第7話 あなたの見る世界に
空を見ていた。何を思うわけでもなく、ただ見ていた。
百年祭当日。準備のときには現実離れした忙しさだった会計は、当日になってしまえばほとんど仕事もなく一般の生徒とそう変わらない。会場である広大な運動公園の隅で、朝紀はペットボトルを手に一人立っていた。
当日忙しければよかったのに。そう思う。お祭り騒ぎなんてエネルギーの有り余った連中が勝手にやっていればいい。朝紀はそんな馬鹿げたことに心を傾ける気はなかったし、かと言ってこうして一日会場に留まっているのも退屈で死んでしまいそうだった。
「あー! 朝紀、こんなところにいたのぉ」
かん高い声が響く。視線を下げると、数メートル先から美里が走ってくるのが見えた。その隣には由梨 《ゆり》と
「おはよ、美里」
「もうっ! 一緒に回ろうって言ったのにどっか消えちゃうから探したんだよ? こんなところで何してんの」
「別に。ちょっと感慨にふけってた」
「ヤダぁ、朝紀、おばあちゃんみたいなこと言わないでよ」
「そーだよ。うちらまだ高校生じゃん。もっとテンション上げないと老けるよ」
由梨と紗弥香は口ぐちにそう言って、高校生にふさわしいテンションで笑う。朝紀はいかにも楽しそうに笑い返してみせた。
「あはは、そうだね。まだまだ人生長いもんね」
「そ。楽しいのなんて若いうちだけなんだからさ。ね、まず何見に行く?」
「それより何か食べない? あたしお腹すいた」
「あ、うちも。あっちの方でアイスクリーム売ってたよね」
「じゃあそれにしよ。今日暑いから、早く行かないと売り切れちゃうかもよ」
美里たちは呼吸を忘れたように早口で会話すると、「ほら、朝紀も早く」と言って走り始めた。朝紀も曖昧にうなずいてゆるゆると走り出す。髪が風になびいて耳元で微かに音を立てる。鳥の羽ばたきに似ていた。
人ごみに近づくと、途端に音が朝紀を包む。話し声、売り子の呼びかけ、足音、全てが混ざって不規則な騒音を作り出す。ぶつかりそうになりながら、人の間を縫って美里の後を追っていると、先に到着した美里が振り向いて朝紀に声を投げた。
「朝紀ぃ、どの味がいいー?」
「バニラー」
「りょーかい」
少し遅れて出店の前にたどり着いた朝紀に、美里はカップに入ったバニラアイスを差し出した。
「はい、朝紀の分。二百円だって」
「ありがとう」
ポケットから取り出した財布から百円玉二枚を渡す。代わりに受け取ったバニラアイスは少し溶け始めていた。突き刺してあったプラスティックのスプーンで、少しだけすくって口に運ぶ。冷たさでごまかした甘ったるい味。
「美里、チョコにしたの? 美味しそう」
「由梨のストロベリー、ちょっとくれるならあげてもいいよ」
「えー……よし、あげる。だからちょうだい」
「はい、どーぞ……って待て! ちょっとじゃないでしょ、それ」
「いっただきまーす」
「あ、ずるい! じゃああたしも」
「ヤダ、美里取りすぎ」
きゃあっと声を上げて美里たちははしゃぎ始めた。女の子特有の耳に残る高い声。聞いているうちに、その声が朝紀の頭の奥で反響し出した。視界がぐらぐらする。舟に酔ったような気持ち悪さだった。
「……あれ、朝紀。大丈夫? 顔疲れてるよ」
「ちょっと調子悪いかも。ごめん、今日は大人しくしてる」
「マジ? 先生呼んでこようか」
「いいよ。少し休めば直るから」
適当な言葉を並べて美里たちと別れる。そして、人の少ないところを探して座り込んだ。ゆっくり息をする。視界の揺れはしだいにおさまった。手に持っていたアイスが溶けてしまわないうちに、無理矢理食べる。喉の奥に溜まった甘さでまた気持ちが悪くなりそうになって、ペットボトルのお茶で流し込んだ。
所詮自分は代替可能な『友達』なのだ。美里たちを思い出しながら思う。いないならそれでも問題が起こらない程度の存在。朝紀たちはみんなそんな薄くて頼りない関係でつながっている。けれど、朝紀にはそれくらいがちょうどよかったし、これ以上の繋がりならば自ら避けるだろう。
これから何をしよう。座り込んだまま考える。いっそ帰ってしまおうか。でも、終了のときにはクラス単位で出欠確認をするらしいから、そのときにいないわけにもいかない。
そう思ったとき、ふいに和明のことが思い浮かんだ。今頃どうしているのだろう。そう言えば、和明が担当していたフォトアートがどんなふうに完成したのかまだ見ていない。それくらい見ておいてもいいかもしれないと思った。
立ちあがって開始時に配られたパンフレットを開く。フォトアートの場所は公園内の文化センターのホールだった。パンフレットの地図に従って歩き始める。いつもの三、四倍の人数の高校生がひしめきあうだけあって、会場の喧騒は容赦がない。朝紀はその音を避けるようにわざわざ遠回りをしてホールへ向かった。
「アンケートお願いしまーす」
ホールの入口で、実行委員らしき女子に笑顔で紙を渡される。ホール内の展示物を評価するアンケートだった。『大変よい』から『悪い』までの五段階評価。全部に『悪い』をつけてやったらどうなるだろう。一瞬、そんな意地汚い感情が働く。
一歩踏み出して目を上げた瞬間。
それはあった。
巨大なフォトアート。天井まで届く一輪の向日葵。白黒写真で描かれたそれは、高校の普段の生活や百年祭の準備風景を集めたものだった。
「うわぁ……」
思わず声が出た。こんなものを、和明は作っていたのだ。
真剣な眼差し。はじける笑顔。力強い動き。さまざまな感情と瞬間が濃縮された一輪の花。なんて綺麗で優しいのだろう。朝紀のような人間など、鬱屈した陳腐な心など、この世に存在しないかのような美しさだった。綺麗で優しくて、だから朝紀には痛い。
和明の見る世界には自分はいないのかもしれない。そう思ってしまう。和明の世界に自分はいてはいけない気がした。そして、それはなぜかとても悲しいのだった。
「あれ、朝紀。こんなところでどうしたの」
突然名前を呼ばれてびくりとした。こんな気分のときに知り合いに会うなんて最悪だ。同じテンションで話せる自信がない。あきらめて重たい視線を向ける。
そこにいたのは和明だった。
「……和明くん」
「友達とはぐれた? 会場広いからね」
「うん、まあ」
いつもと同じ穏やかな笑顔を向けられて、朝紀は曖昧に返事をした。和明は先ほどまで朝紀が見ていたフォトアートを見上げて言う。
「このフォトアート、結構上手くいったと思うんだ。責任者としてはホッとしたよ」
「すごいね、これ」
「ありがとう。朝紀に言われると嬉しいよ」
「綺麗すぎて、何だか逃げ出したくなった」
何それ、と和明は小さく笑った。朝紀はそれに答えるように作り笑いを返す。感じたことをありのままに言うほど素直にはなれない。そんな朝紀の耳元に、和明が「ねえ」と口を寄せた。
「一番下の右端の写真、見て」
言われるままに巨大なフォトアートの床近くを見てみる。そこには、高校生活でも百年祭準備の光景でもない、一枚の白黒写真。写っているのは鏡のように静まり返った水面の中に立つ、一羽の白い水鳥。
「あれ、もしかして」
「この間一緒に写真撮りに行ったときに、朝紀が撮った写真」
驚いて、思わず隣に立つ和明を振り返っていた。
「……何で」
「計算間違えて、途中で枚数が足りなくなっちゃって。他は余分に撮っていた写真で補ったんだけど、どうしても一枚調達できなかったんだ。それで、週末撮った中から選んで使わせてもらった。勝手にごめん」
「それは別にいいけど、どうして私の写真なの。あのとき、和明くんだって撮ってたのに」
どう考えても和明が撮った写真のほうがレベルが高いはずだ。わざわざ初心者の朝紀の写真を使う必要はない。
「うーん。もちろん白と黒のバランスの問題もあるんだけど……俺が入れたかったんだ」
少しうつむいて、和明は続けた。
「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど。俺の思う朝紀って幽霊みたいなんだ。まるで足跡を残さないみたいに、どこにも所属してない気がして、俺、何かすごく悔しくて。だから、あれは俺が無理矢理にでも君の足跡を残そうとした結果」
ごめん、変なこと言ったね。そう言って困ったような恥ずかしいような顔で笑う。
朝紀は何も言えずにその言葉を聞いていた。
和明が残そうとしてくれた自分の跡。何の変哲もない自分の写真で、和明は朝紀の存在を証明しようとしてくれた。和明の言う『幽霊』のような朝紀を。
「私は、いていいの」
「え。何が?」
「私は和明くんの見る世界にいてもいいの?」
自分のような人間でも、和明の見る美しい世界に生きる資格があるの。
声にならない問い。本当はつかみかかってでも聞きたい。そんな自分が理解できなくて、余計に苦しい。いつだって、誰かとつながることを避けて退屈な日々をやりすごすことだけを考えてきたのに。
和明は少し首を傾げて、それからふわりと微笑んだ。
「よく分からないけど、どうぞ。俺は朝紀が俺の世界にいてくれることが嬉しいよ」
あぁ、知らなかった。言葉がこんなに優しいなんて。
「……和明」
「何?」
「って呼んでもいい?」
「あ、今呼び捨てにされた?」
そのことに気付かなかった様子の和明は、そっか、今まで『和明くん』だったのか、とよく分からない納得をした。朝紀は思わず苦笑してしまう。
「あ、あの写真、先生には秘密にして。本当は百年祭の参加校の高校生が写ってるものじゃないといけないんだ」
「自分の下手な写真をわざわざ他の人に教えたりしないよ」
「じゃあ秘密ね」
いたずらを仕組んだ子どものような表情で、和明が声をひそめる。朝紀も小さく人差し指を口元に立てた。
神様なんて信じていないけれど、もしいるなら、神様、どうか片隅にでもいいから和明の見る世界にいられますように。そして、いつか自分もあんなふうに世界を見られる人間になりますように。
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