隣の家の少女の隣の少女
メールの文面は簡潔だった。
当然だ、もともと言いたいことなんてなかったから。本当に何も浮かばなくて、だから適当に書いてよく考えず送った。『近いうちにそっち遊び行くかも』。そんな予定はなかった。完全な嘘だ。僕は何をしているのだろう。
返信はなかった。それもわかっていたことで、だからあいつとのやりとりは自然とメールになった。あいつは、いつも人のメールを無視する。ちがうしてない、となんだか怒り心頭、結構な勢いで反論されたのはいつのことだったか。曰く、一応読むだけは読むのだけれど、返事の文面が浮かばないらしい。悩んでいるうちにだんだん億劫になって、だから大抵はなしのつぶてなのだけれど、でもごく稀に一週間くらいおいて反応があることがある。
それでよかった。そのくらいがちょうどよくて、だから僕はそのつもりでいたのに。
「もう遅いよ! そういうのはもっと早く言う」
どうやら勘違いしているらしい、そんな言葉が僕の鼓膜に響く。〝近いうち〟。どうやらこの連休中のことだと思っている様子で、それならさすがに事前に言うっていうか正直そういうのは困る。
だって嘘だし、遊び行く予定なんてないし、なにより僕から言わせてもらえば、
「いっつも返事くれないくせに、なんでこんなときだけ急に電話とかしてくるの」
その指摘にでも電話口の向こう、久々に話したこの怒りん坊は、
「だってほら、まっきーいっつも返事よこせっていうから!」
通話でも返事は返事だからいいよね! と来る。相変わらずだった。なんでいっつも怒ってるんだろう。会うたび、声を聞くたび不思議に思う。いつも表情そのものはいたって普通で、全然怒っている風には見えないのに。もっともいまは電話だから、どんな顔してるかまでわからないけれど。
ずっとそうだ。
「それデマね! カルシウムなんにも関係ない」
じゃあ余裕が足りない。とりあえず牛乳でも飲んで落ち着くべきだ。
「おおっとカルシウム引っ張ってるふりして悪意あるチョイス! アウトです」
ゆるさん、という、その口癖を聞いたのも久しぶりだ。彼女、猿渡三弥は基本許さない女で、何かあると大抵最後は「ゆるさん」で終わる。余裕が足りない。お寺さんの娘なのに。彼女のおかげでおじいちゃん
「まってなんか鍋ガッコンガッコンしてるみたいな音するけどなに」
「鍋ガッコンガッコンしてる音! 中華飯店!」
おいしいよ! と元気一杯、なんかカニチャーハンと水餃子をオススメされて、「まってきみんちお寺じゃ」という質問にも「うん私んちお寺だけど」なんて答えが返って、どうやら僕がかつて過ごしていたあの片田舎、多少は様変わりしているらしい。昔はそんなのなかったはずだ。
「あったよ? ずっと前から、っていうかこう見えてうちすごく古いお寺なんですけどってあっそっか、わかった
いやお前んちの話じゃなくてというか誰だその急に出てきたうみちゃん。なんでも高校のクラスメイトで仲良しの子で、あと「なんと私と同じ平たい胸族」だそうで、趣味は旅行とあとおいしいものを食べることでしかもなんとお寺の娘さんなんだとかなんとか、率直に言って、
「属性かぶりすぎなのでは」
という、その僕の考えは甘かった。「すみません……」と普通の返事が聞こえて、さすがに性格まで一緒ではなかったっていうかいきなり電話を代わられたって困る。一度も話したことがないどころかいまさっき知ったばかりの相手、正直何を話していいやらわからない。
「以上が文ちゃんでした! どうだった? よい? よかった?」
知りません。と言うのもなんなのでとりあえず「すっごいよかった」とだけ答えて、まあ実際悪くなかったっていうかうみちゃんなんかものすごい美声だ。最初の「あの」の一言だけで胸にどきんと突き刺さるみたいな強烈な
「歌もドチャクソうまいですからね文ちゃん」
ゆるせんですよ、となんかいつまでも終わらないうみちゃん自慢。なるほど同じ平たい胸族でも微妙に舌ったらずな三弥さんとは違いますねと、そんな意地悪なことを言うのも気がひけるのでひとまず「牛乳飲んどけ」とだけアドバイスして、そしてそのあとなんか適当な話がしばらく続いてそして結局「ゆるさん」ってなって電話が切れた。
――なんだったんだあいつ。
とは言えない。だって先にメールを送ったのは僕の方で、でも本当に一体なんだったんだろうあいつ。久々に話した三弥はなんにも変わってなくて、強いて言えば美声のうみちゃんを連れ回して存在しないはずの店でもりもりカニチャーハン食ってるところが昔と違って、そしてその事実が夜のリビングダイニング、テーブルにひとり残された僕の胸をちくりと刺す。
三弥。僕にとって唯一の古くからの知り合い。英語の慣用表現でいうところの『
――〝親しみやすい、身近な、どこにでもいる感じの〟。
そういう女の子を表す慣用句。まさしく三弥のためにあるような言葉で、だって実際どこにでもいたというかつまりうみちゃんがそうだ。どうして友達同士で完璧に属性が被りまくっているのか、こういう隣の寺の少女の無駄遣いはいかがなものかと思うのだけれど、とにかく僕にとって三弥という少女は、きっと「生まれて初めて好きになった女の子」になるのだと思う。
きっかけは単純だった。そばにいたから。すぐお隣に同い年の女の子がいて、それがかわいかったら普通は恋に落ちる。そんなものだと思う。まだ幼かったことを差し引いても、でも人を好きになるのに理由なんかなくて、強いて言うならあの何もない田舎のだだっ広い野原、一緒に駆け回って遊んだときに偶然パンツが見えた。人は意外とあっけなく恋に落ちるもので、きっかけなんてものは大抵偶然の産物、例えばたまたま目の前でひらひらしてたスカートをめくったその瞬間、
「ゆるさん」
こうしてラブロマンスは始まった。まだ神さまを拾う前のこと、具体的にはその一日前の出来事だ。初めての感情に胸を昂ぶらせながら寝床について、「やばいなんでだろ僕眠れない」と、そう思った瞬間にはもう夜が明けていた。前にも言ったけれど僕は寝付きがいい。でも実はそれ以上にいいのが寝起きで、だって目覚めの瞬間のあの爽やかな感覚、もう今ならきっとなんだってできるというか、「この世界のすべては僕のもの」くらいに錯覚する。
いける気がした。そう思った。きっと、ずっと、どこまでだって。
――逃げるなら今だ。
それが動機で、他にはなかった。どこへ行くつもりだったか、そんなこと聞かれたって答えなんてない。行き先はまったく決めていなくて、でもどこでもいいってわけじゃなかった。遠くへ。誰も知らない場所へ。リュックに詰め込んだ宝の山は、いま思えばなんの役にも立たないガラクタばかりだ。
若かった。なんであんなことをしたんだろう、と、本気でそう言えたならよかったのだけれど。
――どうしてだろう。
忘れたい記憶、消えてほしい過去ほど、そう簡単には捨てられないのは。
「いやいや慎っちゃん、まあ人生そんなもんっていうか、過去はどこまでも追いかけてくるよ」
どうせ逃げられないから気にしちゃだめだよ、とお店の入り口、ドアからひょこりと顔を出したたまきさん。「ありがとうございます」とお礼を言おうとして、でもよく考えたらなにひとつありがたくなかった。慰めてくれたのかと思ったら全然違った、だって完全にだめ押しで、それをいつもの優しいお姉さん風の物腰だけで「励ましました」っぽくごり押しするのやめてほしい。
「いやいや慎っちゃん。うちだって別にね、好きでこんな忘れたい過去だらけの女になったわけじゃないからね」
そう言われても僕にはその過去がわからないというか、とてもそんな風には見えないのだけれど。いつも呑気に見えるこの不思議な大家さんは、でも本当に昔はいろいろあったみたいで、具体的にはとても聞けないけれどしかし説得力はあった。どじだからだ。励ますつもりで正反対のことを言ってしまうくらいにはどじで、だから僕はまず「おかえりなさい」と言葉を返す。
「すみません、なんか電話してたせいで戻りづらくしちゃって。神さま、大丈夫でしたか」
夜のリビングダイニング。今日はさすがに疲れたのか、お夕飯後にそのまま眠ってしまった神さま。二〇三号室まで運びに行く、それだけにしては戻りが遅かった。気を使わせてしまったことをまず謝って、そしてその後の「大丈夫でしたか」についてはいつものことというか、
「いやいや慎っちゃん。いやいやいやいや」
と、しらばっくれようったってそうはいかない。通話中でもしっかり聞こえた、上階から響くなんか重たいものを落としたような異音。消したい過去、どじの歴史に新たな一ページが刻まれて、でもそんなことより困るのは、
「……ね、ね、慎っちゃん。もしかして、彼女さん? 電話の相手」
なんて、興味津々でそう尋ねてくるところだ。興味津々尋ねるなら尋ねるで最初からそうすればいいのに、なんかずっと気にした風にこちらをちらちら、でも「こういうの聞いちゃだめだよねハラスメントだよね」的な顔してやっぱり言いかけたところでやめて、結果就寝時間直前になったところでようやく決意が定まるとか、普通にもっと早く訊いてっていうか僕もう寝たいのだけれど。
「フラれました」
即座に返したその答えは、でも少なくとも嘘じゃない。フラれた。そう解釈していいと思う。
「いやいや。いやいやいやいや。いやいや」
あちゃー。と、彼女の顔がそう言っていた。さすがに悪い気がしたので補足する、「さっきの電話でじゃないですけど」。初めての恋と、その悲しい結末。いま思えばわかりきっていたことで、だって三弥からすれば突然のこと。
隣の家の男子。初めて遊んでパンツを見られて、その翌朝に突きつけられた突然の
たまきさん、と、つい呼びかける。
彼女の手元には、ビールの空き缶。普段はほとんど飲まないのだけれど。今日の気温は高かった。夜になっても暖かくて、時間がゆっくりと流れているような気がして、だから「いやいや、たまに気が向いたときだけ」開けられるビールの、その〝たまに〟にはうってつけの宵だ。
僕は、自分の話があまり好きじゃない。特に真面目な話はたまにしかしなくて、だからこんな夜ならもう仕方がなかった。
「たまきさんは、考えたことありますか。もし仮に、線路がどこまでも続いていたとして」
――それならきっと、嫌なこと全部捨てて逃げられるかもしれない、って。
返事は簡潔だった。
「ホットミルク入れるよ」
レンジ調子いいし。うちは二本目いきたいけど、あんま強くないから一緒に牛乳にします。大人のお姉さんの見せた長期戦の構えは、でも正直なところ反応に困った。ずるい。さっきはどじで僕の精神を追い詰めておいて、でも急にこういう真似をする。何も言えない。今更「いえ実はそんな長い話でもないんですけど」みたいな、そんなことを言える空気じゃない。
――とはいえ。
「僕のはぬるめでお願いします。猫舌なんで」
まあ、仕方がない。結局、こうして乗ってしまった以上は。
就寝直前のこと。もう閉じられた教科書とノート、テーブルの隅に重ねて知らんぷりを決め込む、その姿が少し恨めしい。これじゃどうやっても大真面目な話になって、途中の逃げ場なんてもうないみたいなものだ。おかしな話だと思う。だってこれからするのは僕が逃げたかった話で、そしてその逃げたい気持ちはまだ、ずっと僕の中でくすぶり続けているのに。
ため息をひとつ。何から、どう話せばいいのだろう。いや、僕は何を話すつもりなのだろう。僕自身答えのわからない、神さまの問いかけに対する返事。
僕の向かうはずだった場所、長い線路の終着点。
いくら考えても辿り着けない答えは、まるでどこまでも続く線路のように思えた。
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