血まみれ指入りホットドッグ・パーティ
朝の電車はあまり好きではなくて、それは神さまも同じ意見のようだった。
というか、たぶん、初めてのこと。始業に間に合うように学校へと向かう、そんな必要は彼女にはなかったのだから。東北の小都市、さすがに首都圏のそれとは比較にならないとしても、でも通勤通学の時間帯ともなればそれなりに混み合う。
「といっても、さすがにぎゅうぎゅう詰めってほどじゃないから」
だから大丈夫、ギリギリ他人とはぶつからない程度――と、そう教えてあげたその当日に限って、なんか突然運休とかやらかすのだからまったく鉄道会社はひどい。
「しんたろう、なぜだ……どうしてわたしにうそをついた……」
僕の胸元、顎のすぐ下あたりからそんな声がする。嘘をついた覚えはなかった。ただ運が悪かっただけのこと。日頃の行いとかかもね、と、まさか神さまを相手にそんな罰当たりなことは言えない。すし詰めの車内、本当なら列車三本分の人口密度が、神さまの小さな体を容赦なく蹂躙する。
「床に足がつかん。浮いている。しんたろう、わたし飛んでる」
という、実はそう言っていたのだとあとで知ることになる、そのか細い囁きが「コヒュー、コヒュー」と僕の胸元をくすぐって、でもそれに答える余裕なんてなかった。せいぜい「楽しそうですね」とかそのへんが関の山で、なんか思いの外ちゃんとした受け答えになっていたのはともかく、僕の方だってこんなの限界に近い。
そのときの僕はまだ知らなかったのだけれど、実は有名な話だったらしい。
この路線、何かにつけてはすぐ運休して、例えば秋なんかはただの落ち葉で止まる。落ち葉だ。ただ木の枝から散って舞い降りただけの植物の葉だ。ええ嘘でしょこの時代に、なんて言葉はもう言い尽くされていて、実際インターネットで路線名を検索すると完全に罵詈雑言の嵐で、それでも片田舎の寂れた路線ならまだ許せたのだけれど、これが政令指定都市のど真ん中を走る路線だというのだから世も末というか鉄道会社は腹を切って詫びた方がいい。
「しぬとこだった」
駅のベンチ、ぐったりと寝そべるような体制の神さま。道半ばでの途中下車、ギブアップの白タオルを投げ込んだのは僕で、だってもうほとんど死体に近い。身をよじるどころか呼吸すらままならない有様、なんかこっちにぐりぐり押されてくるというか僕の胸でほとんどヒキガエルみたいに潰れて、そして昨日怒られたばかりでこんなことを言うのは本当に気がひけるのだけれど、
「これを平たいって、あたまおかしいんじゃないかな昔の僕」
嫌が応にも思い出される柔らかな感触、それが僕の頬を少しだけ熱くする。
なんだろう、なんか恥ずかしい。率直に言って「ラッキー、得した」と、きっとそう感じるかと思っていたけれどでも現実は違って、つまり大きかったのは神さまの胸だけじゃない。より大きいのは僕の胸、その奥に生じた罪悪感のような何か。初めて感じるその重苦しさは、例えるならきっとGカップくらいはあって、つまり神さまのそれよりもはるかに大きい。
「勝った」
なんて、そういう大人気ないことは言わないけれど。
だって、僕はもう子供じゃない、もしそうなら胸でこんなに動揺なんかしない――事実、あの頃は一顧だにしなかった。一方的に平たいと決めつけて、まったく認識できないまま好き勝手言って、なのにその最初からどこにも存在しなかったはずのそれに、いまここまで狼狽させられている。
恥ずかしい、という、そんな気持ちがないわけじゃない。でもそれよりもいま僕の胸を刺すのは、どこか後悔にも似た初めての感情。
子供じゃない、と思えること。
もしそれを成長と呼べたなら、きっと悩まずに済んだと思うのだけれど。
「……ねえ神さま、大丈夫? なんなら今からでも引き返そうか」
その提案に神さまは首を横に振って、でもそのくせ新しい電車が来る度、
「落ち着くのだしんたろう。まだ早い、機が熟すのを待て」
みたいなことを言うその表情が無駄に落ち着き払っていて大人っぽくて、つまりすっかり体調は持ち直しているのにでもしっかり
遅れに遅れてようやくのこと、それでもどうにか辿り着いた学校。
一限目はもう半分以上が終わっていて、そして咄嗟の嘘のつけない性分というのは面倒なものだ。
「すみません、電車が運休したもので」
ただひとこと、そう言えばよかっただけのところをつい「急に神さまが来たので」と言ってしまって、そしてそのおかげでかえってというか、なんかほとんど怒られずに済んだのだからやっぱり神さまってすごい。
「あっでも大丈夫です神さまは保健室に置いてきたので」
という付け足し、そこにただ「そ、そうか」と返すしかなかった先生の、そのどこか気圧されたような声音はまあ思った通りというか。所詮、大人というのは大体こんなものだと思う。
「すごいねきりのくん。わたし、ぜったいあんなこと言えない」
大人でない人の意見の一例、それを「だろうね」と軽く受け流して、いや受け流そうとしてやっぱり「この裏切り者」ってなって、なんでこの子はこんなひどいことが言えるのだろう。僕はこう見えて気の小さい方で、だから本当はちゃんと「運休だったから」で済ませたくて、でも上手くいかなかったこの苦しみを彼女、同じ文芸部の妹尾さんだけは慰めてくれると信じていたのに、
「ち、ちがうの。きりのくん、わたし、そんなつもりじゃ」
とやっぱり「ごめんなさい」が出てこない、そんないつも通りの学校の風景。何事もなく二限、三限と過ぎ行く、その普段と代わり映えのしない感じが却って不気味だ。
――そういえばいま、校内にあの神さまがいるんだよな。
なんかおかしなことやらかしてなきゃいいけど――と、どうしても気になって仕方がない。なんだろう。ずっと気を揉んでいたおかげか午前中、授業の内容なんかほとんど頭に入ってこなくて、でも結果的には完全な杞憂、それ自体は幸いなことだと言えるのだけれど。
不思議、というか、どうにも落ち着かない感じがした。
自分自身に。神さまがおかしな振る舞いをするのは、別にいまに始まったことでもないのに。
ただ学校にいるからってだけで、どうしてこうも強く意識してしまうのだろう――。
その落ち着かない感じから解放された、というか無事が確認できたのは、午前最後の授業が終わってからのこと。
お昼休み。ご飯のために落ち合う約束していた、校舎端の生徒相談室。
「すまないしんたろう、遅くなった」
と、二十分くらい遅れて駆け込んできた、その神様の姿を見て安心した。
よかった。生きてた。見た感じ特に何かあったとかそんな感じではなくて、少なくとも五体満足なのは間違いなくて、でもどうしても意味がわからないのは、
「まって神さま、なにそれ怖いっていうかえっなんなのそのすごい血」
ドン引き、というのはきっとこういうことをいうのだと思う。神さまの制服、この学校のそれとは違うセーラー服の、そのお腹のあたりにべったりと残る真っ赤な跡。
聞けばまあなんとも神さまらしい話、なんでも美術室あたりで絵の具をぶちまけただとかなんとか、まったくこの子は結局なにかしらやらかさないと気がすまない性分なのかな――と、僕はそういう展開を期待していたのに、
「いや、見ての通り血だが」
と一言、そして「そんなことよりご飯はまだか」と、そうせっつくのだから仕方がない。
お昼ご飯。学校生活においてもっとも楽しみかつ幸せな時間。
いつもは自分で用意することが多いのだけれど、でも今日はたまきさんの作ってくれたお弁当だ。おいしい。さすがに本職、という以前にやっぱり人の手作りのご飯は嬉しいもので、でも困るのはやっぱり「なんだろうこれ」ってなるところというか、いやなんだかわからないわけでは決してないのだけれど、
「うむ、うまいなしんたろう。やはり焼きそばパンはよい」
という、その神さまの言う通り。焼きそばパン。確かに昨夜パン生地を捏ねているのは見たし、それに今朝は焼きそばを作っていたみたいだけれど、でも、
「なんでわざわざ購買のパン販売の定番どころを持ってきたんです」
今朝方、僕のその質問にたまきさんは「いやいや慎っちゃん。いやいや」と答えて、つまりなんの答えにもなっていないのだけれどでも普通に美味しいのだからもう何も言えない。
ふわふわの、でもしっかりした食感のあるパン生地に、具材たっぷりかつ濃厚な味わいの焼きそば。購買のそれとはもうまったくものが違って、つまりものすごく美味しくて、だからこう、どう言えばいいのか――言っていることがおかしいのは自覚しているけどでもわかってもらえると思う、なんの不満もないところがもうものすごく不満だ。
「お前はいいよな、モテモテで」
そんな言葉が自然と口をついて出る、まごうことなき見事な焼きそばパンっぷりだ。高校生活によくいる気さくでひょうきんな親友、そうとしか形容のしようのない顔で僕ではなく神さまがそう呟いて、「いやどこで習ったのそれ」と聞いたらなんと意外や意外、
「しんたろう。そういうのはいけない。食事中に痔の話はよすのだ」
と困った顔をされた。ごめん、と一応謝って、でもよく考えたら僕何も悪くないっていうかあのイケメンのお尻の虚弱さが全部悪い。
――ごちそうさまでした。
ふたりでそう手を合わせる頃には、もうお昼休みはほとんど終わりかけていた。
「む。おいしんたろうしんたろう、頬っぺたに紅生姜がついておるぞ」
ふふ、と笑いながら、いやむしろ「やーい」とでも言わんばかりの得意げな顔で。身を乗り出して僕の顔を覗き込んでくる神さまは、でも僕のことは言えないというかなんか口の周り全体が赤い。いや嘘でしょどうやったらそんな紅生姜だけくっつけられるのと、そんな呑気な感想はでもよく見たらすぐに間違いだとわかった。
「えっ、うそなにそれまた血?」
ん? と全然自覚のない神さま、その口元がいま真っ赤な液体で染まって、結論から言えばそれはケチャップだった。後々犯人の供述するところによれば「いやいや慎っちゃん、いやいやいやいや」とのこと、どうも微妙に焼きそばの量が足りなかったみたいで、こっそりひとつだけ混じっていたそれは、
「そっか、ホットドッグがあったんだ。いいね神さま、なんか当たり引いた感じで」
僕の感想に、「まあ神さまだからな」とさらに得意げにする彼女。
神さま。昼下がり、ほとんど真上からの陽光は窓の傍だけを照らして、その光によってくっきり分かたれた、室内の深い影の中。神さまの特徴的なあの真っ白い姿が、いま暗がりの中あちこち赤く染まっている。怖い。完全にスプラッタだ。まったくありがちというかお約束というか、たかだかケチャップひとつでこんな風になるとか――きっかけというには少しおかしいけれど、でもここまで自覚的に思ったのは初めてのこと。
――〝あっ、この子かわいい〟。
なんて。さすがに恥ずかしいというかどうにも甘酸っぱくて困るというか、そのとき僕はすっかり忘れていた。それケチャップだけでなく本物も混じってる、という事実を。
「ほれ。取れたぞしんたろう」
その一言で我に返る。正確にはその一言と、あといきなり口の中に突っ込まれた神さまの細い指で我に返る。舌の上、ぐいと押し付けられるような感触があって、明らかに押し込みすぎというかそも突然すぎた。どうやら彼女は僕の頬っぺた、へばりついていたらしい紅生姜を僕の口に放り込んだつもりだったらしいのだけれど、
「んぐっ」
と思わず漏れ出た嗚咽、同時に反射的に指を舐め返すみたいになって、そしてきっと味なんかないはずの神さまの指、何度も目にしてきたあの細くて綺麗な真っ白い指が、実はほんのり甘い味がするんだってことを僕はこのとき学習した。何の味なのかは不明だ。
「ひぅっ」
というのは神さまの声、僕の舌が余計なことしたおかげで出たっぽい悲鳴で、「おいなにをするのだ」なんて言われても悪いのはそっちだ。人の口に急にものを突っ込むのはよくないしあと「なんかどきどきする」とか言っている暇があったらさっさと引っこ抜くべきだと思う。
お返しとばかりに頭を押さえて、ハンカチで口元のケチャップをぐりぐり。神さまの頭はなんだか触り心地が良くて、細い髪の感触とあとなんというか、
「体温高いのかな」
と、そんなことをふと思った。なんだろう、なんかちょっとぽかぽか暖かい感じで、しかもお日様みたいな柔らかい良い匂いまでする。最初むぐむぐ暴れた神さまは、でも思ったよりすぐにおとなしくなって、そして「まだか」とばかりにじっと僕を見つめる赤い瞳の、その妙に真面目なところがなんだか面白かった。
――本当だったらいまここで、もっといろいろ話を聞くつもりだったのだけれど。
今日の目的。具体的には、文芸部のこと。まかせろ、というのは聞いたし、そのためにわざわざ連れてきた。でも一体なにをどう任せたらいいのか、つまりこの子がどうするつもりなのか。その辺がさっぱり見えてこなくて、でもお昼休みはそろそろ終わってしまう。
あと三分か、三分半か。ふと目を向けた窓の外、なんだか春の陽気が本当に心地好さそうで、いっそこのままここでお昼寝もいいな神さまもいるしと、なんかもうどんどんだめになっていく自分を感じる。
たぶん、どうかしていた。まあ春だし仕方がない。春にはこういうのが増えたりする。どうにか誘惑を振り切って、相談室を後にはしたのだけれど。
「それじゃ神さま、また放課後ね」
うむ、と頷くその姿。たぶん、完全に見慣れてしまったのだと思う。
文芸部のこと、「まかせろ」よりもたぶん大事なその事実。
血。
結局なんだったのあのスプラッタ、という疑問は、でも結局永久に謎のままだった。
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