第4話 海月の人
駅前のチェーンのコーヒーショップ。苦いものが苦手な朝紀はとりあえず一番甘そうなクリームだらけのカプチーノを頼む。佐山和明は平然とブラックのブレンドコーヒーだ。
「もっと聞かせて」
そう言う佐山和明に連れられてやってきたここは、適度に空いている。予定では西高の前で解散し、家に直行するはずだった。今日は部活もないし、少しくらい寄り道をしても大した影響はない。
角のテーブル席に座ると、佐山和明は眉根を下げて困ったように笑った。
「ごめんね、無理矢理連れてきて」
「いえ、大丈夫です」
「でも俺の友達が嫌な思いさせちゃったし」
写真の感想をもっと聞かせてほしい。今日時間はあるか。そう朝紀に話しかける佐山和明に、西高の同級生が「ナンパだ」「好みのタイプか」とはやし立てたのだ。
「その気がないのは見れば分かるから」
「正直なところそうだけど。それはそれで君に失礼じゃない?」
「別に。私、恋愛に興味ないし」
「…………」
「……どうかしました?」
「いや。君みたいな……その、派手めな子ってもっと今を謳歌してそうだから驚いて。意外だなと」
「よく言われます。この髪、地毛なんですけどね」
友達にさえ説明するのが面倒だと思うことをすんなりと話した自分に自分で驚いた。佐山和明が相手だとなぜだか自然に言葉が出てくる。
「そうなんだ。ごめんね」
「いいですよ。それに、私が佐山さんに反応したのだって佐山さん……義彦さんのほうから佐山さんが高校生で写真やってるって聞いたからで、恋愛アンテナに引っ掛かったわけじゃないですから」
分かりにくいから和明でいいよ。そう笑った佐山和明は「何か複雑」と少し考え込むしぐさをした。
「俺の写真を気に入ってもらえたのはすごく嬉しいけど、かといって恋愛対象に入れてもらえないのも男としては悲しいな。俺ってそんなにカッコよくない?」
「そういう問題じゃないんです。誰だって同じです。そもそも恋愛しようっていう気がないんですから」
君って面白いね。思ったままを言った朝紀に、和明は手にしたカップの湯気の向こうで微笑んだ。そして、それじゃ、と話題を変える。
「もう聞いてもいいかな。宮原さんの『たゆたう』の感想」
「感想っていっても特にないんです。上手く言葉にならなくて。ただすごく綺麗で、惹きこまれて、いつまでも見てしまいそうな写真だった。それだけなんです」
「そう言ってもらえると嬉しいな。俺、自分の写真の感想を全く知らない人に聞くの初めてなんだ」
「自分ではたまたまだと思ってるんですよね」
「もちろん。俺がそんなに優秀に見える? あの写真は父と沖縄に行ったときに撮ったんだ。あのタイミングで魚が通るなんて奇跡だよ」
「それでもただ撮っただけじゃあんな写真にならないんじゃないんですか。詳しいことは分からないけど」
「写真に興味あるの」
「正直ないです。個展も友達に頼まれて代わりに行っただけで、佐山さんの名前も知らなかった」
「伯父さんが言ってたんだ。めずらしく女子高生が来たんだ、お前の写真を気に入ってたよって」
「へえ。佐山さんに和明くんの写真のポストカードをいただきました」
「それも言ってた。お前のポストカードを持った女子高生がいたら、それはあの子だろうって。運命の出会いだぞってね」
『運命の出会い』実現だね、と和明が笑うので朝紀も小さく笑う。自然に笑ったのは随分と久しぶりな気がした。気がゆるんだせいか、思わず敬語を忘れて尋ねる。
「和明くんはどうして写真を始めたの」
「うーん。やっぱり伯父さんの影響かな。伯父さんって自由人だから、小さな頃から遊びに連れていってくれても、何か面白いものを見つけると俺なんかほったらかしで写真撮り始めちゃうんだ。それで、そんなに伯父さんが夢中になるなんてどんなに楽しいものなんだろうって」
懐かしそうにそう言って、ガキの俺には少しも楽しくなかったけどね、と付け加ええる。
「でも今でも続けてるんでしょ」
「やってるうちにハマった。写真ってすごいよ」
そう言った途端、和明の目が輝く。純粋すぎる彼の瞳に気後れするように、朝紀はとっさに下を向く。羨ましさと、妬ましさによる少しの不快。言葉を返しそびれて、短い沈黙が生まれる。
「たゆたう、の意味はね」
突然和明は言った。はっと顔を上げる。自分を落ち着かせるように、ひとくち、カプチーノを飲む。苦い。
「本当はあの写真にはないんだ。水の中であの写真を撮ってる自分のことなんだ。水の中でカメラを抱えて、ただ上を見て浮かんでいるだけの自分。この世界を漂うようにして生きている自分」
どこか遠くを見るような目をしてそう続ける。海月みたいな人。朝紀は唐突にそう思った。透明で、ふわふわとたゆたう人。
「でも、そんな俺にも世界は優しいよ。写真を撮ってるとそう思う。写真はまるで魔法なんだ。どんな見慣れた景色も輝く可能性があるって教えてくれる。世界は限りなく広くて、まだ見たことのない景色も聞いたことのない音も、どこか知らない場所で光ってるんだ」
思いがけない言葉。あまりにも平和なそれに朝紀は思わず絶句する。まさかこんなふうに世界を見ている人間がいるなんて。
「すごいと思わない? 俺はそんなすごい場所に生かされてるんだなって思うよ。俺なんてたいしたことのない存在なのに。写真は……そうだな、世界の美しさを結晶する方法かな」
嘘だ。嘘だ。
今まで朝紀が生きてきた世界は常に囲われた水槽だった。透明な直方体の中で、右往左往するだけの日々。回避不能の運命。だからもう動く事に意味なんてないと思っていた。それなのに、和明は世界に限りはなくてどこまでも美しいと言う。こういう人だと分かっていたはずなのに、受け入れられない。
「どうしてそんなに透明でいられるの」
「え?」
「写真をやればそんなふうに生きられるの」
佐山義彦のように。和明のように。
「もしそうなら教えて。私に写真を教えて」
願わくは、水槽を太平洋に変える魔法を。
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