2010年
早くも挫折! 作者、病に倒れる
年が明けて2010年。
原稿はのろのろだが進んでいた。
砂漠の冒険ファンタジーは、心の強さが異能の強度になるという設定を加えた。これにより、主人公の「お前には絶対に負けねえ!」というセリフが熱く演出できると考えたのだ。
この要素からの連想で、タイトルを『インフィニティ・ハート』に決めた。
そこまではよかった。
一月半ば。
新しい部署に行ってほしいという指示を受けた。
ワイヤーカットという工程を担当することになったのだが、現在の担当者がめちゃくちゃ無愛想&怖いおじさんだったのだ。
今度の機械は小数点以下の数字がつきまとう。図面を見て、機械の数値をセットしてなんやかんや……なかなか理解が進まなかった。ついでに、その先輩がやたら怒るので、僕はすっかりおびえて小さくなってしまっていた。
二月。
「早くこの機械を一人で動かせるようになってもらいたいから、これを一週間で全部覚えろ」と、細かい説明が色々と書かれた紙を大量に渡された。
これを……一週間で!?
見た瞬間、無理だと思った。そのくらい枚数も書き込みも多かったのだ。しかし先輩に怒られるのは耐えられない。
僕は休憩中にそれを読み、アパートに戻ってからはノートに書き写して復唱した。だが、いくら頭に入れてイメージしても、実際に動かす感覚はまったく違う。思うようにできなくて怒られ、帰ってさらに勉強して、また翌日焦ってミス、怒られ勉強……この繰り返し。
原稿どころではなかった。
そして、次第に異変が起きていった。
まず幻聴である。ノートの記述を読み返している時、ノックがあった。チャイムがあるんだからそっちを鳴らせばいいのに、と玄関まで行って様子をうかがったが人がいるようには感じられない。しばらく待って、思い切ってドアを開けた。誰もいなかった。こんなことが何回か起きるようになった。
会社で、最初にいた部署の先輩に相談した。
「たぶん疲れてるんだよ。早く寝た方がいいな」とのことだったので、寝る時間を早めにしたが、ノックらしき音はその後も続いた。
やがて悪夢を頻繁に見るようになった。夜中に目が覚めると全身にひどい汗をかいている。どんな夢だったかは思い出せないのだがとにかく気持ち悪いのだ。寝不足になって、集中力がどんどん失われていった。
二月下旬にさしかかると、さらに不思議なことが起きた。前日のことをこれっぽっちも思い出せないのだ。あれ……昨日ここで何してたっけ? そんな疑問を抱くレベルだった。
そしてある晩、いきなり高熱が出た。
仲のいい先輩に「明日は行けないかもしれません」とメールを送って寝た。
翌日。
目を覚ましたら、見知らぬ部屋にいた。――最初は、本当にそう思った。
どこだここ? わからなかった。
誰かがチャイムを連打している。困惑したまま布団を出た。キッチンの横を抜けて玄関へ行った。やはり、見覚えのない場所だった。
ドアを開けたら、母親が立っていた。
「会社から、あんたの携帯に連絡しても返事がないって電話がきて」
――会社? 会社ってなんだっけ?
僕はこんな返事をしたような気がする。
「学校じゃなくて?」
それから母親と話してわかったのは、記憶に混乱が起きているということだった。
高校のことまでは覚えているのに、会社に入ってからのことがまったく思い出せないのだ。
母親の言っていることにはまったく身に覚えがなく、僕は怖くなった。社会人のくせに、母親に抱きついて大声をあげて泣いた。
僕は母親に連れられてすぐ脳外科に行った。
診断の結果、脳に異常はなし。おそらく、ストレスの影響で解離性障害が起きていると思われる、とのことだった。
当然の流れで、僕は実家に帰った。
そのまま長期療養する流れに。
僕は、新人賞を目指していたことまで忘れてしまっていた。
この時期、特につらかったことがある。
友人にこの出来事を伝えたら、面白いと言われたのだ。
「記憶って自分にしかわからないし、いくらでもごまかせるよね。俺、ちょっと試してみようかな」
たぶん、軽い冗談のつもりで言ったのだと思う。
しかし僕はものすごいショックを受けて、電話を切ったあとまた泣いた。
確かに、記憶は当人にしかわからない。
でも、こちらは本当に苦しんでいたのだ。
それだけに、この一言は今でもよく覚えている。
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