2 神さまのいる学校
流水不先争 覆水定難収
「いけた」
意外と簡単だった、と拍子抜けした様子で呟く神さま、でもそれはもうしばらく先のこと。
大事なのはそこに至るまでの過程、目的を達成するまでの道のりだ。
具体的には日々の生活、例えば池田荘での暮らしもそうだけれど、でも僕にはもうひとつ学校もある。この春、まだ始まったばかりの高校生活。まだ右も左もわからないけれど、とりあえず目指すべき場所は決まった。
神さまを、ダムにすること。
――どうやって。
なんて、そんなことはもう寝て起きたら忘れた。月曜の朝、すでに目的地は見えていて、あとはこれから過ごしていく日々の中、少しずつでも進めばいい。
人類史上の偉業の数々。それらは大抵、このノリと勢いだけで完遂されている。歴史の教科書を見ればわかる。ノリと勢いしかない人間が山ほど出てきて、そんな連中があれだけ好き放題めちゃくちゃやれるのだから、それはきっと僕だって同じこと、
「嫌な宿題は全部ゴミ箱に捨てました」
でも仕方ないですよねもう過ぎたことですし――と、満点の笑顔で宣言する、朝一番の授業中。まだ全然慣れていないはずの高校生活、完全にノリと勢いだけでそう言い切って、でもこれがなんと本当にどうにかなってしまったのだから、なるほど世の中って案外ちょろいのかもしれない。
――と、いうか。
「もしかして、大人って実はものすごく馬鹿なんじゃ」
授業終了後の休み時間。僕の漏らした感想に、でも賛同者はあまりいなかった。残念だ。特に残念だと思ったのは隣の席、なんやかや言葉を交わすことの多い
「すごいねきりのくん。わたし、ぜったいあんなこと言えない」
なんて心底感心した風に僕のことを見つめて、その様子がまたいかにも純朴というか純粋というか、あまりにまっすぐなその瞳に、僕は思わず叫び出しそうになった。
「この裏切り者」
と。だってこんなひどい裏切りってない、クラスのほとんどが「馬鹿はお前だ」みたいなことを言ってくる中、でもこの子だけは――この短い間にずいぶん仲良くなったというか、現に何度も恩すら売ってきたこの妹尾さんだけは、間違いなく僕の味方についてくれると思っていたのに。
「ち、ちがうの。あの、きりのくん、わたしそんなつもりじゃ」
入学からひと月程度、その言葉を何度聞いたことか。おそらくそれは彼女の口癖で、つまりこの妹尾さんはちょっと変わった人だ。
例えば、彼女は忘れ物が多い。事実さっきの宿題も家に忘れてきたとかで、でも僕がほとんどお咎めなしだったのに対し、なんか彼女だけがしつこく叱られていた。なるほどまず弱そうな方から徹底的に叩く、というその大人の汚いセオリーは別としても、まあ一応筋は通っているというか、たぶん普段の素行の違いが原因だと思う。
彼女、妹尾さんはいつも、教科書を忘れる。少なくとも一日に一教科は忘れて、だから僕はその度に、彼女と席をくっつける羽目になる。今日の場合は二限目のことだ。
「ちがうの。きのうのよる確認したときは、ちゃんとかばんに入ってたの」
理由のバリエーションにはいろいろあれど、でも彼女の言葉はまず「ちがうの」から始まる。
そんな調子で早ひと月、僕はこれまでただの一度として
「なんか一見おとなしくて真面目で無害っぽいけど、でもこれ本質的にクズのやつだ」
みたいな、そういうひどい発言は一切していないことだけは理解してほしい。
とにかく、問題はその妹尾さんだ。
いや、妹尾さん自体は別にどうでもいいのだけれど。でも僕の学校生活に――それも人知れず、「神さまをダムに変える」という目標を秘めたその日常に――結果としてそこそこ深く関わってくるのがこの彼女なのだから、さすがにそれを無視するわけにもいかない。
それはその日の放課後、すなわち五月に入ってすぐの夕方のこと。
「あの、きりのくん。きりのくんってえっと、まだ決めてなかったよね。部活」
その前置きで理解した。「やばい、カモにされる」と。
だってこの子はまず僕が部活に入っていない前提で話を始めて、でも僕がどの部活に入りたいのかその予定はあるのか、その辺りは一切聞いてこないままなんか「わたし文芸部で」とか「ひと少なくて」とか自分の話ばかりして、こんなのもうほとんど本題というか、ここまでわかりやすい勧誘もそうそうない。
基本的にこちらの都合は丸ごと無視アンド無視、という、もはやそんな次元ですらなくて、
「よかった」
と、ほっと胸をなでおろしながら心底安堵した様子で微笑む、その瞬間どうやら僕の入部が決まった。何を言っているのかわからないと思うけれど、僕も何を言われているのかわからなかった。勧誘だとかお願いだとか、そんなちゃちなものでは断じてない。もっと恐ろしい「もう入部届出してあるの」の片鱗を味わった気がした。
「ごめん僕部活とかやってる余裕なくてだって僕は神さまをダムにしないとだからじゃあねさよなら」
という僕のその丁寧な断りの文句に、でも彼女はただ戸惑った風に顎の先に指を当てただけというか、「何を言っているのかわからない」みたいな顔をしただけだった。残念だ。残念だけれどそれでも一応、きっとなにがしかの片鱗くらいは伝わるはずだと思ったのだけれど、でも妹尾さんは自分にとって『わけのわからないこと』は、どうやら『存在しないもの』として処理してしまうらしかった。いわゆる『なかったこと』ってやつだ。
「がんばろうねきりのくん。あっあとそうだ、わからないことあったら、なんでも、聞いてね」
笑顔で僕の手を取る彼女の指、それをそっと外してあと「頑張りません」と告げて、そしてずんずん突き進む放課後の廊下、教員室まで進むその道すがら、
「ちがうの、まってきりのくん。わたし、よかれと思ってっていうか、きりのくん絶対こういうの好きだって」
みたいな、後ろから聞こえるそんな言い訳はでも、もう相手をするだけ無駄というかこの調子だと負ける。いまなにより必要なのは毅然とした態度で、だからいよいよたどり着いたその先、
「えぇ……嘘でしょ、また君……ねえ今度はなんなの、もう勘弁してよ……」
という、そのあからさまに嫌な予感しかしない対応――というか出てきたその人物に、でも今更一切の情け容赦はいらないしあとそれはこっちのセリフだ。
――小野寺先生。この間のあの頼りなくてなんの役にも立たない新米教師が、どうしてまたこんなところに。
「あなたのような三下では話になりませんからさっさと校長先生を出してください」
という、そう言ってやりたい気持ちをグッと堪える。結局、案内された場所は例の『生徒相談室』で、そしてこの部屋はこれから半年と待たず『コールセンター小野寺』というあだ名をつけられることになるのだけれどまあそれはいい。
問題はいま現在の状況で、具体的には何がどう問題なのかといえば、
「桐野君。君ね、どうしてこうも立て続けに、女の子とのトラブルばっかり起こすの」
という、誤解もいいところなのだけれどでもこの歩く日和見主義をしてそう言わしめてしまう、その妹尾さんの振る舞いが問題だ。
結局、最後まで僕の後をついてきたこの人は、いま小野寺先生のすぐ隣、
「……だ、だって……きりのくんが……」
と、何がだってで僕がどうしたのか、そのあたりを一切言わないままにただヒックヒック泣いて、なるほどそりゃこの役立たずはそっち側につきますよねええわかります――と、そのあたりがもう本当に問題というかなんだろうこの突然の
「ていうか君、いいのかい。結局どうしたのさ、こないだのあの神さまは」
もう捨てたの、とかなんとか、なんかさらりと人聞きの悪いことを言う三下。捨ててないどころか手厚く保護しているくらいで、そして良いか悪いかで言うのであれば、
「いいです。どうでも。少なくとも今は」
なぜなら今頃はまた黒い汁の給仕を頑張っているはずで、そしてどのみち遠からずダムになる――その僕の言葉に「は? ダム?」という言葉が返って、しかもそれを「きりのくん、さっきもそう言ってた」と妹尾さんが保証して、そのおかげでなんかどんどん怪しくなる雲行き。またこの同調圧力ですかというか、このままだと本題に入ることなく僕が悪者になって終了する気がする。
――強引だけれど仕方がない。
というか、強引に行くのがいい。この手の流されやすい人たちには基本ノリと勢いが効く。
「どうも手違いがあったっていうか、この妹尾さんが勝手に僕の入部届を出しちゃったみたいで」
この人間のクズが私文書偽造に手を染めました――と、そういう正確な表現は無理だった。だってそれをやると僕が負ける。事実には違いないはずなのに、でもそれを告げた場合まず間違いなく僕が悪役にされて、それは考えてもみれば不思議なことだ。いま真実よりも優先されるそれは、この生徒相談室に揺蕩う不安定な空気。
「あー、あれかあ……うん、確かに受け取ったけど。でもねえ、うーん」
お前か、とついその場で逆上しかけて、でもギリギリ堪えることができたのは幸運だった。
「大丈夫じゃない? 桐野君も気にする必要はないよ、だってこの学校文芸部ないもの」
はい解決、とばかりに満足げな笑顔で、ぽんと手を打って話を終わらせようとする先生。なんだろう。やはり詰めが甘いというか、もうこの人まるきり空気読めてないというか――。
いまわかった。この人、こんなだから三下なんだ、って。
「――なんで」
泣いた。薄々予想はしていたけどでも本当に泣いた。「わっ」とばかりに両手で顔を覆って、まさにここぞというタイミングで妹尾さんが泣いた。論理的に考えるなら「なんで」も何もなくて、元々ないものはどうしたってないとしか言いようがないのだけれど、でもそんなことはもはや関係ない。
「あっ泣かした」
と小さく呟く、それでやっと先生も理解したらしい――いま、完全に潮目が変わったことを。さっきまで生贄台の哀れな子羊、そこに自分が向けていたはずの兵器、『女子生徒の涙』の砲口がいま、明らかに自分の方に向けられているという事実を。
「大丈夫ですよ先生。新任教師の代わりなんてきょうびいくらでもいますし、大丈夫です。僕は」
短い間でしたがお世話になりました、という僕の挨拶に、でも先生は案の定というか、
「いや待って? ねえ待っておかしいよねこれ? だって僕なにもしてないじゃない!」
と、往生際の悪いことこのうえない。というかそれは完全な悪手で、だっていまこの三下日和見主義の隣、思いっきり泣いている人がいる。その量を増した涙はきっと
実に鮮やかな手際というか、きっと『ため息の出る思い』というのはこういうこと。
「だって。せんせい、このまえ、顧問になってくれる、って」
「いやだから、それは『君が部員五人以上集めたらね』って話だったでしょ? 入部届はほら、それまで僕が預かっておく約束というか、ぶっちゃけ君が無理矢理僕に押し付」
そこで再び目を見開き、そして「ひどい」とまた泣き伏せる。すごい。強い。なにこの手際。納得できる要素なんかなにひとつないのに、でも涙と既成事実だけでみるみる道理が引っ込んで行く。非の打ち所のない見事な打算――と、そう思えたらいくらか気が楽なのだけれど。それはおそらく望み薄というか完全な
恐ろしい。というか、信じられない。
さっきの「わたしぜったいあんなこと言えない」はなんだったのか。気づけば僕はどうしてか彼女の援護射撃までしていて、だってこんなのもう仕方がない。気持ちいい。超気持ちいい。他人の生殺与奪を完全に握る、その悪魔的な快楽に僕は身も心も溺れて、なるほど過ぎた力は身を滅ぼすのだと、そう気づいたときにはもはや後の祭りだ。
文芸部。その設立はもう確定事項で、あとは残りの部員をかき集めるだけだ。
「がんばろうね、きりのくん」
わかる。この感じだとまず間違いない、きっと「がんばる」羽目になるのは僕ひとりだ。仮に頑張らなかった場合はそのまま三下の首が飛んで、やあよかっためでたしめでたし――と言いたいところだけれどでも恨まれるのは僕だ。人生の蟻地獄に沈みかけた新米教師、それがいま、
「じゃあ桐野君、君は早いところちゃんと部員を揃えてね」
だって君も当事者だもんね、と必死の形相、僕の足首を掴んで巻き添えにしようとしているのがわかる。どうせ死ぬならひとりよりもふたり、特にこの場合は背中の重石を分け合えるのだからなおのことで、しかしどうして立場の弱い奴隷同士が争っているのか、何度思い返しても腑に落ちないのだけれどでも仕方がない。
僕が悪い。
世の中、そんなに甘くはなかった。世間がちょろいと思えるのは、あくまで「自分が勝者の立場にあるとき」だけだ。
完全に負け犬の濡れ鼠となって、そして帰り着いた池田荘。
待ち受けていたのはいつもの住人と、あと一基の立派なダムだった。
一目見た瞬間そう思った。ダムだ。だってどう見てもダムっていうか、いや見た目はそうでもないけどある意味ダムというか、少なくとも建前上はダムとしておかないと可哀想なアレというか、
「おお、帰ったかしんたろう。今日は遅かっぁぁっ、うっ、ふぅーっ」
と、へっぴり腰のままその場にくねくね、顔を真っ赤にして下腹部を押さえる例の白い人で、そして僕は自分の言うべきことを直感した。
「ダムって貯水だけじゃなくて、放水もするものだと思うけど」
その瞬間の神さまの表情、まるで「救われた」とでも言わんばかりの潤んだ瞳を、きっと僕は一生忘れないと思う。あるいは救われたのは僕の方か、こんな僕にでもできることがあったと、そのとき完全に沈みきっていた僕にとって、こんなに嬉しいことはきっと他にない。
だから、忘れない。神さまのあの顔と、あと、
「――あッ、うぁ、嘘……なんッ、で……!」
と、お手洗いの前、ドアに縋るみたいにしてずるずるへたり込む、その絶望に満ちた真っ青な横顔を。涙目でガチャガチャとドアノブを捻る、その額に脂汗がだらだら流れて、それでもびくともしないその扉の内側、たぶん大きい方をいま頑張っているのは、
「ちょっと創さん! 後がつかえてますんで巻きでお願いします!」
という僕の言葉に、でも「無茶を言うな、急には無理だ!」と死刑宣告が返る。この人はこの人でいつもトイレがいやに長くて、どうも痔じゃないかって噂もあるのだけれどでもこっちは別にどうでもいい。
運命は残酷だ。
一度は救いの光明が見えた、そのことがかえって絶望を深くして、もはや神さまには立ち上がる気力もない。ゆっくりと、ぎこちなく、首だけを「ぎぎぎ」とこちらに向けて、僕のことを縋るように見つめるその真っ赤な瞳。
確かに、聞こえた。声にして出さずとも、しかし目はときに口ほどにものを語る。
――〝嘘、だよな……?〟。
答えることはできなかった。ましてや頷くなんて無理なこと。まるで身動きのできない僕に、でも彼女は目を逸らさない。ただじっと、まるでそうしていれば助かると信じるかのごとく。ただただ僕を見つめて、でもあの綺麗で澄み切った深い赤の、その奥がどんどん絶望に濁っていくのが見える。
――もう、助からない。
そう思った。そしてそれはきっと顔に出ていて、瞬間、神さまの顔から色味が消えた。もうだめだった。僕と神さまの脳裏にはきっと同じ映像が浮かんで、それはおおよそナイアガラのような何かだ。
間違いない。
ダムは、決壊する。いまこのとき、たまたま創さんがうんこをしていたおかげで。
「おい待っ――くぅっ、俺のっ、
という、なんか苦痛を堪えるかのようなくぐもった声はどうでもいい。
「……慎っちゃん」
カウンターの向こう、調理台の前から響く声。たまきさん。伏せられた目から読み取れるのは、ただひとつ「
その意味するところを理解した瞬間、僕はすでに神さまを担ぎ上げていた。
――これは、いけないことだ。
歴とした犯罪行為で、なにより女の子にはきっと残酷なこと。
でも、仕方ない。他に助かる方法なんてなくて、そしてその判断はたまきさんも一緒だ。裏口を出た先、すぐ目の前に広がっているのは、ここ池田荘裏手の小さな森。
「ごめん。ごめんね、神さまっ、ごめん――」
告げながらまさぐる、制服のポケット。取り出したポケットティッシュを、その白くて細い指に握らせる。その意味を理解したらしい彼女の瞳が、大きく見開かれるのがはっきりと見えた。僕の手をぎゅうと掴んだまま、ただ「それだけは絶対に無理」とばかりに震える指。それを無理矢理に引き剥がして、そして僕は彼女に背を向け走り去る。
――もう、見ていられない。
そして――見ちゃいけない。
店内に戻って、裏口のドアを閉める。そのまま背にして、へたり込んだ。そのあとは何も聞こえなかった。涙の落ちる音も、それ以外のなにかが流れ落ちる音も――堪えきれず漏れ出る呻き声だって、僕にはきっと、聞こえなかったのだ。
夕暮れの池田荘。その裏手、鬱蒼と茂る小さな森。
人知れず流れ落ちた少女の何かを、でも知るものはきっと、誰もいない。
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