朝焼けの島

海玉

朝焼けの島

 その昔、天に帳はありませんでした。

 我々に常闇をもたらす黒布の天幕はなく、太陽と呼ばれる大きな火の玉と月と呼ばれるくすんだ水晶玉がかわりばんこに空を転がり、気まぐれな星と呼ばれる硝子の破片がきらきらと周りを飾っておりました。

 人々は光の恵みに感謝して生活しており、天から与えられる光だけでじゅうぶんに満足しておりました。

 しかしそのうちに、強欲者が出てきました。

「もっと自由な光がほしい」

 不届き者は、炎を作りだしました。それはとても危険で、怪我をする恐れもあったのに、どうしようもなく魅力的で、便利でした。

 周りの人たちも、あっという間に天からの光をないがしろにし、炎の便利さを讃え始めました。

 怒った天は、空に帳をかけました。太陽も月も星も、すべての光を大地に届かなくさせました。

 困った人々は、必死に乞い願いました。

「ふたたび光のお恵みを」

 寛大な天はその願いを聞き届けました。天から認められた存在は、帳から出る許可を与えようと。もう一度、太陽の下で憩い、月のもとで眠る幸せを約束しました。

「お願いです」

 あの不届き者も頼み込みました。ちっぽけな炎などでは、帳の闇に太刀打ちできるはずもありませんでした。

 天は簡単に許しを与えませんでした。不届き者を祭司の一族に任じ、天に認められた者を帳から出す役を負わせました。帳の中からすべての人間が出てゆかないかぎり、不届き者ふが許されることはありません。

 こうして空に帳はかけられ、不届き者とその家族は、必死で毎日働いています。いつか帳から解放されることを夢見て。



 §



「――そして人々は天に認められるよう、帳の中で粛々と暮らすようになりました」

 誰もが知っている物語を改めて語り終えると、ふたたび部屋には静寂が戻った。

 炎がゆらめいている。目の前に正座する少年の瞳は、絶え間なく変化する火の舌を映している。

 それが、美しいなと思った。

 内心苦笑した。普通の人ならおびえてしまう火を美しいと思ってしまうだなんて、私はやっぱり変わっている。けれど、血に刻まれた性分だから仕方ない。

 床に手をつき、ぬかづける。背中にじんわりと心地よい炎の熱を感じる。いつものように口上を述べた。

「ようこそお越しくださいました、光の御子さま。わたくしは光の祭司、愚かにも天をおろそかにした一族の末裔でございます。あなたさまを『島』までお連れするのがわが役目。穢れた血族と過ごさねばならないのはご不快でしょうが、これも天の定め。耐えていただきたく存じます」

 ゆっくりと顔を上げる。少年は微動だにせず私のことを見つめていた。

 珍しい子だ。火を見ても動じないとは。

 炎、すなわち伝承に名高い呪われた存在を目の当たりにした光の御子たちは、たいてい慌てふためくか、叫ぶか、泣くか、ひどいときには気絶する。祭司である私も同じ扱いをされることがほとんど。怯えられて、最初は会話もままならない。

 けれどこの子は平気で焚き火の真正面に座り、ぬくもりに触れている。私に怖気付いた気配もない。

 だからだろうか。二十年弱祭司をやってきたうちで、出会ったどの御子よりも好感が持てる。

 でも、呪われた私に好かれるってことは、不吉なのだろう。

 ごめんなさい、と心の中で謝る。私は穢れているから。

「……あの、すみません」

 涼やかな声だった。変声期を迎える前の、女性よりは低くて深く広がる響き。薪がはぜる音のように軽やかでもある。

「ぼく、あんまりかしこまられるのに慣れてなくて。祭司さん、もっと気楽にしてください。じゃないと、ぼくの息がつまりそうだから」

 ……驚いた。

 この御子は、私をとして認めてくれているのだ。帳を管理している生ける呪い、ではなく。

 長くこの仕事を続けてきたがこんなことは初めてで、どうしたらよいのかさっぱりわからなかったが、ただの巫女たる私が光の御子の言葉に従わないなんて、きっと許されることではないのだろう。

私は再びぬかづこうとして、会釈だけにとどめた。

「ありがとう存じます……いえ、ありがとうございます。御子さま」

「御子さまっていうのもなんかやだなぁ。名前で呼んでください。メテっていうんだけど」

「良いのですか?」

――こんな穢らわしい存在に、御名を教えてしまうだなんて

 そう続けようとして、止まった。

 少年――メテは、本当に気楽な表情で、私を見上げていた。

紛れもなく『人』を見る目つきだった。あたたかな親愛の情と、あふれんばかりの好奇心。とはいえ決して不快なものではない。目の前にいる人をよく知りたいと思うごくごく自然な感情のそれだ。

私を人と認めてくれるのは、家族以外で初めてだった。見るだけでも忌まわしいものとして避け続けられた身からすれば、どう反応していいかわからないというのが正直だった。

「……失礼しました。なんでもございません」

「そう?  なら安心しました」

 どうやら、先ほどまで押し黙っていたのは、雰囲気に圧倒されて硬くなっていただけで、本来は闊達で朗らかな性格らしい。興味しんしんで炎を眺めている。

「熱いですねえ、これ」

「触れると傷を負いますので、あまり近づきませんようお願いします」

「はーい」

 つくづく、変わった子だ。

 ともあれ、半狂乱になって暴れてくれるよりはおとなしいほうがありがたい。出発の用意を整え、儀式の準備をする。

「メテ、こちらに来てください。そろそろ『島』に向かいます」

 祭祀場の裏手にある小舟に乗り込む。松明を船首にくくりつけようとすると、メテが止めた。

「ねえ、それぼくが持ってもいいですか?」

もちろん初めての申し出だった。私は首を横に振ろうとした。光の御子は天からの祝福を受ける者。忌まわしい火に触れてはいけないのではと思ったからだ。その問題を差し引いても、扱いに慣れていないものに火を渡すには危険だ。

 しかし、期待に満ちた視線を裏切るのは、どうしても気が引けてしまった。

「……いいですよ。ただし、手放さぬようじゅうぶん気をつけてください」

「ありがとうございます!」

 嬉しそうに松明を握りしめると、メテは船首に陣取った。

「では、参ります」

 静かな船出だった。

どこまでいっても代わり映えのしない黒い天蓋は、ところどころ開いた穴から光を落としている。伝承によると、あれは天からのわずかな光取りの哀れみなのだそうだ。

帳がなかった時代は、もっと強烈な光が大地に注いでいたらしいが、その光景を実際に見た人はもう生きていない。

 力を込めて櫂を動かせば、するすると潮流に乗ってあっという間に陸が遠くなる。

「暇だな。お話をしませんか?」

「メテがよろしいのであれば」

 流れに乗りさえすれば、あとは座っているだけである。飽きもせずに松明を掲げるメテは、船べりに座って足をぶらぶらさせていた。

「じゃあ、何かぼくに質問してください。さっきからずっと、訊きたいことがあるって顔をしてますよね」

 ……見破られていたなんて思いもしなかった。

ぱちくり瞬きと繰り返す私に、メテが小さく笑う。それがお望みならばと口を開いた。

「メテがどうして、私を怖がらないのかなと思っただけです」

「怖がるって、どうして?」

 まただ。また、あの無垢な視線にさらされてしまった。私を人と認識する、あの視線に。

「普通、天に選ばれた御子は、私を怖がり恐れるのです。私はかの火を発明した愚かしい人間の末裔ですし、忌み嫌われる炎を扱うことを生業とします」

「祭司さんはさ、そのことを悲しく思わないの?  みんなから避けられててさ」

「悲しく……ですか?」

 どうして悲しく思わなければいけないのだ。

 私の先祖は過ちを犯した。それは私の親が、私の子が、そして私が償っていかねばならないだけの重みがある。悲しくも寂しくも、感じる理由はない。

 ――私は呪われた存在を綺麗と感じてしまうさだめにあるのだから。

 そう伝えると、メテは目を伏せた。なんだか、私の返事に不服そうな、そして悲しそうな仕草だった。

「メテは炎を不気味だと思わないのですか?」

「思わないな」

 手にした櫂を取り落としそうになって、慌てて握り直す。

「取り消してください、メテ。天のお怒りがくだります!」

「取り消さないよ。だって綺麗だから。炎は美しい。それに役に立つ。きちんと取り扱えば、だけど」

「あなたは何を――」

「ほら、島が見えてきた!」

 唐突に話を切り、メテが斜め前を指差す。勢いにつられてそちらへ顔を向ける。

 確かに島があった。この大地における、ただひとつの島。中央にはちょうど砂山に板で衝立をつくるような具合で、帳の端がかかっていて『外』と『内』を遮断している。本当は半島かもしれないが、帳の中で暮らす者にそれを知るすべはない。

 近くに来るとよくわかる。帳は何の変哲もない布だ。分厚く、光を遮る布。わずかばかりの穴は人々の手のとどかないところにしかない。

「早く用意したほうがいいんじゃないの?」

「え、ええ……」

 確かに、もうすぐ帳を開かねばならない時間だ。メテを問いつめている時間はない。

 帳に近い岸に乗り上げ、メテと荷物を下ろす。無言で作業をしていると、とりとめのないことが頭に浮かんでいく。

 火は、綺麗だ。

 それは決して人々が感じてはいけない思い。なぜなら、火は天への裏切りに他ならないから。

 けれど、それをわかっていてもなお、火は私を魅了する。刻一刻と姿を変え、あの手この手で誘惑してくる。そんな炎のことが、私は大好きなのだ。愛しい、と言っても過言ではない。

 だから、私は忌み子なのだ。どう考えても普通ではない女。こんなことを思うのは、私だけだと思っていたのに。

 ――メテ、あなたはいったい何者なのですか?

 そんなことを考えていてはいけない。私は、贖罪をまっとうしなければ。

 定められた手順どおりに松明に火を灯し、祝詞を捧げる。私の真剣さが伝わったのか、メテは初めのように神妙にしていた。

 松明をメテに手渡す。

「さあ、行きなさい、光の御子よ。天からの恵み以外に光を持たないと誓えば、自然と帳は開かれます」

 松明を手渡し、海を指差す。あそこに沈めて火を消せば儀式は終わり、帳に切れ目ができる。そこから外へ出ることが許されるのは光の巫女だけ。

 メテは丁重にそれを受け取ると、海とは反対側に歩いていった。すなわち、帳のほうへ。

「メテ……?」

 声をかけると、メテは振り返って笑った。揺らめく炎に照らされた少年の顔は、間違いなくいままでで一番美しかった。

そしてメテは、迷うことなく

「何を!?」

駆けつけようとしたのに、体は動かなかった。

 私は、何に身をすくめられていたのだろう。罰当たりな恐ろしさなのか、それとも、火の魅力なのか。

黒い布を橙色の舌で舐め上げた炎は、あっというまに大きな赤い力と化した。もはやだれにも止められないそれは、休むことなく帳を蹂躙していく。

「ほら、綺麗だ。そう思いますよね?」

 澄んだ声。小川のせせらぎのような、爽やかな声。

 思わず、うなずいていた。

 メテは立ちすくむ私のもとへと戻ってきた。強張る私の手を両の手で取って、優しく握った。

「祭司さん、あなたは許されたんですよ」

「……何から?」

 そう言うのが精一杯だった。あまりにも恐ろしくて、あまりにも美しくて。

 焼け焦げた帳に、穴が開く。そこから、浴びたこともない強い光が差し込む。赤い光。炎よりずっと強烈で、しかし厳かで清らかな光。

 炎はまだめらめらと舌を伸ばす。帳すべてを焼き切ってしまうような勢いで。天幕は抵抗する様子もなく、黒から赤に色を変えていく。

「天からです」

――てん

その響きは予想もしなかったもので、私はただへたりこむことしかできなかった。

「正確に言えば、この大地に生きる民すべてが許されたんですよ。

 太陽と火は親と子の存在。どちらも敬うことで、天は人にそれを使うことを認めました」

 メテは真摯な目で私の目を見た。その目に恐怖を感じることは、もうなかった。

「もう、あなたは蔑まれないんです。みんなと同じひとりの人間として暮らせるんです。

 あなたは、呪われた自分について仕方ないと言ってたけど……そんなこと言わないでください。それはやっぱり、とっても悲しいことだと思う」

 その言葉は、ただ音のかたまりとして私を取り囲んだ。

 まばゆい光が私を照らす。初めて見る太陽。初めて見る明るい世界。色とは、こんなにも鮮やかなものだったんだ。

 外の世界から風が吹いて、私の頬をなでた。

「あ……」

 心のどこかに鍵をかけていた。私は呪われているから。そのことを悲しんじゃいけないと。それは当たり前のことで、仕方がないことなのだと、昔から強く自分に言い聞かせていた。

 その鍵が外れた。いままでの人生――そう、私は人だったのだ――は、辛いもので、苦しいもので。しかしもうその地獄を味わうことはないのだという安堵が押し寄せてきて、頭がぐちゃぐちゃにかき乱される。

 メテは涙を落として棒立ちになっている私の手を引っ張った。

「ぼくは、外の世界から来ました。正真正銘、外の世界で生まれ育った人間です。

 もう、ぼくらは天と話し合って、火を使うことも、火を美しいと思うことも、許されたんです。

 行こう、外の世界に。帳はもうないんだ。

 炎は、ぼくらの未来を照らすものになったんだから!」

 小さな両手がぎゅうっと私の手を包む。子どもの体温は炎よりよっぽど暖かい。

「いまの時間はね、『朝』っていうんです。太陽が天の道を歩み始めたばかりで、赤い光を世界に落とす時間帯のこと。あたりが真っ赤になって、まるで燃えているみたいだから、この景色のことを『朝焼け』って呼ぶんです」

 もう帳のてっぺんまで、炎は舌を伸ばしていた。燃えかすすら落とさないで綺麗さっぱり消えていく黒幕を、名残惜しいと感じないことに驚いた。

 ――さようなら、天の罰よ。私は赦された。

「行こう、祭司さん。そういえば、名前を聞いてなかったから、教えてください」

 名前、名前。誰かに名前を教えるなんて、生まれて初めてだ。いままでは、それを聞きたがる人なんて、いなかったから。

「あのね、私の名前は――」

 朝焼けが白砂を真っ赤に染めていた

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朝焼けの島 海玉 @lylicallily

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