして泣きながら身をひるがえし藪へ入ると葛を毬のように固く巻いたものをいくつも作り、生垣の陰からシラユリの部屋めがけ思いっきり投げつけた。
そんなに籠が嫌いか! 嫌いならこうしてやる!
無論カズラのしたことだとすぐにばれ、その夜、母は酷い咳をしているにもかかわらずお屋敷へ引き立てられていった。酷く憔悴して帰ってきた母は、帰るなりカズラの頬を張った。馬鹿なことを。怒鳴った母に馬鹿はどっちだと怒鳴り返し、頬を張り返した。
――そしてその翌日から村の者はカズラ母娘とろくに口をきかなくなった。後ろ指を指した。囃したてた。山猿と罵った。
なぜそんなことをされなくてはならない?
悪いのはどっちだ。
悪いのはどっちだ!
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