せっかくだから赤いのを
思えばそれは珍しいことで、でも僕がその事実に気づくのはもう少し後のこと。
神さまは頑固で頭が固くて、一度言い出すとてこでも動かないところがある。おかげで昔はよくけんかみたいなことになって、だから僕にはわからなかった。
そのときうっすら感じていた違和感の正体、僕が「昔と何ひとつ変わってない」と信じていた神さまの、でも以前とは異なる唯一の点。
神さまが、この世界に強く望むもの。
思えば、彼女は言わなかった。ああしたいだとかこうしたいだとか、そういう自分の望みみたいなものは一切なくて、いやまったくないわけでもなかったのだけれど、でもそういうのは大抵こちらから水を向けた結果だ。例えばコーヒーをただ勧めても遠慮するのだけれど、でも「水道水とミネラルウォーターどっちがいい?」と聞くと、彼女はちゃんと自分の意思で「あの黒い汁をたのむ」といきなり贅沢を言い出す。
ちゃんと選択肢から選びなさい、というのはともかく。
きっと、いろいろあったのだろう。神さまはどうやらほんの少しだけ、自分のわがままを言えるようになった。少なくともこの「やり返す」という点に関してはそうで、その手伝いができたのはまあ嬉しいことだ。
ただ、その結果――と言っていいのか、おかげで自分の能力を過信してしまったらしい神さまはこのしばらく後、
「オアアアアアアアアーーーーーーーッ!」
と、白目を剥いてビリビリ感電することになるのだけれど、でもそれはまた別のお話というかすぐ調子こいて舞い上がるこの
座敷の上、すやすやと眠りこける神さま。これはもうそういうものなので放っておくとして、いま面倒なのはその犠牲になった方――わけのわからないまま金を毟られ、そのまま外に放り出されたあのイケメンに関してだ。
「たぶんですけど、コーヒー以外の注文が来る前になんとかしようと必死だったみたいです」
レンジがアレしているので――という以前に、まずあの神さまに何かが作れるとは到底思えないのだけれど。ともかくお店の外、隅っこのゴミ置き場のあたりで所在なさげにしていたその小さな背中。そこに「もう寝たみたいなんで戻っていいですよ」と声をかける、そのついでに事のあらましを説明する。
――あれは神さまで、僕が子供のころ田舎で拾ったもので、あと昨日また拾ったのでとりあえず持ち帰りました。
という僕の完璧な説明に、でも創さんの反応はちょっと意外というか、
「……久々に見たな。近頃はこんな人のいるあたりにも降りてくるのか」
なんて、興味深げにその寝顔を眺めてみたりする。しかも「これ山の方とかにいるやつだろう」となんだか詳しい様子で、でも聞いてもみればなるほど納得というか、
「なに、つまらん話だ。単に生まれ故郷が山奥の限界集落ってだけで、子供の頃はこういうのを山ほど見かけた」
もっとも、今じゃ何もかもがダムの底だがな――という、彼自身の個人的かつありがちな感じの思い出話は正直どうだっていい。というか話を盛っている気がする、ここ数十年の間にそんな大規模なダムの建設なんてなかったと思うのだけれど。まあいずれにせよこの人のことは別になんだってよくて、僕が知りたいのは〝神さま〟という存在、それそのものに関してだ。
勢い拾ってしまったはいいものの、でもよく考えたら僕はこれがなんなのか知らない。
それは冷静に考えて、なんかものすごいことなんじゃないだろうか。少なくともあまり褒められた行為でないことは確かで、まったく子供というのは恐ろしいことをするものだと思う。そも本当に勝手に持って帰って問題のないものだったのか、その時点で既に判然としない。
「まあ大丈夫だろう。見たところそうタチの悪い奴ではなさそうだし、おかしな悪戯でもしない限りまず害はない」
創さんはそう太鼓判を押すのだけれど、でも僕としてはいまいち釈然としない。だって、神だ。神さまだ。そんな雑に扱っちゃっていいのっていうか、だいたいこの創さんからしていまいち信用ならない。所詮は「ダムの底」とか話盛っちゃうタイプの人間、どうしても「この人なんか適当言ってそう」という印象は拭えなくて、でも、
「ダムの底は黙っててください」
とも言えない。だって少し怒ったような、でもあからさまに寂しげな顔で「お前にダムの何がわかる」とか言い訳し始めるからで、そしてこの人はこうなると面倒臭い。普通に不機嫌になるとかならまだしももう拗ねているのが丸わかりで、本当いろいろ台無しというか勿体ないにもほどがある。
「なんだろう。黙ってさえいれば普通にイケメンなのに」
という、その一言でいきなり「えっ俺ってそうなの」って顔して、そして言われた通り素直に黙り込むあたりも正直どうかと思う。だめだ、こいつ
「――あ、やっと帰ってきたみたいですね」
店の外、遠くから徐々に近づいてくる不吉な物音。生まれたての雛鳥をゆっくり絞め殺すみたいなその甲高い不協和音は、たまきさんの乗る自転車の立てる音だ。何が鳴っているのかは知らない。どこからどう音がしているのかさえ不明だ。少なくとも油が切れたときのそれではなくて、だってそれなら創さんが勝手に差している。「不快すぎる。なぜ直らないんだ」と泣きながらあれこれメンテナンスしているのをたびたび見かけて、でもその程度じゃきっと焼け石に水だ。
まあ仕方がない。だって普通のママチャリには荷が重い。あの地獄のような勾配に加えて、上に乗っているのは身の丈八尺を越す鬼だ。
「ただいまー。おまたせ
むねん、と肩を落としてうなだれる、その小さな背中がそれでもまだ山のようにでかい。手に下げたコンビニの袋がまるで巾着袋か何かのようで、そして中身はどうやらサンドイッチとおにぎりのようだ。
「あれ、そんなのでいいなら言ってくれれば作りましたよ。あとおかえりなさい」
「いやいや慎っちゃん、さすがにそれは悪いっていうか、寝てるとこ叩き起こすのはね。あとただいま」
いやあなたが出て行くときのあの不吉な
さっきコーヒーメーカーの前に立ったとき、視界の端の調理台にちらりと見えた、なんだかよくわからない正体不明の塊。なんなのかは知らない。想像もつかない。見た目、色、形状の全てが完全に未知の領域で、どの食材をどういう風に扱ったらこういうものが出来上がるのか、やはり人間には無限の可能性が秘められていると実感するのだけれどでも、
「たまきさん、確か調理師免許持ってたはずですよね」
という僕の質問、そこに返ってきたのは「まあね」という回答、加えて「あと食品衛生責任者資格とついでに管理栄養士も」という返事もあって、いったいこの国の資格制度はどうなっているのか、一瞬絶望的な思いに駆られかけたのだけれどでも結果から言うならそれは早計だった。
なんでも見た目だけで判断するのは良くないというか、いつの間に移動したのか調理台の前、
「――おい。慎、これ普通に食える、っていうかいけるぞ」
と、創さん。なんか得体の知れない物体を美味しそうにもぐもぐ、どう見ても異様な光景には違いなかったのだけれど、でも事実として美味しかったのだから仕方がない。
「ほんとだ。なにこれ美味しい。でもなんでしょうねこれ」
「ああ。朝飯として食うには少し勿体ないくらいだが、しかしなんなんだこれは」
気づけば結構な勢いでがっついていた僕らふたりに、たまきさんは「いやあお恥ずかしい」とぽりぽり頭を掻いて、でも彼女に言わせるとそれは失敗作というか、
「レンジもないし、あと有り合わせの食材だけで適当やってしまったので。正直ひどい出来栄えといいますか、神さまに出すものとしてはちょっとないなあこれ、と」
でも男の子がいるとなんでももりもり食べてくれるから助かる、とのこと。いやいくら男の子だって普通こんなのもりもり食べないっていうか、僕自身いまもってなお何をもりもり食わされているやらとんと見当もつかないのだけれど、でも自分からもりもり食べている以上は文句も言えない。すごい。美味しい。なんなんだろうこれ。
「慎が来る前は俺がもりもり食っていたが、俺は男の中ではまだ食の細い方だからな」
やはり若い奴は違う、という創さんの言葉に、「まあ創ちゃんは主食がコーヒーみたいなとこあるし」とたまきさん。実はこの池田荘、僕が入居する以前はほぼ完全な女所帯だったらしくて、具体的には僕とちょうど入れ替わるような形で、女性の入居者がふたり出て行ったのだとか。
「しかも俺が最年長だ。さすがに肩身が狭いというか、ちょっと居づらい場面も多かった」
僕にはそんな経験はないのだけれど、でもなんとなくわかるような気がした。想像してみたらもう完全に不審者というか、だって傍目にはなんか得体の知れないものをもりもり食べてる目つきの悪い男だ。いつ通報されてもおかしくない絵面、きっとそれもあってのことなのだろう。
創さんが僕を歓迎してくれているのは、どうやら僕に気を使ってのことではなかったらしい。
たまきさんによれば「だって創ちゃん、慎っちゃん来るまで全然喋らない人だったよ」とのこと、ちょっと照れくさくもあるけどまあ悪い気はしない。なにより当の創さん自身が、そう悪い人ではないというのも大きかった。彼はヘタレでいろいろ残念だけれど、でも気が利くしなにより物知りなのだ。
「結局、なんなのかはわからんままだったが。しかしなにも問題はないというか、神に供するものとしては充分な気もするな」
ごちそうさまでした、と結局のところ、僕らふたりで平らげてしまったその得体の知れない何か。たまきさんは「そうなの?」とまた小首を傾げて、でもそんなの僕に聞かれたって知らない。僕が知っているのはこの神さま、とりあえずジャムパンをあげておくとなんか喜んで美味しそうに食べるというのと、あとは――。
「確か、たこ焼きはだめだったはず。他は知らない。普段なに食べてんのかも」
その言葉に、「おおよそなんでもいけるはずだ」と答えたのは創さん。
「まあ多少の好き嫌いはあるんだろうが。俺の知っている奴だと確か、普段はどんぐりなんかをぽりぽりやっていたはずだ。ひどいのになるとそこらの土とか食ってた覚えがあるから、人の食い物なら基本選り好みせず食う」
ほー、と漏れ出た感嘆の声はでも、別にたまきさんのものだけじゃない。僕も素直に感心して――いやでもこの創さんのこと、もしかしたら土というのはまた話を盛っているのかもしれないけれど、でも――話それ自体はためになった。
逆にいうなら、それは僕が神さまについてなにひとつ知らないことの証左だ。
というかよくよく考えたら、なんかものすごく雑に扱っていた気がする。だって僕はさっきのたまきさんみたいに、「これ神さまにあげてもいいのかな」みたいな、そんなことは露ほども考えはしなかった。昨日ジャムパンを買ったのも、元々「確か好きだったはず」という記憶があったからで――。
ふと気になって、思い出す。それは僕が神さまに、初めてジャムパンをあげた日の出来事。
何年目、何度目に拾ったときのことか、そして僕がいくつの頃だったかはもう忘れた。
でも夏だったのは間違いなくて、そして場所は小さなパン屋さんだった。そのパン屋さんには「サンドパン」というのがあって、まあ要はただのコッペパンに切り込みを入れて、そこになんかジャムなり何なりを塗っただけのものなのだけれど、でもそれは僕のお気に入りだった。ついでに言えば母さん(父さん)もだ。ご飯にもおやつにもなるからとても便利で、なにより値段の安さが素晴らしかった。
一番人気はピーナツバター、たまに気分を変えたいときは次点の小倉あずきクリーム。
このふたつが鉄板で、だから僕は必死でそう説得した。神さまは聞かなかった。ジャムサンドの前に立ち止まったまま、真剣な瞳で「わたしはこれがよい」と繰り返した。頑固だ、と思った。内心「この
――結局、納得できなかった僕が無理矢理はんぶんこしたから、まあなんの問題もなかったのだけれど。
「小童、そろそろ機嫌を直すのだ。わたしにはこれがうまそうに見えたのだし、あと袋の赤い文字がかわいいのが
完全にふてくされてへそを曲げる僕、その頭を優しく撫でながら神さまは言った。「その袋は茶色い。かわいくない」「そして味もやはり赤い方が上だ」「わたしの勝ちだ」と。これで機嫌を直せというのが無理な話で、なんかもうものすごい勢いで大げんかをして、そしてそのあと河原で一緒に水切りをして遊んだ。なんかいきなり仲直りしているのが腑に落ちないのだけれど、でも子供なんて所詮そんなものだ。
だから、神さまはジャムパンが好き。僕がそう考えたのはこの過去のおかげで、でも冷静に考えたらどうだろう。
――これ、好きなのはジャムパンというより可愛い袋で、あとはただ引っ込みがつかなくなっただけなのでは――。
「…………
その言葉で僕は我に返る。危ない、完全に思い出に浸っていた。僕が過去を振り返っている間、どうやら創さんはずっと話を続けていたらしくて、そしてその内容はいよいよダムの建設が始まるところに差し掛かっていた。たまきさんは感心したように「すごいんだね、ダムって」と呟いて、そしてなるほどのその言葉の通り、ダムというのはなかなかすごいものだと思う。昔は全国各地で絶えず水害が起きていて、なのに現代がこんなに平和なのは、まず間違いなくダムのおかげだ。
「どうしてお前らは俺の味方をせずダム側に付くんだ」
なんて、そんな少数派の意見はどうでもいい。ただ文句を言うだけの彼と違って、ダムは大勢の人の役に立っている。ただ巨大な建造物というだけでも十分かっこいいのに、そのうえ人の生活や安全まで守っているのだからやっぱりダムってすごい――と、その僕の結論に「だよね」「おい待ってくれ」と答えが返って、そして一拍遅れてもうひとつ、
「そうか」
と、少し離れたところ、お座敷の上から響く声。
「ここ百と数十年、水禍にやられた村落を見んのはそういうことか。大したものだ、ダムはすごい」
神さま。「起きてたの」という僕の言葉に「いまおきた」とごしごし目元を擦って、そしてその先はなんかよくわからないことになったというか、
「神っちゃん、お留守番ありがとね。助かった。あ、これごはんねほら食べて食べて」
というたまきさんの言葉にただ「うむ」とだけ、いや正確には「……ぅむ……」とほとんど蚊の鳴くような声でもじもじ答えて、いやいつもの無駄に偉そうかつ調子こきまくったお前はどこに行ったんですかと、そう告げる暇もなくまたぞろ繰り広げられる謎のトゥクン劇場。
――やっぱりこれ、どういう生き物なのかよくわからない。
自信がない、というか、手に余る気がする。というか現に相当持て余している感があって、でも創さんの感想は正反対だった。
「そんなもんだろう。これは元々そういうもので、わからないから〝神〟なんだ」
むしろ知らないくらいがちょうどいい――なんだかわかるような、わからないような。つい曖昧に首を傾げてしまった僕に、でも彼はなんだか困ったような表情で笑う。
「まあ、いいんじゃないか。難しく考えようとするからそうなるんだ。多少の面倒ごとは俺やたまきがなんとでもするが、それよりも慎」
いいのかあれ、と視線をやったその先。そんなのいいも悪いもない、僕にはどうしようもないというか、だって神さまのやることだ。
「まかせろ。その程度のことなら造作もない。なんせ神さまだからな、わたしは」
ふふん、と胸を張る彼女、いまその眼前に立ちはだかる新たなる敵は。
たまきさんでは手も足も出なかったもの――昨日アレした、電子レンジだ。
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