第9話 ひかりゆくもの

 朝日を撮ろう。

 そう提案したのは朝紀のほうだった。二人で写真を撮れる最後の日には、とびっきり綺麗な朝日を撮りにいこうよ、と。和明はそれなら良い場所があるよ、と日にちと場所を決定した。自転車で四十分の、大河川の上を横切る橋。

「おはよう」

「いくらおはようでも早すぎるよね」

 そう言って和明は小さくあくびをした。

 和明の指摘通り、朝の四時は確かに早すぎる。睡眠時間を確保するために、昨日は九時には寝なければならなかった。まだ頭が冴えない。

「コンビニで買い物していこう」

 自転車にまたがったまま、和明が数百メートル先のコンビニを指差す。

「うん。私も朝ごはん食べてない」

 コンビニにこんな時間に来るなんて初めてだ。店員しかいない空っぽのコンビニで食料を調達する。人工的な明かりが暗さに慣れた目に痛かった。

 コンビニを出ると、自転車をこぎ出す。ふたりの最後の刹那に向かって。

 風が髪をさらっていく。自分にとってはいつも少しばかりの自由だった茶色の髪。でも、そんな世界を変えてくれたのは和明だった。世界はこの髪を自由にしなければいけないような場所ではないと。もっと限りなく広々として美しいと。

 目の前で自転車をこぐ和明の背中。明後日の今頃には、彼はもうここにはいないのだ。それがどんなに怖いことなのか、まだ想像がつかない。でも、もう生き生きとした瞳も穏やかな笑顔も見ることはない。そう思うだけで息が止まりそうだった。

「見て、朝紀。綺麗だね」

 自転車を走らせながら和明が空を見上げる。朝紀も視線を上げる。そこにあったのはうっすらと白んできた空の中で光るたくさんの星。何座の何という星なのだろう。それとも、星座にもならない名もない星なのだろうか。

「うん。綺麗だね」

「空がよく晴れてる証拠。きっと朝日が上手く撮れるよ」

「そうだといいな」

「最後の写真だから、ね。俺も朝紀に綺麗な写真を撮ってほしい」

「……うん」

 『最後』という言葉が引っ掛かって、すぐに返事を返せなかった。その言葉だけで、今この瞬間がとてつもなく儚くなるように思えた。

 それからはただ無言で自転車をこいだ。朝の澄んだ空気をひたすら吸って吐く。やがて、目の前に大きな川が現れた。水の音と匂い。

「着いたね」

「うん」

 橋の真ん中で自転車をこぐ足を止める。川の行く先を見つめる。街には存在しない濃い闇と広い空間。

 夏だというのに夜明け前の橋は寒かった。ズボンの裾から吹き込んでくる風が冷たい。それでも動かずに、朝紀は朝日が昇るはずの場所をじっと見つめていた。隣では和明がカメラをいじっている。

 少しずつ空の色が薄くなり始める。やがて、赤みを帯びた地平線から光がこぼれ出した。目を突きさす朱色の光。世界に始まりを告げる色。

「うわぁ……」

 その強さに圧倒されながら、一度だけシャッターを切る。横では何度も場所を変えては和明が撮り続けている。まるで世界に魅入られたように。さらさらと流れていく時間をすくいあげるように。

 日が昇り切ると、やっと和明はカメラから手を離した。そして小さくひとつ息をつく。朝紀はそれに合わせるように深呼吸をした。

「ねえ、和明」

「何?」

「和明が教えてくれたんだよ。世界は、私が思っているよりもっともっと綺麗だって。世界は水槽なんかじゃないって。そして、それを知ったとき人は世界を愛しく思えるんだってことを。私が最初に見つけた綺麗な世界は君だったよ、和明」

「……それは俺が恋愛アンテナに引っ掛かったってことかな」

「残念だね、私が面白い人じゃなくなって。でも自分のせいだよ」

「ちっとも残念じゃないよ」

 死ぬほど嬉しいよ。そう言って和明はカメラを構えた。てっきりもう一度景色を撮るのだと思っていたら、突然レンズがこちらを向いた。カシャ。よける間もなくシャッターが切られる。不意のことに呆然としていると、照れたように笑って和明が言った。


「今までで一番綺麗な世界が撮れた」



きらきらしたものなんていらないと思っていた。

青春なんてバカらしいと思っていた。

花は枯れて終わりだと思っていた。

人を好きになることなんてないと思っていた。


 ――でも、そんな全てを集めた世界を私は愛する。

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ひかりゆくもの 神山はる @tayuta_hr

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