憧葛

白馬 黎

 カズラは花無し山の猿、かわいいところがありゃしない。そう言われ続けてどれほどになるか。構わない。実際カズラは山猿だ。


 長い髪は邪魔になるから切り捨てた。女物の着物は山歩きには向かないから脱ぎ捨てた。猟師の父は熊に食われて死に、籠作りの母は胸を患い力のいる仕事ができない。だからカズラは父の衣を仕立て直して身に纏い、葛のどっさり入った籠を負って、こうして山の奥にいる。


 山にいれば里者の声は聞こえない。だから誰が何を言おうと構わない。農婦たちに後ろ指を差され忍び笑いを漏らされようと。子供たちに高い声で囃されようと。構いはしない。構いはしない。構いはしない。


 葛に鎌を入れてゆく。同じ太さのものを選んで摘み取り、蒼くやわらかな葉を落とす。籠作りに使う葛は五月雨のなか摘んだものが良いという。葛の白い葉裏を足元へはらりはらりと落とし、しなやかな蔓をまとめて籠の中へ詰め込んだ。


 今日の山は静かだ。絶え間なく続いていた雨の音も今日は無く、小鳥のさえずりも少ない。ただ蚊の羽音だけが普段通りに唸っている。あとは竹の葉擦れの音ばかり。その葉擦れの中に人の声を聴いた気がして、カズラははたと手を止めた。


 まさか。ここは獣も来なければ山菜がはえるわけでもない、竹と笹と葛しかない場所だ。来るのは籠職人のカズラだけ、わざわざ里者の来る理由がない。


「おーい、山猿! どこだー?」


 カズラは慌ててしゃがみこみ、笹藪の中に身を隠した。


 蚊が体のどこかにとまったのだろう。耳元でうなる羽音がやむと笹を踏みしだく音が聞こえた。生い茂る笹と竹の間から若い男が三人見える。


 どうして。どうしてこんなところに。相手は村の若者だ。カズラが小さかったころはよく遊んでもらっていた。でも最近はとんと姿を見なかった。


 逃げた方がいい。カズラは山猿、村八分にされ何年経つ? あたりを見回し、今まで踏みしだいた笹を草履で踏む。風が吹くのに合わせて、葉擦れの音が聞こえぬように。


「カズラー! いるんだろー?」

 カズラは逃げかけていた足を止めた。

「カズラー!」

 カズラ。カズラ。カズラ。母以外に名を呼ばれたのはいつ以来だろう。カズラはきつく握り締めていたこぶしを緩めた。


「何か用?」


 立ち上がり、ざざんと大きな音を立てて葛を刈る。ばさばさ振りながら葉を落として、それから三人の男をまっすぐ見つめた。


「おー、やっと見つけた。なんで返事しねぇんだよ。探してたんだ、お前のこと。お前のかあちゃんに頼まれてよ」

 母さんに? 首をかしげてみせると、男は藪蚊を追い追い笑いかけた。


「最近お前が荒れてるようだから話聞いてやってほしいってな。ちょいと気晴らしにどっか行こうぜ」

 最近? カズラがこういう性格なのは今に始まったことではないのだが。


「どこへ行くの」

「楽しいところさ。と、その前に」

 男は背負っていた籠をおろした。素材は竹だろうか、人の頭にすぽんとかぶさる大きさの籠。編み目は細かく、柿渋がしっかり塗り込められている。


「お前が美女ならよかったんだが。この猿顔なんざ見たくないよなぁ?」


 籠をカズラの頭にひょいとかぶせる。寸前、彼らの腰に真新しい山刀がさがっているのが見えた。武骨な、しかし若い彼らの手には届かぬ高価な山刀。


「なに……?」


 かぶせられた籠からは嫌なにおいがした。柿渋と――香の、かおり。あの地主の屋敷に焚き込められた甘い煙の香りが。


 ぐいと手首をとられ、紐のようなものがあてがわれる。手首に走る小さな痛み。細かく硬い針のような毛がはえた葛の蔓。


 胃の腑に冷たいものが落ちた。


 殺される。こいつらは母の頼みで来たわけではない。この香をまとわせた女の命でカズラを殺そうとしている。この山奥で誰にも気づかれぬよう殺そうとしている。


 胃に落ちたものが胸の奥で燃え上がった。


 踵(かかと)を思いきり振り上げた。カズラを後ろ手に縛っていた男のまたぐらを力いっぱい蹴りつける。そのまま目の前の男に頭突きをした。籠を頭にかぶせたまま力いっぱい打ち据える。


「このアマ!」


 一瞬でも信じた自分が馬鹿だった。自分は山猿だ。里を追われる山猿だ。

 飛びすさって逃げる。後ろ手に縛られたまま。壊れかけた籠を頭にかぶせたまま。竹林の硬い地面を頼りに。籠の隙間から見える光を頼りに。

 この香りの中では死んでも死にきれない。


「待てっ! そっちは崖だぞ!」


 信じるものか。信じるものか。信じるものか!

 霧雨に濡れ滑る笹を踏んで駆ける。蚊柱に頭を突っ込む。蛙でも踏んだかぬめった感触が足裏を滑る。


「おい……!」


 強く蹴り上げた足が宙を掻いた。



     *



 はじまりは三年前のこの季節だった。


「籠屋はここか」

 五月雨の中やってきた男は尋ねるまでもないことを訊き、濡れた蓑を壁にかけながらそこらに並べられた籠屋つづらを見回した。


「相馬様の遣いで来た。新しい行李を十個、注文できるか」

「十個でございますか」

「シラユリ様への献上品だ。美しく作ってくれ」


 シラユリ様といえばこの辺りを総べる大地主、相馬様の孫娘。そのお名前にふさわしい可憐な乙女だという。大黒柱を喪ったカズラの家には大きな収入、そしてこの小さな籠屋としては大変な名誉だ。はい、と頭を下げた母の顔は驚きと喜びとで朱に染まっていた。


 それが悪夢のはじまりとも知らずに。そうして無邪気に笑んでいた。



     **



 腹の底に風が吹く。反射的に手を伸ばそうとしたが、縛られた手はびくとも動かなかった。岩が、しぶとく生えた竹が、枯れ木が。カズラの身体を激しく打ち据える。息が詰まる。籠に狭められた視界が紅く染まる。


 最後に大きな石に叩きつけられる衝撃があり、それから二転三転してようやく体が止まった。


 息ができない。のたうちまわろうとするのに体はびくんと小さく跳ねるだけ。せめて体を丸めたいのに。大きく喘いで、呻き混じりの咳を吐く。痛い痛い痛い痛い。


 近くで砂利を踏む音がした。


 とどめを刺しに来た。逃げなければ。戦わなければ。だが力をこめた腕が脇に触れた瞬間、また激しい痛みが脳天をつんざいた――肋が折れている。息をするだけで、ほんのわずか胴を動かすだけで。目の前で火花が散り胃の奥の物がせりあがる。


 閉ざした目に涙が滲んだ。ここで死ぬのか。この香りの中で。追い立てられたままで。馬鹿にされたままで。裏切られたままで。


 頭を覆う籠に手がかかった。憎い香のかおりが遠ざかり、風と血と自分の体に踏みしだかれた草木のにおいが鼻孔に満ちる。カズラは歯を食いしばりながら目をこじあけ、めいいっぱいの力をこめて目の前の男を睨みつけた。


「大丈夫か」


 カズラは虚をつかれた気分で目の前の「男」を見つめた。

 てっきりさっきの三人が来たものだとばかり思っていたのに。山伏の衣装、地面に置かれた葉の団扇、そして足元は一本歯の高下駄だ。その顔は酒に酔った人間などよりずっと紅く、鼻は枝のようににょっきりと突き出している。


「てん……ぐ……?」

「いかにも。竹林の天狗、山虎坊とは俺のことよ。災難だったな」


 龍のようにざわざわなびく髪と太く長い眉、雷のように腹に響く声。天狗が一言発するたび痛めた骨がびりびり震える。飛び退れるものなら飛び退りたかった。悲鳴を上げられるものなら上げたかった。まさかこんなところにこんなものがいようとは。


「上の男どもは追っ払っておいたぞ。どれ、どこが痛む」

「……妖怪! 来ないで、向こうへ行ってよ!」


やっと喉の奥から悲鳴をあげると、天狗は大きな目玉をぎょろんとさせた。


「言うじゃないか、小娘。ならばそこで転がっているがいい。いずれ熊が来てとどめを刺してくれるだろう」


 熊に喰われた父のことが脳裏に浮かんだ。熊は人を生かしたまま喰うという。手足を引きちぎり動けぬようにして、それから内臓を貪り食う。熊に襲われた人間は声枯れ果てるまで絶叫しながら死んでいくのだ。父は衣の端きれしか見つからなかった――。


「ちっとは頭が冷えたか」


 天狗がカズラの震える腕をつかんだ。びくりと肩を固めたカズラに構うことなく、手首を硬く戒めた蔓をほどいてくれる。ようやく自由になった手をさするカズラの前に天狗はどっかと胡坐をかき、カズラの顔をのぞき込んだ。


「俺は熊と違って人を喰う趣味はないから安心せい。肌が紅くて鼻が長い他はさして人間と変わらんさ。どこの村の者だ? 送ってやろう」

 村へ帰される? 嫌な汗がどっと噴き出た。


「成程、帰るに帰れぬというわけか。なんとも贅沢な注文をつける娘だな。お前はこれからどうしたいんだ」

 わかるわけがない。今はただただ体が痛い。答えぬカズラに天狗は重い溜め息をついた。


「俺と、村と。お前はどちらがおそろしい?」


 カズラは天狗の顔をじっと見つめた。鬼のように紅い肌、高々と突き出た鼻、龍のような眼、虎のような口元。人ならぬものの貌をもつ男。


「村……」

 答えると同時にすとんと恐怖が抜け落ちた。


 カズラの頭に籠をかぶせる若者の顔。猫なで声で優しい笑みを浮かべ、腰に凶器をちらつかせながらカズラの視界を塞いだあの男。もう誰がああなるかわからない。天狗よりも、熊よりも。今は人がおそろしい。


 天狗は指先で頭をこりこりかき、それから「仕方ないな」とため息をついた。


「では俺の住処へ来るがいい。どうせ退屈していたのだ、その怪我が癒えるまで面倒を見てやろう。その後のことはおいおい考えればいいさ」


 人ならぬ身の、しかし優しい手をしたこの天狗が不意に菩薩に見えた。全てに背を向けられ、罵られる生き地獄から。引っ張り出してくれる紅い肌の救い主。


 しっかりうなずいたカズラに天狗は「よぅし、決まった」と笑みを浮かべ、持っていた葉団扇でカズラの身体をぶわりとあおいだ。すると途端に全身の痛みが楽になる。それでも動けぬカズラを天狗は抱き上げ、一本歯の高下駄でぽうんと地を蹴った。


 岩とよく乾いた木がぶつかる高い音と共に。天狗はあっという間に崖を飛び越え竹林に分け入り、肩でびょうびょう風を切って駆け抜ける。身の丈六尺あまり、人間の基準に当てはめればおそるべき大男といえる天狗は、なのにあまりに身が軽い。紅い貌の天狗はさながら巨きな猿(ましら)のよう、だが猿は猿でもこんな風になれたなら。


 山を越え谷を越え、やがて山虎坊は山の奥深くに建てられた庵のなかへと入っていった。庵の中には人が暮らせるだけの家財道具一式が揃っており、山ほどの書物巻物があり、それから和歌らしき文字の書きつけられた紙があちらこちらに散らばっていた。


「傷をよく洗ってこの薬を塗れ。天狗の妙薬だ、よぉく効くぞ」


 若竹の香りのする軟膏を渡すと、山虎坊はどこからか衝立を持ってきて部屋を区切り、衝立の向こうにある文机の前に座った。


「俺も墜ちたとはいえ僧だったのだ、覗き見るような真似はせん。さっさと傷を洗え、痛むだろう」


 僧だった?


「あんたは昔、人間だったのか」


 衝立の陰から見える山虎坊の背が苦笑を帯びた。

「生まれた時から天狗をやっているとでも思ったか。僧兵として寺を守っていた。昔むかしのことだ」


「私も天狗になりたい」

 山虎坊の腕、墨を磨りかけていた手がはたと止まった。


「どうやったら天狗になれるの。どうやったら人をやめられるの?」

「村から離れたいのなら尼になれ。天狗は憎しみと高慢より生ずる妖怪よ。お前のような小娘に」

「教えて」


 続けたカズラに山虎坊は押し黙り、それから「まだ着物は脱いでいないな?」と律儀に確認して衝立の向こうに顔を出した。


「成程、憎む相手がおるか」


 つかつかとカズラの正面まで歩み出て、長い鼻がカズラに鼻先に触れそうなほど近づける。一歩も退かずに睨み返すと天狗はふさふさした眉をぐいと持ち上げ、それから天を仰いで笑いだした。


「清らかな尼になる気は毛頭ないか。ただただ人の間に在ることが苦しく、そこから抜け出せるだけの力が欲しいか。己を貶めた者どもを見返してやりたいか」


 胸の奥にあるものの中点をまっすぐ射抜く言葉に、カズラは天狗を見据え顎を引いた。


「やれやれ、おそろしい娘を拾ってしまったものだ。そういえばまだ名を聞いていなかったな?」

「カズラ」

「ほう。これはまたお前に似合いの名だ」


 山虎坊はくるりと背を向けるとまた文机の前に座り、硯に墨を滑らせ始めた。


「傷が癒えるまではここにいろ。それからこのまま里に戻らず、肉を食わず魚を食わず人との交わりを一切絶ち、山の奥で四十九日過ごせ。そしてお前が最も憎んでいる人間を殺せ。そうすればお前を天狗に変えてやろう。俺は苦しむお前を見ながら酒でも呑ませてもらうとしようか」


 殺したい相手。――いる。いるとも。この憎しみに決着をつけ、全てを断ち切ることができるなら。願ってもない。最高だ。


 カズラは桶に水を汲み、手近なところにかかっていた手ぬぐいで全身の傷と脂汗をぬぐった。脇腹が赤黒く腫れ、山虎坊の葉団扇が効いているとはいえ息をするたび酷く痛む。カズラは奥歯を食いしばり、脂汗を流しながらぐいと薬をすりこんだ。


 その時がきたら。シラユリのここを山刀で貫いてやろう。

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