第8話 戻らない刹那
テニス部の練習がない日に佐山義彦の事務所に行く。それが朝紀の新しい習慣になった。そこには和明が待っていてくれて、毎回ふたりで出歩いては教えてもらいながら写真を撮る。ある程度溜まってきたら、暗室で現像を行う日もある。初めて現像を経験したとき、朝紀はその不可思議さに驚いた。暗闇の中、ゆっくりと現れてくる景色。自分がその瞬間その景色を紙一枚に閉じ込めたのだという実感。何もかもが新鮮だった。
世界は綺麗だ。そう言いきった和明のようになりたくて、朝紀はカメラの四角い視界をのぞきこんだ。その度に、今まで見てきたありふれた景色の色が変わるのを知った。切り取られた世界は、同じ景色を写しているはずなのに、驚くほど鮮やかに存在を主張する。
人はどうして写真を撮るのか。うすっぺらい紙に思い出ぶって景色を焼きつけて何が面白いのだろう。朝紀がずっと思ってきたことだ。写真なんて撮るのも撮られるのも好まなかった。でも今は違う。人はきっと思い出を記録しておくためだけに写真を撮るのではない。のぞきこんだ四角い世界で『刹那』を感じるために撮るのだ。二度と戻ってはこない、一瞬の美しい世界を。
「俺たちの見ているこの世界はもう帰ってはこないけれど、だからこそ世界はいつだって美しいんだと俺は思うよ」
いつだったか、和明がそんなことを言っていた。心底この世界が愛しいというように。朝紀にはまだそう思えるほどの力はない。
今日もまた朝紀は佐山義彦の仕事場へ向かっていた。親は最近外出の回数が多いと不審に思っているようだけれど無視する。いちいち行き場所を親に告げるほど子供ではない。
古めのエレベーターが大きな音を立てて、二階への到着を教える。短い廊下を経て、冷たいドアノブに手をかけたときだった。中から誰かが話す声が聞こえた。一人は和明だ。
「反対はされた……でも……ってみたいんだ……」
「わかって……つまり覚悟……だな」
「うん」
なんの話だろうか。そっとドアを開ける。話していた佐山義彦と和明が振り返る。軽く頭を下げると、佐山義彦は真剣だった表情を和らげた。
「あぁ、朝紀ちゃん。いらっしゃい」
「おはよう、朝紀」
和明も声をかけてくる。その顔が一瞬苦しそうにゆがんだように見えた。しかし、すぐにいつもの笑顔を浮かべて外を指差す。
「じゃあ早速外に出ようか。今日は天気もいいし」
和明に言われるまま外に出る。いつもより少し歩くのが速い和明を追いかけながら、朝紀は尋ねた。
「今日はどの辺りにいくの」
「…………」
返事がない。心配になって顔をのぞきこもうとすると、突然和明が歩みを止めた。
「和明?」
「ごめん。朝紀」
「何? 突然どうしたの」
和明が振り向く。その表情に朝紀は息を飲んだ。和明が悲しそうな、今にも泣きそうな顔をしていたから。その口が震える言葉を紡ぐ。
「ごめん。俺、北海道に行くことにした。伯父さんがしばらく北海道で仕事することになったんだ。親には反対されたんだけど、説得した。伯父さんの仕事を間近で見て学びたいんだ。伯父さん、普段は街中にあるものを撮るのが多くて、撮影のために引っ越すなんて珍しいから、すごいチャンスなんだ。向こうで伯父さんの手伝いをしながら勉強しようと思う」
頭が真っ白になった。何も思えない。現実を直視できない。代わりに、そういえばいつか佐山義彦のようなカメラマンになりたいって言ってたなとか、北海道ってここからどれくらい遠いんだろうとか関係のないことばかり浮かんでくる。
「そんな話、いつから」
沈黙を消そうとやっと口を開いて言えたのは、そんなつまらない質問だった。
「一か月くらい前からずっと考えて、迷ってた。でも、俺自身が後悔したくないんだ。俺の人生を選んで生きていけるのは俺だけだから」
正論がナイフのように喉元に突きつけられる。その通りだった。朝紀には何もできない。社交辞令のように、感情を乗せ忘れた声で聞く。
「いつ、行くの」
「九月までには……だから朝紀に写真教えられるのもこの夏の間だけだ」
頭をガツンと殴られたような気がした。言葉がこんなに痛いものだと知らなかった。今までで一番世界が残酷になった瞬間だった。
「そう……そっか」
まともに返事もできなかった。そして気がついた。
そうか、和明が好きなんだ。
冷たい水の中に差し込む、温かい陽の光。水面のきらめき。その中で泳ぐ魚は幸せなのだろうか、それとも悲しい?
写真立ての木枠の中で静止する魚に問いかける。無論答えはない。
この海を見たときからきっと、好きだったのだ。こんな写真を撮れる人に焦がれていた。失ってから気付くなんて言葉を残したのは誰だろう。今さら気がついてどうするのだ。遅すぎる。
世界の美しさを教えてくれたのは和明だ。
世界の刹那さを教えてくれたのも和明だ。
なのに、朝紀からは何も返せていない。受け取ってばかりだ。だったら、せめて自分の中に生まれたこの気持ちだけでも渡していいだろうか。好きだと伝えても許されるだろうか。
今この刹那も二度と戻ってはこないなら、二人の刹那を失くしてしまう前に伝えたい。
魚は幸せなのだと信じたい。
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