第3話 雨上がりの出会い

「ホントありがとねーっ! マジ助かった」

「どういたしまして」

 美里とそんな会話をしてから二ヶ月。梅雨入りが近い。梅雨は嫌いだ。降り続く雨は黒いローファーを濡らし、傘を握る手を冷やす。空気が湿り気を帯びてまとわりつく。街の音が雨にかき消されて孤独になる。

「雨とかヤダ。学校行く気失せる」

美里が机にだるそうにつっぷして嘆いている。

「学校に来て、しかも放課後になってから言う台詞じゃないでしょ、それ」

「まあねぇ。学校に来ないと授業が分かんなくなるっていう怖い現実には何者も勝てないでしょ」

 何も考えずに生きていそうな美里からそんな言葉が出てきて、少し驚いた。そして怖くなった。現実なんてコンクリートの冷たい壁だと思っている自分が、なぜだか美里に負けている気がした。

「そういえば、朝紀って百年祭の実行委員だっけ」

「いちおうね」

「大変だねー。今日なんか西高まで打ち合わせに行くんでしょ。よくそんなことできるね。あたしには絶対無理」

 この辺りの公立高校は、女子高・男子校が流行った時代に相次いで創られたものらしく、共学の学校はほとんどない。この学校ももともとは女子高で、十五年ほど前に共学になったのだという。そして、創られた時期が同じなら、百年目を迎えるのも同じ時期だ。そこで、ここ二、三年で創立百年になる公立高校四校が共同で百年祭を開催することになったのだ。西高とは浦瀬うらせ西高校という男子校で、この学校から自転車で二十分ほどの場所にある。朝紀においては、じゃんけんで負けて押しつけられた実行委員会の仕事のせいで放課後数時間が奪われるという算段だ。

 放課後、他の数人の実行委員とともに自転車で西高に向かった。話し合いは、やる気のある人たちが勝手にすすめてくれるだろう。朝紀は横に突っ立っていればいいのだ。

 雨はもう止んでいる。アスファルトの地面にところどころ空が落ちている。雨上がりの忘れ物。朝紀はそれらをばしゃりと自転車で散らしながら他の実行委員の後ろにつく。しばらく走って見えてきた西高は、雨のせいかいつもよりコンクリートの校舎の色が暗く感じられた。

 女子が男子校に乗り込むなんて、狼の群れに羊を放すようなもんでしょ。校門を前にして誰かがそうささやいて笑う。それでもどことなく嬉しそうなのは、やはり恋に飢える年頃だからだ。素敵な出会いがいつどこに落ちているかわからない。だから彼女たちは今の自分を磨くのに必死になる。そんな空気の中では朝紀は異質なのかもしれない。朝紀にとっては、この退屈な日々をいかにやりすごすかが問題であって、色恋沙汰には少しの興味もなかった。

 玄関前には担当らしい実行委員が待っていた。

「こんにちは。ご足労ありがとうございます。実行委員長の新井です」

亜実つぐみ高校の加賀です。今日はよろしくお願いします」

 代表者どうしが軽い挨拶を交わす。会議室に通されると、他の二校の生徒も集まっていた。まずは軽く自己紹介から、ということなのだろう。全員が席につくと亜実高から一人ひとり名前を言い始める。朝紀も学年と名前だけを冷たく述べる。西高は実行委員長の新井に続くようにして五人。最後の一人は黒光りするカメラを脇に置いているのが印象的だった。

「二年の佐山です。フォトアート担当責任者です」

 少年らしい澄んだ声。その声で語られた名前と机の上のカメラが、朝紀の記憶の底に電流を流す。

「……え」

 思わず声を上げてしまった。他の生徒たちの視線が集まる。

「すみません。続けてください」

 小さくあやまる。久々に恥ずかしい思いをした。佐山という男子生徒は少し不思議そうな顔をして席についた。

 佐山義彦。僕の甥。高校生。たゆたう。佐山和明。

 記憶の断片が頭の中をめぐる。佐山なんて名字の人間は山ほどいる。あの写真を撮った人だとは限らない。でも、あまりにも共通点が多かった。もう打ち合わせの内容なんて耳に入らない。もともとやる気なんてなかったからいいのだけれど。

「では、今後も四校で協力して百年祭に向けて頑張っていきましょう。終わりにしたいと思います」

 どれくらい我慢すればよいのだろうと思っていた打ち合わせはいつのまにか終わっていた。何を話していたのか全く記憶に残っていない。後で他の人に内容を教えてもらうことになりそうだった。

 生徒が次々に立ちあがって片付けを始める。朝紀も文房具をしまいながら、佐山という少年をそっと見る。穏やかな目をした背の高い人物だ。どことなく佐山義彦に似ている気もする。

 確かめたい。朝紀の中の希少な好奇心がうずく。あの写真を、今でも机の上で光る海を撮った人に会いたい。

 ふ、とカメラをいじっていた佐山が顔を上げる。朝紀と目が合うと、彼は突然カメラを置いて朝紀の場所まで歩いてきた。

「あの、すみません。どこかでお会いしましたか」

「え?」

「いや、名前を言ったときにびっくりされていたから、もしかしたら前に会ったことがあるのかと思って。もしそうだったらすみません、俺、名前を聞いてもどうしても思い出せなくて……」

 佐山は申し訳なさそうに言う。当たり前だ。会ったことなどないのだから。朝紀は小さく首を振った。

「いえ。そうじゃないんです」

「あ、そうなんだ。よかった」

 ほっとしたように笑う。今しかない。そう思った。

「佐山、何て言うんですか」

「はい?」

「下の名前。佐山……」

「あ、和明です。佐山和明といいます」

 あぁ、やっぱり。可能性が真実になった瞬間、感動とも羨望ともつかない感情が朝紀を満たす。この人が、あの写真を撮った佐山和明なのだ。どこまでも透明に世界を見つめている人間なのだ。

「たゆたう、なんて高校生で使いますか。普通」

「えっ!」

 突然核心をついた朝紀に、佐山和明は驚いたように声を上げた。何のことを言っているのかわかったのだ。そのときだった。

「宮原さーん。行くよー」

 同じ学校の女子から声がかかる。「すぐ行きます」とだけ返事をして、朝紀は教科書で満杯の鞄を手に取った。

「あの写真、好きなんです。それじゃ」

「あの……!」

 それだけ言って頭を下げると、朝紀はもう相手の顔も見ずに歩きだした。佐山和明に会えた。あの写真を好きだと言えた。それだけで満足だった。

「ま、待って。待ってください」

 ぐいっと。左手が強く後ろに引かれる。慣性の法則で進みかけた朝紀の体は急ブレーキがかかったように前のめりに止まった。つかまれた部分がしめつけられる。少し痛い。

 何かと思って振り向けば、佐山和明は必死の形相で朝紀の腕をつかんでいる。そしてそんな自分に気がついたのか、慌ててその手を離した。

「あっ、ごめんなさい!」

「大丈夫です……けど」

 何か忘れ物でもしただろうか。そう思って様子をうかがうが、別に何かを持っているふうでもない。佐山和明は穏やかな瞳をまっすぐに朝紀に向けてただ一言、こう言った。

「もっと聞かせて」

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