第6話 希望と絶望
それから何度か百年祭の関係で和明と会った。見る度に和明はカメラか写真を手にしていた。フォトアートの担当者だから当たり前なのだけれど、和明の楽しそうな表情を見るたびにやはり写真が好きなのだろうと思った。一方の朝紀は会計担当なので一日中電卓を叩いていることが多い。手の一部になるんじゃないかと思うほどだ。一体どうして自分がこんなことをしなければならないのだろう。最近熱っぽさがとれない頭で計算をするなんて、地獄の所業だった。
あの日、深夜まで雨の中をさまよい歩いたせいで、朝紀はしっかり風邪をひいたらしい。翌日から、咳が続き、体がだるい。けれどおそろしいほどの沈黙を貫く母に話しかけることもできず、病院にも行かずにそのままにしていた。おかげで一週間たってもなお体調は最悪だ。
写真のことはもう諦めた。自分のような人間に写真を教えても和明には迷惑なだけだ。体調とともにあの日の絶望がまだ朝紀の中に居座っていた。
けれど、百年祭本番も近づいたある日、会場に設けられた事務所で書類を整理している朝紀の前に突然和明はやってきた。
「宮原さん」
「……和明くん」
少し緊張した面持ちで話しかけてきた和明は、大きく息を吸って言った。
「俺、宮原さんに教えられるほど写真の技術ないし、教えられる日も限られると思う。俺にだって学校も部活もあるから」
「……うん」
「でも、それでもいいなら一緒に写真を撮るくらいできるかもしれない」
「いいの?」
「連絡先教えて。空いてる日教えるから」
信じられなかった。息を飲む。朝紀の絶望が急速に消えていく。
「……ありがとう」
もっと喜びを伝えようと思ったのに、とっさに出てきたのは平凡な言葉だけだった。自分の言葉のつたなさが嫌になる。
和明が少しうつむいて言った。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「何?」
「嫌だったら断ってくれて構わないんだけど、あの、呼び方……朝紀でいいかな。そのほうが呼びやすいし、ずっと『宮原さん』なのも他人行儀な気がして」
男の人に呼び捨てにされるなんて血縁者以外初めてだった。正直戸惑う。でも自分も和明を名前で呼んでいるのに、向こうは名字なんて不平等かもしれないと思った。
「い、いいよ」
「ありがとう。これからよろしく、朝紀」
やっぱり恥ずかしいな、と笑ってそのまま和明は駆け去った。後には朝紀と和明がくれた淡い希望だけが残った。
「おはよう」
「あ、おはよう。今日はよろしく」
私服だと誰だか分からないね。後ろから声をかけた朝紀を振り向いてそう言った和明は、カメラをふたつ抱えていた。
日差しが夏の始まりを伝える七月の最初の週末。朝紀はあの駅前のコーヒーショップで和明と待ち合わせをした。もちろん、写真を教えてもらうためだった。
歩きやすいほうがいいと和明に言われて、朝紀はかかとの低いブーツにショートパンツ、ざっくりとしたシャツ姿だ。確かに、制服とは少し雰囲気が違うのかもしれない。
しかし、そう言う和明だって私服なのは同じだ。細身のジーンズにTシャツ、薄手のパーカ。
「こっちこそ分からなかったんだけど」
「そう? でも声かけたってことは分かったんでしょ」
「コーヒーショップでふたつもカメラ持ってる人なんて他にいないから」
「あ。確かに」
本気で今気がついた様子の和明に笑ってしまう。少しずつ自分の心が解けていくのが分かる。
「じゃあ、はい。こっちが朝紀のカメラ」
「……ありがとう」
不意打ちで自分の名前を呼び捨てにされて、返事をするのが少し遅れた。了解したのは自分なのに、和明に平然と呼ばれるとやはり家族や友達とは違う気がする。
受け取ったカメラは随分と使い古されていた。どこにぶつけたのか、ところどころ傷がついている。
「和明くんが使ってたの?」
「違うよ。それは伯父さんが若い頃に使ってたやつ。俺、そんなに使い古すほど写真歴長くないから」
「そうなんだ。いつからやってるの?」
「中二くらいかな。伯父さんに教えてもらいながら少しずつね」
意外だった。もっと幼い頃から和明は写真一筋だと思っていたのだ。和明の言う通りならば、まだ写真を初めて三年半ということになる。
「それじゃ行こうか」
立ちあがり、アイスコーヒーを飲みほしたグラスを返却用の棚に置いて和明が言う。今日もブラックだったようだ。トレイにミルクと砂糖がそのまま残っている。
和明の後について自動ドアをくぐる。途端、照りつける太陽が目を刺した。
「場所も決めてあるんだ。ちょっと歩くけどいい?」
黙ってうなずく。そんな朝紀を見て、和明はすっと歩き始めた。
十分ほど歩いて到着したのは、比較的大きな公園だった。青々としげる雑木、整備された並木道、広々とした芝生に木製の遊具で遊ぶ子どもたち。
「ここ、広くて被写体も多いからよく来るんだ」
和明が辺りを見回して言う。
しかし、カメラを手に歩く朝紀には答える余裕がなかった。慣れないものを持って、落とさないようにするのでせいいっぱいだ。そんな朝紀に気付いた和明はかすかに微笑んで朝紀のカメラを取り上げた。ふっと手が軽くなる。
「あ。いい、自分で持つ」
「駄目、このままだと緊張で転んじゃいそうだから。どこか落ち着いて座ったら返すよ」
差し出した手からカメラを遠ざけるように手を動かして、ふざけた口調で和明が言う。その何気ない気遣いが逆に重くて、朝紀は手を下ろした。写真を教えることも、こんなふうに気を遣わせてしまったのだろうか。友達と関わることさえ面倒だと思ってしまう自分が唯一自ら関わろうとした相手だからこそ、和明に変な気遣いをさせるのは嫌だった。
「あ、ごめん。俺、何か気に障ること言った?」
「ううん、そうじゃない。むしろ逆。私のために気遣わせてるから」
「何言ってんの? 俺、これでも朝紀に写真教えるの楽しみにしてたんだけど」
本当に不思議そうな顔で和明は朝紀をのぞきこむ。自分が気を遣ったという自覚さえないようだ。
「そう……ならいいんだ。ごめん」
「いや、いいよ」
穏やかな和明の笑みの前に朝紀の心配は霧散して消えた。まるで春のようだった。朝紀の中の冷たいものを溶かして、しまいには無くしてしまう。
和明は木のベンチを見つけると、そこに座った。そして朝紀にも座るように促す。
「はい。じゃあ落ち着いて座ったからカメラ」
そう言ってレンズキャップを取ったカメラを渡される。今度は朝紀も笑うことができた。
「じゃあまずは持ち方から。肘はしっかり締めて。このグリップを右手で持って、左手は下から支えるように」
隣で和明がやるのを見ながら、ゆっくりとカメラを持ってみる。
「そうそう。これならレンズのズームやピントも合わせやすくなるんだ」
そう言って和明はレンズについたリングを指で回してみせた。どういう仕組みになっているのか、朝紀にはまだ理解できない。回そうとしたが、どっちが何のリングなのか分からなかった。
「細かいことは撮る時に言うよ。まずは撮りたいものを見つけよう」
それからは、公園を歩き回って被写体を探し、その度に和明が少しずつ撮り方を教えてくれた。
夢中だった。ぎこちなくのぞいたファインダー越しの四角い視界が少しずつ確かになっていくのが、まるで絵画を描いているようだった。時間が早送りの映像のように走り去っていった。気づけば、あっという間に正午を回っていた。
「もう十二時半なんだ」
「ね、写真を取ってると時間が経つのが早いんだ」
少し誇らしげに和明が笑う。
「私、午後は部活があるから」
「そうなんだ。大丈夫? 疲れてない?」
「平気。私、別にレギュラーじゃないし、試合練習中は見てるだけだから」
どうせ退屈しのぎに入った部活だ。上達しようとも、何かを得ようとも思わない。それでもこうやって参加するのは『女子高生』として周りが求める自分の殻を繕うためだった。親の知っている自分、友達が思いこんでいる自分のレッテルを上手く利用するだけのこと。形さえ作っておけば後は簡単だ。皆が勝手に完成させてくれる。
でも、和明ならきっとそんなことはしないのだ。そのことに気がついてしまって、朝紀は暗い劣等感が心を再び冷やしていくのを感じた。
「私、もう帰るね。今日はありがとう」
「駅まで送るよ」
「いいよ。道なら分かるから」
つい先ほどまで心地よかったはずの和明の優しさが今は刺すように痛い。和明にカメラを返すと、朝紀は早足でその場を去った。
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