第5話 冷たい水槽
傘を回す。女子高生には似つかわしくない、紺色の無地の傘。柄を握る手はとっくのとうに冷たさを感じなくなっていた。もう片方の手を傘の外へ伸ばしてみる。降り続く雨は容赦なく朝紀の手にぶつかってくる。はなから止むという選択肢などないように。
こんな場所で、こんな寒い思いをして、自分は何がしたいのだろうと思う。くだらない。でも、どこにも行きたいと思えなかった。ただこのまま雨の中に溶けてしまいたかった。
しばらく晴れが続き、終わると思った梅雨は七月頭になってなぜかまたぶり返した。ここ数日、これでもかというほど雨が降り続いている。薄暗い天気は、人間の心をいやおうなく冷たくする。
今日、朝紀が持ち帰った進路懇談会の資料を見て、母は大きくため息をついた。そんなのはいつものことだ。彼女お得意の「子どもの将来が心配で……」という文句を心の中でつぶやいているに違いない。
「朝紀、あなた志望校ちゃんと決まってるの」
「一応、
「一応とは何よ。今から目標を定めておけば高い所も狙えるって、先生言ってたじゃないの。今の成績で行ける所でいいなんて思ってると置いていかれるわよ」
「わかってる」
「本当かしら。朝紀はいつも『わかってる』で片付けるんだから。この間のテニスの試合だって一回戦で負けちゃったし。勉強か、部活か、どれでもいいから真剣に取り組みなさいよ」
「…………」
朝紀は何も答えずに麦茶を飲み干す。まただ、と思う。母は普段何も気がつかずにぼけっと見ている分、何かきっかけがあるとそれを引き合いにして片っ端から指摘していく人だった。
「まさか、彼氏なんてできたんじゃないでしょうね?」
「……はあ?」
突然見当違いなことを言われ、思わず聞き返してしまった。いきなり何を言い出すのだろうか。
「この前、駅前のコーヒー屋さんで男の子と一緒だったじゃない」
和明のことだ。見ていたのか。
「あの人は関係ないよ」
「あら、じゃあどんな人だって言うのよ。どう見ても他の学校の子だったじゃない。制服も違ったわよね」
答えたくなかった。自分が出会った和明という人間を簡単に母に認識してほしくない。勝手にレッテルを張り付けてカテゴライズしてほしくない。
母はもう一度ため息をつくと、夕食の準備をしていた手を止めて朝紀の前に立つ。
「恋するのが悪いことだとは言わないけど、将来のこともちゃんと考えてよ。全部中途半端な状態で、今楽しいことだけやっててもしょうがないのよ」
違う。そうじゃない。
「あなたが一緒だった男の子だって、今は良くても後になって困って……」
ぱあん!
思わず手が動いていた。手のひらがじんと痛む。朝紀にたたかれた頬を押さえて、母は目を見開いて固まった。
「違う。お母さんの言ってること、全然違うよ」
「あなた……親に向かって何てことするの!」
母の目がみるみるうちにつり上がる。わなわなと震える唇が、もう一度動こうとするのを無視して部屋を出る。玄関で傘をつかんで、外へ飛び出した。
空が海になってしまったような、ひどい雨だった。傘を開いて歩き出す。できるだけ人通りの多い場所を目指して。雨の中でぼんやりと光る店の明かりを横目で見ながら、人ごみに紛れる。時折傘がぶつかる。少しだけ雨が連れてくる孤独を忘れられる気がした。
初めて、人をひっぱたいてしまった。今まで、心の中で思っていただけだったのに。
でも、違うのだ。朝紀が何にも真剣になれないのは全てを諦めているからだし、和明はただ透明に世界を見つめている人間でしかない。朝紀と和明をつなぐのは彼の美しい写真一枚きりだ。恋も将来も関係ない。母が自分と和明のことをそんなふうにくくりつけることに耐えられなかった。諦めてしまった自分はともかく、和明のことは。
写真を教えてほしいという朝紀の依頼を、和明はしばらく考えさせてくれと言って遠ざけた。早く答えを聞きたくても、急がせるのは気が引けるし、第一学校が違う和明に会うこと自体が困難だった。このまま結局うやむやになってしまうのだろうか。そうすれば、やはり自分はこのままだ。どこか麻痺して弱った頭で考える。
やはり自分は水槽から出られないのだろうか。またいつものように退屈な毎日を引きずられるように生きて、いつか死ぬのだろうか。くだらない、意味のない人生だ。
雨にさらされた足から寒気が這い上がってくる。思わず震えた。同時に、このまま心臓まで凍ってしまえばいいと思った。感覚器官も、心も、全部凍りついて何も感じられなくなればいい。和明を羨ましく思わなくてすむほど、諦めることさえ何とも感じないほど、冷えきった人間になりたい。和明に断られたとしても、傷つかなくてすむだろうから。
大通りの真ん中で立ち止まる。後ろを歩く人が慌ててよけるのが分かった。傘がぶつかって、半回転する。親をたたくなんて大胆なことをしておきながら、頭が少しも現実を解決しようとしない。停滞している。今日という日の残りをどうすべきなのか、分からない。どうしようもなくて、そのまま座り込んだ。目の奥が焼けるように熱かった。思わず閉じたまぶたのすき間から、熱を帯びたものがこぼれ落ちて、頬の上ですぐに冷えて流れた。たくさんの足音が通り過ぎていく。
みんな、どこへ行くの。
みんなには、帰る場所があるの。
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