宙船を聴きながら再起する
記憶の混乱は一時的なものだった。
四月頃にはほとんど元通りになった。
しかし、倒れたことで精神が完全にバランスを崩してしまい、精神安定剤なしではいられない体になっていた。
何もやる気が起きない日も多く、じっと部屋にいるといきなり涙がにじみ出てきたりする。
調子は最低だった。
記憶が回復してからは、たまにプロットノートを読み返した。
『インフィニティ・ハート』を書き続ける元気はなかった。小道具まで、わりと細かく設定していた。それも、すべて無駄に終わった感じがした。たぶん、今から再開したところで同じようには書けない。同じ名前のキャラを書いてもどこか別の人間っぽくなってしまいそうで、それが嫌だった。
でも、ノートの一ページ目には「新人賞とろうぜ!」と書いてある。
諦めてはいけない。
そうは思うのだが、パソコンの前に座るのが、どうしようもなく億劫だった。
どうせ自分が書かなくても、他の誰かが書いてデビューしていくだけだしな……とすっかり無気力になっていた。
そんなテンションが上昇し始めたのは五月下旬になってからだった。
ちょうど、心療内科を変えた時期だ。こちらの先生はすごく親身になって話を聞いてくれた。そして、医師と患者のイスが正対していない。つまり相手の目を見ないで話せる配置になっていた。これは地味にありがたく、とても通いやすい病院になった。
「なるべく太陽の光を浴びましょうね」
先生は言った。
僕は散歩を習慣づけようと思った。
毎日、夕方になったら家を出た。実家は山奥の田舎だ。田んぼだらけの農道を自分のペースで、好きなように歩き回った。
日に日に気分がよくなってきた。
なんだか、また頑張れそうな気がしてきた。
散歩が当たり前になってくると、音楽を聴きながら歩きたいな、と思うようになった。軽トラが通るかどうか、みたいな狭い道だ。さほど問題はあるまい。
というわけで携帯を持って歩くようになった。
当時はまっていたのはJanne Da Arc、BUMP OF CHICKEN、RADWIMPS、ELLEGARDENといったロックバンドだった。ジャニーズの曲にも好きなものが多くて、よく流した。
六月になった。
そろそろ、もう一度小説を書いてみようかな、と思い始めていた。
でも『インフィニティ・ハート』を書く勇気は出ない。
新しい作品を書こう、と決めた。
けれど、なかなか思いつかない。
ファンタジア大賞を狙うことに変わりはなかった。賞に合うファンタジーを書きたいのだが……。
そんなある日、散歩中のこと。
ジャニーズのフォルダをランダム再生していたら、TOKIOの「宙船」が流れた。
――そうだ、帆船ものでいこう!
不意に、そう思った。
唐突としか言いようがなかったが、一瞬でこれにしようと決まった。
さて、帆船ものはいいが、具体的にはどんなストーリーにするのか。それが次の問題だった。
ネタ出しをした結果、三つのアイディアが並んだ。
世界観は、すべて大航海時代のヨーロッパあたりのイメージ。
まず、海軍もの。滅亡の危機にある海洋国家を、主人公の奇策で救う話。
次に海賊もの。「ONE PIECE」よりは「パイレーツ・オブ・カリビアン」寄りの、適度なリアルとファンタジーが融合した冒険もの。
最後に海洋ハンティングアクション。異能力者たちが帆船に乗り込み、海の巨大モンスターをハントする話。
迷った末、僕は海賊ものを書くことにした。
書く題材が決まったらますます気分が軽くなった。
気分転換も兼ねて、資料集めに時間をかけた。海賊についての文献を当たり、知識をどんどん仕入れていく。帆船の構造についても調べた。帆船を輪切りにした図解の本があって非常に勉強になった。
――と、知識を増やしたはいいが、それをどう小説に落とし込むかが問題だった。
江戸川乱歩賞でも資料の丸写しのような部分を指摘する選評があったし、下手に全部詰め込むべきではないと判断した。
そうなると、先行作品を読んでお手本にすべきだ。
僕は長野駅前の大きな書店に行き、検索機に「カイゾク」と打ち込んだ。
一番上に出てきたのは、多島斗志之さんの『海賊モア船長の憂鬱』という作品だった。
知らない作者、知らない作品だ。
とりあえず、買ってすぐに読んでみた。
改行の仕方が独特で最初は戸惑ったが、描写が巧みでどんどん引き込まれた。派手な話ではないのに夢中になって読み進め、あっという間に上下巻を読破していた。勉強ということも忘れ、物語世界に完全に入り込んでいた。
多島斗志之。恐ろしい作家だ。他の作品も読んでみよう。そう思った。
余韻を抱えたまま、僕はプロット作りに着手した。
主人公は商船の雑用をしている少年だ。
第一章では、冒頭でいきなり船長の娘に告白され、結ばれる。
しかしその直後、敵対国の軍艦に襲われ、ヒロインは敵艦長に撃たれてしまう。主人公は艦長に剣で挑むがあっさり打ち負かされ、瀕死のヒロインと一緒に海に放り捨てられる。
商船は爆破され、主人公の腕の中でヒロインは息絶える。
やがて主人公も意識を失うのだが、目を覚ましたらそこは海賊船の中。しかも、声をかけてきたのは死んだヒロインにそっくりな女の子……。
こんな感じで始めることにした。
冒頭からインパクトを出したいと思ったらヒロインが死んでしまうという、なんとも言えない展開。
終盤までの流れも決まり、いよいよ書く時が来た。
プロットは依然としてノートに書いているので、パソコンはしばらく使わないままだった。
僕は数ヶ月ぶりに、ワードを開いた。
まず冒頭、主人公がヒロインに結婚を申し込まれるシーンを書いた。
久しぶりすぎて、それだけで疲れた。
今日はここまでにしよう。
僕は、名前をつけて保存を選択した。そこにタイトルを打ち込む。
『蒼海の
一昔前の中二っぽいな、と思いつつも、再起できたことに安堵を覚えた復帰一日目だった。
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