いともたやすく行われる行為―トレイン―

「だから言ったろう。犬は役に立たない、と。あいつらはだめだ。わるいやつらだ」

 えいくそ、とジャムパンにかじり付く神さま、それをただぼんやりと眺める電車の中。

 向かい合わせのボックス席、窓からの西日が神さまの顔をオレンジ色に染めて、そしてジャムパンは結構おいしいらしい。無我夢中でもふもふ頬張るのはまあ結構なこと、買ってあげた甲斐があったというものだけれど、でもはたして僕はこのジャムパンの人を、一体どうしたらいいのだろう。

 学校を出たそのあとのこと。真っ先に向かったのは駅前の交番で、でも結果はよくある感じというか思った通りというか、

「うーん、これだけじゃねぇ……せめてこう、もっと具体的な被害とか、グッと来るアツい死体とかがないと」

 というのがお巡りさんの弁、見た感じ脂の乗った働き盛りの四十代ってところで、なにしろ僕が呼びかけるなりのひとことが「殺人事件コロシか?」だ。しかも「いえ、遺失物ですけど」という答えには目に見えてつまらなそうにする始末、仕方ないので思い切って殺人の線で立件してみることにして、でもそれにはやはり証拠が足りないということらしかった。当たり前だ。

「そんなっ! 女の子ですよ! どうして保護してあげないんですかっ!」

 というのはもちろん僕の言葉ではなくて、もうひとりの若い女性警官の言葉だ。そしてそのせいで「黙れ小娘! そんな綺麗事で市民の安全が守れるか!」とかなんかものすごい喧嘩になって、もう面倒極まりないので適当においとました。まあ仕方ない、もとよりどれほど期待していたわけでもない。

 結局のところ、「ポリスは無能」という神さまの言葉通り。

 お巡りさんが動けるのは法で定められた範囲だけで、そして「神さま」なんて大それたもの、人の法で規定できようはずもない。まあ一応なにがしかの枠組みはないでもないらしいのだけれど、でも所詮はトップダウンのお役所仕事、庶民の実生活レベルではこんなものだ。

「——といって、まさか丸めて窓からポイ、ってわけにもね」

 はあ、と溜息をつく僕に、「ん?」とこちらを振り返る神さま。彼女は窓にへばりつくようにして外の景色を眺めていて、そういえばいつの間にパンを食べ終えたのか、というかその袋は一体どこにやったのか、

「すまない。だめだったのか」

 と、素直にごめんなさいの言える性格は嫌いじゃないけれど、でもいくらなんだってお行儀が悪すぎると思う。

 ゴミはちゃんとゴミ箱に、そして神さまは神箱に——なんて。そんな気のきいたものがあろうはずもなく、強いて言えば神棚が近いかな、と思ったのだけれど、

「いや、あれはない。せまい。あんなところに棲めるわけがない」

 と、神さま。試したの、という僕の質問に、でも返ってきたのは予想外の返答、

「おまえはなにをいっているんだ」

 などと、彼女自身がはっきりそう言ったわけではないにせよ、でもその表情が明らかにそう語っていた。曰く、まずもって試すとか試さないとか以前の問題、あんなのどう見たって入るわけがない——。

「どうしてそれがわからんのだ……?」

 と、なんかいまにも泣きそうな表情。なんというか、こう、盲点だった。申し訳ないと思う。

「いや、よい。なにもきみだけのことではない、ひとはみなわたしを狭いところに住ませたがる」

 なぜなのか、と小首を傾げる神さまは、まあとにかく神棚に住めるような生き物ではないらしい。思った以上にかさばるからで、なるほど警察が引き取ってくれないわけだ。

 にしても、だからって学校の屋上にテントを建てることもない——というか、そのせいでひとりの新人教師があわや懲戒解雇の憂き目に遭いかけたのだけれど、でもその言葉になんか「だって」とぐちぐち言い訳を始める神さま。

「わたしだっていろいろ頑張ったのだ。でも殺伐としたこの現代社会、神さまが自分のねぐらを見つけるというのはそう簡単なことではない。昔はこう、もっと簡単にいったのだが」

 遠い目で眺める車窓の風景、そこに広がるのは閑静な住宅街。殺伐という言葉とは程遠いにしても、でもなるほどあの田舎とはまったく趣が異なる。ましてや、昔——神さまの言うことだ、それがどの程度の〝昔〟かは知らないけど、ともかく——には影も形もなかったであろう、高層マンションなんかもいくつか見える。

 ルールかマナーかそれともポリシーのようななにかか、神さまは人間の住んでいる家には棲まない。だってそういうのは迷惑だから、という単純な理由から、辿りついた先があの学校だ。確かにあそこは少なくとも住居ではなくて、でもそれですらどうもうまくない——はたして、神さまの経験した苦労は、なかなか涙ぐましいものだった。

「最初はな、ちゃんと寝床のある部屋に住んだ。白衣の女もおって、そいつがそれはもう、その、なんだ。ばいんばいんのぶるんぶるんで、こう、よかった。話のわかるやつだった」

 たぶん保健室のことだろう。確かに保健室の先生はばいんばいんのぶるんぶるんと有名で、そのせいか自ら怪我を負おうとする男子生徒が後を絶たないらしく、例えば同じクラスのひょうどうくんがいい例だ。彼は入学即入院という新記録を打ち立てた伝説の男で、そのせいで保健室の先生は基本的に保健室にいてはならないという規則ができたとかなんとか、いったい普段どこにいるのかわからないけれどまあそれはいい。

「だが、その女がおらんようになってな。そしたら非常に住みにくくなった。というのも、まだ日ものぼりきらん時分からこそこそと、つがいの男女がやってきてちちりあうのでな」

 なんなのだあれは、とか訊かれたって困る。たぶんラブラブカップル的ななにかで、でもそう言うのもなんなのでとりあえず「青春だと思う」と答えておいた。「そうなのか」となにやら大真面目に考え込む様子の神さまは、でもすぐに「いや、それだけではない」と顔を上げて、

「そこに棲めんようになったので、今度はなんだ、暗くて埃っぽい、妙な器具やら遊具やらのあるほったて小屋に棲み着いたのだがな。そしたら、あれだ。やはりまた男女のつがいがこそこそやってきてだな」

 また好きだの愛してるだの乳繰りあいまくるのだ——と困ったように頭を抱え出す神さま。仕方がないので校内をあちこち転々として、でもどこまで行ってもやっぱり男女のつがいがやってきてそれはもう激しく燃え上がって、それは神さまに曰く、

「ほとんど野の獣だった」

 とのこと、そんなの知らないというかそんな生々しい証言を聞かされても困る。さすがにどぎまぎするというかなんか「稀に女同士もおった」とかぽつりと言い出す始末、いや興味がないと言えばたぶん嘘になってしまうと思うのだけれど、でも僕が聞きたいのはその先だ。

 どこまで逃げても追ってくる男女。もはや安住の地などないと絶望した神さまは、結局、

「誰かが勝手に入ってきて乳繰りあったりせんよう、一目でわたしの棲み家とわかるようにした。それがこのテントで、わたしの数少ない持ち物のひとつなのだ」

 そう手のひらでぱんぱん叩いてみせるのは、小野寺先生に手伝ってもらって撤去した例のテントだ。神さまがここまで後生大事に背負ってきたもので、ちなみにいま現在は持ち運びのために折りたたんである。

「どうだ」

 べつに。

 というのもなんだか可哀想なのでまあ適当に褒めるだけ褒めて、でも気になるのはその入手経路だ。よくよく見てみれば意外としっかりした代物、こんなものを一体どこで拾って来たやら、訊けばなんとも予想外の返答、

「もらった。やさしいひとがくれたのだ。世の中捨てたものではなかった」

 遠い目をして窓の外を眺める神さま。頬杖をついた横顔に白い髪の毛が揺れて、オレンジ色の西日の中、その光景に僕は少しだけどきりとした。いや、あるいは——どうにもちょうどいい言葉がないのだけれど、でも誤解を怖れずに言うのなら、胸の奥がほんのり切なくなった。

 ——〝世の中捨てたものじゃない〟、なんて。

 神さまがそんな風に言うのだから、きっとそれは本当なのだろう。

「なるほど。奇特な人がいたものだね。なかなかいい話だと思うよ」

 僕の率直な感想に、「ん?」とまるでいま気づいたかのように。物思いから我に返った神さまは、「だろう?」とちょっと嬉しそうな顔をする。

「あれには本当に世話になった。いまの世のならいも教えてくれて、あと鉄兜と看板もくれた」

 なるほど、本当に奇特な人だった。いや人の思想や人生観にケチをつけるわけじゃないけれど、でもこんなのを仲間にしてなにかの役に立つと思ってるあたりが実に奇特だ。感想に困ってただ微笑むばかりの僕に、でも神さまは——。

 じっ、と僕を見つめたまま、そしてまるで、歌うような調子で。

「やはり、人間はおもしろい。そしてそれは——しんたろう、みなきみのように、やさしいものだ」

 そうはっきりと言ってのける、その表情が少し大人びて見えたものだから。

 僕はどんな顔をすればいいのかもわからず、そして本当なら返すべき答え、それさえもつい飲み込んでしまう。

 ——〝しんたろうって、誰〟。

 僕の名前はきりまことで、これまで一度としてしんたろうだった覚えはないのだけれど。まあ何年かぶりの再会、名前なんて憶えていなくて当然のこととはいえ、でも一文字も合ってないっていうのはさすがにどうなんだろう。

「なあ、しんたろう。ひとはやさしい。みなとてもやさしくて、そしてわたしは神さまだから、やさしくされたらやさしくしかえさなくてはならない。わたしはめざめた。革命を起こすのだ」

 応、と突き上げられる握り拳、それを無理矢理引き下ろしてあとついでに「寝てて」と告げて、まったくどこのどちらさんだろう——ただでさえややこしいこの神さまに、余計ややこしいことを吹き込んだのは。まあ主義主張を喧伝するのは個人の自由だけれど、でももうちょっと相手は選ぶべきだ。たぶんばちとか当たる。

「なに、心配はいらない。わたしなど所詮は八百万のうちの一柱、罰を当てるような大それた力はない。が、しかし、そんな無力なわたしであっても、ひとりひとりの力を合わせたなら」

 その先はおおよそ想像がつく。どうせ「この地上に理想の楽園が実現される」とかその辺で、でもそのようにあしらってみたところ、

「すごい。なぜわかった。なにをしたのだ同志しんたろう」

 とかなんとか、正直そういうのはやめてもらいたい。僕は同志ではないしそれ以前にまずしんたろうですらないし、ましてやそんなきらきらした瞳で「きみは神さまのようだな」だとか——本当なら悪い気はしないはずの言葉、でも全然嬉しくないのはどうしてだろう。

「まあ、その辺の総括はおいおいやるとして。でもさ、神さま」

 なんだ、と小首を傾げる神さま。なんだもなにもない、僕はまだ肝心なことを聞いていない。

「僕、次で降りるんだけど。神さま、どうすんの」

 そうだな、と一拍、そのままぼんやりと車窓を眺めるように。こういうとき、つまり黙っているときの神さまは、普段よりもずっと大人びて見えるのだけど。

「では、わたしもそこがいい。なんせ神さまだからな、やさしくされたらやり返すのだ」

 えっ、とは、言わない。大方そんなこったろうと思っていたし、そもそもジャムパンで餌付けなんかしちゃった僕も悪い。ゆっくりと速度を落とす電車、車窓を流れる町並みは——確かに僕の住んでいるあたりで、でも正直なところ、何度見てもやっぱり見慣れた気はしない。

「……いいけど。でも、知らないよ。泣いても」

「泣かない。なんせ神さまだからな。別に取って食われるわけでもなかろ」

 まあね、と答えてはみたけれど、でも正直なところあんまり自信はない。

 並んで降り立つ駅のホーム、他に電車を降りる乗客の姿はまばらで、でもしょうがない。近くに大学があるおかげか、この時間は逆方向の乗客、つまり帰りの電車を待つ大学生ばかりだ。

 連れ立って歩くひとりと一柱ひとり。西日に伸びた影だけが長くて、でも小さい方の影法師——背負ったテントのシルエットがいびつで、僕は小さく溜息をつく。

 駅舎を出て左手、見上げる長い上り坂。坂の上の住宅街、徒歩十五分程度の道のりは、でも今日に限っては二十分。誰かの歩幅に合わせて歩く、その初めての経験に——。

 どうしてだろう、まったくおかしなことだとは思うのだけれど。

 僕は少し、どこか懐かしいものを感じた、そんな気がした。

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