バブみ 〜あの一夜が彼女をママにした〜
あれはいつのことだったろう、神社の軒先で猫の親子を見つけた。
色や柄なんかはもう忘れた。ただ、ひどく警戒されたことだけを憶えている。子猫を産み落としたばかりの母猫で、その背後からは子猫の鳴き声が聞こえた。
警戒するのが当たり前の状況、でも幼い僕には衝撃だった。猫にも表情があるんだと、こんな恐ろしい形相ができるものなんだ、と――それから一週間だか二週間だったか、しばらく夢に見てうなされたくらいだ。
例えるならきっと、鬼の顔。
我が子を、大切なものを守るとき、女は普段のそれとはまるで違った顔になる。
ずっと「母親」というものを知らずに育ってきた僕にとって、それが人生で最初に経験した「母親の顔」だ。
そんなことを唐突に思い出したのは、でも別に寝ぼけていたからじゃない。
「すごい。もう完全に鬼の
記憶の中のそれと、瓜ふたつ。昨夜、つい数時間前までは完全に女の顔をしていたはずのそれが、でもいまや何をどうしたのかこの有様だ。
それは神さまをたまきさんに預けたその翌朝、一階の店舗に顔を出した瞬間のこと。
「貴様にはその黒い汁がお似合いだ。他にくれてやれるものは何もない」
お店の中央、一番大きなテーブルのすぐ近く。鬼気迫る表情で仁王立ちになるそれは、まあ案の定というかもう神さま以外にいないのだけれど、ただ気になるのは彼女の手にしたお盆と、あと彼女の恰好というか、
「それ僕の、っていうか、僕がたまきさんのお手伝いするときの前掛けなんだけど」
という、そこもまあこの際どうだってよかった。問題は彼女が何をしているのかだ。
いや、それもなんとなくわかる、というか恰好から察するにひとつしかない。きっとお店の手伝い的な何かで、さらに言い換えるならお給仕で、なるほど中央のテーブルには人影が見えた。一応お客さんといえばお客さんで、そしていま店内にたまきさんの姿はない。たぶん買い物か何かか、神さまに留守番をお願いして出かけてしまったみたいで、それらの状況証拠から推察するにこれは、
「いまやレンジがアレしてしまったこの鬼殿の縄張り、
という、その覚悟と決意の滲み出た結果がこの鬼の貌だ。真面目というか意外と義理堅いというか、おそらく接客の経験なんてないだろうこの神さまが、でもないなりにどうにかしようと頑張っているのはまあ理解できた。
清々しい休日の朝。外から小鳥のさえずりの聞こえてくる中、なにやら異様な殺気と緊迫感に包まれた店内。「とくと味わえ」と差し出されたコーヒー、そこに恐る恐る手を伸ばすのは――。
「……あの、すまん。俺なんかしたっけか、っていうか、なんか急に印象変わったな」
前はもっと優しかったよな君、と――さらには「ていうか校則とか大丈夫なのかその頭」と、なんかどうも肝心なところを勘違いしているらしいその『お客さん』。やたら目つきと人相の悪いこの男性は、僕のふたつ隣の部屋である二〇二号室の住人。
何度聞いても適当にはぐらかされるばかりで、まあ特段興味もないからいいのだけれど。ただ目下の問題はこの彼に、神さまについてなにも説明していなかったところと、あと、
「……美味いな。やはり君が運んでくれたコーヒーは格別だ。だからすまん、機嫌直せ」
「そうか。満足したのであれば立ち去るが良い。ここにはその黒い汁を除いて何もない」
と、説明する暇もなくなんか勝手に話が進んでしまっているところだ。いまいち割り込むタイミングが掴めないというか、どうにも緊迫感に押されて近づけない有様(だって本当に怖い)、仕方がないので先に顔だけ洗ってくることにした。ちなみに言うまでもないのだけれどこの建物、お風呂場とお手洗いと洗面所は共用だ。あと台所も。要は全部だ。
「いやーさっぱりした。気持ちのいい朝だ、おはようふたりとも」
洗顔後、出来うる限り頑張ったその白々しい挨拶。これがいまの僕に可能な精一杯で、でも案の定誰も聞いてないのだから困る。
「確かに昨晩は帰りが遅かったし、それにだいぶ酔っていたのも認める。だが、記憶を失うほどじゃないというか、俺は君に何かしたような覚えは――あ、もしかしてあれか。誕生日とか」
違います。ていうかそれ僕じゃないです、と――いやそれ以前に帰りが遅くても酔ってても、まして誕生日なんか知らなくったって僕そんな怒りませんけど、と、なんでそのあたりをわかってくれないのだろう。この創さんという人はいつもこうで、いや決して悪い人間でないのはわかるのだけれど、でもどこか微妙にずれているというか、いろいろ勿体ない感じがする。
「……やはり、美味いな。もう一杯貰えるか。それくらいはいいだろう」
その低く落ち着いた声といい、また神さまの「これで最後だ。警告はしたぞ」という返事に、ただ「ああ、わかってるさ」と目を伏せるその
例えるなら、飢えた一匹狼のような相貌。背はたまきさんほどではないにせよそれなりに高く、でも立派な体つきの割には暑苦しくないというか、どちらかといえばしなやかな冷徹さのようなものを感じさせる。よく見れば顎のあたり、うっすら古傷のようなものが見えて、それがときおり唇の間から覗く犬歯の鋭さと相まってか、どこか仄暗く危険な匂いの漂う印象があった。
すなわち、〝何はなくとも、顔はいい〟――それがこの創さんのただひとつの美点で、でもそれを言動ひとつで丸ごと台無しにしてしまえるのだから、これはこれでなかなか稀有な才能なんじゃないかと思う。
「――すまなかったな、
いやあるいはこのふたりはまさか知り合いなのかと、そう思いかけたところにやっぱり「慎」と来て、もう放っておこうかと思ったのだけれどでも仕方がない。
「おはようございます創さん。デートですか。よかったですね、楽しそうで。お元気で」
あと無意味に状況を面倒臭くするのやめてください、と大声で。頑張った甲斐あってかようやく気づいてもらえたみたいで、中央のテーブル、
「……慎?」
「しんたろう……!」
と目を見張るめんどくさい人ふたり。とりあえず前者にはもう「おはよう」を言ったわけだから、そっちはもう放っておいて後の方だ。
「おはよう、神さま。昨日はよく眠れた?」
適当に尋ねてはみたものの、でもよく考えたらそんなの聞くまでもなかった。
「一睡もできなんだ……」
でしょうね、と思わず苦笑が漏れる。見れば神さまの綺麗な顔、目の下の隈だけがくっきりと生々しく、だから僕はそのままカウンターの内側、コーヒーマシンの前まで向かう。
「たまきさん、多めに淹れておいてくれたみたいだし。神さまも一杯どう?」
多少は目が覚めると思うけど――と、コーヒーを神さまに差し出すまでの間。なんかぐちぐちぶつぶつうるさいというか、ひとり必死に頑張っているのは、
「――まあ、そんなところだろうな。さすがにイメチェンにしては少々大胆すぎるというか、別人だ。どう見てもな」
創さん。この言い訳がましいところさえなければ、そう悪い人でもないと思うのだけれど。
この人については、よく知らない。実際知り合ったのは入居の際、すなわちだいたい一ヶ月くらい前からの仲で、でもあまりそんな感じがしないのはきっと、単純に彼が馴れ馴れしいせいだ。本人曰く、「俺はコミュ障ってやつらしい」と――つまりは人付き合いが苦手ってことらしいのだけれど、でも彼のそれは僕からすれば、初めて見るタイプのものだった。
「どうにも、距離の取り方がわからない。畏まった関係ってのが苦手でな」
だからもし気を悪くしないのであれば、名前を呼び捨てにして構わないか――事前にそう断ってくれたから、僕としては特に気にならなかった。代わりに「俺のことも呼び捨てでいい」と言ってくれたのだけれど、それは却って恐縮というか無理だ。それに歳の差もあるし、ってことで、結局「相坂さん」から「創さん」に変えるってことで落ち着いた。
どうやら彼は僕の入居をずいぶん歓迎してくれているみたいで、そして実のところ、そう悪い気はしない、というのが率直な感想。
僕は昔から引っ越しが多くて、でもひとり暮らしはこれが初めてのこと。いくら引っ越しハイの真っ只中といっても一応それなりの不安はあって、でもそんなときに暖かく迎え入れてくれた初対面の大人。思いのほか嬉しくて、というかその瞬間は彼のことが心底イケメンに思えて、いや事実として決して容姿は悪くないのだけれど、でも、
「ところで慎。結局、なんなんだあれは。どうして俺のことをずっと睨んでいる」
という、その疑問それ自体はまったく正しいのにでもあからさまに腰の引けちゃっているところが、なんとも惜しいというか残念というかもうこの人メッキ剥げるの早すぎだと思う。
「知りません。ただの神さまです。別に創さんに恨みがあるわけじゃないっていうか、たぶん愛する人の大事なものを守るのに必死なんだと思います」
「どういうことだ……なあ慎、一応言っておくが、俺は何もしてないからな」
信じろ、となんか思いのほか真面目な顔で――決して「信じてくれ」ではなく完全な命令形で言い切って、そういうところは嫌いじゃないのだけれどでもこの人のことは別にどうだっていい。
「まあ寝不足なんだと思います。ほら神さま、お手伝い代わるからその前掛け返して」
その僕の言葉に、でも神さまは「いやだ」と真っ向から拒否して――というか正直眠気のせいでむずかっているようにしか見えないのだけれど、でもよくよく考えてもみればそれもそのはずだ。昨夜の夢のようなひととき(予想)を除いたとて、神さまからしてみれば一宿一飯の恩義。
そういえば、と僕は思い出す。確か、昨日もなんかそんなことを言っていたっけ。
――〝やさしくされたらやさしくしかえさなくてはならない〟、と。
「いくらしんたろうの頼みであってもこれだけは譲れん。ここはわたしが引き受けたのだ。鬼殿との約束を違えるわけにはいかない」
彼女は目覚めた。革命を起こし、この地上に理想の楽園を顕現する。その最初の障壁が目の前の男性、二〇二号室の住人であるところの創さんだ。睨みつける真紅の
恩返し。情けは人の為ならず。人の善意は人の間を渡ってゆくもの、あるいはただの理想論かもしれないけれど。でもそれを彼女が、この神さまが信じているのであれば――。
僕だって、そっちの方がいい。だって神さまの言うことだ。
「だからまあ、仕方がないですよね。多少の犠牲は」
そうなった。おい
「三分だけ待ちます。いいですか創さん、あなたも男子なんですから聞き分けてください」
あるいは、たまきさんがもう少し早く戻っていたなら、ここまでする必要はなかったと思うのだけれど。
最後の三分、創さんはきっちり支払いを済ませて、そしてそのまま屋外へと追い出される。終始「俺が何をした」だの「コーヒー代は月初めにまとめて支払ってある」だの実にケチくさいというかもう器の小さいこと極まりなくて、そしてその背中を見送る神さまの、でもちょっと自信なさげなそのつぶやき。
「――しんたろう。わたしは、ちゃんと守れたのだよな。鬼殿は喜んでくれるだろうか」
考えるまでもない。「もちろん。完璧な接客だったよ」――。
きっとまた得意げにするのかと思えば全然そんなことはなくて、だって彼女はもう限界だった。心底ほっとしたような調子でただ「よかった……」とひとこと、そのままぺたんと床にへたり込む様子は、まさしく「緊張の糸が切れる」という言葉そのまんまだ。そしてその先に関してはまあ、もはや言うまでもないというか――。
せめてこう、なんかいい夢でも見てたらいいのだけれど。
床の上、すやすやと寝息を立てるそれを奥のお座敷まで運んで、そして僕はふと考える。
とりあえず。
これでひとつ、神さまはきっと自分の望みを果たした。
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