おそろしい、でもそれ以上に哀しいこと
「――で、どうします? 創さん、車出してくれるそうですけど」
もし買い換えるなら早い方が、というのは確かにあって、でも別に焦るほどのことでもない。
オーブントースターは無事で、もちろんコンロだって生きている。要はなんとでもなるってわけで、そうなると逆に決断しづらいのが困りものだ。
いろいろ検討した結果、結局のところ、
「うーん、とりあえずちょろみちゃんに相談してみる」
と、妥当なあたりに落ち着いた。なるほどすっかり忘れていたというか、確かに神さまでは手も足も出なかったけれど、でも急いで買い直さなくてもあの人がいた。問題はいつ帰ってくるのか誰も聞いていないところで、結局「メールしてみる」ということになった。
と、いうわけで、そう気に病む必要もないというか、
「すまぬ……すまぬ……」
とまたお座敷でぐったりする、このちょっと調子乗って舞い上がっちゃった人の相手の方がよっぽど手間で困る。
土曜日のお昼過ぎ、というかあのあとというかそれからというか。
結局のところ、思っていたほどの面倒は起こらなかった。というか、普通だった。バタバタしたのは本当に朝だけのこと、あれだけ適当な扱いを受けた創さんだって、自室に戻るその直前、
「二〇三号室が空いてるが、そこに住むんだろう。だからここにいるのかと思ったんだが」
なんて、どうも神さまがそのまま住み着くのを前提として考えてたみたいで、これにはさすがに驚いたというか、
「えっ、いいんですかそれ」
と、そんな言葉が思わず漏れ出る、それくらいには拍子抜けしてしまったほどだ。しかも間をおかず「何が駄目なんだ」とか返ってくる始末、実にあっさりしたものというかどうにも適当すぎるというか――いや、考えなしに拾ってきた僕の言えたことではないのだけれど、でも。
――絶対、揉める。
と、僕自身はそう覚悟していたのに。
気にしすぎ、なんて、そんなのは後になったから言えること。僕だって根拠なく勝手に身構えていたわけじゃなくて、つまり揉めるというのは経験則だ。
忘れもしない。それは僕が初めて神さまを拾って、そしてそのまま持ち帰ったその晩のこと。
こっぴどく叱られた――というか、なんか頭ごなしに怒られた。
「元のところに返してきなさい」
それが母さん、いや父さん(当時)の言い分で、でもそれに従うに足る合理的な理由はなかった。
だって、これは僕の拾ったものだ。父さんのものじゃない。僕の大事なコレクションのひとつで、部屋に飾って遊ぶんだ、と答えた。その頃、僕と父さんが住んでいたのは父さんの実家で、そこには祖父母も生活していたのだけれど、
「こりゃあ、向こうの山の方の神さまだねえ。マコ坊、こりゃうちじゃちょっと無理だて」
というのがおじいちゃんの弁、そしておばあちゃんもだいたい同意見のようだった。つまりは孤立無援の状況、でも僕にとってそれより悲しかったのは、大人たちが思っていたほど役に立たなかったという事実だ。
――なんだろう、この人たちこんな使えなかったっけ。
という、いま思えばひどい言い草だけれどでも仕方ない。なんせ子供のやることで、そしてその子供は完全に舞い上がっていた。当たり前だ、だってこんなレアものなかなかない。絶対みんな褒めてくれるはずだと、むしろ僕の拾い物の才能を称えて今夜は寿司パーティーとかになるはずだと、その期待を完全に裏切られて、だから大人は嘘つきで汚くてもうどうしようもないと思った。
特にひどいのは父さんだ。確かにこの神さま、父さんからすればあまり気に入らないところも多いかもしれない。それでも僕には自信があって、それはすなわち、
「きっとギリギリセーフっていうか、こんなに平たいんだから実質ビッチ失格」
という、いやいま思えば完全に僕が間違っていたのだけれど、とにかくその一言が決定打となった。
「――恥を知りなさい、慎! 父さんはお前をそんな贅沢な人間に育てた覚えはありません!」
充分たわわでしょうが、と目を吊り上げる、それは初めて見る表情だった。僕はここまで逆上する父さんを見たことがなくて、そして――恥ずかしいけれど事実なのだから仕方がない、僕はその瞬間、火が点いたみたいに大泣きした。「平たいもん! 全然ないもん!」と隣三件に響き渡るような大声を出して、その隣では神さまが真剣な顔で、
「すまない、平たくて本当に申し訳ない! 許せ小童、この通りだ!」
と、僕を泣き止ませようと必死で謝って、もうさすがにどうしようもない気配を感じたのか――年の功、というのはきっと、こういうことをいうのだと思う。
おじいちゃんの、咄嗟の取り成し。もしそれがなかったら、きっと滅茶苦茶になっていたはずだ。
「そうだのう、確かにそこそこあるっちゃあるが、もっとボインな乳だったらエッチでよかったのう」
双方の意見を汲んだ完璧な仲裁。それは当然の帰結として「あっこのジジイが一番のクズだ」みたいな効果をもたらして、そしてそのおかげでみんながひとつになった。元々「飼うのはダメだけどお客さんとしてならOK」という話だったみたいで、だからちょうどお夕飯の支度を終えたおばあちゃんの、
「さあさ、夕餉にしようかね。神さまも食べて行きなされや、そこのおっぱい星人は
というひとこと、そしてその後みんなで囲んだ暖かい食卓。そこから少し外れたお茶の間の隅っこ、あの小さく惨めな背中を僕は忘れない。「
とまれ、初めて神さまを持ち帰った晩。僕の家はもう揉めに揉めて、もう家庭崩壊の一歩寸前まで行ったというかその日以降いわゆる「家長の威厳」的な何かが確実に失われて、だから僕の判断は当然だ。
揉める。平穏無事に済むなんてことがあろうはずもない。事実、昨日寄った交番でも勝手にけんかし始めたくらいで、だから僕は知っている。
――大人って、実は思ったほど『大人』じゃない。
少なくとも子供同士の間では、神さまで揉めた覚えなんてないのに。
懐かしい思い出。ついあのときの気持ちを思い出して、胸の奥がずしんと重くなる。もちろん今ではちゃんと理解している、あれは完全に僕のわがままでしかなかった。ただそれでも、というかわがままかどうかなんてどうだってよくて、だって僕にとってつらかったのはそこじゃない。
――喜んでもらえると思ってやったことが、でも誰にも理解してもらえなかった。
ましてや自分の家でのこと。その孤独感、なんだか居場所を失ったみたいな寂しい気持ちは、きっとこの先ずっと忘れられないと思う。ただ、別に忘れようとも思わない、だって現実なんてそんなもの――と、悪く言うならたぶんそうなる。良く言うのであれば、それは僕にとっての拾い物のひとつ。そういう経験がある分だけ、僕はこうして気をつけることができる。
他の人には決して、あのときの僕と同じ思いをさせないように。
「――だから、大丈夫。ここの人たちはみんな話がわかるっていうか、良かれと思ってやってくれたんだよね」
ありがとう、微笑みかけるその先、カウンターの奥というかレンジの前。真っ青な顔で固まる神さまは、口を半開きにしたままなんか縋るみたいに僕の方を見つめて――というか自動的に目があって、それは僕が突然の物音に振り向いたせいだ。
文字で表すなら、「ぱきん」――いや、「ボッギン」というのが正確か。
亀裂音。振り向いた先、レンジの前で硬直する神さまの手に、なんか見るからに電子部品感に溢れたパーツ的ななにか。
――〝もげた〟。
と、言葉よりも明確に、その「やっちゃった」感丸出しの表情が語っていた。というか、あんな目に遭ってまだ諦めてなかったのか。
「いや、いけると思ったのだ。最初こそあの卑怯ないかづちの前に手も足も出なんだが、しかしその甲斐あってどうにか手応えだけは感じた」
と、せめて最初からそう言い訳してくれればまだ同情の余地もあったものを、でもこの神さまその直前に、
「ちがう。誤解だしんたろう、わたしはなにもしていない。これはこう、このレンジが勝手に」
と、あまつさえ、
「……ときにしんたろう、ひとつ相談があるというか。これを持ってここにしゃがんでいるときみはとても男前に見える気がする」
なんて、どう見ても僕に罪をなすりつける満々で、でもその証拠隠滅は結局間に合わなかったというか、たまたま席を外していたたまきさんが戻ってくるなりのこの「いけると思った」だ。残念だ。僕の精一杯のフォローを返せ、というのが率直な気持ちで、でもこのとき僕はひとつだけ、とても大事なことをすっかり失念していた。
信じがたいことだけれど、でも事実だ。
正直舐めていたというか忘れていたというか、よくよく考えたら当たり前のことなのだけれど――。
そうだった。
そういえば彼女、この白い少女は『神さま』なのだ。
そしてその神さまが堂々言い切った、「手応えだけは感じた」というその言葉。まったく意味がわからないし、いつもこんな調子ではあるのだけれど、でも――。
唯一。ただひとつ、その言葉だけは。
嘘じゃ、なかった。
「んッ…………………………!」
――耐えた。
耐え切った。最初は無様に悲鳴を上げさせられた、あの電流を見事こらえてみせて、そして「どうだ」と振り返るその神さまの、その息も絶え絶えな笑顔に僕は思う。「違う、そうじゃない」――完全にルールが変わっているというか、なんか目的と手段が入れ替わっているというか、いやそもそも感電は手段ですらなかったはずで、でもこのなんか感動の
言えない。だって僕は決めたはずだ。六歳の頃、大人たちは何の役にも立たないと知ったあの晩――。
せめて僕だけは、何があっても神さまの側に立つんだ、と。
「すごい。さすが神さま、その命がけの行動、僕は敬意を表する」
と、かなり大げさに褒めちぎって、そしてそのまま僕は目の前のテーブル、広げられた教科書とノートに向き直る。進まない。さっきから全然捗らない。いつの間にやら日も暮れかけていて、このままだとあと少しでお夕飯の時間で、なのにノートのページがまるきり進んでくれないのは、まず間違いなくこの神さまのおかげだ。
――どうにも昔のことを振り返ってばかりで、なかなか目の前のことに集中できない。
もっとも、まあ別に構わないといえば構わない、というかそう悪いことでもないとは思うのだけれど。ただ一応僕には僕の生活があって、具体的には宿題を終わらせないとまずい。
勉強は、まあさほど苦手でもなければ嫌いでもない。
と思う。さすがに中学の頃ほど簡単ではないものの、でも一応理解はできているつもりで、ただ相変わらず苦手なのがこの宿題ってやつだ。一度家に帰ってしまうともう身が入らないというか、特に休みの日なんかはもう絶対に無理で、そも休日というからにはそれは安息の日でなくてはいけないはずだ。世の中は間違っていると思う。
「よかろう。まかせろ」
なんせ神さまだからな、わたしは――と、その嫌な宿題、全部ゴミ箱に投げ捨ててしまったのがこの神さまで、それは確か小学二年、二度目に拾ったあの夏のこと。思ってもみない解決法、それは幼い僕にとってまるで魔法のようで、ほどなくして問題集やら日記帳やらが焼却炉の煙となって天へと昇った、その結果はまあ言うまでもない。
少なくともその翌年、『僕の宿題には二度と関わらないこと』と、そうはっきり約束させたのは間違いないのだけれどでも、
「よかろう。まかせろ」
なんせ神さまだからな、わたしは――といま店内の隅っこ、なんかどかどかゴミ箱に投げ捨てられる僕の宿題。あれっこの子もう約束忘れてる、というか、よくよく思い返せばなんか毎年忘れていたような記憶もあって、まして「どうだ」とばかりに僕の顔を伺う、その期待に満ちた表情を見てはもう何も言えない。つまり僕は悪くない。嫌な宿題が悪い。こんなものは捨てられて当然だと思う。
「ありがとう神さま、本当に助かった」
ふふん、と誇らしげに胸を張る、その神さまがなんか輝いて見える。視野狭窄というのか、宿題のことを頭から綺麗さっぱり消し去ったあとの、その視界の実に晴れやかなこと。この世界のすべてが輝いて見えて、そのあとの夕ご飯も美味しくて、そしてそのツケは結局週明けに回ってくることになるのだけれど、でもそれはまだもう少しばかり先のこと。
ともかく、それは僕が高校に進んで間もない時期、四月最後の週末の出来事。
子供の頃、あの懐かしい思い出の中の、白くて綺麗な拾いもの。
神さま。
彼女はこうしていま再び、僕のところへと戻ってきた。
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