第17話 新たな『普通』の存在定義
俺(四宮 誠)は17年前の夏に自称天才中学生の四宮 香と出会ってから,彼女と共にタイムマシンを作り続けていた塾講師である。
とある高校でちょっとした騒動が起きた日,俺たちはそこに現れた未来人とともに,タイムマシンを使って過去に戻った高校生を発見した。桜井 隆之介という名前の彼の協力により俺と香のタイムマシン開発は大きく進み,俺たちはようやく長年作り続けてきたタイムマシンを完成させることができたのだ。
「なかなか美味しそうなものもあるのね。何か食べていこうかな。」
テーブル席で俺の隣に座っている香が,メニュー冊子をめくりながらそう呟いた。普段なら来ないような店に来て,少し浮かれているようだ。
「話が終わったらな。」
俺は彼女の言葉に短く答え,注文を取りに来た店員にコーヒーを二人分頼んだ。今,俺たちはこのファミレスで,ある人物と待ち合わせをしているのだ。
そしてそれから五分ほど待つと,長身でがっしりした体格の短髪の男子が,自動ドアを開けて入ってくる様子が俺の視界に入った。俺たちが待ち合わせをしている人物だ。彼の名前は坂本 宏樹。桜井くんたちの友達で,今は香が教授として在籍している大学の学生である。
俺が彼に向けて軽く手を挙げて合図をすると,彼は会釈をして俺たちの席へと歩いて来た。
「お久しぶりです。」
俺たちの近くに来ると,彼はお辞儀をして俺に言った。
「覚えててくれてたのか。」
俺は答えた。一年半前に一度会っただけだったため,彼が俺のことを覚えてくれていたのが意外だったのだ。しかし,彼はその言葉に少しはにかんで答えた。
「いいえ,実はあまり。」
「だと思ったよ。」
やはり彼は,桜井くんよりも人付き合いが上手くてしっかりしている人間なのだろう。ほぼ初対面の相手に礼儀正しく挨拶ができ,軽い冗談も言える様子を見て,俺はそう思った。桜井くんと初めて会った時は、警戒心があふれ出ているような対応をされたものだ。それに比べたら,彼の印象はとても良かった。
「私とは初めて会うわよね。四宮 香です。よろしくお願いします。」
香はそう言って,坂本くんに名刺を渡した。
「はい,頂戴します。僕は坂本 宏樹です。よろしくお願いします。」
坂本くんは名刺こそ持っていなかったが,香の名刺を丁寧に受け取り彼女に自己紹介をした。
「俺からも渡しておくよ。名字が変わったんだ。」
そして,香に続いて俺も自分の名刺を彼に渡した。以前に渡した名刺の,名字の部分だけシールで訂正したものだ。
「はい。ありがとうございます。」
俺たちの名刺を受け取ると,彼はそれをテーブルに並べて,テーブルを挟んだ向かい側の席に座った。
「それじゃあ,早速本題に入りましょうか。」
坂本くんが飲み物を注文すると,香が話を切り出した。
「まずは私たちのこと,桜井くんたちからどこまで聞いてるの?」
「香さんは僕が通っている大学の教授で,誠さんは隆之介たちが高校の時に通っていた塾の先生,というところまでです。お二人が研究していることについて,手伝える人を探していると聞いています。」
彼は特に答えに困る様子もなく,普通に答えた。香はそれを聞いて,俺たちのこれまでの経緯を彼に説明した。
「そう。研究内容については,訳あって詳しく言えないけれど,そういう事よ。なるべく優秀な人を探していて,桜井くんたちからあなたを紹介されたのよ。」
すると坂本くんは,遠慮がちに香に尋ねた。
「一つ質問してもいいですか?」
「いくつでもどうぞ。」
彼女が許可すると,彼はその内容を告げた。
「どうして僕に会おうと思ったんですか?いくら隆之介に言われたからと言っても,世界で活躍されている四宮先生なら,僕より優秀な人をいくらでもご存知かと思いますけど。」
「もちろん他にも声はかけてる。その候補の一人として,今あなたに会ってるの。会おうと思った理由としては,桜井くんからの紹介と,それから誠さんがあなたのことを褒めてたのも一つね。」
香は俺の方を見てそう答えた。俺からも説明してほしいような口ぶりだったので,俺は坂本くんに向けて口を開いた。
「あぁ。初めて君に会った時の俺は,君たちが始業式の日に何をしたのかをほとんど知らなかった。」
あの日彼らがやったことを思うと,俺の個人的な意見とはいえ,軽々しく発言してはいけないということは分かっていた。なので,俺は慎重に言葉を選びながらそれを彼に話した。
「自殺しようとしてたんだってな。それについては詳しく聞かない。でも,俺が前に君と会った時はそんなことは少しも感じなかった。どこにでもあるような日常を楽しむ,普通の学生の一人に見えた。今もそうだ。何かに失敗した後,それを乗り越えて進み続けた人間っていうのは強いものだ。香もそうして強くなってきたからな。だから俺は,君にも期待できるかもしれないと思ったんだ。きっと桜井くんが俺たちに君を紹介した理由も同じ感じだと思う。」
「そうですか。」
彼は安心したように微笑んで答えてくれた。彼が俺の意見を不快に思わなかった,というだけで俺も安心した。
「私からも質問していいかな?」
俺たちと坂本くんとの間の空気が多少和んだのを感じると,今度は香がそう言って彼に質問の許可を求めた。
「同じ質問になるんだけれど,何で私たちに会ってくれようと思ったの?」
「先生たちと同じ答えになりますけれど,隆之介に紹介されたからです。お二人なら,きっと僕の力になれると言われました。」
「俺たちが君の力に?」
思い当たることが無かった俺は彼に言った。逆ならともかく,俺たちが彼の力になれることなんてあるのだろうか。
「はい。誠先生は,僕が普通の大学生に見えたとおっしゃいましたが,本当の僕は普通ではないんです。」
「ん?何でだ?」
変な答え方をした坂本くんに,俺は再び質問し直した。すると彼は,真剣な表情で語り続けた。
「僕はセクシャルマイノリティーを支援する団体に入って活動しています。そこではいろんな考えを持つ人がいて,世界をより良くしていこうと頑張っています。」
「なるほどね。」
香は彼のその答えに対して,そんな相槌を打っていた。
だが俺にとっては全然なるほどではなかった。さっきの俺の質問にその答えがどう繋がるのか,俺にはさっぱり分からなかったのだ。桜井くんが何を期待して,俺たちに彼を紹介したのか,この時の俺には理解不能だった。
だが,香にとっては違ったようだ。彼女は彼の結論を引き出すように質問をし続けた。
「その中であなたはどういう位置にいるの?」
すると,坂本くんは少しの間を開けて答えた。
「僕の恋愛対象は男性です。簡単に言うと,僕はゲイとして,その団体で活動しています。」
俺は単純に驚いた。
こういうことは初めてではない。香と会ったばかりの時も,桜井くんと会ったばかりの時も,驚くような相談を受けたものだ。他にも何度かある。だから,俺は相談をされやすいタイプなのだろうとは思っていたが,これには驚いた。
頼れる男子を代表するような優等生に見える彼が,そういうことで悩んでいるとは夢にも思わなかったからだ。
そして俺には驚くことがもう一つあった。
俺はこんな話題の相談を受けることを,想定していなかったわけでもない。これまでテレビやラジオで,彼のような境遇の人の話を聞くことは何度もあった。その度に,そんな人に接する時は,配慮ある行動をしようと肝に命じていたつもりだったのだ。
だがこの時の俺は,何も発言できなかった。
まずは共感の言葉をかけようと思った。しかし特に不自由のない生活を送って来た俺に何が分かるのか,そんな疑問が湧いてきて,かける勇気が出なかった。
慰めようにも,彼の気持ちが何も分からない俺が言っていいことなのかと思い,口に出すのが躊躇われた。
俺は彼の勇気を出したであろう言葉に対して,何もできずに数秒考え込んでいた。すると,香が次のように彼に話しかけたのだ。
「そう。『普通』ってとても難しいよね。私も昔から苦労してきた。もちろんあなたもそうだろうし,私に似てる桜井くんもきっとそう。」
彼女は彼の告白については,特に肯定も否定もせず,共感も慰めもしなかった。彼の発言については何も触れずに,『普通』について語り始めたのだ。
「アインシュタインが言ったとされる言葉にこんなものがある。『常識は,18歳までに身に付けられた偏見の集まりである』。私は『普通』も同じだと思う。人の数だけ普通はあって,みんなに共通する普通なんて存在しない。それぞれの普通を知るためには,こんな風に話し合って,意見を聞く事しかないんだと思う。私は、顔も知らない誰かが大昔に決めた世間の『常識』なんかよりも,あなたの中の『普通』が知りたいな。あなたが目指す『普通』ってどんな世界か教えてくれる?」
香が優しくそう尋ねると,坂本くんははっきりと答えた。
「僕が思う『普通』は,誰もが自分に嘘をつかなくていい世界です。周りと違う行動をしても,迷惑をかけない限りは過度な干渉をされずに,個人の好きなように生きられる世界です。」
「確かにそうなると良いね。私もそう思う。でも人間が社会で生きていく上で,共通のルールが必要なのも分かるでしょう?それは建前上,特定の何かを特別扱いしてはいけないものなのよ。」
香は彼の意見に一度同意したが,次に彼女なりの気になる点を指摘した。そして坂本くんがまた答え,さらに彼らは問答を続けた。
「はい。もちろん,少数派に特別扱いをしろという意味ではありません。例えるなら,今の左利きのような感じが理想です。左利きの人は,昔はひどい差別を受けていたみたいですけど,今は多くの人と違うことが知られても,それまで通りに気にせず生活できる。もちろん,少数派なので不自由することもありますが,それを隠したり嘘をつく必要もなく,普通に生活できる。あらゆる立場のみんながそんな環境になればいいと,僕は思ってます。」
「過去に倣って未来を変えるのね。良い考えだと思う。これまでの歴史も,ほとんどはそれの繰り返しだから。ただし,少しだけ意見を言わせてもらってもいい?」
香たちのその質疑応答の様子は,まるで研究発表をしている学生と先生のようだった。彼女は実際にもこんな風に大学で仕事をしているのかもしれない。
「どうぞ。」
坂本くんが許可すると,香は少し厳しめの意見を彼に告げた。
「人間っていうのは,権威や権力に弱いものよ。どんなに正しいことを言っていても,それを発する人物が何者かによってその影響は大きく変わる。若者の必死な訴えや正しい意見も,有名大学教授や政治家の意見によって簡単に吹き飛ばされる事だってあるわ。例え熱量があっても関係ない。あなたがいるその団体は,大きな権力に立ち向かえるほどの力があるのかしら?」
さすがに厳しすぎると思ったので,俺はその話に口を挟もうとした。だが,香はその隙も与えずにさらに続けた。
「それからもう一つだけ。今この世界は,あらゆる面で大きく変わり始めている。新しい科学技術もそうだし,あなたたちのような考え方もそう。長い歴史の中でも初めてと言っていいくらいの変化の早さに,世界は対応しきれていないのよ。これからもさらに変わっていく。そんな状況の中で,この世界はあなたたちのような人に対して,迅速に対応してくれるかしら?」
香は初対面の学生の彼に対して,気兼ねのないシビアな意見をぶつけた。しかし,彼は誠実にそれを受け止めて答えたのだ。
「その通りです。今の僕では力不足だと思います。でも諦めるわけにもいきません。未来にこんな苦しみを残さないためにも,僕たちは少しずつでも行動しないといけない。隆之介にそう教わりました。世界を変えるために,先生方に協力してほしいんです。」
怯まずに答えた彼を見て,彼女は微笑んで言った。
「そうね。彼もいいこと言うじゃない。諦めるのはまだ早い。あなたの言う通り,私たちなら解決できるかもしれないわ。」
そこまでの彼らの会話を聞いて,俺はようやく坂本くんが俺たちに何を期待しているかが分かった。要は影響力が必要なのだろう。
確かに俺たちならば,彼らの力になれる。香の知名度は世界に通用するものである。その上,タイムマシンを使えば,新たな思想に対する世界の対応も根本的に変わる。
タイムマシンのことを詳しく言うわけにはいかないため,彼女はそのことについては何となく説明するのだろうと思った。だが彼女の次の言葉は,俺の予想外なものになった。
「詳しいことは桜井くんからは聞いてないんでしょうけど,私たちはタイムマシンを作ったの。そして,それを使って数年後の未来へ調査員を送りだすための組織を作ろうと思ってる。新しい技術や考えが公になる前に,未来に行った調査員が情報を集めるの。そして秘密裏に識者を集めて,それに対する草案を決めようとしているのよ。」
そこまで言うとは思っていなかった。万が一のことを考えて,今の段階ではタイムマシンのことはまだ隠すと思っていたのだ。
「簡単には信じられない話かもしれないが,本当だ。できれば冗談と思わないで聞いて欲しい。」
彼にとっては突拍子もない話しだと思ったため,俺がフォローを入れた。だが意外にも,彼はその話をすでに信じていたようだった。
「えぇ,信じますよ。タイムマシンに関しては,心当たりがあります。」
「私たちがこれから始める組織で働けば,あなたの理想が実現する日は近くなると思う。私たちのところで働く気はない?」
「はい。」
驚くほどすんなりと話が進んでいた。最近の若者は,タイムマシンについて疑問を持たない人が多いのだろうか。
そして,俺には他にも気になることがあった。俺の妻である香のことである。こいつはこんなにも人を簡単に信用する人間だったか,ということだ。
桜井くんの時は違った。彼の時は相手の得になる交換条件を出してまで,タイムマシンについての口封じをした。広瀬さんについては,出会って半年経ってから,ようやく完成したタイムマシンを見せたくらいだ。彼女がタイムマシンを作っているという事を初対面の相手に言ったことは,俺が知っている限りでは俺と東郷先生以外にはいないはずだった。
それならなぜ香は,坂本くんにそれを話したのか。
それを話すことによって,俺たちに何か利益があるのか。そして桜井くんは俺たちに何をさせようとしていたのか。彼に何か特別な要素があるのか。そう考えると,彼女がやろうとしていることが何となく見えてきた。
それに気づいた俺は,スムーズに進んでいる彼らの会話に割って入るほかなかった。
「ちょっと待った,香。彼の返事を聞く前に,お前が考えてることを全て話せ。」
「何の事?誠さん。」
彼女はとぼけるようにそう聞いた。
だが俺は,東郷先生と彼女の両親から彼女のことを託されているのだ。外道の道に進ませるわけにはいかない。
俺は少し強めに彼女に再び注意した。
「とぼけるなよ。利害関係ってのはいい関係だが,相手がそれを知らなければ一方的に利用してるだけになる。もし嫌と言うなら,俺はこれ以上お前についていけないぞ。」
「分かったわよ。やっぱり誠さんは優しいね。」
俺の注意に納得したのか,彼女はそう言って坂本くんに話を切り出した。
「坂本くん,私は本当にあなたの力になれることがあるなら,何でも手伝うつもりだからね。それを前提にして,これからの話を聞いてくれる?」
「はぁ。」
彼は困ったような相槌を打ったが,香は気にせずに話し続けた。
「あなたがさっき言った通り,個人が誰を好きかなんて,本来ならそんなに注目されることじゃないと思う。でも今の世界では,あなたみたいな人はかなり関心を向けられてるよね。今の世間の注目度から考えて,あなたを公に否定したりする人は滅多にいないほどに。」
「そうでしたか。」
坂本くんは彼女の考えを理解したようだ。俺が予想したものとも同じだった。おそらくは,彼の性的指向を利用して,組織への反対意見を少しでも退ける,という方法だ。
一般の『普通』や『常識』の考えであれば,思いついても実行しようとはしない。だが香や桜井くんのように『普通』から外れた人間ならば,やりかねないことだと思ったのだ。
『普通』ならば止めるべきかもしれない。だが俺はその選択も尊重すべきだと思った。相手が納得の上でならという条件付きで。
香は彼を納得させるための理由をさらに話した。
「えぇ。でもそれだけじゃない。あなたが男性が好きってことよりも,あなたが未来のことをちゃんと考えてる人ってことが分かったから誘ってるの。一方的に価値観を押し付けたり,利用したりするんじゃなくて,対等な立場として協力し合える関係になれたらいいと思ってる。それでも信じられないなら仕方ないわ。でも考えておいて。」
他の人には言い訳に聞こえるかもしれないが,俺には彼女が真摯な姿勢で話しているように見えた。
「はい。わざわざ説明してくれてありがとうございます。」
香の誠実な姿勢の甲斐もあって,彼女は信用してもらえたようだった。彼は俺たちにお礼を言った。
「そういうことをちゃんと言ってくれる方たちだと分かって良かったです。」
坂本くんは俺にそう言った。俺が口を挟まなくても,話は進んでいたかもしれない。だがそう言ってくれると,少しでも香の力になれたのだと思い,嬉しくなった。
「その新しい組織の件は,前向きに考えておきます。」
「なら,今のうちに今後の詳しい説明をしておきましょうか。」
俺がぼーっとしている間にも,彼らの会話は具体的な事まで進んでいた。次の面接と簡単なテストを受ける場所や,その内容について彼らはしばらく話し合っていた。
「最後に何か質問はありますか?」
香が形式めいた質問をすると,坂本くんは次のことを尋ねた。
「それじゃあ,一つだけ。四宮さんたちが求める人の人格ってどんな感じですか?」
難しい質問に,香は腕を組んでしばらく考えてから答えた。
「うーん,そうね。一言で言うなら,流されない人かな。急速に変化していく時代や,周りの空気に流されることなく,自分を持って冷静に判断できる人。右も左も分からない未来に行くなら,なおのことよ。ついでに言うなら,考え方が私に似てる人を近くに置いておきたいかな。わざわざ全部説明しなくても動いてくれる人は,結構便利だから。」
「そうですか。ありがとうございます。」
「私からも,もう一つだけ聞いていい?私の興味本位の質問だから,答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど。」
坂本くんからの質問に答えると,今度は香がとても遠慮がちにそう言った。彼が質問を許可すると,彼女はさらに遠慮がちにそれを告げた。
「あなたが今までで,男性が好きなことに関して,一番嫌な思いをしたことって何?もちろん,答えたくないなら答えなくていいからね。」
彼女は申し訳なさそうに尋ねた。俺なら絶対にしない質問だと思った。そんなことを聞くだけでも嫌がられることだと思っていたからだ。
「そうですね。単に嫌な思いをしたことなら,沢山ありますけど,一番というと難しいですね。」
しかし,彼は香の質問に嫌な顔一つせずに,真面目に考え始めた。
「嫌だったというよりも,一番悲しかったことなら思い浮かびます。」
「教えてくれる?」
香がそう聞き直すと,彼はその中身について話した。
「僕が好きな男の人と話している時,彼がとても幸せそうな表情で,好きな女の子の話をしてきたことです。その様子がとても楽しそうなのは良かったのですけれど,その話の中身が僕になることは決してないんだろうなと思うと,すごく悲しかった。今でもたまに思い出してしまいます。」
彼は切なげな表情で語ってくれたが,質問をした張本人である香は,しばらく黙って何も返事をしなかった。
その空気に耐えられなくなったのか、坂本くんは続けて言った。
「もちろん,彼が幸せなら何よりいいことですし,彼が好きになった女の子もとても良い子なので,彼らが上手くいくことが嫌というわけではないんですよ。それでもやっぱり,少し悲しいんです。」
坂本くんによる追加の説明が終わっても,香は数秒間黙っていた。そしてその後,彼女は大きく頷きながら次の言葉を彼にかけたのだ。
「うん,分かるわ。好きな人に振り向いてもらえないってことでしょう?ちゃんと向き合って振られるならまだしも,明らかに恋愛対象として見られてない,振り向かれる見込みもないって,察してしまうのはとっても辛いわよね。よく分かるわ。」
「四宮さんにもあるんですか?」
「もうずっと前だけどね。誠さんにも会う前のことよ。」
彼女は彼の話に共感し,それから二人はお互いの好きな人の話で盛り上がっていた。
まるで友達同士のように楽しそうに話している彼らを見て,俺は二つのことに気づいてしまった。
一つは,香が別の価値観を持つ人のことを少しでも理解しようとしていること。そしてもう一つは,俺が理解しようとしていなかったことだ。
彼が自分とは全然違う存在だと勝手に決めつけて,俺は彼を理解しようとすらしていなかった。仲良く恋愛話をしている今の香たちを見ていると,必要以上に気を使って何も理解しようとしない俺の行為こそ,相手に対する差別なのではないのかと,自分の行動ながら思った。
昔はそれでもいい時代だったのかもしれない。苦しんでいる人がいると知っていても,臭い物に蓋をするように,見て見ぬ振りをするのが『普通』だったのかもしれない。時間が解決してくれると楽観的に考えて,自分からは何もしないという選択が,『常識的』だったかもしれない。
しかし,彼女が作ろうとしているこれからの世界において,それが『普通』であってはいけないということは,彼女がその言動で語っていた。
多数派の偏見を押しつけ続けるのではなく,少しずつでも違う立場の相手を理解しようとする。そうすることでお互いにとって過ごしやすい環境を整えていくべきだ。慣れない気の使い方をしてまで,彼の深い気持ちを知ろうとしている香の姿を見て,俺はそう思った。
彼女の新しい時代に置いていかれないために,そして彼女のそばに居続けるためにも,このままではいけない。そう思った俺は,すぐに坂本くんに声をかけた。
「俺からも一つ聞いていいか?」
「はい。どうぞ。」
すんなりと受け入れてくれた彼に,俺は次の問いを投げかけた。
「自分がゲイで,一番良かったと思うことってなんだ?」
それは俺が一番,彼と共感できるかもしれないと考えて放った質問だった。
自慢じゃないが,俺は今まで割と楽しく生きてきた。親にも先生にも恵まれ,想い合える相手にも出会えた。目の前にいる彼らのように周りとの違いに悩んだこともそれほどない。そんな俺でも,嬉しかったことや楽しかったことなど,良かったことならば彼に共感できることもあるかもしれないと考えたのだ。
坂本くんはまたもや嫌な顔をせず,少し考えてから答えた。
「それも同じようなことになってしまいますね。僕が今まで好きになった人はみんな男性ですけど,もし僕がストレート,異性愛者だったらその人たちに対して恋愛感情を持つ事はなかった。同じ気持ちで思い合えないというのはやはり寂しいですが,ゲイだからこそ彼らのことを深く思えたのだと考えると,それも良かったのかもと最近思えてきました。」
「あぁ。すっげぇ分かる。」
俺は心からそう答えた。彼が答えたそれは,才能溢れる香に対して俺が思っていた感情にそっくりだった。
俺に香と同じような才能があって,同じような考えができたら,もっと彼女の力になれるかもしれない。そう思っていた時が俺にもあった。だが今は,坂本くんと同じようなことを思っている。
もし俺にも特別な才能があって,彼女のことを全て理解できるような人間だったら,今のように彼女を尊敬できていただろうか。好きになれていただろうか。きっとできていないだろう。香のことをこんなに尊敬できているのはきっと,俺に大した才能が無かったからこそだ。
俺がそれに気づいたのも最近なのだが,そんなことはどうでもいい。大事なのは彼と話し合ったことで,全く違う境遇に思えた彼の中に,自分と重なる部分を少しでも見つけられたことである。
俺は,その気持ちがどこまで共感できるものか確かめるため,続けて坂本くんに質問し続けた。そして彼は真面目に答え続けてくれた。
「同じ思いを共有できる奴を羨ましく思うこととかもあるよな?」
「えぇ。ありますね。あまり良いことではないですけれど。」
「でも,共有できないという障害を超えてでも俺は,相手のことが好きなんだから,そこいらの奴の気持ちには負けてない,とか思うことないか?」
「あります。僕も好きになってる時なら,相手を思う気持ちは誰にも負けないと思ってます。」
「そっか。そうだよな。」
俺は彼の返事を聞いて納得していた。
『普通』という概念が存在しないのと同時に,俺たちは同じ人間でもある。理解できない部分もあれば,同時に共感できる部分もあって当然だろう。
こんな風に,皆が世間の『普通』ではなくて,目の前の相手のことを考えて行動すれば,きっと世界は今よりも過ごしやすくなるのだろうと思った。
違う立場の人間について考える余裕を作ること。それこそが,香がタイムマシンを使ってやりたい事の一つなのかもしれない。
彼女がこれから作ろうとしている新しい時代の流れを,俺はこの日自分の身で少し感じられた気がした。
それから俺たちは,しばらく同じような雑談を続けた後,香が気になっていた季節限定パスタを食べてから,それぞれの家に帰った。
「誠さん。私のやり方ってやっぱりやり過ぎだったかな?」
帰宅した後,俺がダイニングでコーヒーを飲んでいると,同じように向かいに座った香が自信なさそうにそう尋ねてきた。
「何の話だ?」
「今日の坂本くんにした話よ。彼を利用するだのどうのこうのって話。あなたが私に怒った話。」
彼女がこんな風になるのはよくある事である。失敗した時や,何か不安なことがある時には,普段の自信に満ちた姿が嘘のように気を落とすのだ。逆に気分が盛り上がってきた時は,話すのを止めるのが大変なくらいよく喋る。
俺はその度に,面倒に思いながら彼女を元気付けたり,落ち着かせたりしてきたのだ。今日も俺のやることは同じである。
「あぁ,そうだな。お前はいつもそうだよ。多くの人には理解しがたい強引な手段で人を助けようとする。でも俺はそれでいいと思う。他人と違うからこそ,他人にはできないことができるんだ。」
俺は今日のことを思い出しながら,そして彼女に響く言葉を考えながら話し続けた。
「俺にはタイムマシンは作れないし,それを使って世界を変える手段を見つける事なんてできない。そしてお前は,周りに合わせるって事が苦手だ。だが弱点を補い合えば,俺たちに出来ることはかなり増える。もっと大人数なら,より多くのことができる。『普通』の人間と同じで,完璧な人間なんていない。だから,これからもお互いに助け合って生きていこうぜ。」
「うん。ありがとうね。元気でた。」
香は笑顔を浮かべてそう言い,その顔を隠すようにして俺の淹れたコーヒーを飲み干した。
「元気になったなら良かったよ。」
俺もそう返して,自分のカップにあるコーヒーを一口飲んだ。
ついこの前まで俺は,この香の感情の不安定さは彼女の短所だと思っていた。ただ面倒くさいだけの短所だと。しかし,それは違うのかもしれないと今は思う。
おそらく,彼女は誰よりも深く物事を考えているのだ。人間のことや科学のこと,普通の人なら考えないような事まで,真剣に深くあらゆる角度で。普段の自分を見失うほど考え込むから,感情も不安定になるのだろう。それは彼女の優しさの象徴だと俺は思うのだ。
タイムマシンの発表と,新たな時代の幕開けまであと数ヶ月。そんな彼女が一生懸命に考えて作る世界なら,これからはきっと良い時代になるだろう。それを楽しみに思いながら,俺はこの日を終えたのだった。
つづく
新時代への思考実験 蒼樹 たける @k-ent
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