若いうちに金を払ってでもしろ
喉元過ぎればなんとやら、と、これもそのうちに入るのだろうか。
「いけた」
神さまは元気だった。「意外となんてことなかった」とけろりとした顔で、まるで憑き物でも落ちたかのようにそう言ってのけるのは、どうやらただの強がりってわけでもないらしい。
「もともと、野でするのが当然のことなのだ。事実、昔は皆そのようにしていた。それを思えば別段どうということはない」
だからそろそろ許してはやれないか――そう彼女が庇うのは、まあ言うまでもないのだけれど創さんだ。まあ気持ちはわかるというか、確かにただトイレが長いってだけであの扱いはひどかったかなと、そう反省しないこともないのだけれど、でも、
「痔なのであろう」
というのはいやちょっと待ってというか、一応いままでギリギリ触れずに来た核心、それを思いっきり公言してしまうのはどうかと思う。
そういうのは内心に
「なんのことだ」
「あれは痛みを堪える声だった」
「知らんな」
「現にいまも姿勢が不自然だ」
みたいな終わりなき応酬、その最後にまるでトドメとばかりに、
「――つらかったろう。その苦しみ、ずっとひとりで抱えてきたのだな」
まるで慈愛に満ちた聖母の眼差し、そのままそっと優しく彼の頭を撫でた瞬間に勝敗は決した。自分の長いうんこのせいで野外ですることを強要された、ある意味被害者とも言えるその相手からこんな同情を寄せられ、しかもそれだけで済んだならまだしも、
「……うん。あの、創ちゃん、ごめん。見て見ぬ振りしてた……ごめんね……」
そうたまきさんが被せてきたものだから、そうなると僕も似たようなことを言う羽目になって、こうして僕たちの戦争は終わった。後に残ったのは無人の焼け野が原、すなわち「創さんは痔持ちである」という既成事実だけで、でも戦争というのはやっぱり残酷なもの。
「いや、お前らな……だから誤解だと……」
敗北、という事実の重さ。受け入れることの叶わぬ現実、肩を落とし呟くその
お夕飯の後のだらだらタイム。あるいはお風呂待ちの時間でもあるのだけれど、とにかく各人が思い思いにくつろぐ夜のひととき。
自室があまりにも狭くて薄暗くてカビ臭いおかげか、池田荘の住人は基本ここで過ごすことが多い。といっても、別にルールというわけじゃない。例えば創さんなんかはお風呂の後、ここでコーヒーをポットに入れてそのまま自室に戻ることもしばしばだ。
僕の場合は日によりけりだ。例えば今日は夕飯後の洗い物をして、でもたまきさんは、
「いやいや慎っちゃん、それうちの仕事っていうか、あんまり手伝ってもらってばっかなのも悪いから」
みたいなことを言って遠慮するのだけれど、でもこれは入居の際に決めたことでもある。
前にも少し話したけれど、彼女は元々母さんの知人で、僕が今ここにいるのはその
「
と、それは自ら志願したことだ。別に洗い物だけじゃない、日によっては食事の用意だって任せてもらえて、それは母さんも納得済みのこと。むしろ彼女にとっては渡りに船、母さんはどうも僕に対して、自活できる人間になって欲しいと考えていたらしい。
実際、引っ越してきた当日、親子揃っての挨拶のときには、
「お願いたまちゃん。なんならお金払ってもいいから、この子を
とまで言っていた。隣の僕も同意見というか、
「なんでもします。この
と頭を下げて、でもたまきさんが見せた反応は意外にも――少なくともいま現在の呑気なたまきさんを知る僕からは意外というか、まあ主として母さんに対しての返事だということもあるのだろうけれど、
「いやいやいやいや……あの、だめです。そういうのはその、ないんで。うちは普通のお店なので」
健全なので、と束ねた髪の毛をもじもじ、なんだか照れたみたいに小声で呟く、その姿を見て僕は「よかった」と思った。実際、よかった。こんな得体の知れない親子のことを本気で考えてくれているのがわかって、つまり彼女は女神かなにかなのだと思った。事実、どことなく荘厳な感じというか、この真正面に立ったときの威圧感もなるほど女神ならわかる。
「いやいや慎っちゃん、その件はもう言わない約束っていうか、それうちなんも悪くないからね」
全部慎っちゃんとレイカさんのせいです、と――ついでに「洗い物お疲れ様でした」と、いつものコーヒーを淹れてくれるたまきさん。レイカさんというのは僕の母さんのことで、そういえば彼女たちが一体どういう関係なのか、僕は全然知らないのだけれどまあそれはそれだ。
リビング中央のテーブル、いつもの席に着いてコーヒーを一口。おいしい。なんかよく見ると色味が妙な気もするけれど、でもそれも含めていつもの味だ。
このだらだらタイム、一番最初にお風呂に行くのは大抵創さんで、そしてその順番を待つ僕らは、こうしてコーヒーなりお茶なりを飲みながら適当な雑談に興じる。
といっても、僕から振ることのできる話題なんて限られているけれど。せいぜいその日の出来事を振り返るくらいというか、まあ要するに学校の愚痴とかだ。
――文芸部。
というか、妹尾さん。あと一応、小野寺先生もか。
こうして振り返ってもやっぱり思う。無理だよね、これ、と。
土台無茶な話で、だってまだ入学したばかりの身の上だ。誘えそうな生徒のあてがないばかりか、そも校内の知人それ自体が少ない。さてこの状況で一体なにをしろというのか、強いて言えば小野寺先生に犠牲になってもらうくらいしかできないのだけれど、
「よかろう。まかせろ」
と、隣でじっと話を聞いていた神さま、その頭上に燦然と輝くアヒルのおもちゃ。あらやだこの子バランス感覚すごい、なんて、そんな考えはいわゆる逃避ってやつだ。
「まって、何をどう任されるつもりなの。っていうか、いくらなんでもそれはまずいと思う」
宿題ならまだしも、さすがに『嫌な先生は全部墓下に埋めちゃえ』みたいなのは――その僕の返答に、でも彼女は「わたしをなんだと思っているのだ」と困ったような顔をして、でもそんなこと言われても困るというか、むしろ正解があるなら教えて欲しいくらいだ。
――〝神さま〟。
仮に「なんだ」と問われたなら、僕にはそれ以外に答えようがない。
それ以外の知識がない。創さんによれば「そういうもの」で、当人の弁ではただ「神さま」だ。それともうひとつ、確か「なんの神さまでもない」と、たまきさんへの自己紹介でそう言っていた。あとは白くて綺麗で可愛いジャムパンの袋が好きで、あとはなんだろう――そうだ、いままで言う機会がなかったのだけれど、
「ごめん。全然平たくなかったというか、むしろ結構ある方だと思う」
という僕の謝罪に、でも微妙としか言いようのない顔をする神さま。曰く、「急に乳の話をするな」と――さらには、
「と、いうか。まさかわたしは乳だと思われていたのか……?」
なんて、なるほど「なんだと思ってる」への返しとしてはだいぶおかしな返答だったと、それは認めるのだけれどでもやめて欲しい。こういうとき、物静かなときの彼女は本当に大人びて見えて、だから「……ままならぬものだな」みたいに目を伏せる、そんな真剣な表情をよりにもよってこんな胸の話題で、しかも頭にアヒル乗っけたまま使わないで欲しい。
「すまない。だめだったのか」
とアヒルを手に持ち直して、そしてやり直しとばかりにまた真顔になる――のかと思えば、
「しんたろう。実を言うとだな。乳の話題は、その。けっこう、はずかしい」
なのでやめてほしい、と両手でアヒルをもじもじ、うっすら頬を染めながらふいに目を逸らして、もう本当に「なんなのこの子」というか、結局正解はどんどん遠ざかるばかりだ。
――何が何だかわからない。
そういうもの、と、僕もそう簡単に割り切れたらいいのだけれど。
「悪い、待たせたな。いま上が――なんだ。なんか妙な雰囲気だが」
どうしたんだお前ら、とお風呂場の方。やっとシャワーを終えたらしい創さんが顔を覗かせて、そしてそこに「なんか慎っちゃんのハラスメントが炸裂した」とたまきさん。胸の話題のことを言っているのかと思ったけれどそうではなくて、というかあれから学校の話題を挟んだのはほとんど彼女のためで、にも関わらずなんか未だ入居の時のアレをもやもや引きずっているっぽいのはさすがにどうなんだろう。
いつも呑気で、わりとなんでもほいほい話を進めてしまう彼女の、その意外な弱点がこれだった。大抵のことはすぐに忘れてしまう代わりに、一度引っかかるとずっとそのまま引っ張ってしまうみたいで、でもそれをまさか僕の口から、
「神さまを見習ってください。この人、さっき野ションしたのにけろっとしてますよ」
とは言えない。当たり前だ、そもたまきさんのもじもじの原因を作ったのは僕だ。それに裏手の森でのことをいまさら蒸し返すのもどうかと思うし、なによりそのけろっとしてたはずの神さまを胸の話題で萎縮させたのも僕で、つまり、
「慎……お前、完全な虐殺だろう、それ」
という、その創さんに返せる言葉がない。
「まあ気にするな。そういうこともあるさ。十代のうちなら許される」
なんの気休めにもならないその慰めは、でも低く落ち着いた声とあと洗いざらしの髪の艶めかしさのおかげで妙な説得力を伴っていたというか、
「なに言っても様になるから得ですよねイケメンって」
と、そんなことを思うよりも早くコップ一杯の牛乳、なんかいつの間にか「はいどうぞ」と彼に差し出していた僕。「悪いな。助かる」の一声を聞く頃にはもう何に落ち込んでいたのか思い出せなくなって、そんないつも通りの夜のひとときは、こうして今日もまたゆっくりと過ぎてゆく。
いつも通り。住人が
文芸部。妹尾さんと小野寺先生、あるいはまだ見ぬ三人の部員。
一体、どうしたものか。なにも思い浮かばないまま夜は更けて、そしてそのとき、僕はすっかり忘れていた。
そういえば、確かに言っていた。無駄に自信に満ち溢れた、あの神さまのいつものひとこと。
――〝よかろう。まかせろ〟。
どういうつもりかは知らない。そんなの予測できるわけがない、だって僕はまだ彼女のことをほとんど理解できていない。ただひとつわかるのは、たぶん事態が余計にややこしくなるんじゃないか、ということ。
忘れたまま、そして策もなく迎えた翌る日の朝。
僕が目撃することになるのは、すっかり登校の支度を整えた彼女の姿だった。
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