かつて神さまのいたところ
僕が神さまを拾ったのはもう九年も昔、小学一年の夏休みのことだ。
あのとき、僕には何もなかった。例えば将来の夢は何かと聞かれて、「いくらで買えるの」なんて答えるような子供だ。若かった、子供らしい背伸びだったと、本当にそれだけならまだ救いようもあって、でも夢がないのは本当のこと。初めて書いた作文は、先生の都合に沿うよう書き直されて、そこから僕は大切なことを学んだ。
目を背けるのも嘘をつくのも、自衛の為なら仕方がない。
桐野慎には夢がない。それ以前にまず将来がない。でもなにより不足していたのは、子供らしい可愛げだったと思う。冒険心や、きっと精神的な向上心とかもない。あるのはじりじり身を焼くような焦燥感と、リュックに詰めた
小学一年の夏休み、僕は自分の『
家族も、できたばかりの学校の友達も、そのすべてを置いていくことにした。昨日見つけた僕のお嫁さん、三弥ひとりいればいいと気づいて決心がついた。三弥と、あと本当はあんまりいらないのだけれど、おまけで一応コバヤシくらいは連れて行ってあげようと思った。
落ち合う約束をした、駅前のスーパー。フードコートの、隅っこの方。
無事にたどり着くことができたのは、結局、僕ただひとりだけ。問われているのは冷徹さだ。運命の相手を置いていく覚悟。人間らしい優しさと慈悲、そのすべてをすっかり捨て切るには、とても一日では足りそうになかった。
切符はあらかじめ用意してあって、でもそのうちの二枚が無駄になった。
友情は捨てるしかなかった。昨日見つけた愛だって忘れることに決めた。そのはずなのにどうしてか、その二枚の入場券を捨てることは叶わなくて、だから僕は駅前のスーパーにひとり、リュックを脇に置いたままただじっとしていた。いま思えばまったくおかしな話で、僕はまずそのリュックの中身を捨てるべきだったのだ。
無理だった。捨てられない、だって何もないのはもう嫌だった。
代わりになりそうなものを道端で見つけては拾って、片端から『桐野慎』に詰め込んでみて、でもどれだけ繰り返しても全然足りない。どれもこれも、空っぽの僕を満たすには不足で、そんな何もない食いしん坊のお化けのまま、この世界が終わってしまうことに恐怖を覚えた。
欲しかったのは救いだ。終わるこの世界の外側まで、どこまでも遠くへ行けたなら。線路に頼るしかなかった。僕の知識ではそれが限度だ、切符さえあれば逃げ切ることができる。
因果な話だ。あの日、僕の買ったあの三枚のお札。『入場券』と書かれたそれは、なるほど異世界への入場券だった。
「なんじゃ小童。貴様、この儂が見えるのか」
それが出会いだ。見えていた。僕ひとりだけがきっと彼女を見ていた。節穴の目では他に見るものがなかった。この世界の、消えゆくすべてが何もかも怖くて、だからただ目の前に落ちていた白くて綺麗な何か、初めて見るビッチを縋るように見ていた。
綺麗だった。綺麗すぎて、綺麗だった以外の感想がなかった。三弥では勝負にならなかった。勝負にならない三弥は結局スーパーに来なくて、つまりかえって好都合だった。
僕は神さまを拾った。
拾って、でもリュックの中身をすべて捨てたところで入りそうもなくて、だから手を引いてあちこち連れ回した。最初は駅へと向かった。このままひとり、いや一人と
「電車というものがよくわからない。帰ってこれなくなると困るのではないか」
帰るつもりなんてなかったし、そも帰る場所はこれから消えるのだ。世界の終わり、終末のとき。少なくとも僕はそう信じていて、もう詳しくは覚えていないのだけれど、確かなんとかの予言とかそんなやつだ。テレビで見た。神さまは知らないみたいで、だからこっそり教えてあげた。
世界は滅びる。きっと、「なんだって」とばかりに驚くと、僕はそう思っていたのに。
「そうか。だが、今日はこんなにもいい天気だ」
滅びそうもないが。呆けたような様子でそんなことを呟く、その顔はどう見てもあほ丸出しだった。少なくとも僕にはそう見えて、だから改めて確信した。神さまは、頭が弱かった。弱かったけど、でもきっと僕よりはマシだった。
あちこち巡った。
何もない田舎、終末の世界を、神さまとふたりで。
消えてしまうのなら心に留めておこうと、なんかそんな提案がきっかけだった気がする。昨日三弥と遊んだ野っ原へ行って、秘密基地の建造予定地を見せて、最後におじいちゃん
あのとき、もし神さまを拾わなかったなら。
僕は、どこまで行けたのだろう。
――と。
「まあ、要するにただの家出というか、なんか駆け落ちみたいな感じです」
でも三弥が来なくて、つまりフラれたので未遂でした。たいして面白い話でもなかったでしょう――と、僕はテーブルの上、牛乳の入ったマグカップを見つめる。結局一度も口をつけることはなくて、だって仕方ない、
「ひやひやはほっひゃん、ふぉんなほほひゃい」
たまきさん。何を言っているのかわからない。ちょろみさんの腕は間違いなくて、完璧に治った電子レンジ、その使い方を誤った結果がこの有様だ。舌に負ったであろう火傷はやっぱり洒落にならない感じで、だから最初は僕の目の前でぼこぼこ地獄の釜みたいになってたホットミルク、いまだに冷めていないというか結構な温度なのだから正直どうかと思う。
「鍋掴み使わないとここまで持って来られなかった時点で注意しましょうよ」
ていうかこないだも同じことしてましたよね、なんて。今更言っても仕方がないどころか、どうせ永久に直らないのだろうからもう放っておいて、とりあえず適当に猫舌とか言っておいてよかった。こうなることを予測していたわけではないのだけれど、でもなんとなく嫌な予感だけはしていて、だから自衛の為の嘘なら仕方がない。
「ふぇへへ。なんふぁひいひょへえ、ほういふははひ」
そうですか、ならよかった、と簡潔に答える。わからない。何を言っているのか全然推測できない。できないけどなんか満足げに見えるのでこっちは放っておいて、一応話を振るというか「通訳できますかこれ」と聞いてみたのは、
「『なんかいいよねそういう話』、じゃないか。わからんが」
創さん。この人はいつも夜更かしというか、なんでもいつもお昼寝しているぶん夜の睡眠時間が短いみたいで、つまりほとんど一日中自室にいるらしく本当に何者なのか不明なのだけれどそれはどうでもいい。たまきさんと話し始めてすぐ、なんか小腹が空いたとかでカップ麺片手にお湯を沸かしに来たこの創さんは、結局そのまま聴衆のひとりとなっていた。
「ん、なんだ。『男の子のそういう話はなかなか聞く機会がないから』、でいいのか。そうか。まあそうだな。俺にも似たような経験はあるが――」
そう遠い目をする創さんの、その話の内容は本当にどうでもいい。「すごいこの人なんで通訳できんの」と、その感動があまりに大きくてつまり創さんの過去なんか誰も聞いてなくて、だってどうせまたダムが出て来て沈むやつだ。あなたの適当なダムにはもう飽き飽きです、と、そう言うほど聞かされたわけでもないどころか一度もまともに聞いた覚えはないのだけれど、でもダムだ。どうでもいいかよくないかでいえば「いまそれ全然要らない」となるやつだ。
「せめて黒部レベルとかならまだわかるんですけど、そういう誰も知らない三流ダムはちょっと」
そうですよね? と水を向けた部屋の隅、なんかドス黒いドロドロしたオーラのその中央。「――ウェッ? あッ、へへ」とだいたい思った通り、「まさかこっちに振られるなんて思ってませんでした」と言わんばかりの反応のちょろみさん。この人はちょうど話の途中、真夜中にようやく帰宅して、帰りがけにどこかのスーパーで買ったと思しき半額のお弁当、それをもそもそやりながら部屋の隅っこでずっと、
「ごめんなさい……私が聞いていい話かどうかわかんないのにこうして聞いちゃってごめんなさい……!」
みたいな顔でびくびくおどおど、ときおり震える箸からコロッケとかを落として「アッ!」ってなってそしてそのせいで「すみません話の途中で変な声出してごめん死にます」みたいにだらだら脂汗流して、そして僕たちは知っている。これ下手に優しくすると余計に傷つくというか、何言っても謎の後ろ向き解釈をしてひとり勝手にずるずる沈んでいくアレだ。もう無視というか完全にいないものとするしかなくて、なのにいま急に話を振ったのは、
「別にどうでもいいですよね、黒部の足元にも及ばないカスは。みんなそう思ってるし、きっとちょろみさんも僕らと同じ意見かなって」
平和的に民主主義で解決しよう、という提案のためだ。「アッ、うっ」と変な声を出したその真っ黒い生き物は、でもそれから卑屈な目で僕と創さんを交互にぎろぎろ、上目遣いに眺めた結果なんというか、彼女自身の中で
「う、うぇっ、うぇっへっへっへっ――へっヘァァ、うぐあ」
笑って誤魔化そうとして失敗した。さっきから全然進まない食事、半分になったコロッケがいまぐちゃぐちゃに潰されて、いわゆる逃避行動だとは思うのだけれどなんだろう、どうでもいいけどこのひとお箸の持ち方ものすごく綺麗だ。姿勢は悪いのに。椅子がテーブルから妙に離れているせいか前のめり気味で、でもそれはたまきさんによれば、
「ふへは」
「『胸が』、か」
ということらしかった。どうも邪魔だわ重いわでいろいろ大変らしくて、役に立つことと言ったらせいぜい落としかけたコロッケを受け止める程度、僕にはわからないけれど苦労も多いんだと思う。Tシャツ全部だるんだるんだし。部分的に。干されてるの見たことあるからわかる。
――と、いうか。
「なんで結局、みんな集まってるんです。それもこんな夜更――あっ違います、最後に来た人を責めてるんじゃないんです違うからああもう」
途中で挟まってきた「アァァ……ッ」という嗚咽、そのおかげで無駄に言い訳くさくなって、でもそれもある意味いつものこと。この人たち、ここ池田荘の住人はいつもこんな感じで、もしいつもと違うところがあるとすれば、
「慎。お前は気づいてないだろうから言っておくぞ。珍しいんだ――お前がこんなに、自分の話を聞かせてくれるのは」
という、そこはどうでもよくて時間帯だ。こんな夜更けに人が集まるのは滅多になくて、でもそれもそのはず、よく考えたら五月の初旬のこと。
行楽シーズン、というのか、世間一般には旅行なんかする人が多いらしい。僕はこの時期に旅行をしたことがなくて、そもいままでの人生そのものが旅の繰り返しみたいなものだ。意外な共通点と言っていいのか、「
「はひら、ほっかいほっは」
ということになった。どういうことになったのかわからないのだけれど、でも創さんが「たまには悪くないな」と頷いたから、なんか僕と黒いのもそのまま流される形になった。『明日、どっか行こっか』。たぶんそういうことなのだと思う。ちょっと経ってからわかった。
――楽しそう。
ごく自然にそう思えたのは、きっとこの夜の雰囲気のおかげだと思う。
旅行というほどのものでもない、ちょっとしたお出かけ。でもせっかくだから、というその意見に、反対する理由なんかどこにもなかった。むしろ、嬉しかった。なんとなく、うっすらと、頭の片隅で考えていた、「そうなったらきっと楽しいな」という願望。このなんだかわからないお店の中、たまたま集まったその全員が、どうやら同じことを考えていたらしいこと。
よく考えたら、これが初めてだ。
みんなでお出かけ。楽しみだ。とても楽しみで、今夜は寝付くのが十秒ぐらい遅くなりそうで、でも自分でも少し驚いたのは。
――神さま、きっと喜ぶだろうな。
急なお出かけに驚く彼女。翌朝、その顔を目にするのが、なにより楽しみだったという点、だった。
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