『2047』〜20歳の頃、47歳のババア(孫有り)と付き合ってた。

@2046_whiter

第1話 浦舟町の灰色の空

「東さんさ、さっき休憩ん時さ、私が喋ってるのジーっと見ててさ」

「うん」

「ねえさっき見た?びっくりしちゃったぁ」

「あんまり見てるからさ、アンタあんまり見るのやめさないって言ったらさ」

「あははは!」

「ほら、もう蜘蛛の巣張ってるから」

「私全然そんなの気がつかなかった。よく見てるわ」

「うっそ!?」

「しばらくしたらまたジーッと見てて。」

「もう姉さんや〜だ〜」

「すっごい、おっきいの!」

「だから昨日おいも甘〜く煮てさ。美味しいよ。」

「意識ない人に向かって、アンタ女泣かせて来たね、とか言っちゃってるの。」

「そんなことないよ」

「こーんな刺青。こ〜んな。」

「今日先生見た?」

「笹野さん料理上手だからね」

「私冷所やりながら笑いそうになっちゃってさあ。」

「いた!も〜超イケメンだった!」

 50〜70代の火照ったババア供が一斉に堰を切ったように喋る無限の反響と、8月の内臓の芯まで燻す不快な熱気を、一箇所に封じ込めた蒸し風呂のような、150センチ四方の閉鎖空間。そこに段ボールを目一杯載せた、4段の大きなメタルラックが3台積み込まれ、それだけでも十分なのに、残りの僅かな隙間に、同じ格好をしたババア共と私の計8人が閉じ込められている。線状のスチールにお腹などの体の柔らかい部分を食い込ませながら。空気中には、柔軟剤をたっぷり使った生乾きのインナーを通して発散する、更年期障害の夥しい湿気、化粧の香り、84の混じった腋臭、足臭が渾然一体となった濃いミストが充満し、いくら呼吸を弱めても、容赦無く肺の隅々にまで行き渡る。そこに8月のうだるような暑さが加わる。その状況で全身をがっちりホールドされ、このままあと数十秒はケツを掻く事もままならない。目の前のラックの柱の表面にミストが付着して汗を掻いている。元々出力の弱い蛍光灯の頼りない光は、ラックに乗った物資とミストの濃度に遮られ、床に向かって薄暗くなっていく黄ばんだ灰色のグラデーションを浮かび上がらせた。上からの弱い光は、ババア供の目のクマや頬の下にはっきりと黒い線を明確に作り、彼女達をますます意地悪で不健康で薄幸そうな印象にさせた。事実それはおおよそ間違ってはいない。彼女達はもれなく意地悪で薄幸だ。気温は^33^度を超えているが、不思議とババア共の顔は乾ききっていて、その代わり傷んだ髪とその禿げた部分から覗く頭皮だけがべっとりと脂まみれになって、時折煌めきを放っている。ババア供はまさか自分が女の特権を著しく脅かされている事に気づいていないのか、或いはとっくにこの現状を受け入れているのか、尚も臆する事なく、一心不乱に口を動かし続けている。この空間で唯一外向きの生殖器と、まだ二十歳のピンク色をした粘膜を持つ私は、この空間を受け入れまいと、最後の抵抗にうなだれ、目を伏せ、押し黙っていた。そして耳を無理やり犯す、暴力的な勢いの声の一つ一つの意味を拾わないために、そして嗅覚を働かせないために、頭の中から自らの心を追い出すことに専念していた。さらに見たくないものをなるべく見ないための手段として、目の前の段ボールにプリントされたソルデム3Aという文字の一点をだけを見つめ、扉が開いてくれる事だけを静かに願っていた。それでも、ババア共から発するあらゆるものが容赦なく体の中に入ってくる。早く外に出て深呼吸がしたい………。静かな場所に行きたい………。マンションに帰りたい………。少しずつ意識の追い出しが進んでいくと、徐々にババアどもの話し声は溶けて、あいまいな一つの塊となり、ボボ、ボボボボという単純な鼓膜の振動に変わっていく。そうなるとババア共の声からは意味が消え去り、もはや中型の獣の群れが発する、無数の咆哮のように感じられた。

 「いいじゃん!お腹痛い、あはっ!!!」

 時折感極まったクソババアが突出した大声をあげ、鮮明な言葉の意味が目の前に飛び出してくる。私は、一瞬ギクリとして目を見開き、首を仰け反らせた。そして意識をこの閉鎖空間まで強引に連れ戻された。同時に、汗と混ざった化粧の濃縮された匂いの知覚がドッとなだれ込んでくる。その匂いに紛れて、この中の誰かが腹に力を入れて笑った時に出てしまったのだろう、オナラの臭いも漂い始めていた。これだけババアが局所的に集まると誰かしら一人はすかしているものだ。おそらく、これはオナラの出やすい体質の美和子によるものだろう。エッジの立っていない、まろやかな、いかにも万年便秘のお腹をぽっこり膨らませていそうな、更年期の熱を帯びた屁の匂い。視線だけを美和子に移すと、声色一つ、表情一つ変えず、相も変わらず話しに夢中になっている。厚顔無恥。大したババアだ。まさかこのババア、屁が常態化して自分でも気づいていないのではないか……。


 美和子はババア共の中では特別に美人で、若い頃は恵まれた容貌によってそれなりの恩恵を受けてきたに違いない。おそらくその背景で醸成されたのであろう人となりと所作は、圧倒的な自信と魅力、そして奔放さに溢れる。彼女は生来不良であり、勤務態度は決して褒められたものではないが、その威力を前には、他人の悪口と単純作業が唯一の務めである他のババア供にして、注意をしたり、悪く言える者はいなかった。そればかりか、ババア共はおそらく自分でも気づかないうちに、彼女の影響下におかれていた。私もその例外ではない。何よりの威力の源泉は、彼女はもうとっくに閉経している頃だが、体も細く髪も今風にして光の加減によっては若く、垢抜けて見える風貌にある。ただし、恵まれた体の中で唯一、下半身が奇形的に小さい。これが地味に効いて、体の下にいくに従って美しさが損われていき、彼女の美を完成させないままにしている。もし下半身も顔と同等の美しさを備えていたとしたら、何もこんな所まで単純作業をしに来るババアではなかっただろう。

 「それがさ、女の子の日だったって言うの。あ、女の子の日とか言っちゃった」

 「ほら、しーちゃん聞いてるじゃん」

 「……」

 「ここにいると女に幻滅するから」

 「あははは!!」

 「あ、いえ……」

 (一同爆笑)「あはははははは!!!」

 つい屁の匂いにガードを崩されて、ババア共の話に意識を向けてしまったらバカを見た。まあ要するに私は男としてカウントされてないのだ。こいつらにはされたいとも思っていないが、単純に我慢ならない。なぜなら年をとって遠慮を司る脳細胞が減り、思いついた事がダダ漏れになってしまうのならまだ納得もできようが、そうではないのだ。こいつらは、^40^半ばにして茶髪にした下品なおっさん、社員の加藤の前では、決して露骨な下ネタを言わない。私や、今ここにはいないが^30^代のアルバイト、私から見ても意思の疎通に難がある奇形化物アゴ男、大島の前では遠慮しない。ババア共の脳はまだ腐りきっていない。しっかり状況を読み取った上で発言の調整をしている。

 私はこの時、情けない薄笑いを浮かべていたが、心ではそれなりに傷つき、元来僅かな自信をさらに失って、頭から血がサーッと引いていくのが自分でも分かった。別に薄汚いババア共が今更マンコだチンコだと言ったところで何も失望などしない。むしろその方がババア共にはお似合いな位だ。何よりもたまらないのは、社員の加藤はデブだし不細工だしセンスがないし、いつもヘラヘラしているのに、それ以下に扱われている事、あんな知的障害スレスレのフリークスと同じフォルダにしまわれている事だ。こいつらは、内省という言葉を知らないばかりか、まさか自分が酷い仕打ちをしている事にも屁をしている事にも全く気付かないまま、もうすぐ死んでいくのだ。酔生夢死とはこのババア共の事だ。

 股間にふわっとした重力を感じて2秒、やっと扉が開いた。限界まで濃縮されたババア共の声と臭気、そして湿気の塊の一部が、ワッと一瞬外に抜けていったような感じがした。一番うるさい美和子が話を続けたまま、ラックと壁の隙間から這い出て扉側に立ち、メタルラックの片側を両手でしっかりつかみ、腰を落として力を掛ける体勢に入る。一気に踏ん張ると同時に話し声に急激な起伏が生まれた。それまで閉じた空間内に狂ったように乱反射していた美和子の声も、多少外に逃げていった。

「それじゃ行ってきま〜す!」

 と自分の会話を割いて他のババア共に告げ、尚も口を動かしたまま、綱引きのように全身を斜めにして全体重をかけると、メタルラックがゆっくりと滑り始めた。次いでその反対側から、小さいババア、佐藤さんが小型犬のようにピョコピョコ跳ねながら、ラックに軽く手を当て、押し出すポーズを取った。片手にいつも口元に当てているハンカチを握ったままで。佐藤さんは年齢の話題には決して触れようとしないが、髪は後頭部から禿げはじめているし、どう見ても60を過ぎたお婆ちゃんでしかないが、ここでは女の子で通っていて(髪のキューティクルだけは認める)、周囲もそれに同調している。個人の勝手だと思うが、どんな切迫した場面でも女の子を演出するためのペースを崩そうとしないので、今のような状況では最大限にイラつかせてくれる。その点美和子は生来不良だが、手の抜き方がうまい、要領のいい不良。要所では女を犠牲にしてグッと腰に力を入れるので頼もしいし、仕事もはやい。もし私がこのババア共の中で誰か^1^人抱かなければならない、という罰ゲームになったとしたら、美和子しかいない。むしろお願いしたい。


 メタルラックの最後の滑車が扉の境界を跨ぐと、ガタン!という音とともに足元がにわかに揺れた。


 扉が再び閉じて、しばらくは美和子のくぐもった声の残響部分が中まで届いてきた。

「ま〜だ声が聞こえる」

「あははは」

「あ〜あ。疲れちゃうね」

 一番うるさいババアが一人出て行っただけで他のババア供は急に勢いを失い、室内は大分静かになった。そしてラック一台無くなっただけでも、押し潰されているという印象は大分弱まった。まばらになったババア供の話し声の隙間に、エレベーターのブーンという低い動作音が割り込む余地が生まれた。同時に気温も湿度も下がったような気さえする。それだけで私はさっきとは翻って、気まぐれにこのババアどもの不幸を観察してやろうというある種の余裕が生まれた。

 この中で最年長、正式ではないがリーダー格の山村さんは、いつにも増して猫背を発揮させていた。目を細め、下唇を突き出して今にも不満を言いたげだ。私の位置からは真横を向いているので、尚更そのせむし男のような背中と、死体の持つそれのように血色の悪い下唇が突き出ているのがわかった。すると案の定、ここぞとばかりに静寂を破って不満が出た。深いため息を伴って。

「もういいやって。今度泉谷さんに言ってやんなくちゃ。」

「あぁ〜。でもあの子ほら、ちょっと変わってるから。」

「でも、仕事だからさ。ハァ……。」

「別にいいじゃないの」

「だってさ……」

 山村さんの思惑通り、静かになった分、いやでも話の内容とその感情に、全員の関心が集まった。もう何度となく見た、実にバカバカしいこのやり取りに、かまって欲しいという寂しいババアの薄汚い欲求が透けて見える。さっきまで狂ったような喧騒が支配していた空間は、翻って今度は山村さんの持つ生来の乾いた寂しさに染まった。まるで彼女のうら寂しい公団の部屋で日夜繰り返される、不幸な暮らしがそっくりそのま再現されたような空気だ。ここにいる全員がうなだれ、黙り込んだ光景を見た彼女は、おそらく自分の持つ影響力を確認し、薄汚い満足を覚えた事だろう。…だからどうした、である。が、つい反応してしまう私自身の脳にも辟易する。

 ……………………ハァ。今日はまだ水曜日。今日が終わって帰って寝てもまだ木曜日。木曜日って事は、あともう一回寝ないといけない。今週はさらにもう1日ある。だから土曜までは、もう2日間も、こんな調子の、バカバカしい時間を繰り返しやり過ごさないといけない……。

 私にも山村さんの絶望的な暗さが染み込んだのか、ひたすら重い、鬱々とした気持ちになった。

 扉が開くたびに、ババア共と荷物は減っていき、濃厚なミストは依然しつこく残っても、これ以上濃くなることはない。最上階担当の私と笹野さんと一つのラックだけが残った。

 やたら広く感じるようになった空間で、首を少しあげて14階のランプがつくのをジッと見つめていると、不意に笹野さんからの生ぬるい視線を感じた。つい笹野さんに視線を移すと、熱を当てたアクリルのような傷んだ髪の、薄くなった隙間から、蒸れた頭皮に反射した光が目に飛び込んできた。そして丸顔の小太りのババアがにこやかに親しみを込めて話しかけてきた。

「しーちゃん、家でいつも何食べてるの?」

 常識的に考えれば、彼女は当たり障りのない世間話をしたに過ぎないが、B1から12階まで上がってくる間に生気を吸い取られきっていた私は、この一言で気分を逆なでされた。そして固い表情のまま、視線をエレベーターの表示に戻して、素っ気なく答えた。

「弁当とか適当に食べてます。」

「そうなんだ。」

「……………」

 私は会話したくないという意思を全面に表した。笹野さんはそんな私の不機嫌を凌駕して、ふふっと笑って、肉まんのように柔らかな表情でこちらを見ている。彼女はこの中では比較的アクが弱く、この時も、非難する理由などはどこにもない。しかし、総じてババア共がスレ切っているなら、その反対に私はあまりにも未熟、この時の私は、当たり前のババアの常識的な優しさに対してさえ、苛立ちで返すしか方法を知らなかった。

 次第に笹野さんだけが持つ特有のツンとする匂いが強くなってきて、思わず彼女の汗で蒸されるインナーの内側へと意識が向かう。いつものことだが、その度に毎回笹野さんに嫌悪感を抱き、呼吸を抑える。面白いことに、いや、決して面白くはないが、ババア供の一人一人に違う匂いがあり、おそらく今の私には目隠しをしていも、どのババアが近くにかがわかる。エレベーターに乗った時、直前まで誰がいたかも。いずれの匂いも老いがもたらす腐臭に変わりはないが、不思議と許せるものとそうでないものがある。その差は一体何だろう。笹野さんは圧倒的に後者だった。針で刺すような痛みを伴い、目にくるスパイシーさ。

 少しの沈黙の後、いよいよ私たちの番がきて、私は冷たい表情をキープしたまま、そそくさと扉側に回り、ラックの片側を力一杯引っ張った。笹野さんもそれに続いて反対側から力を加える。エレベーターの外に出ると、そこは非常口の緑色が鈍く滲む、薄暗く埃っぽい、大小様々なパイプやダクトがむき出しになった殺風景な空間。そんな面白みのない場所でも、ラックがエレベーターから半分も出る頃、やっと大きく深呼吸をすると、空気の冷たさ、空気のうまさに全身が歓喜に震えた。気のせいか体も軽くなったように感じる。皮膚や髪にしつこく絡みついた、ババア共の湿気や臭いが、外の空気に溶け込んで薄まっていくのがわかる。

 私は、ラックが完全にエレベーターから出たのを確認すると、一旦その場から離れ、現場へと通じる重たい鉄の扉を、手前にゆっくりと開いた。すると、ビューという空気を引っ掻く音と共に、扉の向こうから安心感のあるやわらかい光が差し込んでくる。私は片手で扉を抑えながら、光の中に頭だけ突っ込み、左右を見回した。近くに人影がない事を確認すると、再度ラックに戻り、持ち手を掴んで力一杯後ろ向きに引っ張った。同時に今度は笹野さんが閉まりかけた扉を抑え、片手でラックを押しだす。ラックは扉に擦る事なく、横幅ギリギリの出口を通過した。ビー!という雑なブザー音と、無人のエレベーターが閉まる音が小さく聞こえた。……こうしたラックの一連のコントロールに関しては、ババアとのシンクロ率が物を言う。いくらどこをつついても不幸しか出てこないババア共でも、頭脳労働を伴わない軽作業に関しては練度の高いベテラン揃い。どのババアと組んでも、前後が入れ替わっても、ちょっとした所作に至るまでぴったりと息が合った。

 鉄の扉が空気圧に抵抗されながら完全に閉まると、我々をカモフラージュしていた薄暗い空間からは完全に切り離される。明るさと位の高い静寂が我々を詳らかに描写し、背筋に緊張が走る。

 ここはとある廊下の途中、何でもない場所。ただし、徹底的に作り込まれた。ウレタン塗装された天然木のしなやかな手すりがどこまでも続き、暖色系の柔らかい光の照明が、品のある空間を醸し出している。よく磨かれたフローリングは鏡のように光沢を放ち、私はここで一年働いているが、塵ひとつ落ちているのを見たことがない。室温は1年を通じて昼夜を問わず、暑くもなく寒くもなく、適温に保たれている。我々が出てきた扉は、その途中に備え付けられた非常口として機能していた。

 ここから先は徹頭徹尾、管理された区域。規定の動作で、規定の任務を行い、速やかに帰投するのみ。スレにスレた百戦錬磨のババア共もここでは駄弁りをやめ、動きにも多少の遠慮が見られる。私と笹野さんは小さくなってラックを走らせ、現場に向かった。ここでは、ラックの滑車がスケートのように滑り、ほとんど重さを感じない。時折、スニーカーとフローリングの摩擦で、ギュッという中高音が、やたら目立って廊下に響きわたる。途中、いくつもの扉のない部屋の入り口が、等間隔でやってくる。延々と同じ風景。どの入り口も見分けが付かず、等しく不気味なほどの無音と真っ白い空間が外に漏れている。人の気配はない。が、備え付けられたプレートだけは、人の存在を表明している。この違和感が、ここではあって然るべき求められた状態であり、たかがアルバイト風情が犯してはならない絶対的な静寂なのだ。それは時給850円で渡されるにはあまりにも不釣り合いな責任だった。さらに要所要所に監視が伴うとなれば、当然、その緊張と息苦しさの度合いは名状しがたく、泥臭い作業内容との併用に、器用な心の置き方を強いられる。まだ化粧とおならと汗の混ざった匂いに満ちた空間で、ババア供の洪水にまみれていた方が遥かにマシだ。

 周囲に人がいないか細心の注意を払いながら、慎重かつ速やかに所定の位置へと向かう。少し開けた空間にたどり着き、ラックを壁のギリギリまで寄せた。

「じゃあ私2の方からやるね」

 と笹野さんがウィスパーボイスで囁き、^14^-^2^と書かれた紙の貼られた段ボールをラックから降ろす。その瞬間、彼女が両腕を挙げて全開になったワキ周辺が、じんわり濡れてほんのり黄色がかっているのが見えた。同時に、ツンとした刺激が鼻を刺し、彼女に対して敵意が生じる。大抵2の方がサブ的な役割を果たしており、総じて搬送量が少ないのだが、彼女は決して積極的に楽をしようとするような、つるセコババアではない。だがこの時は、匂いのせいで許せない方に振れた。私は静かに、はい、とだけ返事して^3^つある^14^-^1^の箱を順番に降ろしていった。

 ここから先は、二手に別れてそれぞれ単独での搬入作業となる。^2^人同時に現場に入ることは新人研修の時ぐらいだ。私はすぐ目の前の^14^-^1^のバックヤードに箱を運び込む。「失礼します」と言って部屋に入ると「はい、お願いしまーす」といかにも看護婦のそれとわかる、病人をいたずらに刺激しないためなのか、低音の振動を省いた、鼻をつまんだような甲高い声がした。すぐに、声の主は中央の作業台で点滴のセッティングをしている若い看護婦だとわかった。全体の雰囲気からして、おそらく年は私とそこまで変わらないだろう。あまり広くないこの部屋には、その面積のほとんどを作業台と薬品の棚が占めていて、私と看護婦の距離は近く、場合によっては作業の途中、少しどいてもらう必要がありそうだ。私はやりにくさを感じながら、地下から運んだ色とりどりのガラスアンプルや補液を、黙々と定数棚に補充していった。間も無く看護婦は作業を広げっぱなしにして部屋から出て行った。

 ここの病棟は他とは違い、冷所の棚だけがナースステーションに置かれているのがたまらなくイヤだった。一連の搬入作業の終わりに、たった^2^、^3^本のアンプルのために、表舞台に侵入しなければならない。そこはさらに一段と白く明るい清潔な空間、中心にやたら白く明るい楕円の大きなテーブル、その周りを白鳥のようなナース達が5、6人囲んでいる。その圧倒的な白の世界に、汚れと体臭をまとった蝿が一匹。当然、露骨でなくとも、自ずと非難的な視線が注がれるのを背中で感じる。会社は現場のトーンを配慮して、明るく清潔感のある制服――黄緑色のエプロン、白のポロシャツ、ベージュのチノパン、白のスニーカー(パンツとスニーカーは私物)――を設定してくれてはいるが、しかし段ボールを運んでいるうちに黒ずんだり、汗をたくさんかいて黄ばんだり、体臭が固着したり、誰しも早晩不潔な印象となる。もはや一般的には清潔さを示すトーンも、ここでは不潔さの記号として機能している始末。さらに私の場合は、本来スーツを着て書類を作ったり会議をしたりしている頃合の人間が、ババア向けに最適化された単純作業に甘んじている事の痛ましさも纏って。

 …………よかった。今日はセーフだった。誰もいない。

 こういうこともしばしばある。私はほとんどノーストレスで無人のナースステーションの隅に置かれた冷蔵庫を開き、既に少しぬるくなってうっすら汗をかいたアンプルを、対応する番号の書かれた穴に差し込んでいった。冷蔵庫の中の空いたスペースには、マジックで名前の書かれたお〜いお茶や、ヤクルトが置かれていた。


 ^14^-^1^の搬入が全て終わり、空き箱を抱えて廊下に出ると、そこにあったはずのラックは消えていた。それが自然だ。早く搬入が終わった方が、^1^人でラックを押して先を急ぐのが習わしだからだ。私はギュッとスニーカーのゴムの音を立てて、足早に次の病棟に向かった。その途中、笹野さんのアイデンティティが船尾波のようにずっと軌跡を描いていた。私はなるべく息を思いっきり吸わないようにしながら軌跡と同じ経路を辿る格好で、さっきの鉄の扉まで戻った。冷んやりした重い扉を、肩から腕を押し当ててゆっくり開けると、一段と濃い臭気が飛び出してきて、丁度扉の閉まる寸前のエレベーターの蛍光灯が暗闇の中に一瞬見えた。その時、寂しげかつ優しそうな表情の顔も見えた気がするが、現実だったのか臭気を映像と結び付けようとする想像力がそうさせたのかは分からない。誰もいない薄暗い踊り場には、目を閉じると笹野さんがまだ隣にいるかのように、臭気のみなならず、明確な体温まで残っていた。階数表示の光が、^14^から^13^に切り替わるのを横目で捉えた。エレベーター前を通過し、さらに奥のガラス付の扉を開けた。

 一段と熱気と湿度が凝縮されているコンクリート剥き出しの空間。ここは巨大な大学病院の中で、最もデザインされていない場所。ひたすら、階段という機能のためだけに存在する。人もめったに来ない。私は生来の行儀の悪さを取り戻し、ここぞとばかりにさっきまでのフラストレーションを発散させるように、ほとんどわざと音を立てて、二段飛ばしで階段を駆け下りた。しかし直後、^1^回目の折り返しでブレーキをかけた。医者が居たのだ。理由は知らないが、わざわざこの搬入用の薄暗い階段を使う医者が稀にいる。彼らには専用の清潔で明るいエレベーターが用意されているのにも関わらず。医者は何かの資料を見ながら、のろのろと階段を降りている。私は改めて行儀よく階段を降りた。

「こんにちはー」

「………………」

 別段、今更なんとも思わない。彼らからは、私達の言葉が耳に届かない。私達の姿が目に入らない。同じ人間とも思っていない。だから、挨拶など無駄な事のように思われる。しかし、彼らは我々の働く無礼に対してだけはしっかりと知覚し、的確にクレームをつけるのだから質が悪い。ましてや彼らにとって何のメリットも無い、この衛生とは程遠い、薄暗い裏方、すなわち我々のホームグラウンドにわざわざ入りこんできておいて。この習性は、我々の所属する請負業者の公式なマニュアル上でも把握されており、一方通行の挨拶の徹底はその一環という訳だ。ババア共は何かにつけ口を揃えて「医者は変態」と言うのが常套句で、その点においては私とババア共の意見に相違はなかった。その常套句の後にはこういう意味合いの言葉も付け足される。毎日毎日、臓物やら腫瘍やらを掻き回し切り刻んでいるのだから当たり前の感覚では持たない、と。そう片付ける事で、虫ケラ以下として認識されることにも、多少心の折り合いが付く。


 追い抜かしざま、まだ彼の視界に入っていないのをいいことに、この変態を観察してやろうという気になった。目の前の医者は、髪の美しさ、量、過剰な体脂肪の無さからして、年の頃は^30^手前だろうか。眼鏡をかけ、髪型は適度に今風で、身長は高すぎることもなく、体型もスマート、総じていかにも血筋が良さそうな均整の取れた美しい体躯をしている。圧倒的な知性と美と社会的地位、そして財。体温を感じるほど接近した肉塊には、私の持っていない全てが含まれていた。出し抜けに、もし彼と肌が触れるくらいの距離で一緒にシャワーを浴びたなら、と思った。最後まで勃起せずにいられるだろうか。


 医者は何かの書類に目を落としたまま、薄水色の白衣の丈をはためかせつつ、ゆっくり、ゆっくりと階段を降りている。圧倒的な差異を前にすると、妬みや敵意などわかない。私もまた、彼を人間としてカウントしていない事に気づいた。私がいつも医者に対して抱く敵意は、単に容貌が美しくない事によるものだったのだ。医者かどうかは関係なかったのだ。このボン太郎は、特別に変態でも無礼でも世間知らずでもなく、あくまで自分に与えられた運命の、役割の、あるべき行動に従っているだけだ。それは、私も同様に。私は出来る限り行儀正しく彼を追い抜かし、^13^階の扉を開けた。


 ^13^階の搬入が終わり、途中で合流した笹野さんと、最も軽くなったラックを乗せて^B1^に向かうエレベーターの中。^1^日が終わった安堵で満たされ、^8^月の熱気も鼻を刺すような臭気も、笹野さんの仏様のような丸顔も、私を圧迫しなくなった。動いているエレベーターの外から、美和子のくぐもった艶かしい声と、ガラガラと段ボール箱をラックの上で滑らせる音が近づいてきた。重力の変化の後、扉が開くと、彼女の声が全開になってなだれ込んできた。

「って言ってたわけ。そしたら男の方がバカじゃない?チエ子、怒っちゃってさ」

「うん」

「あ〜しーちゃんじゃん!」

 ガタガタッという音とともに、エレベーターにラックがねじ込まれ、足元が小刻みに揺れる。

 ^2^つのラックの隙間にできたスペースに私と美和子が近い位置になった。

「^13^フロアーいっぱいあった?」

 彼女のいかにも熟女の香水と、むせかえるような熟女そのものが混ざった匂いに包み込まれた。

「あ、はい」

「ねえ」

 少しトーンを落とした一段と艶っぽい声で聞かれた。

「またCDお願いしたいんだけど。」

「いいですよ。なんですか?」

 私の滅多に使わない口角があがり、年中乾燥している唇が割れて、私の鼓膜にだけプチッと言う音が届いた。延々と続く灰色の時間にあって、唯一私の心が弾む瞬間。美和子に童貞を奪われたい。

「湘南乃風。」

「あとで、メモ下さい。あとアルバム名も」

「そうだ書いてもらったんだ」

 ポケットからメモを差し出された。いかにも、私を全面的に馬鹿にしてきそうな若い女の端正な細い字が書かれていた。

「わかりました。2、3日待って下さい」

「ありがとう〜」

 それを横で聞いていた佐藤さんが、

「ねえ、それどんな曲でもあるの?」

「あ、はい」

「私も今度お願いしようかな」

「いいですよ。でもバレたらやばいですよ。」

 私は、格好つけてるつもりで、含みを持たせて闇社会に通じている風を匂わせた。佐藤を追い払いつつ、美和子の気をさらに気を惹こうとして。

「そうなの?うふふ」

「しーちゃんは忙しいんだから、そんなに頼んじゃダメよ」

「あ、いえ・・・」

 私はババア共を忌み嫌っていながら、この、ババア共にモテモテの状況はまんざらでもない。ほんの数年前まで、同年代の^10^代の少女たちに対してさえ、ブスだのヤリマンだのと辛口の批評をし、クラス1の美少女だけを崇拝していたはずが、今じゃとうの昔に2、3人は子を産み、^50^をゆうに超えているババアを抱きたいと思っている。そして童貞なりに明確なアプローチがあるわけでもなく、あくまでいつか美和子が私を犯す日を心から願っていた。その可能性を高めるために、私が出来ることと言えば、こうして彼女の希望した楽曲を違法ダウンロードして、CD−Rに焼く事だけだった。その切なる思いは、所望のCD−Rを渡す際に強引に貸し付ける、DVDのコレクションの内容に認めていた。

 前に述べたように、ババア共の中の彼女の影響力は甚大だ。この方法で彼女の気を惹こうとする以上は、必然的に、どのババアも私発信の円盤をバッグに持ち歩くようになるまで、そう長くはかからなかった。私は必要とされている。それはとても気分の良いものだった。

 エレベーターの扉が開き、

「じゃあ、お願いね」

 と扉の向こうの明るい廊下を逆光に、彼女の数多の経験に裏付けされた男心をくすぐる物言いと目を細めた色っぽい表情で言い残し、先に出ていった。残された私は、更年期の熱を帯びた生々しい熟女臭と多幸感に包まれた。

 次は何の映画を美和子に貸そうか、どの作品なら私をわかってもらえるか、頭の中の作品リストを眺めながら、胸を膨らませた。そのときめきのベースには、いつか美和子に犯される白昼夢。この時、もう頭の中がいっぱいで、目の前は何も見えていないが、自動運転で空のラックを転がしていた。それが可能なほど、既に知り尽くした空間だった。

「しーちゃん!追加が出たから、これ持っていくの手伝って!」

 ヤニ焼けした元気なババアの叫ぶ声が廊下の奥から響き渡り、桃色の世界から現実に一気に引き戻された。コウコだ。横に三村さんも立っている。背の高い色黒のババアと、顔がフットボールのような形をしたババアの、共にショートカットのブス二人が視界に入り、再び不快な気分になった。あと少しで薬剤室に戻れるところだった。

 笹野さんが静かに言う。

「しーちゃん行っていいよ。私これ戻しておくから」

「あ、はい」

 私はラックを離れてコウコのいる場所に向かった。

「しーちゃんは^12^に行って」

「あ、はい」

 私はこの程度の量だったらババア一人で行って来いやと思いながら、不承不承に引き受けた。外箱の大きさとは不釣り合いに軽い事にも疑問を抱きながら、再びエレベーターへと向かう。その後ろになんやかんやと話しているコウコと三村さんが続く。

 午後^17^時。この時間は我々以外にも、清掃、リネン、物品搬入など複数の業者が一斉にその日最後の業務に廻るため、一つしか無い搬入用エレベーターを巡って、全ての階ごとにあらゆる人と荷物の乗り降りが行われる。しかも各員、取り回し辛い大物を運んでいるため、乗り降りにはいちいち時間がかかる。さらにこのエレベーターはあくまで積載量重視のため、元々スピードへの配慮はされていない。だから、この時間に一度上に行ってしまうと、なかなか降りてこないのだ。

 まだまだ上の方にいるエレベーター。すっかり気の緩んだ童貞とブスなババア二人は、扉の前の空間でダラダラと待つことになった。私はこういう時に必ずするように、うつむいて外部への回路をすべてオフにし、壁によりかかってウレタン塗装された壁の冷んやりとした感触だけを感じようとした。

「あの子飲んべえだからさ、昨日もベロンベロンになっちゃって」

「平日からリリーに行くからいけないのよ」

「ミネさんの頭何度も叩いちゃって」

「あらー・・・」

 床の継ぎ目の一点だけを見つめていると、時期にババア二人の声にディレイがかかり、意味が曖昧になり、遠ざかっていく。そうなれば、もうどこを見渡しても、私の回路は閉じたままだ。前を向くと、横並びになったババア二人の口元の長年の喫煙による皺が動いている。それに合わせて時折頭部も動く。音は聞こえない。次第に普段はノイズがかってよく捉えることのできない、自分の純粋な意思が立ち上がってくる。――私はいつまで、そして何のために、つまらない人達とここでこうしているのだろう・・・。

「ほんとに大人しい。ねえ」

 突如、こちらに視線を注がれている事に気づき、強制的に回路がオンになった。会話の矛先がこちらに向く予感もした。そして、唖然としている間に、はっきりと質問を投げかけられた。

「しーちゃん、家でもそんなに大人しいの?」

「・・・」

 うるせえババア。私の内部は強い憤りに染まった。いや、正確にはババア共の憤りが侵入してきたと言うべきだろうか。ババア共は話題が尽きたり、ストレスの許容量を超えたりすると、その行き場のない憤りを調整するために、手の届く範囲の手頃なツールを使って、ガス抜きを試みる。それもにわかに攻撃をともなって。その対象として、決まって私や奇形化物アゴ男・大島に自ずと白羽の矢が立った。傍目には感情が死にきってしまっているように見える相手だから、反撃される心配もなければ、傷つけたという罪悪感も生まれない。想像力のないババア共にとってこれ以上お誂え向きのガス栓役はない。せめて、と私はつくづく思った。この役目が大島と同じ括りでなければ、まだ不本意さは半減したはずなのに。

 さて、毎回こいつらが正当化している私への攻撃の理由は単純だ。集団の中の違和感というアテロームを潰したいのだ。何故お前は私たちに同調しない、という違和感を。大声で馬鹿話をして、大声で下品に笑ってる傍らで、表情一つかえずに冷静な奴がいることがたまらないのだ。もちろん、自らの攻撃衝動について、そしてその理由について、考察したことがないばかりか、自覚すら持ち合わせていないだろう。謂わばそれは、ただ本能の言いなりになっている、老いた体の条件反射。無自覚に私の存在を非難する前に、むしろ感謝してもらいたい位だ。私が馬鹿騒ぎの横で無表情で立っている事で、ババア共の下世話一辺倒のオーバーヒートを冷ます、箸休めのお新香として役立っているのだから。それが、まだ体中の至る所にピンク色の粘膜が残る私には、十分傷つく出来事であるとは、夢にも思っていないだろう。

「あ、はい・・・」

「そんなんじゃうちの娘にやられちゃうよ」

「あ、そうですか・・・」

 は? 娘って誰だよ、何で殺されなきゃいけないんだよ、このクソババアが。いや、俺は知ってるぞ。その娘が、親と同じかそれ以上に脳がスカスカな事くらい。それにこいつが馬鹿でかい声で身内の不幸を垂れ流しているから、家族構成は強制的にインプットされている。他人の記憶領域を無駄遣いしやがって。ご存知、不幸な私の体が産んだ、揃いも揃って不幸な一家でございます、という前提で一方的に会話をする、ずうずうしさが心底嫌いだ。こいつらはまともな教育を受けていないし、常識が通じない事はわかってる。でも悔しい。たまらない。こんな悔しい出来事があると、家に帰っても飯を食べてもシャワーを浴びても、もう一晩中、悔しさでいっぱいになる。そのことを今確信して、一段と暗い気持ちになった。

「高校の時ファミレスとかでアルバイトしてなかったの?」

「いえ・・・してないです」

 私の生き方にケチをつけて、社交性だけが取り柄のバカ娘の優位を証明したいのだろうが、いや、そこまで考えてないだろう。コウコは、沖縄竹富島生まれの^40^半ばの元ヤンキーババア。このババアは地方のヤンキーが持つ条件のすべてを見事にコンプリートしていた。中卒。不幸。貧乏。^10^代で出産。シングルマザー。家族全員、抜群の運動神経を持つ。背は170ぐらいと高めで、ババアにしては体の線が細く、足がスラリと長い。そして脳の容量が極端に小さいせいか、スタイルだけは良く見える。あと、これが沖縄の食材がもたらす奇跡なのだろうか、髪が女子高生のように健康的で、今風の茶髪に染めたショートボブは、後ろからの角度限定でかなり若くみえる。ほぼすっぴんに近いが、それによって汚らしい印象はない。ここまで言うと私は高く評価しているようにも聞こえるが、断じてそうではない。いくらスタイルがよくてもあくまで顔そのものは皺皺のお婆さんだ。何より残念なのは、下アゴがシャクれている事。したがって声もシャクれている。そこにタバコと酒で焼けた喉から発するシャガれが相俟った、シャクれシャガれ声だ。そのシャクれシャガれは思ったことを一切憚らずに何でも言ってしまう。私が最も苦手とする手合だ。近寄れば、常にシャクれに傷つけられるという緊張があり、その口の悪さから、頭の悪さから、攻撃性から、何から何まで理解し難い。そして容貌についても、頭身数が突出している人間というのは、TVモニターの外で、顔のでかい日本人と戯れる日常にあっては、まるで違う惑星の生物のようだった。今こうして、見慣れた頭身数のスタイルの悪いババアと並んでいる姿は、空間に歪みが生じて、ずさんな処理のコラージュを見させられているかのようだ。美和子の下半身の奇形的な小ささがもたらしたロクでもない現実と同様に、もしコウコがシャクれでさえなければ、彼女を可愛がる男の財力によって、この地下の薬剤室にまで堕ちていくような現実には至らなかっただろう。もしかしたら、この地下室は本来あったかもしれない理想が叶わなかった女たちが最終的に行き着く墓場なのかもしれない。そう考えると、ここに幸せな者がいないことが納得できる。

 この時のもう一人のババアの行動は評価したい。このやり取りに耳を傾けてはいたが、私への攻撃には便乗してこなかった。もう一人のババア、三村さんは、年は^50^中盤くらい、背は低く、顔はフットボールのような馬面で、カーボムテロのように口が臭い。救いようのないブスだが、思い返すと、普段から私の心を傷つけることは決してしない。ただし仕事に関してとなると厄介なババアで、口うるさいだけならまだしも、頭が半分ボケていてその指摘は往々にして間違っているので、従うと馬鹿を見る。要するにどのババアも一様にして表裏一体になった一長一短を持っていた。逆にコウコは今のような心無い事を言って私を傷つけても、仕事に関しては大らかで的確、搬入のペアを組むと誰よりも早く仕事が片付く、という具合に。そういった事象はババア共に特異の現象という訳ではなく、私も含めて万人にあって、このババア共はカモフラージュするという事を知らない分、交流の浅いうちからそれを知覚され易いだけの事だ。そのことを私が知るに至ったのはこの物語の終わりよりもずっと後になってからの事だった。

 私がコウコの一言によってすっかりふさぎ込んでいるうちに、壁の中の上方から無数のババア共の籠もった声が、モコモコと音を立てて徐々に大きくなりながら降りて来た。壁の中の無数の声は目の前で止まった。エレベーターの扉が開くと、中には水色のババアと青い布が張られた大きなワゴンが限界まで詰まっていた。他社のリネン部隊だ。踊り場は水色のババア供で溢れ、黄緑の我々はその隙間を縫うようにして空になったエレベーターに乗りこんだ。そこには、名前の知らないババア共の汗と、一旦患者の汚物がたっぷり染み込んだ後、パリパリになったシーツの臭いが残っていた。それらが肺の中の隅々まで満たす恐怖に一瞬身構えたものの、しかし、不思議とおどろおどろしい湿気や息苦しさがなく、そんなに嫌な感じはしなかった。おそらく臭いの発信者を特定できないからだろう。私が怖いのは、あくまで普段から嫌いなババアの今の今まで体内にあった汚いものを、今度は自分の体内に取り込んでしまう事であり、臭いそれ自体には忌み嫌う理由などなかったのかもしれない。

 コウコが閉のボタンを押し、ブザーが鳴ると廊下から加藤が走って乗り込んできた。

 私は一瞬おやっと思った。エレベーターが動いている間、加藤とコウコは何やらエレベーターの駆動音にも負ける小さな声で言葉を交わしている。いつもとことん馬鹿を丸出しにしている2人が、今は別人のような雰囲気だ。加藤はこんなカードを隠していたのか、と思うほど男前の顔になっているし、コウコは目を伏せてしおらしくなっている。二人を見てピンと来た。この事だったのか、目ざとい山村さんが噂しながら、不満げに下唇だけを動かしていたのは、と。山村さんは確か、また二人でずっと話してる、ここは病院なんだから、そういうのは誰も見てないところでやれ、的なことを背中を丸くしながら言っていた。……ピンときたところで、私にとって実にどうでもいい事だ。少しでも詮索してしまった事が妙に恥ずかしい。それよりも、今こうして二人の間に行き交う空気の流れを、うなだれた頭部の先で感じながら思った。これまで、私にとって身近にいる中年といえば、両親と教師ぐらいだった。そして彼らは装う事が仕事だったので、全く知る由がなかった。人は^40^を超えてもなお、中年同士で惚れた腫れたを演じ続ける、という事を。そしてこう思った。当人の勝手ではあるが、これほど恥ずかしく、醜いものはないな、と。しかし、疑問だ。両者どこからどう見ても、性欲を掻き立てる対象とはまるで程遠い格好の悪い枯れかけたジジイとババア。いざという時、互いに欲情できるものなのだろうか、仮にできたとしてもそれは本心なのだろうか。人間とは、こうまでしないと幸福が得られないのだろうか。

「じゃあ、今日は?」

「今日? まだ水曜でしょ・・・」

 三村さんはずっと黙っていたが、その表情はいつにも増して険しく、顔の中央に引き寄せられた皮膚の圧縮が馬面を強調していた。そして半分ボケているので自分でも気づいていないようだが、わかりやすく加藤の顔を睨みつけている。まさか、このおばはん加藤が好きなんだろうか。或いは、コウコを奪われた事に対して、の可能性もある。いずれにしてもフットボールのような馬面のババアや、背虫男のような底意地の悪いお婆さんが、小鬼のような天然パーマのデブのおっさんやシャガールおばさんを巡って、嫉妬が渦を巻く。そのめくるめくやり取りをテキストだけで読み取ると、次元としては女子校そのものだった。ただし、登場人物が中年以上というだけで、その熱量にかけては女子校のそれに勝るとも劣らない。ほんの数十ヶ月前まで現役の高校生だった私が言うのだから間違いない。

エレベーターが開くと加藤とコウコは並んで出ていった。二人の間に漂ういつもと違う空気をそっくりそのまま持ち出して。コウコの方は気分が乗っておらず、加藤からの一方的な猛プッシュのように見えなくもなかったが、我々の前だけの演技かもしれない。いずれにしても、とてもこれから薬剤を搬入しにいく者の空気ではなかった。エレベーターが完全に閉じるまで、その^2^人の背中を三村さんが険しい馬面で睨み続けていた。結局、加藤は同じ狭い空間にいた私と三村さんに一度も話しかけることはおろか、一瞥もくれることも無かった。その老いて尚盛んな人目を憚らぬ執心ぶりに、私は今一度思った。これほど恥ずかしく、醜いものはない、と。

 三村さんは、意気消沈して重力に抵抗する事を諦めたのか、デカい頭部がこれでもかというほど斜めに垂れ下がり、さらにフットボール感が強調されていた。その頭部全体から漫画の表現のようにわかりやすくどす暗いオーラが漂う。私も私で、そんなんじゃ娘にやられちゃうよ、というコウコの心無い一言が頭の中で繰り返し再生され、暗黒を引きずっている真っ最中。もはやエレベーターの中の密室は、落ち込んだ^2^人が放つ、どす黒いモヤの無限ループがとぐろを巻いていた。

 追加の搬入を終えて、地下1階の薬剤室に戻ると、部屋に入ってすぐの検品テーブルの周りに、ババア共が搬入や明日使う補液の箱出し・棚入れ等を終えて、だらだらと集結しつつあった。追加の搬入にいったメンバーが戻ってくるまで、終礼をせずに軽作業をしながら待っている、という格好だ。一箇所に集まったせいで徐々にお喋りの音量が上がってきたあたりで、その傍のデスクに着席している瀬口が、前に乗り出していた上半身を起こしてPCモニターから顔を離し、椅子をクルッと回転させてこちらを向き、テーブルの周りの全員を一瞬眺めた後、スッと立ち上がった。瀬口は、この病院の物流業務を落札した請負会社の若手社員。年は^27^、背は177センチ、痩せ型。この世界では唯一、脛に致命的な傷を持たない、まともな部分を多く残している人間で、総じて爽やかな好青年であり、上からも下からも好かれていた。常に困っているような垂れ下がった眉と目、ひょろひょろふわふわとした振る舞いから、頼りない印象があるが、それ位の方がババアに可愛がられて上手くいっている。私も彼に好感を抱いていたが、ある距離まで踏み込もうとすると、割と早い段階で透明な壁を張られる事が気にかかった。私の投げた球を無視はしないが、真剣に掴もうとはしない、といった具合に。それは彼が、私の不潔と不運の伝染を避けているかのように思われた。

「みんな戻ってきた?」

「三村さんがまだ」

「あと三村さんだけ? じゃ先にやっちゃおうか。」

 瀬口が次に何か言いかけた時、ドア口に小脇に小箱を抱えた三村さんの四頭身のシルエットが姿を表した。一切慌てる様子も無ければ、感情も込めずに、

「お待たせしました」

 と小さな声で言い、テーブルの周りをぐるっと囲む、太めの中年女性の集団の空いたスペースに割り込んだ。

「はい、それじゃ終礼始めます」

 この部屋は、病室数500はゆうに超える巨大病院の、すべての薬物を管理、調合する薬剤師達の仕事場だ。明るく、清潔な部屋に、ベージュのスチール棚が整然と並べられ、ポッキーの箱ぐらいの大きさの箱と、色とりどりの、微妙に様々な形をしたガラスのアンプルが並んでいる。部屋の一角には、ダンボール箱が高く積まれており、そこには、点滴の時にぶら下げる補液が入っている。奥の部屋では、薬剤師が調合を行っており、通常、我々が立ち入ることはない。他の部署と同様に、ここで行われている事は、小さなミスがイコール人命に関わるため、視界は良好、常に清潔が保たれ、上の病棟ほどではないものの、それなりに緊張感がある。他方、薬剤師は医者に比べるとグッと格が落ちて、我々と同じ視界、同じ言語で接しているし、現場を管轄する社員、瀬口も先に述べたとおりのひょろひょろの優男なものだから、いびつな気の使い方をする必要はなかった。ババア共は薬剤師や瀬口になめた態度をとってはいるものの、最低限の統制らしきものが存在し、いくところまでいく前にブレーキがかかる。それは瀬口が持ち前の人当たりの良さによって、若干気難しい薬剤師とババア共の間に潤滑剤の役割を果たしている事が大きく寄与しているように思う。となるとやはりババア共の猥雑さが本領を発揮するのは、あの忌まわしい灰色のエレベーターの閉鎖空間。誰にも見られず、聞こえず、悪口言い放題、下ネタ言い放題、ケツ掻き放題のオナラし放題。そこはババア共にとって、抑圧された病院内の中で唯一、野生をむき出しにできる緩衝地帯なのだ。詳しいことは知らないが、この病院に入っている他の業者のババア共も似たようなものだろう。エレベーターを待って扉の前に立っていると、階が近づくにつれ壁越しに密封された無数の声というか嗚咽が降りてくる。それはまさに怒りにも似た強いエネルギーの塊だった。しかし、ここで疑問が生まれる。なぜババア共はそれほどまでに切迫しているのだろう。なぜほんの数時間拘束されるだけでも、僅かでも機会さえあれば、全身全霊をかけてまで、何かを吐き出さなければないのだろう。いくら人の命を預かる現場とはいえ、我々がしている事と言えば、設備さえ整っていればレールの上を滑らせて済む事を、ババアの体を使って行っているだけの単純な軽作業。個人の仕事の出来不出来が人命に直接関わるわけではない。ただ環境が病院だったというだけで、ババア個人の全存在を否定するほどの抑圧があるわけでもなければ、成果への高度なプレッシャーがあるわけでもない。そこに固有のストレスなど存在しないのだ。だとしたら、ババア共に狂ったような排泄行為へと向かわせるものは何だろうか。………現時点での私の見解はこうだ。要は人間の3大欲求のバランスだ。仕事はあまり関係ない。大きく分けてたった3つしかない、人間を人間たらしめている欲求の一つが欠如すれば、強い怒りとストレスを生み、計り知れないエネルギーを余らせる。現代の日本において、食と睡眠の質の追求は、誰もが努力さえすればそれを得る事ができる。しかし性の享受に関しては誰もが、という訳にはいかず、あらかじめ生まれ持った資質や期限がその有無を規定してしまう。この難しい状況にあって、3本柱の均衡が取れて始めて健康と呼んでもらえるのだから、人間とは何とも酷い仕様だ。その悪魔仕様の悪い影響をもろに受けるのがババアという状況なわけだ。私の主観抜きで語っても、ここにいるあまねくババアは限界を超えてデブでブスで異臭を放っている。その事自体に何の罪もないが、誰が好き好んで彼女達を抱こうとするだろうか。結果として、彼女達は人一倍、美食にこだわる。もし、グルメを追求する権利も一部の特権階級だけのものにしたら、エレベーターでガス抜きしたぐらいでは失った均衡を取り戻せず、ただちに発狂してしまうだろう。現にほとんど発狂している者さえいる。逆に一つの柱が主張しすぎても均衡を失う、という例が、唯一の綺麗どころである美和子だ。あの年齢であの艶はやりまくっていないと出ない。しかし、常日頃から発情期のブタの狂ったようなあの立ち居振る舞い。この場合、母数がでかすぎて、今さら1回や2回、同世代の平凡なオヤジとやったぐらいでは、エネルギーが有り余って仕方がないのだろう。とはいえ、欠如しているよりは数段ましで、美和子のガスにはドロドロした怨念のようなしつこさがなく、ハリウッド映画のホラーのようにさっぱりとした爆発力で発露される。では、調和がとれているケースとして、圧倒的な若さと美を有するイイ女、事務の石場ちゃんは、適度に食べて、寝て、やっているのだろう。隙きを見ては発露させるべきガスもなければ、いかなる環境下にあっても、誰に対しても強弱をつける必要もない。いつ見ても彼女は彼女のペースを保っている。謂わば常に本領を発揮しているとも取れるが、それが他人を傷つける事もなければ、妬みを喚起させるものでもない。石場ちゃんには均衡状態という言葉以外の形容が見つからない。となると、セックスも美食も知らない俺は? 言うまでもなく均衡とは無縁であり、穏やかではいられないのはババア共と変わらないが、その作用の仕方の違いだろう。エネルギーの向かい先が消極的な方面へと振れている。ひたすら暗く落ち込んで、無理やり自分を殺すか諦める事で、活動量を抑えているのだろう。しかし、そんな事を続けているうちに、いつか体のどこかに分解しきれない発がん物質が溜まっていって、何かの拍子に一気に暴発するかもしれない。そう考えると、毎日小爆発を繰り返しているババア共の方が数段賢いのかもしれない。しかし、本当のところは自分でもわからない。

「じゃあ、お疲れ様でした」

 お疲れ様でした〜とテーブルを囲む全員が続き、一同解散となった。私は、もうやる事がないのになかなか帰ろうとはしないババア共には目もくれず、誰よりも早く部屋を出てロッカー室に向かった。途中、他部署の面識の薄いババア共と何人かすれ違う。皆バッグを腕にかけ、帰るところだ。

「お疲れ様でした〜」

 どのババアも一様にとことん底意地の悪そうな顔をしていた。外を歩いたって、こんなに底意地の悪そうなババアは滅多に見かけない。なぜこの一箇所に、街の意地悪そうなババアが集中しているのだろう。この地下の何がこの種のババア供を惹きつけるのだろう。ただ一つ言える事は、彼女たちは欲求のバランスを失っているという事だ。その事で彼女たちの顔の皮膚が記憶してしまったのだろう。怒ったり、悲しんだり、妬んだり、或いは誰もこの肉体を愛してくれないと感じている時の表情を。それをあまりにも長い時間続けたせいで、一定の筋肉の圧縮が正常になったしまったのだろう。その結果、その表情にうってつけの現実が後から従って行く悪循環。その成れの果てに辿り着くのが、この巨大病院の地下で繰り返される低賃金の単純作業なのだろう。しかし、いくら底意地の悪い顔でも、もっと稼ぎが格段に良い別の選択肢もあったはずだ。彼女らにはそちらでやっていく資質が申し分のないほどに整っている。女を武器にすれば、の話だがそうしなかった、出来なかった。その理由は彼女らの容貌が全てを表している。つまり、この仕事は人生の中盤から後半にかけて、一つ一つの可能性が閉ざされていく中、繰り返される消去法の果てに浮上する、横並びの^2^つの選択肢の一つ。その最後の選択も自由を許されなかったババアが降りてくる受け皿なのだ。稀に、明らかにそのお定まりのコースとは別の角度から降りてきたであろうスペックのババアもいたが、そういう場合は必ず体か心の何処かに奇形や障害を抱えていた。

 いくつもの意地悪な顔とすれ違いながら、足早にロッカールームへと向かう。ロッカールームは、ガーゼや包帯、綿球など病院内で使うあらゆる衛生資材が置かれた物品部門の奥、請負会社が間借りしている事務室の、そのさらに奥にある。ドアを開けると、大人3、4人がやっと入れる位のスペースしかないロッカールームに、エプロンを脱いでいる最中の加藤がいた。加藤は瀬口の上司に当たる。北海道に妻子がおり、私と同い年の大学生の息子、高校生の娘がいる。彼の人となりと私との間柄を端的に表すこんなエピソードがある。ある日、たまたまトイレで横並びになった時、彼は沈黙を破って不意に打ち明けてきた。俺、若い時手術したんだ。被ってるのが気になってね、と。私は、得体の知れない中年から強引に手渡された秘密の取り扱いに戸惑った。世間話を交わす間柄でもないのに、一気に至近距離に踏み込まれたような気がした。私への親交のように捉えることもできたが、何よりも手術という言葉が妙に響き、爪痕を残された気分になった。それを打ち明けられたことによって、暗に同等の見返りを要求されているような気がして、彼に対する警戒心が高まったのだ。あまりよく覚えていないがこの時は、そうですか、というような事を言い、立ち去る事は容易にできたが、この一件以来、それまでは不真面目な中年、くらいの印象しかなかった彼が私の中で存在感を増し、私は彼を積極的に避けるようになった。いつか続きが始まり、私のターンになるのを恐れて。

 加藤は今、日中のババア供の飼育係の役目を終えて、今から本社寄りのデスクワークのフェーズに入るといったところか。私はドアノブを握ったままほんの一瞬固まり、そのまま閉めてしまおうかとも思ったが、家に帰りたい気持ちが勝った。そして背筋にピリピリとしたおぞましさと、鳥肌が立つのを感じながらロッカールームへと足へ踏み入れた。

 いくら社交性のない人間であっても無視するのが難しい距離感にあって、自分でも無理を押し通していることを自覚していた。加藤をいないものとして、一言も発せず、心の一切を遮断して帰り支度をすすめたのだ。一瞬、見たくないものが視界に入った。上目遣いのキメ顔で、こまめに首の角度を変えながら、手で髪を調整している鏡越しの加藤だ。その一連の動作に私の嫌いな人間の条件が全てが含まれていた。一段と警戒しながら、私はポロシャツを脱ぎ、それが予想を超えて不潔な汗の重みがたっぷりあったので、思いがけず一瞬静止してしまった。その一瞬に加藤は隙を見出したのだろうか、不意に話しかけてきた。彼が鏡の中のキメ顔と見つめあいながら、話していると思うと虫唾が走る。

「大丈夫?」

「何がですか?」

「俺の事嫌いみたいだから」

 私は思わずギョッとして、彼の方を思いっきり向いてしまった。茶髪のパーマが安蛍光灯に照らされて、四角い頭に金色の輪を浮かび上がらせていた。

「いえ、そんなことありません」

「まぁ俺は〝図々しい〟からね」

 加藤はわざと〝図々しい〟を強調して言い、一瞬凄むような目をした後、不敵にニヤリと笑った。私は思わず息を飲んだ。

 加藤に攻撃されるという被害者の意識は翻って、やましさと恥ずかしさになった。今、加藤が放った事は、昨日、私が美和子に言った加藤の悪口だったからだ。完全に筒抜だった。美和子からカウントされていない事実と、陰口を叩いた負い目が同時に来て、私は一刻も早くこの場から消えたかった。この次の加藤の一言が怖い。私はすぐに加藤を糾弾する理由を見つけ、自分に言い聞かせた。自分の息子ほどの年のフリーター風情に言われた一言に、その上、間接的に聞いた確実でない事に我慢できないなんて、図体の割になんと器の小さい奴だ。そうだよ。そういう所が嫌いなんだよ。

 一瞬、彼の体臭とヤニ臭が強まった。そこに私への憎悪が凝縮されているように感じた。私はなぜかこんな時に、この臭いが笹野さんのものと同じ系統である事を発見した。

「そうですか」

「何か困ったことがあったら言ってよ」

「あ、はい。それじゃあ失礼します」

 大人の余裕を見せつけた加藤。どこまでも悪者になった私は、自分の顔が真っ赤になるのを感じた。最後にちらっと加藤を見ると、もう鏡の中は覗いておらず、しっかりと私から視線を外さなかった。それは私の動揺を見逃すまいとしているようだった。その怖さ、悔しさ、恥ずかしさがさらに私の顔を赤くさせた。

 加藤が悪口を言われた報復に、私を少しビビらせただけならまだ良いが……。もしかしたら彼は私の何かを疑っている? 何かを知っている? 彼に何かを見透かされているような気がして、私はますます怖くなった。黄緑のエプロンをロッカー室の長椅子に置き忘れたまま、逃げるようにロッカー室を出た。

 午後5時半。巨大病院の正面玄関の回転自動ドアから、軽作業を終えて上下ユニクロの化繊に着替えたババア供が、ぞろぞろと出ていく。地下の限定的な空間にいる時のババアは近づこうとする者全てに明確な主張を突きつけてくるが、ひとたび外に出ると、たちまちその主張は無限の空の高さに薄まっていく。病院前の信号を渡って、地下鉄阪東橋駅までの間に続くやる気のない商店街に、2、3人のユニットに分かれて散開する頃には、一人一人の名前もキャラクターもなくなって、なんの脅威もないただの風景の一つとして溶け込んでいってしまう。私は遠くからその光景を見る度に、こんなもののために恐れたり落ち込んだたりしていたのか、と何か騙されていたような気分になる。しかし翌日には再び、怒りと哀しみが限界まで満たされた底意地の悪いババアとなって私の前に現れる。その不毛な繰り返しによって、私は何かを得ているのだろうか。それとも失っているのだろうか。

 私は一人だけ帰る方面が異なるため、ババア供と一緒に正面玄関には向かわない。ロッカー室の脇にある、業務用の搬入口の横に据え付けられた非常口を通って、地下駐車場の広大なコンクリート空間に出る。搬入口のすぐ隣には、霊安室の出入り口があり、この病院内で死んだ肉体が霊柩車で運び出されるが、そんなことはどうでもいい。守衛のおじいさんに挨拶をして、地面に刻まれた画一的な無数の丸のパターンに目をやりながら、はやる気持ちでスロープを登る。体が徐々に地上に出ていく。同時に、確実に空気が新鮮になっていくのを感じる。空の高さを感じる。私は完全に地上に放り出された。やっと解放された。8月の夕方、空はまだまだ明るい。大きく深呼吸をすると、排気ガスの粒子が肺に入ってきてにわかにピリッとした痛みを伝える。その束の間、あまりにも高い空と、通行人の訪れは、再び私を不安にさせた。

 その場所は巨大な病院の裏手に位置し、病院中の全室外機、換気口、吹出口が向けられ、要らなくなって淀んだ空気が生暖かくなって排出される。すぐ目の前に、もうすぐ横浜港に流れ出る中村川と、中村川に上から覆い被さるようにして走る首都高速が、景色のほとんどを覆っている。首都高速は周囲に圧倒的な影を落とし、中村川沿いは四六時中ほとんど光が届かない。大型トラックの流れる音は一瞬たりとも絶えることが無く、排気ガスが空を灰色に染め尽くす。その圧倒的な鉄と石油の流れから、京浜工業地帯へと続いていく灰色まみれの情景をダイレクトに連想させられる。周囲に木や花を植えたところで、そんなものに太刀打ちできるはずもなく、ふざけているようにしか思えない。その世界観のせいだろうか、浦舟町から元町へと続く約2キロの道沿いには、所々にブルーシートのテントが張られており、真昼でも物騒な雰囲気を消すことができない。もっとも、私が幼い頃は、この時より格段にルンペンが多く危険な地域だった。中村川は半分沈んでいるようなボロボロの船で埋め尽くされており、まるで船の墓場のようだった。ルンペンたちはそこに暮らしていた。この光景と、伊勢佐木町のロッテリアの前に佇む、全身が完全に白飛びしてしまったようなメリーさんは、私が生まれた時に唯一接近することがギリギリで間に合った、戦争の残り香の最後だった。私の母は当時、事あるごとに中村橋の下の船からお前を拾った、と私に言って聞かせた。どこの家庭でも子供からのセックスへの言及を遠ざけるために、この手の類型を木の股など象徴的なモチーフを用いて聞かせるものだが、私にとってはそのビジュアルがあまりも具体的すぎて、そして鮮烈すぎたため、まだ柔らかかった脳裏にすっかりそれが刷り込まれてしまった。私が幼稚園に入る頃には、なんの特色も歴史もないプレーンな新興住宅地に引っ越しをし、中村川も市によって完全に浄化された。しかし、その後もずっと中村川の船の墓場が私の中で原風景として生き続けていた。当時住んでいた部屋の記憶はほとんどないというのに。そして未だに心のどこかで、あそこで生まれた、船の上で拾われた、という負い目にも似た後ろ暗い思いが拭えずにいる。なのに私は何故か、汚いルンペンやその住処が気になって仕方ないのも事実だ。私は二十歳という人生の中の貴重な時間を、何の成長もメリットも見込めない、この不毛な軽作業に費やす理由がわかった気がした。自ら戻ってきたのだ。もうボロボロの船の浮かんでいない中村川の傍に。

 職員用の駐輪場に止めていたママチャリにまたがり、中村川沿いを300メートル程進む。今の時間、秋になってもう少し暗くなると、かなりの頻度で職務質問に会う。自転車泥棒はちょうど私のような風貌をしているという統計でもあるのだろうか。いくつか横断歩道を経て、左手に道に沿って続くマンションの群から〝クリオ阪東橋〟という看板だけが飛び出してきた。そこが私の住む部屋。従って、病院の裏手に面した同じ道路上にあるので、中村川と首都高速とトラックの音が圧倒的に支配する風情に変化はない。そこは、伊勢佐木町中のキャバクラ嬢、風俗嬢、ホステス、ホスト、用心棒といったありとあらゆる風俗産業にまつわる全ての人々の寝床を一手に引き受ける、マンモスヤクザマンション。私はそこのエレベーターでほんの数秒、一緒になる人々から、誰も教えようとはしないが確固として存在する、社会のある一面を学ばせてもらった。たまに一緒になる上品な格好をしたスキンヘッドの老人は、いつもびっくりするような美女を連れていた。狭いエレベーターの中、至近距離で見る彼の後頭部に走る刀傷は、実際に目にしたわけでもない伊勢佐木町の暗部が確かに存在していることを実感させてくれた。そして、そこに住んでいる、その一部になっているという事実が、あたかも自分がタフになったような気にさせてくれた。夜中になると、時折、外で怒鳴り声が響いたり、誰かがゲロをする音がしたり、車の盗難防止アラームが鳴ったりするのはまだいい方で、なぜかタンバリンを鳴らす音がしたり(しかもうまい)、パンパン! 今の拳銃か? いやまさか……でもどう考えても拳銃だろうという事や、女が泣き喚きながら男とケンカしている(時折殴打の音を響かせながら)事などざらだった。私はその度に、TVの音を消して、ジッと静止して、鼓動の音がはっきり聞こえるほどにドキドキしながら、次に起こる事に警戒した。言うまでもなく、ここでの暮らしは怖くて仕方なかったが、耐えられる怖さだった。なぜなら美和子と同様にそれはハリウッド映画のホラーの怖さで、清々しいほどの爆発力を見せつけてくれるからだ。その場限りの事で、後を引きずるような事がない。私には堅気の医者やババア供、高校の時の同級生、静かな新興住宅地のコンビニやファミレスの学生アルバイトの方がよっぽど怖く、よっぽど私を深く傷つけた。

 マンション屋上の看板が見えたあたりで角を左折し、しばらく行った所にあるどか弁へ。ここで生姜焼き弁当を買ってから帰るのがいつの頃からか、定番の行動パターンだ。この時間に店を切り盛りするのは50前後の中肉中背のオヤジが一人。このオヤジはびっくりするほど愛想がない。造形的にも陶器のように固い表情なので、初めてこの店に来た時は彼を怒らせたのかと思ったくらいだ。そのオヤジに輪をかけて無口無表情な私とのやり取りは、生姜焼き(たまにのりチーズ)、540円、の二言しか交わされないが、私にはむしろそれが心地よかった。ここに毎日通うようになったのは、そんなオヤジの徹底してドライな性質のおかげかもしれない。常連だからといって親交が深まっていく事もなく、何度来ても私たちの関係は初めてここに訪れた時のままだった。

 ある日、私の前に若いチンピラ風の活きのいい客が一人おり、オヤジはいつものペースでぶっきらぼうに価格を告げ、釣り銭を渡し、素早く背中を向けて調理を初めた。それがチンピラの癇に障ったらしく、

「おい!」

 ほんの一瞬オヤジの全身がスタンガンの弱を当てたようにビクッとしたが、まさか自分に向けられたものだとは認めず、そのまま背中を向け続ける。

「おい! ジジイ!」

 オヤジは慌てて、上半身だけをクルッと回した。

「え? あ、はい」

 私はこの時、初めてオヤジが人間らしい言葉を発したのを聞いた。

「てめえ文句あんのかよ!」

「あ、いえ……」

 私はこの時、初めてオヤジの表情が人間らしさを宿すのを見た。あまりの事に何が起きたのかもわからず、どうして? という呆気にとられた表情。そして、オヤジの顔は、ワイパーをかけたようにわかりやすく血の気が引いていった。すぐ後ろにいた私は、この時チンピラの火力そのものには怯え、オヤジを気の毒に思う一方で、こうなることは薄々予見しており、今までがたまたま運が良かっただけで、ついに来るべき日が来たという感想で見ていた事も確かだ。

 「もういらねえよ! 金」

 「あ、はい」

 慌ててキャッシャーから取るオヤジの動きは体全体を使って動揺を表しており、千円を返す時のオヤジの手は低い振動で大きく震えていた。この後、私の番になっても、まだ震えは続いていた。

 次の日以来、オヤジは、ターミネーターのようなぎこちない笑顔でありがとうございました、を言うようになった。同時に、私の中で寡黙な料理人と言う設定が瓦解し、マニュアル通りのフランチャイズの一オヤジに成り下がってしまった。それなりにうまい弁当だったので、このオヤジの人生において、人付き合いを後回しにしてでも優先させてきた料理の鍛錬というものをイヤでも想起させていた。それがちょっとチンピラに脅された程度で簡単に修正できるほど、無口無愛想という設定は、ただの空白であった事を知った。たまたま誰も指摘する人間が周囲にいなかっただけで、きっかけさえあればいつでも寡黙を辞める事ができた、というのがあまりにも平凡すぎてつまらなかった。

 たまに手伝っている娘と思しき三十路前後の女性は、顔はオヤジとそっくりだし太めの体型をしていたが、髪を明るく染め、適度に派手で適度にだらしがなく、妙にそそる雰囲気を持っていた。そして何より、笑顔こそないが接客業としての最低限のマナーがあった。おそらく昼のピークタイムは、この娘が切り盛りしているのだろう。チンピラ氏のように怒りの沸点が低い客は、周辺の建設現場が一斉に休憩に入る昼のピークタイムに集中する。一方、オヤジが入る夕方〜夜の部に来る客層は大抵、楽しむべき夜食を一人発泡トレーの弁当を片手にやり過ごす、というのっぴきならない事情を抱えており、礼節を要求しようなどとは夢にも思わない。思ったとしても、面と向かってそれを発露する術を知らない。それを知ってか知らずか、この弁当屋は客層ごとに最適なアプローチを切り替える事によって成り立っているわけだが、今回のような稀にある番狂わせによって、オヤジは自覚を得るに至ったのだ。

 さて、この日もいつもの生姜焼き弁当を頼んだ。フライパンの金属音に合わせて小刻みに動くオヤジの丸い背中を見ながら、ジューという音と生姜と豚肉を炒めるいい匂いが漂ってくる時、やっと今日の一日が終わった事を実感する。浦舟町の夕暮れ時の気だるさ、空腹、自転車、オヤジの無口無愛想、丸い背中、生姜焼き。これが毎日、必ずセットなものだから、もはやオヤジの背中だけを見ても、あの甘美な甘辛いタレ味わいが舌上に再現される。しかし今やそのセットも不完全なものになってしまった。チンピラ風情が、余計なことをしやがって。

 オヤジから手渡された、出来立ての生姜焼き弁当のビニール袋越しに伝わる、発泡トレーを溶かしてしまいそうなほどの暖かみが嬉しい。片手にハンドル、片手に弁当のビニール袋。生姜焼きの汁が溢れてしまわぬよう、そして冷めてしまわぬよう、慎重かつ速やかに自宅マンションへと自転車を進ませた。

 タランティーノ、三池崇史、北野武、押井守、なんたらオブザデッド、そんな字が踊るDVDケースの山積み。マンション特有の臭いと生ゴミと汗の混じった饐えた臭い。アイロン台のような細いスチール脚の安っぽい座卓と、元々マンション前に粗大ゴミとして捨てられていたパソコンとディスプレイ、アマゾンの空き箱。灰色のカーペットが備え付けで敷かれた床には、映画のパンフレットや時々伊勢佐木町の有隣堂で買って来る映画雑誌。それらによってほぼ全てが埋め尽くされている6畳の空間。その真ん中だけをくりぬいたように出来た空洞で、この部屋に引っ越して以来敷きっぱなしの布団の上にあぐらをかいて、一心不乱に生姜焼きと白米を交互に口に運ぶ。タレの甘辛さに絡まった白米の粘力とボリューム。口の中は極上の幸せで満たされた。箸を止めて咀嚼しながら、溢れる豚肉の脂の粗悪な官能が脳髄を溶かす。次の豚肉に備えて、お〜いお茶で口の中を流すと、脂の匂いだけが鼻腔に立ち昇って来て、もう何も思考できない。再び生姜焼きに箸を伸ばす、このループの最中は、今日あったことの全てさえ思い出す隙がない。

 咀嚼しながら、埃がビッシリ積もったパソコンのディスプレイに何となく目をやると、東京ローカルTVの生放送番組が映っている。司会者とゲストの背中にある一面のガラス窓が、私の部屋の窓から見える、少し陽が傾きかけた明るさと色と完全に一致している事が、〝私は確かに今この瞬間、日本人が同時に感じている平成14年の17時台に参加している〟、という実感をもたせてくれた。スタジオの窓の外は、仕事を終えたであろう多くの通行人が往来し、中には立ち止まってスタジオを覗き込んだり、携帯電話で話しながらテレビに映っている自分を誰か伝えているものもいる。私はその様子を見るでもなく見ていると、ミュージシャンの坂本教授が窓に立った。しかし、そう知覚するかしないかという時、カメラがコメンテーターのバストショットに切り替わり坂本教授は見えなくなってしまった。再びスタジオ全体を映すカメラに戻ると、坂本教授の姿はなかった。もう確めようがないが、あれは間違いなく坂本教授だった。そうだ、私は今この瞬間、確かに坂本教授が生きる世界と同じ空の色を見て、同じ空気を吸って、同じ地面の上にいる。坂本教授はCDやDVDの中だけに記録されているわけではなく、私が今感じている世界を共有しているのだ。だから大丈夫。絶対。私は閉じ込められてしまったわけではに。大型トラックの騒音と排気ガスで埋め尽くされた浦舟町の、病院の地下と、中村川沿いのブルーシートと、弁当屋しか存在しない世界に、永遠に閉じ込められてしまったわけではない。私、そしてヤクザマンションのこの一室だけは、どこまでも続く広い世界と繋がっている。

 カビが繁殖しすぎて現代アートのようになったバスタブでシャワーを浴び、部屋に戻ると外はもう真っ暗。カーテンを閉めようとすると、川沿いの道から、どこかのルンペンが豪快に痰を吐く音が響いてきた。明日、美和子に渡すCDを焼いている間、どのDVDを貸そうか考える。これならばと手に取った『新・仁義の墓場』のパッケージを見つめながら、これを観た美和子が私に対してどんな感情を抱くか思い浮かべる。パッケージのヒロインの有森也実の顔が美和子の顔と重なった時、焼きあがったCDがイジェクトされた。

 まだシャワーの熱気の余韻が残った脇の下を手鏡で写し、縫合跡に沿ってステロイドを念入りに塗る。午前0時。セルシンを2錠飲むと猛烈な眠気に襲われ、意識を失ってしまう前に部屋の電気を消した。PCの粗悪なファンの音だけが鳴り響く暗闇と、その中にある意識の全てと私の体が一つに溶けて、どろっとした粘性のある醜い塊となり、半ば強引に今日を終わらせた。

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『2047』〜20歳の頃、47歳のババア(孫有り)と付き合ってた。 @2046_whiter

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