メタモル・スラッグ
と、ここまでなら綺麗にまとまっていたのに。
すっかり忘れていた、というか、どちらかといえばあえて伏せていたのだけれど。まだひとつ肝心なところが片付いていなくて、そしてそれはおそらくのこと、ここ池田荘においてなによりも面倒かついろいろややこしくしかも扱いに困る存在。
――〝名前を言ってはいけないあの人〟。
というわけでは全然ないのだけれど、でも呼んでみようにもまず無理な話。あの人の本当の名前を僕たちはまだ知らない。一応、家主であるたまきさんならその限りではないはずなのだけれど、でも彼女もすでに忘れている、その可能性は充分すぎるくらいにあった。
それは常にあだ名で呼んでいるから、という、それ以上にたまきさんの言によれば、
「ちょろみさんは真名で呼ばれると死ぬそうです」
とのこと。意味がわからないのだけれどどうやら「本名がトラウマ級にやばい」ということらしくて、なんでも今現在、裁判所での改名を大真面目に検討しているところなのだとか。もっとも、それがなかなか進んでいないのも事実で、そしてその理由はいたって単純なこと。
時間が取れない。ちょろみさんは、どうやらものすごく忙しいらしかった。
事実、昨日は帰ってこなかった。一昨日からのことだから、これで二夜連続ってことになる。ただ素行不良だとか遊び歩いているだとかそういうことではなくて、でもそれならどうしてこんなに忙しいのか、最初に聞いたときは自分の耳を疑ったほどだ。
例えば、勤め先が
大学生。
それはすなわち、場合によっては三年後の僕。聞いてない、というか、思ってたのと違うというか、こんなの詐欺もいいところだと思う。
――
少なくともここ池田荘の近く、坂を下りてちょっと行ったところにある大学はそうで、だって駅で見かける彼ら彼女らはみな笑顔で、日々充実した様子で飲み会だのコンパだのの話題に興じてばかりで、ああ僕も三年後はこんな感じなのかな――と、そう思っていたところにしかしこの残酷すぎる現実。
笑顔はない。充実とは程遠く、飲み会やコンパなんて単語は無限遠の彼方。通う大学が異なる、というのもあるかしれない、でも最大の差異はきっと学部の違いだ。近所のそれには人文系を中心とした学部、学科がいくつかあるだけなのに対し、でも彼女が籍を置くのは、いわゆる総合大学の理系学部。
ここ池田荘から坂を下り、川を越えたあと再び別の山を登った、その奥地にある広大なキャンパス。日々そこに通い詰め、というか泊まり込みばっかでなかなか帰ってこない、最近では若干レアキャラみたいな扱いを受けつつあるその〝名前を言ってはいけないあの人〟。
二〇一号室の住人、ちょろみさん。
彼女が池田荘に帰ってきたのは、おそらく日曜日の明け方四時くらいのこと。
彼女のことに関しては、なんというか、こう、説明に困る。
きりがない。ちょろみさんには特徴が多すぎて、しかもそのひとつひとつが不必要に重くて、なにより微妙に触れづらいのだ。
だいたい「本名からしてもう禁忌」って時点であとは推して知るべしというか、平たく言うならもう地雷の塊が服着て歩いているようなもので、つまり何をしていてもだいたい対処に困る。ひどい。重い。扱いづらい。別にこっちは何もしてないのにだんだん申し訳ないことをしているような気分になってきて、それは今朝一番の挨拶からしてそう、
「あっ……あッ、きりっ、きりのくっ、ウッ――うえっ、ウエッヘヘヘヘヘ…………」
と、黒縁
あの綺麗なまとめから一夜明け、そして迎えた日曜の朝。
歯磨きをしながらぶらりと外に出てみたのは、別に理由らしい理由もないというか単に天気が良かったからだ。降り注ぐ春の日差しと、裏手の森から聞こえる野鳥のさえずり。実に爽やかで心地よくて、まるで誘われるみたいに表へと出たその瞬間。ちょうど階段から降りてきたなんかどす黒い気配、その正体と思い切り目があった。
「あ、おはようございますちょろみさん。帰ってたんですね」
という僕の挨拶はでも、どうも思いのほかうまくいかなかったというか、
「ぼぁ、ほがひょうほばふぃもぁぶふぉほびほぁん。ほぁへっべもぁんへうふぇ」
なんか歯ブラシのおかげでだいたいそんな感じになって、でもまあおおよそ通じるだろうと、その予断というか完全なゴリ押しがいけなかったのだと思う。
僕を見つめるちょろみさんの、その表情が困惑からじわじわ焦りへと変わって、いっそ僕なんか無視してしまえばいいだろうにでもそんな度胸もない、その気の小さな彼女の最終的に下した結論、
「…………………………うぇへへ、うぇ、ウェッヘッヘッヘ……」
とにかく、笑ってごまかすこと。まあしょうがないというか事実上半分は僕の責任って気がしなくもないのだけれど、でもその笑い方はいくらなんでも卑屈すぎるような気がする。
ちょうど階段を降りきった場所、ものすごい猫背で身を縮めながら、上目遣いにこちらを伺うその
「なんか水木しげるの漫画にこういうのいたな」
と、あとで思い出したのだけれど確か『バックベアード』だ。似てるというよりは総体としての印象がそれで、つまり全身から滲み出る謎の
「あっ、ぁぁァあぁのッきりっ、きりのッくんっ、それ、そここ、だめ、踏んで、アッうあっ」
僕には妖怪の言葉はわからなくて、でもバックベアードにしてはそこそこ頑張ってくれた方だと言える。思わず見下ろした自分の足元、なるほど確かに踏んでいた。
店の前、大きく広げられたレジャーシート。なんだろうこれ、とは思ったけれど、とりあえず土足で踏んでいいものではないだろうことだけはわかる。
「
たぶんこれくらいなら通じるだろうと、その期待もやっぱり「ウェヘヘ」と裏切られて、そしてそのままこそこそと、なんかこっちに近づいてくるその真っ黒いウェヘヘ。手にはどうやら工具箱と、あとおそらくいくつかの延長コードらしきものが見えて、あれっ本当に何が始まるんだろうと、その答えはでも静観しているうちに明らかになった。
「ふる、古い、古い製品だから。なんとか、うッ、応急処置くらいなら、あの、なんとかッ」
レジャーシートの真ん中、いま堂々と鎮座するのは例のアレしたレンジ。その真ん前、はんだごてを手にぎろぎろその内部を覗き込むちょろみさん。そしてなにより肝心なのは最後のひとりというか、さっきそのレンジを店内から持ち出してきた張本人、
「頼むぞ。もはやそなただけが頼りなのだ」
神さま。また性懲りもなく僕の前掛けをして、しかもその下はどうやらたまきさんの部屋着だ。当然まるきりサイズが合っていなくて、手も足もぐるぐる捲りまくっていてでも胴体はぶかぶか、なんだか大変面白い見た目になっているのだけれどまあそれはいい。
なんとなく腑に落ちない、というか、見ていてどうにも不思議な感じがするのは、
「しかし、すごいな。あのいかづちをものともせんとは。只者ではない。すごい」
「うぇ、ウェヘヘへへ……まっ任せてっ、とくッ、得意だからこういう、こういうのっ、ウヘヘ」
と、どうもちゃんと会話が通じているというか、なんか普通に仲良しっぽく見えるところだ。
僕の知る限り、たぶんこのふたりはいまこの時点でほとんど初対面のはずで、なのに外装を外された電子レンジの内部、ふたり覗き込むみたいに頭を並べて、
「よし! いいぞ、とてもよい! その調子だ!」
「うぇっ、ウっ、ウッヘヘヘヘェへ……!」
なんて、しきりにそんな言葉を掛け合う、その度にいちいち顔を見合わせるばかりか、なんかどんどんテンションが上がっていく。白と黒、レンジの前に並んだ対照的なふたつの頭の、その心の歯車が大した意味もなくがっちり噛み合ってるのがわかる。
ちなみに黒い方、ちょろみさんの格好はいつも通りで、この人は大体ツナギ姿か、でなければなんかどこかの工場の作業着みたいなものを着ている。工学部、しかも機械工学専攻だそうだからそれは構わないのだけれど、でも問題は前のジッパーが中途半端なところで止まっているところだ。ちゃんと着て欲しい、という僕の感想、そこに「いや無理だろうあれは」と言っていたのは創さんで、そんなの僕だって見ればわかるのだけれど、
「ウッ! こっ、ここッ……う、うんッ! ウヘェ、こう、こうして……こ、こっちもっ……!」
と、作業中の癖なのか、その独り言の度にぼよんぶよん揺れまくるのだから目のやり場に困る。僕にしてみれば保健室の先生以来の衝撃、というか見た感じどうもそれ以上で、なにしろツナギの下に着たTシャツの柄、横向きの柴犬の絵がもう完全にダックスフントというかいやもう正直に言おう、
「かっこいいですねそのナメクジのTシャツ」
と、以前この人との会話に詰まった際、普通にそう言ってしまった記憶がある。後悔は尽きないけれどでも反省はしない、だって僕だけじゃないっていうかそのとき創さんも、
「そうかナメクジか。なんだかわからなくて気になっていた」
なんて納得していたくらいで、そしてまあ当然の帰結というか、その場で僕ともどもたまきさんに
「いやいや違うから、普通にダックスフントだからねそれ」
と。あっすごい本当だ、よく気づいたねたまきさん――こうなるともう今更「ごめん柴犬」とは言い出せない空気で、少なくともこのちょろみさんの性格ではどうあがいても無理で、結局「あっ、ウヘッ」と作り笑いのまま同調圧力に負けた彼女は、でもそのせいで『同居人を騙しながら平気な顔して生活している女』になってその重圧に負けてそして翌日泣きながら土下座した。〝ごめんなさい柴犬です、これ本当は柴犬だったんです〟――夕飯どきの池田荘、嗚咽交じりの悲痛な絶叫が響いて、となるとこっちとしてももう「いや別にTシャツの柄くらいでなにもそこまで」とも言えない、そんな探り合いの空気漂う食卓を囲んだ、それがつい一週間くらい前の出来事だ。
閑話休題。とにかくこのちょろみさんというのはそういう人で、つまりは無闇矢鱈とプレッシャーに弱いあがり症の対人恐怖症で、でもそれ以上にまずいのはその聡明さだと思う。
人付き合いが苦手で話し下手、そんな自分を彼女はちゃんと理解していて、というか理解しすぎていて、そのおかげで自己評価がそれはもう鬼のように低い。本当に低い。もう人間のストップ安とかそんな次元ではなくて、なにしろいつ見ても全身から、
『関わらないでください。私はあなたの人生になんの利益ももたらさないゴミカスです』
という、実際にそう口にしているわけでもないのにでもありありと伝わる、そんな暗くて重苦しいヘドロ状のオーラをどろどろ発して、つまりは「もう死にます」に手足を生やしたみたいなこのネガティブ思考の塊をでも、いったいどんな魔法を使ったのだろう――。
「――ウヘッ! でッ、できた、ねえ出来ッたよぉほら見てっ……ウェッへへへへ……!」
ものすごい笑顔。こんなキラキラした瞳まで一気に持っていくのだからやっぱり神さまってすごい。
「動く、動くぞ! すごい、見てみろしんたろう! もはや永久に止まる気がしない!」
それはそれで困るような気もするのだけれど、でもそんなことは些細な問題だ。なんか「すごいぞ! やったな!」とか「アッ、うっ、うんッ!」とか、手と手と取り合ってふたりくるくる回って喜ぶ、その微笑ましい光景に感じる凄まじい違和感。なにこの笑顔。この人こんなばいんばいん振り回して飛び跳ねるようなキャラだったっけ――というのはともかく、その気持ちはなるほど僕にもわかる。
褒めてもらえる、能力を認めてもらえるのは嬉しいもので、それが自分の好きなことに関わるものならなおのこと。
好きこそもののなんとやら。実のところ、僕はこのちょろみさんとまともに会話が成り立った記憶がないのだけれど、でも話が通じないからこそ却ってわかることもある。〝どうやらこの人、本当に機械いじりが好きらしい〟――基本いつでもドス黒いこの人の瞳が、でもほんの少しだけ人間らしい輝きを取り戻すのは、決まって機械や電子工作の話をしているときだ。あるいはただ知っている話題というだけで嬉しいのか、急に饒舌というかもう聞き取れないレベルの凄まじい早口になって、しかし聡明な彼女はその次の瞬間、
「あっやっちゃった」
ということを勝手に自覚してばりばりヘコんでしかも面倒なことにそのまま直らなくなって、だからこのいま現在のこの状況、これは本当に珍しい。
ちょろみさん、こんないい笑顔(当人比)できたんだ――というか、
「すごい。僕ちょろみさんがこんなに胸ばるんばるん振り回すの初めて見たっていうか、いつもはちょっと挨拶しただけでも三十秒と保たず顔中脂汗ダラダラになって終わるのに」
感動からつい出てしまったひとこと。さすがに歯磨きはもう終わっていて、そのおかげでちょろみさんは顔中脂汗ダラダラにして「アッごめっ……うッ、ぁぁぁ……」ってなってそのまま動かなくなって、正直失敗だったとは思うし心底反省もしているのだけれど、でもそれよりも意外だったのは神さまの反応。
「しんたろう。ひとはすごいな。やさしいだけでなく、なんでもできる」
わたしにはとてもできない――そう呟く神さまの顔は、本当に感心しているように僕には見えた。水を差すことなんてできなくて、だからこれはちょろみさんが特別なだけなんだと、彼女が優秀すぎるのがいけないのだと、そんな話は後回しにすることに決める。
一応断っておくなら通常、家電製品の修理は自力で行うものじゃない。当然工学部の講義にもそんな内容はなくて、だから絶対に真似してはいけない。迂闊に「これくらい直せるよね理系だし」みたいな、そういう雑なことを言うと殺される。ましてや
「なるほど。世の中は変わっているのだな。ダムというのも昔はなかった」
わたしにはとてもできない――再びそう独りごちる神さまの、何か真剣に考え込むかのようなその横顔。それは古い時代を懐かしむといった風ではなく、むしろ新しいものに対する憧れのような、そんな前向きな感情を僕は「ダム見たい」という発言から感じた。ちなみにちょろみさんのオススメは黒部ダムとのことで、あれっこの人がこんな積極的に会話に混ざろうとするの珍しいなと、そんなことを言ってまた「ウッごめっあぁぁごめん」とか言わせてる場合じゃなかった。
僕はまだ、神さまという存在について詳しくない。むしろ何ひとつ知らないと言っていい。一体何を考えているのか、そも何を言っているのかさえほとんど不明で、だから僕は彼女のその希望を、本当に手伝うべきだったのか――。
わからない。いまなお答えは出ないものの、でもこればっかりはしようがない。
ひとつ、思い出したことがある。「やり返す」。それを誰よりも望んでいたのは、きっと彼女以上に僕の方だ。僕は、彼女に返さなくてはならない。昔、僕は神さまから大事なものをもらって、でもそれを返した記憶はない。だから、これは当然のこと。彼女が何かを望むのであれば、僕はやっぱりその手助けをしたいと思う。
内容が完全に僕の手に余る、だとか、そういうのはきっと言い訳にもならない。
――だってそれは、他ならぬ神さまの言うことなんだから。
「決めたぞ、しんたろう。わたしは黒部ダムになる」
九年前、何も知らない子供の頃、初めて出会ったその不思議な少女。
僕の白くて綺麗な拾い物は、こうして近々ダムになることが決まった。
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